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江戸の粋人・酒井抱一の世界(その五) [酒井抱一]

その五 江戸俳諧ネットワーク(巣兆・抱一)と上方俳諧ネットワーク(蒹葭堂・芳中)そして仲介人(大江丸)

木村蒹葭堂.jpg

谷文晁筆「木村蒹葭堂肖像画」絹本着色(六九×四二cm) 享和二年(一八〇二)作
大阪府教育委員会蔵(重要文化財)

 『江戸百夢―近世図像学の楽しみ(田中優子著)』で、この肖像画の人物・木村蒹葭堂を「浪花の大ネットワーカー」と題して、次のような指摘をしている。

【 江戸時代において人格および人格的影響力を身につけるには、何も偉大な哲学者や厳しい修行僧になる必要はない。江戸時代の基本的な価値観である、「私(わたくし)しない」ことを守れば、それで良いのだ。「私しない」とは、自分の財産、才能、家族、仕事、立場、地位などを、自分のためだけに使わない、という意味である。自分と自分の持っているものを、社会(世間)に向かって開いておく、世間のために使う、世間の媒体(メディア)になりきる、という意味である。蒹葭堂は根っからそういう人間であり、人は蒹葭堂を通してつながり合い、知識に触れ、成長していった。谷文晁の描いた顔はまさにそのような人物の顔である。そのような人格者をかつては「大愚」と言った。  】

 「下谷の三幅対」(鵬斎・抱一・文晁)の中で、この木村蒹葭堂と面識があり、折に触れて文通をしていたのは、谷文晁である。文晁は、寛政元年(一七八九)、二十六歳の頃、長崎遊学の途につき、その長崎では折から当地へ来ていた張秋穀(ちょうしゅうこう)に入門などをしている。その帰途に大阪の木村蒹葭堂を訪ねて、それ以降、相互に情報交換などをしていたことの書簡などが、下記のアドレスで紹介されている。

http://www.og-cel.jp/issue/cel/__icsFiles/afieldfile/2017/10/24/117all.pdf#page=19

 上記の蒹葭堂の肖像画は、蒹葭堂が亡くなった享和二年(一八〇二)一月二十五日の二ヶ月を経過した三月二十五日に描かれたことがその右端の賛に記されている。
当時、文晁は、四十歳の頃で、抱一関連の「年譜」(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「酒井抱一と江戸琳派関係年表」(松尾知子編)」)に、「五月、君山君積の案内で、谷文晁、亀田鵬斎らと、常州若芝の金龍寺に旅し、江月洞文筆『蘇東坡像』を閲覧する」と記されている。
 即ち、「下谷の三幅対」の「亀田鵬斎(五十一歳)・酒井抱一(四十二歳)・谷文晁(四十歳)」の三人トリオが、現在の、茨城健竜ケ崎市の金龍寺の宝物、江月洞文(こうげつどうぶん)筆「蘇東坡像」を見に行った年なのである。
 さらに、この年は、中村芳中の『光琳画譜』が刊行された年でもあった。芳中は、寛政十一年(一七九八)に、上方から江戸へ下向して来るが、この時には、亡き木村蒹葭堂が芳中のための餞別の宴に参加している(同上「年譜」)。
 この「年譜」には記載されていないが、芳中は蒹葭堂が亡くなった、即ち、『光琳画譜』を刊行した年に、江戸滞在を切り上げて、亡き蒹葭堂を弔うように上方への帰途につくのである。
 さて、木村蒹葭堂が、「私しない」(大愚)の「浪花の大ネットワーカー」とすると、「江戸の大ネットワーカー」且つ「私しない」(大愚)の代表格は亀田鵬斎ということになろう。

鵬斎像.jpg

谷文晁筆・亀田鵬斎賛「亀田鵬斎像」(北村探僊宿模)個人蔵 文化九年(一八一二)作

 この「亀田鵬斎像」は、文化九年(一八一二)四月六日、鵬斎還暦の賀宴が開かれ、越後北蒲原郡十二村の門人曽我左京次がかねてから師の像を文晁に依頼して出来たものであるという。そして、その文晁画に、鵬斎は自ら自分自身についての賛を施したのである。
 その賛文と訳文とを、『亀田鵬斎と江戸化政期の文人達(渥美国泰著)』から抜粋して置きたい。

 這老子  其頸則倭 其服則倭  この老人  頭は日本  服も日本だ
 爾為何人 爾為誰氏 仔細看来  どんな人で 誰かと見れば 鵬斎だ
 鵬斎便是 非商非工 非農非士  商でなく 工でなく 農でなく 士でもない
 非道非佛 儒非儒類       道者でなく 仏者でなく 儒類でもない
 一生飲酒 終身不仕       一生酒を飲んで過ごし 仕官もしない
 癡耶點耶 自視迂矣       ばかか わるか 気の利かぬ薄のろさ
  壬申歳四月六十一弧辰月題
   関東亀田興 麹部尚書印

 もとより、木村蒹葭堂も亀田鵬斎も俳諧師ではなく、また、特定の俳諧グループなどを主宰しているけではない。
 また、「巣兆・抱一」が、当時の江戸俳諧グループの代表格のメンバーという位置付けではなく、まして、「蒹葭堂・芳中」は、上方俳諧グループの代表格のメンバーではさらさらない。
 ここでは、江戸の「巣兆・抱一」の俳諧グループの背後には、広く江戸ネットワークの中心的人物の一人の亀田鵬斎が控えているということと、同様に、広く上方ネットワークの中心人物として、木村蒹葭堂が控えているということ、そして、狭く江戸俳諧グループと上方俳諧グループを相互に交流させる役割を担った人物として、上方俳諧グループ出身の、大伴大江丸が挙げられるだろうということなのである。
 大伴大江丸は、享保七年(一七二二)生まれ、木村蒹葭堂は、元文元年(一七三六)の生まれで、この二人に比すると、亀田鵬斎は、宝暦二年(一七五二)生まれで、年齢的には相当な開きがある。
 しかし、大江丸が没したのは、文化二年(一八〇五)で、晩年の大江丸と鵬斎の義弟の建部巣兆とは、太い線で結ばれていることが、例えば、寛政五年(一七九三)に成った巣兆撰集『せきや(関屋)帖』などから明瞭に了知されるのである。
 また、蒹葭堂と鵬斎とは、寛政二年(一七九〇)に、いわゆる、老中筆頭松平定信が推進した「寛政の改革」により、蒹葭堂は「酒造統制違反(醸造石高の超過)」そして、鵬斎は「異学の禁」の「異学の五鬼」として弾圧される憂き目に遭遇するなど、二人は交互に交差していると解して差し支えなかろう。
 ここで、「享保(七年生)・元文・寛保・延享・宝暦・・明和・安永・天明・寛政・享和・文化(二年没)」の、江戸中期から後期にかけての俳諧の生き字引のような三度飛脚(江戸・大坂間を毎月三回定期的に往復した飛脚)の問屋を業としていた「大伴大江丸」に焦点を当てたい。

大江丸像.jpg

「大江丸像」(『若葉集』所載)(『評釈江戸文学叢書七俳諧名作集(潁原退蔵著)』)
賛=うつくしきむねのさはぎやはつざくら 八十五才大江丸(実際の年齢に一歳加算している)

『評釈江戸文学叢書七俳諧名作集(潁原退蔵著)』での作者紹介は次のとおりである。

【 本名安井正胤、通称大和屋善右衛門、大阪の人。江戸飛脚問屋を業とした。初号芥室、旧国。青年時代多くの俳士を歴訪して教を乞うたが、後蓼太の門に帰した。蕪村、几董とも交わり遊俳として天明寛政の俳壇に独特の位置を占め、その交友の範囲は頗る広かった。文化二年没、年八十四。俳話句集『俳ざんげ』『はいかい袋』の撰がある。 】

  竹の子やあまりてなどが人の庭 (大江丸『はいかい袋』)

 この句は、『後撰集』(源等)の「浅茅生の小野の篠原しのぶれどあまりてなどか人の恋しき」の「捩り」の一句である。この句などに関して同書では次のような評釈をしている。

【 大江丸の本業は飛脚問屋であった。彼が始めて俳諧を志したのも、尾張の千代倉鉄叟の状を、半時庵淡々の許に届けたのが縁となったのであるという。その後諸家に教を乞うて東西し、遂に俳壇の一名流として知られるに至ったのであるが、しかも彼の俳諧に対する態度は、あくまでも余技として以上に出なかった。
  然れども家のわざに大事をふみ、三十余年は此の道を捨てざるばかり。その日その日
  の勤めを怠らじと守りつゝ、云々
と自らを語って居るのである。すでに余技であるから、必ずしも一派に偏したり、徒に高遠の理を唱えたりする要はない。たゞ俗中に雅趣を求めて楽しめばそれで宣い。
  俳諧をもて修身斉家の道にあて、或は老佛の心に通わして高妙に説きなす者あるこそ心得ぬ。その道を高くせんとして、却って知れる人の誹をひく。俳諧更にさようのものならず。佛語聖言によらずして俗中の風雅を述べ、別に趣はある事なり。
とも言っている。これは「予が風雅は夏炉冬扇の如し」と喝破した芭蕉の本意と、多く悖
るものではない。けれども大江丸は芭蕉の如く、斯の道に一生を託する人ではなかった。
彼が求めた俗中の雅は、結局こうした軽い滑稽や、文字の技巧等を専らとするに至った。
とはいえ、その円転滑脱の機才と明朗軽快な格調は、また俳壇の一異彩とするに足るべく、
所謂遊俳の士としては、彼が俳諧史を通じて、最もすぐれた一人と称すべきである。 】

 この「評釈(潁原)」に、「大伴大江丸(大谷篤蔵)」(『俳句講座三俳人評伝下』所収)により、「評伝(大谷)」を補足的に付け加えて置きたい。

【 寛延二年(二十八歳)五代善右衛門の没した後は家業を一手に引き受けて出精した結果、最初は「江戸店同業のうちにて三四間(軒)目、大阪店は人も知らぬほどの事にて、一曲輪の人数男女二百人内外」であったのが、「出店共に七ケ所(中略)今二万余の家督とし、業は三都のうちの第一と称せられ、家族店中の男女千人」という大をなし、(以下略) 】

 大江丸は、「業は三都(江戸・京都・大阪)のうちの第一と称せられ、家族店中の男女千人」と大マネージャーなのである。

【 家業のため、諸国を旅行し、寛政二年(六十九歳)『俳懺悔』に「東都の往返五十度に及ぶ 百不二や月雪花にほととぎす」の句があり、さらに十年後の寛政十二年(七十九歳)には、八年ぶりで東海道を江戸に下り奥州・関東地方を歴遊、「百二十四日四百五十三里」の大旅行を試みた。(以下略)  】

 大江丸は、「七十九歳で、「百二十四日四百五十三里」の大旅行を試みた」と大フットワーカーなのである。

【 『はいかい袋』には、道の先達として竹阿・二柳・鳥酔・蒼狐・麦水・後川・蕪村・無腸・闌更・竹巣(別本は烏明)・嘯山・呑秋・青蘿・完来・八千坊(舎桲カ)を挙げ、『みちのしるべの友』として、入楚・蝶蘿(別本は几董・月居)・成美(別本になし)・午心・東瓦(別本になし)・雨什・春蟻・一無庵丈左・喜斎・木朶をあげている。俳壇の趨勢は、天明から寛政になると俳人の交流激しくなり、門派にとらわれず、地域に限らず、広く交を訂し句を求める風がおこり、全国的な俳壇が形成され、俳人名録の類が続々出版されるようになる。(中略)しかも俳人のみに限らす、狂歌師・戯作者・俳優・力士など、広範囲にわたる。自身、歌舞伎は見功者、角力は通、洒落本に句を寄せ、団十郎を訪ねる。多趣味な文化人、当時のことばでいえば「聞人(ぶんじん)」である。多年実務を掌理して得た世間知、円転洒脱の寛厚の長者、その座談はさぞ面白かったろうと思われる。江戸の通人の鋭さとは違って、上方風のおおらかさと温かさがある。 】

 大江丸は、「多年実務を掌理して得た世間知、円転洒脱の寛厚の長者」と大ネットワーカーなのである。

   山寺や蜂に刺されて更衣  (巣兆『曽波可理』)

 この巣兆の句などについて、『評釈(潁原)』では、次のように記述している。

【 巣兆は亀田鵬斎・酒井抱一等とも親交があり、当時の最も洗練された江戸趣味を、充分に理解し体得した人であった。而してこの江戸趣味なるものは、洒脱優雅な気品には富んで居るが、強く人に迫る力がない。どこかに遊びの気分が漂って居る。それは鵬斎の書、抱一の畫、巣兆の俳諧、それらを通じて明らかに見られることである。 】

 大江丸が「遊俳」(趣味・余技)の極致とするならば、抱一もまた、画業が主で、俳諧は「遊俳」のものという位置づけが妥当なのかも知れない。しかし、抱一は、『江戸座続八百韻』(屠龍編・三十六歳時)を刊行し、江戸座に連なる「業俳」(俳諧師)たる自負を生涯にわたって持ち続けていたように思われる。
巣兆に至っては、その後半生は、その「秋香庵俳諧」に全てを捧げるような、壮絶な「業俳」という一面を有し続けたといっても過言でなかろう。
 しかし、抱一、そして、巣兆の俳諧は、一言でするならば、上記の「評釈(潁原)」の「江戸趣味(洒脱優雅な気品には富んでいるが、強く人に迫る力がない)」の世界のものであって、上記の「評伝(大谷)」の「江戸の通人」、そして、それは「江戸の粋人」の世界のものというのは、これまた、厳然たる一面であろう。
 そして、それは、上記の「評伝(大谷)」の、「江戸の通人の鋭さ」(抱一・巣兆の世界)と、「上方風のおおらかさと温かさ」(大江丸の世界)とが、好対照を成しているということにもなろう。
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