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江戸の粋人・酒井抱一の世界(その三) [酒井抱一]

その三 下谷の三幅対(三人組)「鵬斎・抱一・文晁」と「建部巣兆」(「千住連」宗匠)

写山楼.jpg

https://blog.goo.ne.jp/87hanana/e/5009c26242c14f72aff5e7645a2696a9

 前回に引き続き、この谷文晁関係の「江戸・足立 谷家関係地図」を見て行くと、この上部の「坂川屋鯉隠(りいん)」は、日光街道の宿場町「千住宿」の「青物問屋坂川屋主人・山崎利右衛門」の雅号(俳号)である。
 この千住宿には、亀田鵬斎の義弟の俳人・建部巣兆(たけべそうちょう)が、俳諧グループ「千住連」を主宰していて、鯉隠は、そのグループの有力メンバーの一人なのである。
 この鯉隠が中心になって、「千住酒合戦」のイベントが興行されたことは、先に触れた。そのイベント合戦記「高陽闘飲図鑑(こうようとういんずかん)」(大田南畝記・歌川季勝画)が、次のアドレスで見ることができる。

http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/wo06/wo06_01594/index.html

高陽闘飲図一.jpg

「高陽闘飲図巻」(大田南畝記・歌川季勝画)(早稲田大学図書館蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/wo06/wo06_01594/wo06_01594_p0007.jpg

 上記のイベント会場入り口の看板「不許悪客下戸理窟入菴門(下戸・理屈ノ悪客菴門ニ入ルコトヲ許サズ)」の書は「抱一書」(酒井抱一書)のようである。左端の「後水鳥記」は、大田南畝のイベント観戦記のようである。
 この「後水鳥記」の出だしの、「文化十二のとし」(一八一五)十月二十一日に、このイベントは興行された。この一年前の、文化十一年(一八一四)十一月十七日に、建部巣兆は亡くなっている、享年、五十四歳で、巣兆は抱一と同じく、宝暦十一年(一七六一)の生まれである。
 そして、上記のイベント会場の入り口の看板「「不許悪客下戸理窟入菴門(下戸・理屈ノ悪客菴門ニ入ルコトヲ許サズ)」は、巣兆の俳諧グループ「千住連」の本拠地の、巣兆の庵「秋香園」に掲げられていたものを、そのイベント会場の入り口に掲げたようである(増田昌三郎稿「江戸の画俳人建部巣兆とその歴史的背景」)。

  悼巣兆 
 栴檀(せんだん)の木屑に残る寒さかな(『軽居館句藻』「氷の枝」) 

 この句は、抱一の巣兆が亡くなった時の悼句である。この句の「栴檀」は、「栴檀は双葉より芳し(大成する人は幼少のときから優れている)」を踏まえてのものであろう。

  二月十七日追福秋香庵巣兆
 名は残る楝(おうち)の実の木すえ(木末)哉(増補版『屠龍之技』国立国会図書館蔵)

 この句は、抱一の巣兆の百箇日の追善の句である。この句の「楝(樗)」は「栴檀の古名」で、先の悼句を踏まえたものであろう。そして、この両句とも、「巣兆の『栴檀は双葉より芳し』の名声は、その死後も、永遠に変わることがない」というようなことであろう。

高陽闘飲図二.jpg

「高陽闘飲図巻」(大田南畝記・歌川季勝画)(早稲田大学図書館蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/wo06/wo06_01594/wo06_01594_p0014.jpg  

 この「高陽闘飲図巻」中の、桟敷席で酒合戦を観覧しているのは、右から、「文晁・鵬斎・抱一」の下谷の三幅対(三人組)の面々であろう。そして、鵬斎と抱一との間の人物は、大田南畝、抱一の後ろ側の女性と話をしている人物は、文晁の嗣子・谷文一なのかも知れない。
 そして、この抱一像は、法衣をまとった「権大僧都等覚院文詮暉真(ぶんせんきしん)・抱一上人」の風姿で、鵬斎も文晁も、共に、羽織り・袴の正装であるが、この酒合戦の桟敷の主賓席では一際異彩を放ったことであろう(その上に、抱一は「下戸」で酒は飲めないのである)。
 この時の、抱一像について、別種の「文晁(又は文一)作」とされているものを、下記のアドレスで紹介している(しかし、当日の写生図は、この図巻の「文晁・文一合作」のものが基本で、それを模写しての数種の模本のものなのかも知れない)。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-01-30

 ここで、文化十二年(一八一五)の、この海外にまで名を馳せている(ニューヨーク公共図書館スペンサーコレクション蔵本)、この「千住酒合戦」(「高陽闘飲」イベント)は、
「酒飲みで、酒が足りなくなると羽織を脱いで妻に質に入れさせ、酒に変えたという」(増田昌三郎稿「江戸の画俳人建部巣兆とその歴史的背景」・ウィキペディア)の、「千住連」の俳諧宗匠・「秋香庵巣兆」(建部巣兆)の、その一周忌などに関連するイベントのような、そんな思いもして来る。
 さらに、続けて、この「高陽闘飲図巻」の、次の「太平餘化」の「題字」は、谷文晁の書のようである。

高陽闘飲図三.jpg

「高陽闘飲図巻」(大田南畝記・歌川季勝画)(早稲田大学図書館蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/wo06/wo06_01594/wo06_01594_p0002.jpg  

 この文晁書の「太平餘化」が何を意味するのかは不明であるが、建部巣兆の義兄の、そして「下谷三幅対(鵬斎・抱一・文晁)」の長兄たる亀田鵬斎の雅号の一つの「太平酔民」などが背景にあるもののように思われる。

高陽闘飲図四.jpg

「高陽闘飲図巻」(大田南畝記・歌川季勝画)(早稲田大学図書館蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/wo06/wo06_01594/wo06_01594_p0003.jpg

 これは、文晁の題字「太平餘化」の後に続く、鵬斎の「高陽闘飲序」(序文)である。ここには、巣兆に関する記述は見当たらない。「千寿(住)駅中六亭主人(注・「中六」こと飛脚問屋「中屋」の隠居・六右衛門)」の「還暦を祝う酒の飲み比べの遊宴」ということが紹介されている。
 この「高陽闘飲」の「高陽」は『史記』に出典があって、「われは高陽の酒徒、儒者にあらず」に因るものらしく、「千住宿の酒徒」のような意味なのであろうが、この「序」を書いた鵬斎自身を述べている感じでなくもない。
 この鵬斎の「序」に、前述の抱一の会場入り口の看板「不許悪客下戸理窟入菴門(下戸・理屈ノ悪客菴門ニ入ルコトヲ許サズ)」の図があって、次に、南畝の「後水鳥記」が続く。
 この「後水鳥記」の「水鳥」は、「酒」(サンズイ=水+鳥=酉)の洒落で、この「後」は、延喜年間や慶安年間の「酒合戦記」があり、それらの「後水鳥記」という意味のようである。
 そして、この南畝の「後水鳥記」と併せ、「酒合戦写生図」(谷文晁・文一合作)が描かれている。
 この「酒合戦写生図」(谷文晁・文一合作)の後に、大窪詩仏の「題酒戦図」の詩(漢詩)、狩野素川筆の「大盃(十一器)」、そして、最後に、市河寛斎の「跋」(漢文)が、この図巻を締め括っている。
 この図巻に出てくる「抱一・鵬斎・文晁・文一・南畝・詩仏・素川・寛斎」と、さながら、江戸化政期のスーパータレントが、当時の幕藩体制の封建社会の身分制度(男女別・士農工商別)に挑戦するように、この一大イベントに参加し、その「高陽闘飲図巻」を合作しているのは何とも興味がつきないものがある(これらに関して、下記アドレスのものを再掲して置きたい)。
 なお、この「高陽闘飲図巻」については、全文翻刻はしていないが、『亀田鵬斎(杉村英治著・三樹書房)』が詳しい。
 また、大窪詩仏などについては、下記のアドレスの『江戸流行料理通大全』・ 「食卓を囲む文人たち」で触れている。なお、この図中の「酒井抱一」とも見られていたのは、「鍬形蕙斎」であることは特記して置きたい。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-01-25

 さて、冒頭の、谷文晁関係の「江戸・足立 谷家関係地図」に戻って、その左上に書かれている「船津文渕」については、『日本史リブレット人054酒井抱一(玉蟲敏子著)』の「足立・千住と抱一門の関わり」の中で、「近年の足立区立郷土博物館の調査研究」などを踏まえての記述がなされている。

(再掲)
 これらの、江戸の文人墨客を代表する「鵬斎・抱一・文晁」が活躍した時代というのは、それ以前の、ごく限られた階層(公家・武家など)の独占物であった「芸術」(詩・書・画など)を、四民(士農工商)が共用するようになった時代ということを意味しよう。
 それはまた、「詩・書・画など」を「生業(なりわい)」とする職業的文人・墨客が出現したということを意味しよう。さらに、それらは、流れ者が吹き溜まりのように集中して来る、当時の「江戸」(東京)にあっては、能力があれば、誰でもが温かく受け入れられ、その才能を伸ばし、そして、惜しみない援助の手が差し伸べられた、そのような環境下が助成されていたと言っても過言ではなかろう。
 さらに換言するならば、「士農工商」の身分に拘泥することもなく、いわゆる「農工商」の庶民層が、その時代の、それを象徴する「芸術・文化」の担い手として、その第一線に登場して来たということを意味しよう。
 すなわち、「江戸(東京)時代」以前の、綿々と続いていた、京都を中心とする、「公家の芸術・文化」、それに拮抗しての全国各地で芽生えた「武家の芸術・文化」が、得体の知れない「江戸(東京)」の、得体の知れない「庶民(市民)の芸術・文化」に様変わりして行ったということを意味しょう。


(追記)「後水鳥記」(大田南畝記)

http://www.j-texts.com/kinsei/shokuskah.html#chap03

 後水鳥記
  文化十二のとし乙亥霜月廿一日、江戸の北郊千住のほとり、中六といへるものの隠家にて酒合戦の事あり。門にひとつの聯をかけて、
不許悪客〔下戸理窟〕入庵門 南山道人書
としるせり。玄関ともいふべき処に、袴きたるもの五人、来れるものにおのおのの酒量をとひ、切手をわたして休所にいらしめ、案内して酒戦の席につかしむ。白木の台に大盃をのせて出す。其盃は、江島杯五合入。鎌倉杯七合入。宮島杯一升入。万寿無彊盃一升五合入。緑毛亀杯二升五合入。丹頂鶴盃三升入。をの/\その杯の蒔絵なるべし。
干肴は台にからすみ、花塩、さゝれ梅等なり。又一の台に蟹と鶉の焼鳥をもれり。羹の鯉のきりめ正しきに、はたその子をそへたり。これを見る賓客の席は紅氈をしき、青竹を以て界をむすべり。所謂屠龍公、写山、鵬斎の二先生、その外名家の諸君子なり。うたひめ四人酌とりて酒を行ふ。玄慶といへる翁はよはひ六十二なりとかや。酒三升五合あまりをのみほして座より退き、通新町のわたり秋葉の堂にいこひ、一睡して家にかへれり。大長ときこえしは四升あまりをつくして、近きわたりに酔ひふしたるが、次の朝辰の時ばかりに起きて、又ひとり一升五合をかたぶけて酲をとき、きのふの人々に一礼して家にかへりしとなん。掃部宿にすめる農夫市兵衛は一升五合もれるといふ万寿無彊の杯を三つばかりかさねてのみしが、肴には焼ける蕃椒みつのみなりき。つとめて、叔母なるもの案じわづらひてたづねゆきしに、人より贈れる牡丹餅といふものを、囲炉裏にくべてめしけるもおかし。これも同じほとりに米ひさぐ松勘といへるは、江の島の盃よりのみはじめて、鎌倉宮島の盃をつくし萬寿無彊の杯にいたりしが、いさゝかも酔ひしれたるけしきなし。此の日大長と酒量をたゝかはしめて、けふの角力のほてこうてをあらそひしかば、明年葉月の再会まであづかりなだめ置きけるとかや。その証人は一賀、新甫、鯉隠居の三人なり。小山といふ駅路にすめる佐兵衛ときこえしは、二升五合入といふ緑毛亀の盃にて三たびかたぶけしとぞ。北のさと中の町にすめる大熊老人は盃のの数つもりて後、つゐに萬寿の杯を傾け、その夜は小塚原といふ所にて傀儡をめしてあそびしときく。浅草みくら町の正太といひしは此の会におもむかんとて、森田屋何がしのもとにて一升五合をくみ、雷神の門前まで来りしを、其の妻おひ来て袖ひきてとゞむ。其辺にすめる侠客の長とよばるゝ者来りなだめて夫婦のものをかへせしが、あくる日正太千住に来りて、きのふの残り多きよしをかたり、三升の酒を升のみにせしとなん。石市ときこえしは万寿の杯をのみほして酔心地に、大尽舞のうたをうたひまひしもいさましかりき。大門長次と名だゝるをのこは、酒一升酢一升醤油一升水一升とを、さみせんのひゞきにあはせ、をの/\かたぶけ尽せしも興あり。かの肝を鱠にせしといひしごとく、これは腸を三杯漬とかやいふものにせしにやといぶかし。ばくろう町の茂三は緑毛亀をかたぶけ、千住にすめる鮒与といへるも同じ盃をかたぶけ、終日客をもてなして小杯の数かぎりなし。天五といへるものは五人とともに酒のみて、のみがたきはみなたふれふしたるに、おのれひとり恙なし。うたひめおいくお文は終日酌とりて江の島鎌倉の盃にて酒のみけり。その外女かたには天満屋の美代女、万寿の盃をくみ酔人を扶け行きて、みづから酔へる色なし。菊屋のおすみは緑毛亀にてのみ。おつたといひしは、鎌倉の盃にてのみ、近きわたりに酔ひふしけるとなん。此外酒をのむといへども其量一升にもみたざるははぶきていはず。写山、鵬斎の二先生はともに江の島鎌倉の盃を傾け、小杯のめぐる数をしらず。帰るさに会主より竹輿をもて送らんといひおきてしが、今日の賀筵に此わたりの駅夫ども、樽の鏡をうちぬき瓢もてくみしかば、駅夫のわづらひならん事をおそれしが、果してみな酔ひふしてこしかくものなし。この日調味のことをつかさどれる太助といへるは、朝より酒のみてつゐに丹頂の鶴の盃を傾けしとなん。一筵の酒たけなはにして、盃盤すでに狼籍たり。門の外面に案内して来るものあり。たぞととへば会津の旅人河田何がし、此の会の事をきゝて、旅のやどりのあるじをともなひ推参せしといふ。すなはち席にのぞみて江の島鎌倉よりはじめて、宮島万寿をつくし、緑毛の亀にて五盃をのみほし、なほ丹頂の鶴の盃のいたらざるをなげく。ありあふ一座の人々汗を流してこれをとゞむ。かの人のいふ。さりがたき所用ありてあすは故郷に帰らんとすれば力及ばす。あはれあすの用なくば今一杯つくさんものをと一礼して帰りぬ。人々をして之をきかしむるに、次の日辰の刻に出立せしとなん。この日文台にのぞみて酒量を記せしものは、二世平秩東作なりしとか。
むかし慶安このとし、大師河原池上太郎左衛門底深がもとに、大塚にすめる地黄坊樽次といへるもの、むねとの上戸を引ぐしおしよせて酒の戦をしき。犬居目礼古仏座といふ事水鳥記に見えたり。ことし鯉隠居のぬし来てふたゝびこのたゝかひを催すとつぐるまゝに、犬居目礼古仏座、礼失求諸千寿野といふ事を書贈りしかば、其の日の掛物とはせしときこへし。かゝる長鯨の百川を吸ふごときはかりなき酒のともがら、終日しづかにして乱に及ばず、礼儀を失はざりしは上代にもありがたく、末代にまれなるべし。これ会主中六が六十の寿賀をいはひて、かゝる希代のたはむれをなせしとなん。かの延喜の御時亭子院に酒たまはりし記を見るに、その筵に応ずるものわづかに八人、満座酩酊して起居静ならず。あるは門外に偃臥し、あるは殿上にえもいはぬものつきちらし、わづかにみだれざるものは藤原伊衡一人にして、騎馬をたまはりて賞せられしとなん。かれは朝廷の美事にして、これは草野の奇談なり。今やすみだ川のながれつきせず、筑波山のしげきみかげをあふぐ武蔵野のひろき御めぐみは、延喜のひじりの御代にたちまさりぬべき事、此一巻をみてしるべきかも。
               六十七翁蜀山人
               緇林楼上にしるす

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