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江戸の粋人・酒井抱一の世界(その七) [酒井抱一]

その七 山東京伝(身軽折輔)の「手拭合」と抱一(尻焼猿人)のデビュー

手拭い一.jpg

山東京伝画『手拭合』一冊 天明四年(一七八四)国立国会図書館蔵
【当時各界の文化人著名人が、紙上で手拭いのデザインを競う趣向の本で、巻頭には大名子弟が紹介される。抱一は「杜綾公」として三人目に登場。すぐ前の「香蝶公」は兄の宗雅で、酒井家の剣酢漿草(けんかたばみ)の紋とお好みの笹蔓紋様があしらわれている。京伝は「御記文は書顕されとも能ある鷹の御趣向は自かくれなし」と、爪を隠す能ある鷹と抱一の姿を重ねて説明を記した。  】(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍堂)』「作品解説・岡野智子稿」)
国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2537594

【 天明四年(一七八四)の旧暦六月二十一日は、新暦では八月六日であった。さぞかし暑い江戸だったろう。それでも少しは涼しい風が吹いてきそうな不忍池のほとりの、とある寺で、そのイベントは開かれた。題、して「たなぐひ合はせの会」。主催は黒鳶(くろとび)式部という十四歳の女性だった。「合わせ」といえば「歌合わせ」が思い浮かぶ。歌を詠みながら合わせものは九世紀の宮廷サロンで始まり、草合わせ、花合わせ、鳥合わせ、絵合わせ、物語合わせ、扇合わせなど、次々と合わせが開かれていった。合わせすなわち、サロンと競技が一緒になったようなものだが、ものやお金を賭けて賭事にすることもあった。この合わせものは、連の江戸時代にはぴったりで、江戸が文化の中心になる一八世紀後半には「宝合わせ」だの「団扇合わせ」だの「浴衣合わせ」だのが開かれてゆく。ただし、江戸のことだ。優雅なものなぞにはしない。すべて宮廷の合わせもののパロディである。宝合わせには、絶対ほんもののお宝は登場しない。がらくたをいかに「宝」と言いくるめるか、その饒舌が競技の対象となる。団扇や浴衣も日常生活に使うもので、ふだんそのへんにごろごろしているもののデザインを、いかに面白く考えつくかを、競うのだ。たなぐひ、つまり手拭いも毎日使うもの。黒鳶式部なんていう優雅な名前の女性を立てて主催者に仕立て上げはしても、ほんとの主催者は皆お見通しの山東京伝。黒鳶式部とは、京伝が眼に入れてもいたくないほどかわいがった妹の「よね」のことである。よねは病弱な少女で、この数年後に亡くなっている。出品者は歌舞伎役者の市川団十郎、ご存じ喜多川歌麿、浮世絵師の北尾重政、能役者で戯作者の芝全交、姫路藩主の弟で琳派の酒井抱一、松江藩主の弟・松平雪川、蘭学者の森島中良、煙草屋で戯作者の平秩東作、幕臣で狂歌師の大田南畝、吉原遊郭・扇屋の主人、吉原の遊女や芸者やたいこもちたち、そして力士等々、町人、芸人、武士入り乱れてのデザイン大会である。 】(『江戸百夢―近世図像学の楽しみ(田中優子著)』)

上記画像の「香蝶(公)」は、抱一の実兄の、姫路藩酒井家第二代当主酒井忠以(ただざね)の号(茶名=宗雅、俳名=銀鵞)で、酒井家の「剣酢漿草(けんかたばみ)の紋とお好みの笹蔓紋様」があしらわれている。
 この忠以が、マルチタレントで、三十二種に及ぶ文武両道の免許皆伝の腕前が、酒井家文書により記録されている。その免許皆伝などのリストの一部は、「無辺流の槍術・起倒流の柔術・自鏡流の居合・金剛流の能・茶道(師・松平不味)・俳諧(師・馬場存義)・絵画(師・中橋狩野家の永徳高信)」等々である。
 これに続く「杜陵(公)」は、忠以より六歳下の抱一(本名・忠因=ただなお)の号(杜綾、後に屠龍=俳号)である。抱一のマルチタレントは、兄・忠以に負けず劣らずで、その師系は、ほぼ、兄と同じと解して差し支えなかろう(『日本史リブレット人054酒井抱一(玉蟲敏子著)』)。
 この「杜陵公」と同年齢(宝暦十一年=一七六一生れ)の、この『手拭合』の作者(企画者・画作も同じ)「山東京伝」(浮世絵画名=北尾政演)は、当時の「杜陵公」(抱一)をして、「能ある鷹の御趣向は自(おのずから)かくれなし」と、当時の抱一を、酒井家の当主・忠以こと「香蝶公」の影武者のように目立たないが、その本来の力量は、「能ある鷹」の、その力量を兄以上であろうということを喝破していると解して、これまた、差し支えなかろう。
 「香蝶公」(忠以公)、そして、「杜陵公」(忠因公=抱一)の酒井家には、茶会や俳諧の場などのサロンが形成されていた。忠以公(茶人=尾花庵宗雅)の茶会には、尾形乾山の画幅が掛けられ、本阿弥光悦の茶碗や花筒、尾形乾山の香合などが使用されていたことが、その『逾好(ゆこう)日記』(酒井家上屋敷茶室に因む茶会記録)に記されている。
 この酒井家の、両親を早くに亡くした忠以・抱一兄弟の後ろ盾に成った一人に、大和郡山藩第二代当主で、柳沢吉保の孫の柳沢信鴻(のぶとき)が居る。信鴻は、儒学・漢詩・絵画・俳諧・芝居などの造詣が深く、中でも、俳諧は岡田米仲に学び、「米翁(べいおう)」と称し、句集に『蘇明山荘発句藻』を有している。
 抱一の自撰句集『屠龍之技』には、この米翁の亡くなった時の追悼句と三周忌に寄せる句が収載されている。

    悼米翁老君
  聰(さと)き人も耳なし山や呼子鳥  (「こがねのこま」)
    米翁老君の三周に
  高宗が三年(みとせ)ははやし桃李   (「かぢのおと」)
  松山の花のけむりや春の風       (「同上」)

手拭い二.jpg

国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2537594

 「香蝶公」と「杜陵公」の前に、この「雪川公」(松平不味=出雲松江藩の第七代藩主・松平治郷=はるさとの弟)の、上図のものが掲載されている。この手拭いのデザインは、
「雪川」の「雪」を暗示する「白」の部分に着目すると、三本の「白」が「川」に見えるという、粋で洒落たデザインなのである。
「雪川(せつせん)」は俳号で、本名は「衍親(のぶちか)」である。茶人大名として名高い兄の不昧(ふまい)公は雪川のために支藩を作ろうとしたが、臣下に止められ断念したとされている。雪川は諸芸に通じ、特に俳諧に優れ、雪川没後に不昧公により『為楽庵雪川発句集』・『為楽庵俳諧文集』などが刊行されている。
 雪川は、宝暦三年(一七五三)の生まれで、忠以・抱一兄弟よりも年長であるが、忠以は、寛政二年(一七九〇)、三十六歳、そして、雪川は、享和三年(一八〇三)に、五十一歳で夭逝している。
 もう一人、松前藩十三代当主松前道広の弟、松前文京(俳号=泰郷)との、この三人が、当時の吉原の「粋人・道楽子弟の三公子」として、「ときやうさん」(抱一=杜陵=杜龍=とりょう)、「つまさん(駒=子馬)」(雪川=幼名・駒次郎)そして「ぶんきやうさん」(文京=ぶんきょう)と、その名を馳せていたようである。
 さらに、この松前道広の異母兄が、松前藩家老で画家として名高い蠣崎波響(かきざきはきょう)が居る。この蠣崎波響は、京都の円山応挙を始め、岸駒、円山四条派の呉春(月渓)等や、また、木村兼葭堂を通じての、大名家では増山正賢や松浦静山等とも交流があり、江戸の抱一とも知己の関係にある。
 これらの一部については、下記のアドレスで触れている。
 
https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-08-19

 ここで、特記して置きたいことは、「抱一(屠龍)・雪川・泰卿(文京)」の、この三人は、狂歌の世界以上に、俳諧の世界で名を馳せており、「抱一(俳号=屠龍)・文京(俳号=泰卿)」は、江戸座俳諧宗匠存義(馬場氏)を師とし、「雪川」は、一世・二世旨原(小栗氏)を師とし、そして、それぞれが、大和郡山藩主柳沢米翁と深い結び付きを有しているようである。
 さらに、米翁の『美濃守日記』、『宴遊日記』、『松鶴日記』などから、その米翁の俳諧サロンは、伊勢神戸藩主本多清秋、尼崎藩主松平忠告(俳号=亀文)、松代藩主真田菊貫、伊予松山藩主松平定国(俳号=皐禽)、秋田藩江戸留守役佐藤晩得などの大名や上流武家層と結びつき、それらが重層しての一つの大きな俳諧サロンを形成していたのであろう。
 関連して、この伊予松山藩主松平定国(俳号=皐禽)は、寛政の改革を推進する松平定信の実兄であり、天明七年(一七八七)に、定信が老中に就任した時には、定信の家臣を呼び付け、定信の政治方針に異論を唱えるなど、アンチ定信の筆頭格なのである。
 さらに、関連して、この松平定信の寛政の改革により、上記の「たなぐひ合はせの会」の出品者の、「歌舞伎役者の市川団十郎、ご存じ喜多川歌麿、浮世絵師の北尾重政、能役者で戯作者の芝全交、姫路藩主の弟で琳派の酒井抱一、松江藩主の弟・松平雪川、蘭学者の森島中良、煙草屋で戯作者の平秩東作、幕臣で狂歌師の大田南畝」等々が、その手足を封じられたのは、周知の自明のところのものであろう。
 そして、浮世絵師・北尾政演こと、戯作者の、この「たなぐひ合はせの会」のプランナー兼実行者の山東京伝は、定信の、その寛政の改革の、その出版統制により手鎖の処罰を受けたことも、周知の自明のところのものであろう。
 ここで、抱一の前半生と後半生の分岐点となった、寛政二年(一七九〇)、三十歳時の、実兄・忠以が亡くなった当時のことの一端を、『琳派―響きあう美―(河野元昭著)』から下記に抜粋して置きたい。

【 抱一がしばしば点取りのために百韻や二百韻、さらに千句を米翁に寄せ、ともに歌仙を巻いているのに対し、絵画に関する記事が非常に少ないのは、この時期、抱一の主力が俳諧に注がれていたことを示している。米翁の日記によってはじめて知られた事実のうち、もっとも興味深い寛政二年十二月の一条を紹介しておこう。俳人屠龍すなわち抱一の邸に松平雪川・松前泰卿が集まって、いわゆる三公子の揃い踏み、そこに米翁・晩得といった当時の有名俳人が加わって、抱一の得意たるや目に見えるようである。
 八日 晩得より愈々明日屠龍方俳諧に雪川も行るゝ由、消息来る。
 九日 四時半より浜町屠龍邸へ行。供村井
 (以下六名)本郷通り昌平橋、朝日山に休み、お玉が池、新材木町、楽屋新道永楽の門へ寄、留守也。大阪町より、どうかむ堀屠龍門へ入る。晩得・沾山・岩松・神稲来在。初て呑舟に逢ふ。程なく未白、八過雪川来らる。干菓子味噌漬鯛参らす。 
 雪川・屠龍・呑舟・雁々・神稲・沾山・岩松・米木十一吟俳諧
 晩得は点者に定めし故、二階次間に
て予が点の歌仙。七半頃、泰卿来る。
六時駕にて帰る。どうかん堀よりあらめ橋、新材木町より前路を帰る。  】

手拭い三.jpg

国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2537594

 こちらの右側は、山東京伝自身がデザインした手拭いの図柄である。山東京伝の戯作に登場する分身的な人気キャラクターの、獅子鼻(?)の「艶次郎」が、舞台袖から客席をのぞいている。

【 山東京伝はヘンな人だ。江戸にはおかしな人間がいくらでもいるが、これほどの人は、そういるものではない。深川の質屋に生まれ、のちに煙草道具屋をやることになるこの人は、幼いころから文を読むことが好きで十八歳で黄表紙絵師となり、金を使わず遊郭に出入りし、二度までも遊女を妻とした。(中略)京伝はその洒落本を読んでいると、三味線、唄、踊りはもちろん、漢文漢詩古典和歌書画狂歌狂詩はひととおりできるし、ファッションの最前線に敏感、酒好き、デザインの才あり、身のまわりの道具のセンスは行き届いて、浮世絵はプロフェショナル、しかもイヤミな「通人」ではなくして自分をも笑い飛ばし、遊女に陰でおとしめられるような人間ではなくて、やたらともてる。――そのような、醒めた都会人としてのほぼ完璧な像が浮かび上がってくる。(後略)  】(『江戸はネットワーク(田中優子著)』)

 山東京伝は、その分身的な人気キャラクターの、獅子鼻(?)の「艶次郎」の風姿とは真逆に、これぞ、江戸の粋人という色男中の色男なのである。

山東京伝.jpg

鳥橋斎栄里筆『江戸花京橋名取・ 山東京伝』
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middrinn

岡田米仲(本文は「米中」になってます)、
市河米庵と何か関係あるのかと思ったら、
時代が違うので関係なさそうですね^_^;

by middrinn (2019-03-25 18:26) 

yahantei

おはようございます。何時もありがとうございます。鵬斎も魅力がありますが、山東京伝、大田南畝、蔦重など、この時代は、満載ですね。周辺をぐるぐる廻って、なかなか、抱一の「吉原月次風俗図」にたどりつきません。そのうちにお邪魔します。
by yahantei (2019-03-26 08:32) 

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