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江戸の粋人・酒井抱一の世界(その二) [酒井抱一]

その二 雨華庵(抱一庵)と根岸庵(子規庵)そして新吉原

写山楼.jpg

https://blog.goo.ne.jp/87hanana/e/5009c26242c14f72aff5e7645a2696a9


 上記は、谷文晁関係の「江戸・足立 谷家関係地図」のものであるが、ここに、「下谷三幅対」と言われた、「酒井抱一(宅)」(雨華庵)と「谷文晁(宅)」(写山楼)と「亀田鵬斎(宅)」の、それぞれの住居の位置関係が明瞭になって来る。
 その他に、「鵬斎・抱一・文晁」と密接な関係にある「大田南畝」や「市河米庵」などとの、それぞれの住居の位置関係も明瞭になって来る。その記事の中に、「文晁の画塾・写山楼と酒井抱一邸は、3キロくらい。お隣は、亀田鵬斎(渥美国泰著『亀田鵬斎と江戸化政期の文人達』には、現在の台東区根岸3丁目13付近)」とある。
 この「酒井抱一宅・亀田鵬斎宅」は、旧「金杉村」で、正岡子規の「根岸庵」は、旧「谷中村」であるが、この地図の一角に表示することが出来るのかも知れない。また、当時の江戸化政期文化のメッカである「新吉原」も表示することが出来るのかも知れない。
なお、この地図に出て来る、千住宿の「千住酒合戦」については、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-01-30

 また、次のアドレスで「下谷の三幅対」(鵬斎・抱一・文晁)について触れているが、そのうちの「谷文晁を巡る人物群像」などを再掲して置きたい。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-01-28

(再掲)

「谷文晁を巡る人物群像」
松平楽翁→木村蒹葭堂→亀田鵬斎→酒井抱一→市河寛斎→市河米庵→菅茶山→立原翠軒→古賀精里→香川景樹→加藤千蔭→梁川星巌→賀茂季鷹→一柳千古→広瀬蒙斎→太田錦城→山東京伝→曲亭馬琴→十返舎一九→狂歌堂真顔→大田南畝→林述斎→柴野栗山→尾藤二洲→頼春水→頼山陽→頼杏坪→屋代弘賢→熊阪台州→熊阪盤谷→川村寿庵→鷹見泉石→蹄斎北馬→土方稲嶺→沖一峨→池田定常→葛飾北斎→広瀬台山→浜田杏堂
(文晁門四哲) 渡辺崋山・立原杏所・椿椿山・高久靄厓
(文晁系一門)島田元旦・谷文一・谷文二・谷幹々・谷秋香・谷紅藍・田崎草雲・金子金陵・鈴木鵞湖・亜欧堂田善・春木南湖・林十江・大岡雲峰・星野文良・岡本茲奘・蒲生羅漢・遠坂文雍・高川文筌・大西椿年・大西圭斎・目賀田介庵・依田竹谷・岡田閑林・喜多武清・金井烏洲・鍬形蕙斎・枚田水石・雲室・白雲・菅井梅関・松本交山・佐竹永海・根本愚洲・江川坦庵・鏑木雲潭・大野文泉・浅野西湖・村松以弘・滝沢琴嶺・稲田文笠・平井顕斎・遠藤田一・安田田騏・歌川芳輝・感和亭鬼武・谷口藹山・増田九木・清水曲河・森東溟・横田汝圭・佐藤正持・金井毛山・加藤文琢・山形素真・川地柯亭・石丸石泉・野村文紹・大原文林・船津文淵・村松弘道・渡辺雲岳・後藤文林・赤萩丹崖・竹山南圭・相沢石湖・飯塚竹斎・田能村竹田・建部巣兆

 吉原の太鼓聞こえて更くる夜にひとり俳句を分類すれば (正岡子規・明治三十一年)
 虫鳴(なく)や俳句分類の進む夜半          (同上・ 明治三十年) 


この短歌と句とは、「俳句革新・短歌革新」を目指した正岡子規の、その本拠地たる「病牀六尺」の、その「根岸庵」(子規宅)でのものである。

 この句の、明治三十年(一八九七)の「正岡子規関係年表」(『子規山脈(坪内稔典著)』)には、「三月二十七日に腰部の手術。四月二十日、医師に講話を禁止される。四月下旬、再手術。四月十三日、『日本』に『俳人蕪村』の連載を始める(十二月二十九日まで十九回)」とある。時に、子規、三十一歳の時で、子規の「俳人蕪村再発見」のスタートの年であった。
 続く、その翌年の、この歌を作った明治三十一年(一八九七)には、「二月十二日、『日本』に『歌よみに与ふる書』を発表(三月四日まで十回)」と、「俳句革新」に続く、「短歌革新」の、その狼煙を上げた年である。

 よし原に花を咲かせて早帰り        (谷文晁)
 居過(いすご)して花のあはれを聞く夜かな (酒井抱一)

 『本朝画人伝巻一(村松削風著)』で紹介されている、若き日の文晁と抱一との吉原での作である。そこで、「文晁は遊里に足を入れても相方は一夜限り、(中略)抱一は正反対、登楼したとなると帰ることを忘れて流連荒亡日のたつも知らないのである」と、両者の相違を紹介しての、文晁と抱一の応酬の句が上記のものである。
 しかし、抱一については、『『亀田鵬斎と江戸化政期の文人達(渥美国泰著)』で、次のような記述もなされている。

「よし原へ泊り給ふ事ハ一夜もなく、四ツ時(今の午後十時頃)前ニ御帰り被成ける。與助と中下男、酒に酔て歩行覚束なき時ハ、與助壱人駕籠へ乗せ、御自身ハ歩行ミて帰り給ふ」

 ほれもせずほれられもせずよし原に
          酔うてくるわの花の下蔭  (尻焼猿人=酒井抱一)

 この狂歌は、『絵本詞の花』(宿屋飯盛撰 喜多川歌麿画)所収の、天明七年、抱一、二十七歳の頃の作である。

吉原の抱一.jpg

国立国会図書館デジタルコレクション『絵本詞の花』(版元・蔦屋重三郎編)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2533129

 上記は、吉原引手茶屋の二階の花見席を描いた喜多川歌麿の挿絵である。この花見席の、左端の後ろ向きになって顔を見せていないのが、「尻焼猿人=酒井抱一」のようである(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍堂刊)』)。

 酒井抱一は、ともすると、上記の『本朝画人伝巻一(村松削風著)』のように、「吉原遊興の申し子」のように伝聞されているが、その実態は、この狂歌の、「ほれもせずほれられもせずよし原に 酔うてくるわの花の下蔭」の、この「花の下蔭」(姫路城主酒井雅樂頭家の「次男坊」)という、「日陰者」(「日陰者」として酒井家を支える)としての、そして、上記の、「よし原へ泊り給ふ事ハ一夜もなく」、そして、「與助壱人駕籠へ乗せ、御自身ハ歩行ミて帰り給ふ」ような、常に、激情に溺れず、細やかな周囲の目配りを欠かさない、これぞ、「江戸の粋人(人情の機微に通じたマルチタレント)」というのが、その実像のように思われて来る。

 そして、酒井抱一を、「江戸の粋人(人情の機微に通じた時代を先取りするマルチタレント)」とするならば、正岡子規は、同じ、江戸(東京)の、四国(松山藩)から出て来た、その「江戸(東京)」の、その「下谷根岸」の、その「東京の粋人(時代を先取りするマルチタレント)」であったという思いを深くする。

 上記の、江戸の粋人の「吉原の尻焼猿人(酒井抱一)」に対しての、東京の粋人の「正岡子規」のそれは、次の、「野球姿の正岡子規像」が、それに相応しい。

子規像.jpg

正岡子規、野球姿の銅像(道後放生園)
http://yomodado.blog46.fc2.com/blog-entry-1872.html
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middrinn

上記の「人物群像」、何度眺めても興味深いです(^^)
山口昌男が昭和史で手掛けたような、ネットワークに
よる精神史が描けそう(^^) 子規の短歌革新ですけど、
朝日歌壇に載ってるコラム等を読んでても、根強いと
愚考(^_^;) 子規の古今集批判への反批判を展開する
目崎徳衛は「こうした[古今集巻頭歌に在原元方の歌
を撰者たちが据えた]繊細な心配りを、松山藩士族の
田舎者、大学予備門出身の野暮学生である子規居士は
全く理解しなかった。たとえ理解したとしても、共感
することは無かったであろう。」(「古今的なものに
ついて」)と酷評してたので玉稿は興味深いです(^^)
by middrinn (2019-03-06 20:35) 

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そもそもの始まりは、「きょうもよむべし」(亀田鵬斎)の、ネーミングであった。鵬斎についてのコメント欄でお邪魔して以来、鵬斎についての情報も集まってきて、上記の人物群像に、「鵬斎・抱一」を加味すると、「ネットワークによる精神史」(このネーミングも良いね)が正体を現わすかも(?) それは「翠林」さんだね(?)
by お名前(必須) (2019-03-07 08:36) 

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