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江戸の粋人・酒井抱一の世界(その八) [酒井抱一]

その八 南畝(四方赤良)と抱一(尻焼猿人)との交遊

抱一・調布.jpg

抱一(屠龍)筆「調布の玉川図(布晒らし図)」絹本著色 一幅 款記「乙巳初冬 楓窓屠龍画」/「屠龍之印」(白文方印) 大田南畝賛 天明五年(一七八五)作

【 江戸の都市の繁栄は、狂歌、黄表紙、浮世絵(錦絵)といった新しい文化を育んだが、世に天明狂歌運動とも呼ばれるムーブの担い手の多くは、下級の幕臣の大田南畝をはじめとする二、三十代の青年たちであった。才気渙発な抱一が、酒井家の屋敷の外側で繰り広げられる同世代の若者による自由闊達な活動に敏感でないはずはない。蔦屋重三郎版の狂歌絵本『吾妻曲(あずまぶり)狂歌文庫』(宿屋飯盛撰、山東京伝画、天明六(一七八六)年刊)、続編の『古今狂歌袋』(宿屋飯盛撰、山東京伝画、天明七(一七八七)年刊)、『画本虫撰』天明八(一七八八)年刊、宿屋飯盛撰、喜多川歌麿画 )などに、抱一は立て続けに、「尻焼猿人」の狂歌名を名乗って登場する。大田南畝は、大手門前の酒井家上屋敷で部屋住みの生活を送る抱一の下を訪ねており、天明八年正月十五日の上元の宴では、抱一の才を讃えて七言絶句の漢詩を詠んでいる(『南畝集七』)。その書き出しには「金馬門前白日開」とあり、中国漢代の末央宮(びおうきゅう)の門を気取って、江戸城の大手門をペンダントリ―に「金馬門」と呼んでいる。この謂いは、抱一と南畝らの間で交わされた暗号のようなものだったらしく、現存しないが、抱一も最初に編んだ句集の名を「金馬門」の和語の「こがねのこま」としたようだ。 】(『日本史リブレット人054酒井抱一(玉蟲敏子著)』)

「酒井抱一と江戸琳派関係年表」(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍堂)』所収)の「文化九 一八一二壬申 五二」の欄に、「十月、自撰句集『屠龍之技』編集、亀田鵬斎序、酒井忠実・大田南畝跋。刊行は翌年か」とある、抱一の自撰句集『屠龍之技』(その全体構成は別記のとおり)の、冒頭の編(第一)は、「こがねのこま」の編名なのである。
 この「こがねのこま」は、この『屠龍之技』の元になっている『軽挙館(観)句藻』(現存二一冊あるいは二〇冊)には見当たらないもので、この編名の由来や、これが何故冒頭にあることなど、謎の多いところなのであるが、上記の、酒井家上屋敷の前の「江戸城の大手門をペダントリ―に『金馬門』(和語の「こがねのこま」)と呼んでいる」に由来があるという指摘は、特記して置く必要があろう。
 すなわち、名門譜代大名家の酒井家二男の抱一は、その酒井家の出自という矜持を、この冒頭(第一)の編名に託していると解したいのである。

(別記)
【『屠龍之技』の全体構成(『日本の美術№186酒井抱一(千澤楨治編)』等により作成)
序(亀田鵬斎)(文化九=一八一二)=抱一・五二歳
第一こがねのこま(寛政二・三・四)=抱一・三〇歳~三二歳
第二かぢのおと (寛政二・三・四)=同上
第三みやこおどり(寛政五?~?)=抱一・三三歳?~
第四椎の木かげ (寛政八~十年)=抱一・三六~三八歳 
第五千づかのいね(享和三~文化二年)=抱一・四三~四五歳
第六潮のおと  (文化二)=抱一・四五歳 
第七かみきぬた (文化二~三)=抱一・四五歳~ 
第八花ぬふとり (文化七~八)=抱一・五〇~五一歳
第九うめの立枝 (文化八~九)=抱一・五一~五二歳
跋一(春来窓三)
跋二(太田南畝) (文化発酉=一八一三)=抱一・五三歳  】

 大田南畝は、寛延二年(一七四九)の生まれで、抱一よりも十二歳年長である。上記の、抱一の自撰句集『屠龍之技』の「跋」文を書いた頃は、六十五歳と高齢であるが、「息子の定吉が支配勘定見習として召しだされるも、心気を患って失職。自身の隠居を諦め働き続けた」と、幕府の支払勘定の役を続けていた頃に当たる。
 翻って、抱一と南畝との出会いは、天明三年(一七八三)、抱一、二十一歳(南畝=三十三歳)の、『狂歌三十六人撰』(四方赤良=南畝編・丹丘画、尻焼猿人=抱一の肖像画あり)の頃にまで遡る。
 当時の、天明狂歌運動の中心的人物の一人の四方赤良(南畝)に、姫路藩酒井家第二代当主酒井忠以の実弟の、狂歌人・尻焼猿人(抱一)が、その運動のシンボリックのスターの一人として祭り上げられたということを意味しよう。
 ここで、「天明狂歌運動」の「狂歌」とは、「和歌の国=和歌の前の平等の国=大和(倭)=日本(徳川太平の「パクス・トクガワーナ」)」のパロディ(日本の本歌取り・狂歌・替え歌など)という「文学や絵画、歴史についての幅広い興味を持つ人たちがサークルを作り、真面目な和歌や絵画のパロディを作って笑いあったり、謎解きをしあったり、さらには仲間内で本を作って出版したりと、お洒落な遊びの文化」の世界のものなのである。
 この江戸時代の、「パロディ文化」の、「遊びの文化」の典型的なものとして、この文芸における「狂歌」の世界と、表裏一体を成す、絵画の世界の「浮世絵」という世界がある。
この「浮世絵」の世界においても、冒頭の「調布の玉川図(布晒らし図)」(楓窓屠龍画=抱一画)のとおり、「屠龍=杜陵=尻焼猿人=酒井抱一」は、「天明浮世絵」作家の一人に目せられているということになる。

  玉川にさらす調布(たつくり)さらさらにむかしの筆とさらに思はず (蜀山人)

 この蜀山人の狂歌は、次の『拾遺和歌集』の「本歌取り」の一首なのである。

  玉川にさらす調布(たつくり)さらさらにむかしの人のこひしきやなそ
                (『拾遺和歌集』巻第十四・恋四・よみ人しらず)

 ここで、注目をしたいのは、この蜀山人のパロディの狂歌の一首の、その署名(作者名)の「蜀山人」なのである。
この「蜀山人」の号は、「享和元年(一八〇一)大阪銅座詰となった南畝は、この年から蜀山人という号を用いた」(『亀田鵬斎と江戸化政期の文人達(渥美国泰著)』)と、この抱一(屠龍)筆の「調布の玉川図(布晒らし図)」が制作された天明五年(一七八五)には、南畝は「寝惚子(先生)・四方赤良」等の号で、「蜀山人」(号の由来は、中国で銅山を「蜀山」といったことに因っている)の号は、使われない。
すなわち、この「調布の玉川図(布晒らし図)」の蜀山人(南畝)の賛は、この絵が制作された後の、享和元年(一八〇一)以降に、書き添えられたものと思われる。とすると、この一首の、「むかしの筆とさらに思はず」は、「抱一の若書きの絵とは少しも思えないほどの、見事な出来栄えである」というようなことになろう。
これが、「四方赤良」などの署名ならば、抱一の浮世絵時代の「天明の頃は浮世絵師歌川豊春の風を遊ハしけるが(後略)」(「等覚院御一代」)などの、「歌川豊春」関連の「むかしの筆とさらに思はず」の歌意などになって来よう。
これらの、南畝の「四方赤良から蜀山人へ」、そして、抱一の、この「浮世絵時代の終焉」の時代史的な背景は、「大名家に生まれて 浮世絵、俳諧にのめりこむ風狂(内藤正人稿)」(『別冊太陽 江戸琳派の粋人 酒井抱一』所収)から、下記に抜粋して置きたい。

【 天明年間(一七八一~八八)に爛熟の時を迎えた浮世絵は、時の田沼政権の突如終止符が打たれるとともに、一時冷水を浴びせられる。一七八七(天明七)年からいわゆる寛政の改革を断行した松平定信が老中首座に就いたことにより、厳しい風俗統制が加えられ、それまで絢爛と咲き誇った庶民文化の華である卑俗な文芸や浮世絵にもさまざまな規制の網がかけられるのである。抱一の場合、もともと錦絵など浮世絵版画の版下絵制作を手掛けることはなかったにせよ、おそらく譜代大名、酒井雅樂頭の弟君の遊蕩も、天明の末にはもはや潮時という雰囲気が取り巻いていたようだ。あるいは、実はそれが多分に重要な理由なのかもしれないが、抱一自身もしばらく巷間に遊ぶなかで、その当初から熱心ではあっても、ほぼ豊春画模倣に終始するという点で決して創造性豊かな作画には取り組んでこなかった美人画制作にやや倦んでいた、という側面もあるだろう。ちょうどこの頃、一七九〇(寛政二)年に三十路に入った抱一は、蠣殻(かきがら)町の酒井家中屋敷に移り住んでいる。ところが、ほどなくして、藩主だった六歳年上の兄忠以が急逝し、彼を取り巻く環境は急変する。自ら最大の理解者である兄という大きな後ろ盾を亡くし、甥の忠道が大藩の家督を継ぐという流れから、数多くの家臣団を含めて急速に代替わりが進んでいく酒井雅樂頭家の新たな状況も多分に影響してか、抱一もその三年後には本所番場の多田薬師の近くに、あわただしく転居することとなる。長年嗜んだ浮世絵美人画からり離脱、その反対に俳諧への一段と深い傾倒といった抱一の心境の変化も、そうした彼の身辺を取り巻く状況とまったく無縁であろうはずがない。だが、抱一が一連の当世美人画の制作で垣間見せた熱い情熱、すなわち、自らが何かを描きたい、という意欲は、すでにこの頃から溢れんばかりで、まったくとどまるところを知らなかった。それが、寛政後期からの光琳画との運命的な澥逅(かいこう)を経て、一気に花開いていくことになる。新たな琳派絵師、酒井抱一の誕生まで、あと少しだけ時間が必要だった。 】
(『別冊太陽 江戸琳派の粋人 酒井抱一』所収「大名家に生まれて 浮世絵、俳諧にのめりこむ風狂(内藤正人稿)」)

 詩は詩仏書は鵬斎に狂歌おれ芸者小勝に料理八百善  (伝「南畝」)

 「詩は詩仏(大窪詩仏)」「書は鵬斎(亀田鵬斎)に」「狂歌おれ(大田南畝)」「芸者小勝(吉原の芸者?)に」「料理八百善」(四代目八百屋善四郎)の狂歌は大田南畝の作とされている。この狂歌を詠んだ頃の「詩仏・鵬斎・南畝・鍬形蕙斎(酒井抱一ともいわれていた)」の紹真(鍬形蕙斎の号)の署名のある挿絵がある(下記のとおり)。

料理通.jpg

八百屋善四郎著『料理通(初編)』 文政五年(一八二二)刊 
https://www.library.metro.tokyo.jp/collection/features/digital_showcase/008/04/

 右側の小女の脇の敷居に片手をついて硝子の盃を持っているのが南畝である。南畝が話をしている相手の坊主頭が鍬形蕙斎(浮世絵師・北尾正美、後に、津山侯の御用絵師)である(この家紋は「立三橋」で、酒井家の紋ではない)。中央の立膝をして拳を広げているのが鵬斎である。左端の鵬斎のお相手をしているのが詩仏である。
 この四代目八百屋善四郎著の『料理通(初編)』 が刊行された文政五年(一八二二)の翌年の文政六年(一八二三)に、南畝は、その七十五年の波乱に富んだ生涯を閉じている。
 ここで、松平定信の「寛政の改革」(その「異学の禁)」に関連しての、「鵬斎・抱一・文晁・南畝」に関しての身の処し方などについて、下記に記して置きたい。

【「異学の禁」に猛然と反対して、酒徒となって己の意地を押し通した鵬斎、幕府の統制禁欲の政策に憤然として意を唱え、主家へのおもんばかりからか、剃髪して閑居した抱一。時の第一人者の画人として画壇の頂点に立ちながら、突然のごとく片雲の風に誘われて遊興風流の世界に遊飛した文晁。そして、ここに、その遊興界の三幅対に、もう一人、したたかに本格的な酔興の人物(大田南畝)が加わることになる。】(『亀田鵬斎と江戸化政期の文人達(渥美国泰著)』)

 この見方に関して、次のようなことを付記して置きたい。

一 「異学の禁」というのは、幕府の正学として昌平坂学問所の朱子学を中心に据え、「天下一体一流」としてその一本化を図り、それ以外の「徂徠派・折衷学派」などの学派を「異学の禁」として締め出すという、一種の思想統制以外の何ものでもない。折衷学派に身を置く亀田鵬斎が、その折衷学派(折衷学派=井上金峨門)の「要は己に得るにあり」(個の確立)の思想を貫徹し、「正学・異学」論争から身を退き、「関東第一風顛(ふうてん)生」として、アンチ松平定信に終始したことは、紛れもない事実であろう。そして、「抱一・文晁・南畝・詩仏・蕙斎」等々が、多かれ少なかれ、この「鵬斎贔屓派」であることは間違いなかろう。

二 播州姫路十五万石の藩主酒井雅樂頭家の次男として生まれた抱一にしても、松平定信が推進した奢侈禁止令や出版・風俗等に関する統制令などに批判的であったことは、当の定信一派が、「抱一(俳号=屠龍)・雪川(出雲松江藩第七代藩主・松平不味の弟)・泰郷(松前藩十三代当主松前道広の弟)」の三人を、当時の吉原の「粋人・道楽子弟の三公子」として標的にしていたことからしても、自明のところのものであろう。しかし、上記の「幕府の統制禁欲の政策に憤然として意を唱え、主家へのおもんばかりからか、剃髪して閑居した抱一」とまでは言い切れるかどうかは、さらに吟味が必要となって来よう。

三 この、アンチ定信派に位置する鵬斎・抱一に比して、「下谷三幅対」のもう一人の谷文晁は、定信の出身家の田安家の経儒で漢詩人を父に持つ環境からして、能吏派を重視する定信の庇護下にあった。その定信の庇護下にあって、定信に従って諸国を巡歴し、『集古十種』の挿図を描き、また、『歴代名公画譜』『名山画譜』『本朝画纂』などを編纂するなど、江戸末期の画壇の大御所として、その七十八年の生涯を閉じている。この親定信派の文晁が、また、「鵬斎・抱一」贔屓で、その末弟よろしく、その晩年は、「中年迄は酒を禁じ、後年殊の外酒をたしなみ、日々朝より酒宴始、夜に入迄もたえず、来客にもすゝめ、若しいなむ者は大いに不興也」(『写山楼の記(野村文紹)』)と、上記の「片雲の風に誘われて遊興風流の世界に遊飛」するという一面を見せているのである。すなわち、単純な「親定信派」ではなく、極めて、「鵬斎・抱一」の世界に共感を有していたということも紛れもない事実であろう。

四、さて、大田南畝に関しては、この谷文晁以上に、どうにも説明できないような、鬱積した晦渋に充ちているのである。「天明七年(一七八七)六月、老中首席となった松平定信の寛政の改革、とりわけ文武奨励・文芸統制をしたその政策に、泰平の夢を破られた寝惚先生こと大田南畝は、ここでいち早く変身し、巧妙な保身の術を駆使して、その危機を見事に潜り抜けた。定信の新政権が寛政六年に実施した学問の奨励と人材登用のための学問吟味の試験には、白髪まじりの頭で半ば自嘲しながら望んだのである。その水際だった豹変ぶりは目を見張るものがある。(中略)しかもこの人材登用では南畝は見事首席で合格し、幕府の勘定役に抜擢されるのである。享和元年(一八〇一)大阪銅詰となった南畝は、この年から蜀山人という号を用い始めた。銅の異名を蜀山居士ということからきているらしいが、公儀の忌避に触れた狂歌狂詩のかつての盛名を避けるためのカモフラージュであったともいわれている(『亀田鵬斎と江戸化政期の文人達(渥美国泰著)』)。
 このことに関しては、南畝の「カモフラージュ」(人目を誤魔化すため仮面を被っている)ではなく、この二面性(「公人と私人」など)こそ、南畝の生来のように思われる。しかし、この二面性も、「鵬斎・抱一・文晁」と同じく、「私がない(私心がない)」ところに、南畝の南畝たる所以があるように思われる。

五、これらの「私がない(私心がない)」ところの、「鵬斎・抱一・文晁・南畝」に比すると、「北斎は俺の真似ばかりしている」と豪語した鍬形蕙斎も、「楽易(らくい)」(楽して易しいこと)を自他共に目標とした大窪詩仏とは、やはり、これらの二人は、「鵬斎・抱一・文晁・南畝」の後塵を拝することであろう。

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