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「鶴下絵三十六歌仙和歌巻(光悦書・宗達画)」周辺(その十) [光悦・宗達・素庵]

(その十)E図『鶴下絵和歌巻』(その一・素性法師)

鶴下絵和歌巻E図.jpg

E図『鶴下絵和歌巻』(6素性法師 7藤原兼輔)
6素性法師 今来むと言ひしばかりに長月の 有明の月を待ち出つるかな(「撰」「俊」)
7中納言兼輔(藤原兼輔)
みかの原分きて流るる泉川 いつ見きとてか恋しかるらむ(「俊」)
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/meihin/kinsei/item02.html

6素性法師 今来むと言ひしばかりに長月の 有明の月を待ち出つるかな(「撰」「俊」)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/sosei.html

今来むと言ひしばかりに長月の有明の月を待ち出でつるかな(古今691・百人一首21)

【通釈】あの人がすぐ来ようと言ったばかりに、私はこの長月の長夜を待ち続け、とうとう有明の月に出遭ってしまった。
【語釈】◇今来む すぐ行こう。男が言ったこと。待つ女の立場から見て「来む」と言っている。男がこう言った状況については、後朝(きぬぎぬ)の別れの時に言い残して行ったと見る説、夕方に手紙を寄越したと見る説などがある。◇長月 陰暦九月。晩秋。掛詞というわけではないが、秋の夜が「長」い意が響く。◇有明の月 夜遅く出て、明け方の空に白々と残る月。おおよそ陰暦二十日以降の月を言うので、秋も残り少ないことが暗示される。◇待ち出でつるかな 待った挙句、月が出て来るのに会ってしまった、ということ。待ち人に会わずに月に会ってしまった、という面白みがある。
【補記】男の訪問を待つ女の立場で詠まれた歌。女が待たされた期間について、一夜だけと解釈する「一夜説」と、数ヶ月に渡るとする「月来(つきごろ)説」がある。藤原定家は『顕註密勘』に「今こむといひし人を月ごろ待程に、秋もくれ月さへ在明に成ぬとぞよみ侍けん、こよひばかりは猶心づくしならずや」と注しており、その影響あって中世の百人一首注釈書では「月来説」が支持されていた。しかし古今集では「久待恋」でなく「待恋」の歌群に排列されているので一夜説が適当であるとした契沖説(改観抄)以後、一夜説を支持する評者も多い。

「佐竹本三十六歌仙絵(模本)」(素性法師=五番歌)

素性法師一.jpg

画像番号:E0071145 部分:巻上 撮影部位:本紙5(素性法師) 列品番号:A-1602_1
作者:中山養福(模) 時代:江戸時代_19c 数量:1巻 (東京国立博物館蔵)
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0071145

いまこむといひしはかりになかつきのありあけの月をまちいてつるかな(古今691・百人一首21)

「金刀比羅宮扁額三十六歌仙(素性法師)

素性法師二.jpg

狩野探幽画・青蓮院宮尊純親王書「三十六歌仙・素性法師」金刀比羅宮宝物館蔵 】
http://www.konpira.or.jp/museum/houmotsu/treasure_house_2015.html

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/sosei.html

見わたせば柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦なりける(古今56)

【通釈】都をはるかに見渡せば、柳の翠と、桜の白と、交ぜ込んで、さながら春の錦であった。
【補記】錦は秋の紅葉の喩えとするのが常であったが、都の春景こそが錦織物である、と見た。


(追記一)光悦の絵画作品など

光悦・月に兎図扇面.jpg

本阿弥光悦筆「扇面月兎画賛(せんめんげっとがさん)」紙本着色 一幅
一七・三×三六・八㎝ 畠山記念館蔵
【 黒文の「光悦」印を左下に捺し、実態のあまりわかからない光悦の絵画作品のなかで、書も画も唯一、真筆として支持されている作品である。このような黒文印を捺す扇面の例は、同じく「新古今集」から撰歌した十面のセットが知られている。本図のように曲線で画面分割するデザインのもあり、それらとの関係も気になるところである。 】(『もっと知りたい 本阿弥光悦(玉蟲敏子他著)』)

 この画賛の歌は、「袖の上に誰故月ハやどるぞと よそになしても人のとへかし」(『新古今・巻十二・1139)の、藤原秀能の恋の歌のようである。(『創立百年記念特別展 琳派(東京国立博物館編・1972年)』所収「74扇面(本阿弥光悦)」)

赤楽兎文香合.jpg

本阿弥光悦作「赤楽兎文香合(あからくうさぎもんこうごう)」出光美術館蔵
重要文化財 一合 口径八・五㎝
http://idemitsu-museum.or.jp/collection/ceramics/tea/02.php
【寛永三筆と讃えられる本阿弥光悦は、工芸にも優れた作品を残しました。徳川家康より京・鷹ヶ峯の地を拝領して陶芸を始め、楽家二代・常慶、三代・道入の助力を得て作られた楽茶碗がよく知られています。本作は蓋表に白泥と鉄絵で「兎に薄」の意匠が描かれ、文様が施された稀少な光悦作品です。光悦は古田織部から茶の湯の手ほどきを受けており、本作には織部好みといえる、自由な造形が感じられます。茶人大名の松平不昧が旧蔵し、原三渓も所蔵していました。 】

 上記の二点のみが、「光悦の絵」の絵画作品として取り上げられいる全てである(『もっと知りたい 本阿弥光悦(玉蟲敏子他著)』)。
 この他に、本阿弥宗家に伝来されていたとの光悦筆「三十六歌仙図帖」は、現在は所在不明で、これは、整版本の『三十六歌仙』(フリア美術館ほか所蔵)とは別な肉筆画との記述がある(『玉蟲・前掲書』)。

 本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)は、「永禄元年(1558年) - 寛永14年2月3日(1637年2月27日))、江戸時代初期の書家、陶芸家、芸術家。書は寛永の三筆の一人と称され、その書流は光悦流の祖と仰がれる」(『ウィキペディア(Wikipedia)』)と紹介されるが、本業は「刀剣の鑑定・研磨・浄拭(ぬぐい)」が家業で、「書家、陶芸家、芸術家」というよりも、「書・画・陶芸(茶碗)・漆芸(蒔絵)・能楽・茶道・築庭」などに長じた「マルチタレント=多種・多彩・多芸の才能の持ち主」の文化人で、その多種・多彩・多芸の人的ネットワークを駆使して、「マルチ・クリエーター」(多方面の創作活動家)から、さらに、「ゼネラル・アーテスト」(総合芸術家)の世界を切り拓いていった人物というのが、光悦の全体像をとらえる上で適切のように感じられる。
 そして、光悦の人的なネットワークというのは、「相互互恵的・相互研鑽的」な面が濃厚で、例えば、その書は、寛永の三筆(近衛信尹・松花堂昭乗・光悦)そして洛下の三筆(昭乗・光悦・角倉素庵)、その画は、俵屋宗達 陶芸は楽家(常慶・道入)、漆芸は五十嵐家(太兵衛・孫三)、能楽(観世黒雪)、茶道(古田織部・織田有楽斎・小堀遠州)、そして、築庭(小堀遠州)、さらに、和歌(烏丸光広)、古典(角倉素庵)、儒学(角倉素庵・林羅山)等々、際限がなく広がって行く。
 そして、これらの人的なネットワークが結実したものの一つとして、近世初期における出版事業の「嵯峨本」の刊行が挙げられるであろう。この嵯峨本は、当時の日本(京都だけでなく)の三大豪商の「後藤家・茶屋家・角倉家」の一つの「角倉家」の、その角倉素庵が中心になり、そこに、「光悦・宗達」が加わり、さらに、「謡本」の「観世黒雪」そして、公家の「烏丸光広・中院通勝」等々が加わるのであろう。
 ここに、もう一つ、いわゆる、「光悦書・宗達画」の「和歌巻」の世界が展開されて行く。この「和歌巻」の一つが『鶴下絵和歌巻』で、この作品は、単に「光悦書・宗達画」の二人のコラボレーション(協同作品・合作)ではなく、広く「光悦・宗達・素庵」のネットワーク上に結実した総合的なコラボレーション(協同作品・合作)の一つと解したい。

兎桔梗図.jpg

宗達筆・烏丸光広賛「兎桔梗図」一幅 98.5×43.9㎝ 東京国立博物館蔵
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0013569

 この宗達筆の「兎桔梗図」の画賛(和歌)は、烏丸光広が自作の歌を賛しているようである。烏丸光広の歌(『烏丸亜相光弘卿集』)は、下記のアドレスで見ることができる。

http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=XYU1-046-03

(追記二)堂上歌人烏丸光弘と光悦・宗達など

素庵・百人一首.jpg

「小倉山荘色紙形和歌」(国立国会図書館デジタルコレクション)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2532466

上記の書は、烏丸光広の百人一首のもので、右(右の中・下の二枚))から順に、次の三首(「上の句・下の句」の二枚組)が揮毫されている。

「百人一首20」(表記は『百人一首・谷智子著・角川ソフィア文庫』20・21・22)
わびぬれば今はた同じ難波なる みをつくしても逢はむとぞ思ふ (元良親王)
「百人一首21」
今来むと言ひしばかりに長月の 有明の月を待ち出でつるかな (素性法師)
「百人一首22」
吹くからに秋の草木のしほるれば むべ山風をあらしといふらむ (文屋康秀)

 烏丸光広は天正七年(一五七九)の生まれ、光悦は永禄元年(一五五八)生まれで、二人の年齢差は、光悦が二十一歳年長ということになる。宗達の生年は不詳で、光悦より十歳程度若年とすると(『俵屋宗達(古田亮著)』)、永禄十一年(一五六八)の頃の生まれとなる。
 亡くなったのは、光悦が寛永十四年(一六三七・八十歳没)、光広はその翌年の寛永十五年(一六三八・六十歳没)で、宗達は、寛永十九年(一六四二・七十五歳没?)の頃とされている(『古田・前掲書』)。
 光広が、細川幽斎から古今伝授を受けて二条派歌学を究めたのは、慶長八年(一六〇三)の頃とすると(『ウィキペディア(Wikipedia)』)、二十四歳前後で、これに先立つ慶長五年(一六〇〇)から元和元年(一六一五)までの関係者の年譜を、「琳派展関係略年表」(『創立百年記念特別展 琳派(東京国立博物館編・1972年)』所収)などで記すと次のとおりとなる。

慶長五年(一六〇〇)光悦(43)このころ嵯峨本「月の歌和歌巻」書くか。関が原戦い。
☆素庵(30)光悦との親交深まる(「角倉素庵年譜」)。
同六年(一六〇一)光悦(44)このころ「鹿下絵和歌巻」書くか。
同七年(一六〇二)宗達(35?)「平家納経」補修、見返し絵を描くか。
同八年(一六〇三)☆光広(24?)細川幽斎から古今伝授を受ける(『ウィキペディア(Wikipedia)』)。徳川家康征夷大将軍となる。
同九年(一六〇四)☆素庵(34)、林蘿山と出会い、惺窩に紹介する。嵯峨本の刊行始まる(「角倉素庵年譜」)。
同十年(一六〇五)宗達「隆達節小歌巻」描くか。黒雪(39?)後藤庄三郎に謡本を送る。
徳川秀忠将軍となる。
同十一年(一六〇六)光悦(49)「光悦色紙」(11月11日署名あり)。
同十三年(一六〇八)光悦(51)「嵯峨本・伊勢物語」刊行。
同十四年(一六〇九)光悦(52)「嵯峨本・伊勢物語肖聞抄」刊行。☆光広(30?)勅勘を蒙る(猪熊事件)(『ウィキペディア(Wikipedia)』)。
同十五年(一六一〇)光悦(53)「嵯峨本・方丈記」刊行。
同十七年(一六一二)光悦(55)☆光悦、軽い中風を患うか(「光悦略年譜」)。
同十九年(一六一四)近衛信尹没(50)、角倉了以没(61) 大阪冬の陣。
元和元年(一六一五)光悦(58)家康より洛北鷹が峰の地を与えられ以後に光悦町を営む。古田織部自刃(62)、海北友松没(83)。大阪夏の陣。

☆「光悦略年譜」=『光悦 琳派の創始者(河野元昭編)』。「角倉素庵年譜」=『角倉素庵(林屋辰三郎著)』。

 「光悦・宗達・素庵」らのコンビが中心になって取り組んだ「嵯峨本」の刊行や「和歌巻」の制作は、慶長五年(一六〇〇)の「関が原戦い」の頃スタートして、そして、元和元年(一六一五)の「大坂夏の陣」の頃に、そのゴールの状況を呈すると大雑把に見て置きたい。
そして、この「光悦・宗達・素庵」の人的ネットワークの中に、「黒雪・光広」などもその名を列ね、元和元年(一六一五)の、光悦の「洛北鷹が峰(芸術の郷)」の経営のスタートと、元和五年(一六一九)の、素庵の「嵯峨への隠退」(元和七年=一六二一、病症=癩発病)の頃を境にして、「光悦・宗達・素庵」の時代は終わりを告げ、「宗達・光広」、「光悦→光甫」、そして「宗達→宗雪・相説」へと変遷していくと大雑把な時代の把握をして置きたい。
それに加えて、烏丸光広は、堂上派(二条家の歌学派中、細川幽斎以来の古今伝授を受け継いだ公家歌人の系統)の歌人であるが、地下派(堂上派の公家に対して、武士や町人を中心にし、古今伝授や歌道伝授を継受する歌風で、細川幽斎門下の松永貞徳派の歌人が中心となっている)の貞徳(幽斎から事実上「古今伝授」を授かっているが「古今伝授」者とは名乗れない)とは昵懇の間柄で、光広自身、「連歌・狂歌・俳諧・紀行・古筆鑑定」などの多方面のジャンルに精通している。
その書も寛永の三筆(信尹・昭乗・光悦)とならび称され、その書風は光悦流とされているが、「持明院流→ 定家流→ 光悦流→ 光広流」と変遷したとされている(『ウィキペディア(Wikipedia)』)。
 ここで、上記の「小倉山荘色紙形和歌」(百人一首)の、光広の筆跡は、光悦と切磋琢磨した頃の「光悦流」のもので、宗達筆の「兎桔梗図」の画賛(和歌)した光広まの書は、晩年の「光広流」のものと解したい。
 と同時に、光悦の数少ない絵画作品として知られる「扇面月兎画賛」と「赤楽兎文香合」は、宗達と光広のコラボレーションの作品の「兎桔梗図」などに示唆を受けたもので、「宗達・光広」の時代の、晩年の光悦時代にも、「宗達・光広」などとの切磋琢磨は続いていたものと解したい。
 そして、「宗達・素庵・黒雪・光広」等々の、光悦の黄金時代の「嵯峨本・和歌巻」の制作に協同して当たった面々は、光悦よりも一回りも二回りも若い、光悦流の、刀剣で例えれば、「あら身(新身・新刀・新しく鍛えた刀)」(『本阿弥行状記・上巻・四八段』)で、それらを、それぞれに鍛え上げっていった、その人こそ、本阿弥光悦の、その「マルチ・クリエーター」(多方面の創作活動家)にして「ゼネラル・アーテスト」(総合芸術家)たる所以なのであろう。
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