SSブログ

「鶴下絵三十六歌仙和歌巻(光悦書・宗達画)」周辺(その九) [光悦・宗達・素庵]

その九 「D図」(5猿丸大夫)

猿丸大夫・D図.jpg

D図『鶴下絵和歌巻』(5猿丸太夫)
5猿丸太夫 をちこちのたづきも知らぬ山中に おぼつかなくも呼子鳥かな(「撰」「俊」)
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/meihin/kinsei/item02.html

『鶴下絵和歌巻』(一番歌~五番歌)

(一番歌=人丸)
ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れ行く舟をしぞ思ふ
(二番歌=躬恒)
いづくとも春の光は分かなくにまだみ吉野の山は雪降る
(三番歌=家持)
かささぎの渡せる橋に置く霜の白きを見れば夜ぞ更けにける
(四番歌=業平)
月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身一つは元の身にして
(五番歌=猿丸)
をちこちのたづきも知らぬ山中におぼつかなくも呼子鳥かな

https://ameblo.jp/0358rainbow/entry-12299649093.html

をちこちのたづきもしらぬ山中におぼつかなくも呼子鳥かな(<よみ人しらず>古今29)

【通釈】どこがどことも見当のつかない山中で、心もとないさまで人を呼ぶ、呼子鳥であるよ。
【語釈】◇をちこち あそことここ。◇たづき 語源は《手付き》という。手段、手がかり。中世には「たつき」とも。◇おぼつかなくも 「おぼつかなし」は事態がはっきりせず、頼りない気持をあらわす。◇呼子鳥 鳴き声が「子」(人を親しんで呼ぶ称)を呼んでいるように聞える鳥。万葉集にも多く見え、古今伝授の三鳥の一つであるが、どの鳥を指すか不明。その声が「吾子(あこ)」とも聞こえるので、カッコウとする説があるが、カッコウは早春には鳴かないので、古今集の「呼子鳥」には適合しない。動詞「呼ぶ」と掛詞。
【補記】山中深く迷い込み恋しい人を呼ぶように鳴く呼子鳥の声に、不安な感じを覚えている。春の歌ではあるが、恋の趣がこもる。『猿丸集』は詞書なし。古今集ではよみ人しらず。

「佐竹本三十六歌仙絵(模本)」(猿丸大夫=六番歌)

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0071146

佐竹・猿丸大夫.jpg

画像番号:E0071146 部分:巻上 撮影部位:本紙6(猿丸大夫) 列品番号:A-1602_1 作者:中山養福(模)時代:江戸時代_19c 数量:1巻 (東京国立博物館蔵)

6おちこちのたつきもしらぬやま中におほつかなくもよふことりかな(猿丸大夫)
(5 いまこむといひしはかりになかつきのありあけの月をまちいてつるかな・素性法師)

「金刀比羅宮扁額三十六歌仙(猿丸大夫)

猿丸大夫探幽・.jpg

狩野探幽画・青蓮院宮尊純親王書「三十六歌仙・猿丸大夫」金刀比羅宮宝物館蔵 】
http://www.konpira.or.jp/museum/houmotsu/treasure_house_2015.html

奥山に紅葉踏みわけ鳴く鹿の 声きく時ぞ秋は悲しき(百人一首5)
(おく山に紅葉ふみわけなく鹿のこゑきく時ぞ秋はかなしき<よみ人しらず>古今215)

(追記一)「呼子鳥」と「古今伝授」周辺

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-11-08

(追記二)「猿丸大夫」伝説周辺

【「猿丸大夫(さるまるのたいふ / さるまるだゆう)とは、三十六歌仙の一人。生没年不明。「猿丸」は名、大夫とは五位以上の官位を得ている者の称。」
「『古今和歌集』の真名序(漢文の序)には六歌仙のひとりである大友黒主について、『大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次(つぎて)なり』と述べていることから、すくなくとも『古今和歌集』が撰ばれた頃には、それ以前の時代の人物として知られていたものと見られる。」
「山背大兄王の子で聖徳太子の孫とされる弓削王とする説、天武天皇の子弓削皇子とする説や道鏡説、また民間伝承では二荒山神社の神職小野氏の祖である『小野猿丸』とする説など諸説ある。」
「哲学者の梅原猛が『水底の歌-柿本人麻呂論』において、『猿丸太夫=柿本猨(さる)=柿本人麻呂』」の『猿丸太夫=柿本人麻呂』(同人説)を主張している。」 】(『ウィキペディア(Wikipedia)』など)

(追記三)『鶴下絵和歌巻』の「五番歌(猿丸)・六番歌(素性法師)」と「佐竹三十六歌仙」の「五番歌(素性法師)・六番歌(猿丸)」との周辺(メモ)

 『鶴下絵和歌巻』の五番歌(「をちこちのたづきも知らぬ山中におぼつかなくも呼子鳥かな」)は、下記のように、十三行にわたり、余白をたっぷりと取って分かち書きされている。

をち
こち
   の
たつきも
 知らぬ
 山中
   に
おほつか
  なく
   も
よふこ
  とり
  かな

 この『鶴下絵和歌巻』の五番歌は、そのテキストの一つと思われる「「佐竹本三十六歌仙」では、六番歌で、五番歌は、素性法師の「いまこむといひしはかりになかつきのありあけの月をまちいてつるかな」である。
 このことに関して、『宗達絵画の解釈学(林進著・慶文舎刊・2016年)』では、下記のアドレスで触れたとおり、「大きな失敗」の一つとして取り上げている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-02-28

(再掲)

【 『鶴下絵和歌巻』の和歌本文は、大きな失敗を二つ犯している。すなわち(五番左)素性法師と(六番左)猿丸大夫の順番を間違えて揮毫したことだ。これでは、三六人の歌合は成立しない。なぜなら、歌合の番いはすでに決定しているからだ。また、(一八番右)中務の和歌を揮毫し終えて、(一一番右)源重之と(一二番右)源信明朝臣の歌を書き漏らしたことに気づき、最後に、(一〇右)大中臣頼基と(一三番)源順の歌のあいだに、その二首を本紙上部に細字で書き入れたことだ。 】

 これは、揮毫者の「間違えて揮毫した」ものではなく、意識して、「素性法師→猿丸大夫」を「猿丸大夫→素性法師」と順序を入れ替えて揮毫したと解したい。その理由は、先に触れた「百韻連歌」(四折り)の、下記の「初折(一の折)」の山場の「D図」を独り占め(十三行の分かち書き)するには、謎の伝説上の歌人(『古今集』の「真名序」にその名があり、「仮名序」でその名が消えている)猿丸大夫(『古今集』では<よみ人しらず>)の「古今伝授中の三種の鳥『喚<呼>子鳥(よぶこどり)・稲負鳥(いなおおせどり)・百千鳥(ももちどり・<都鳥とも >』」の「呼子鳥」の一首が、この場に最も相応しいと解するからに他ならない。

『鶴下絵和歌巻』の「初折(一の折)」(A図~D図)

鶴下絵和歌巻・一の折.jpg

『鶴下絵和歌巻』(一番歌~五番歌)

(一番歌=人丸)
ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れ行く舟をしぞ思ふ
(二番歌=躬恒)
いづくとも春の光は分かなくにまだみ吉野の山は雪降る
(三番歌=家持)
かささぎの渡せる橋に置く霜の白きを見れば夜ぞ更けにける
(四番歌=業平)
月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身一つは元の身にして
(五番歌=猿丸)
をちこちのたづきも知らぬ山中におぼつかなくも呼子鳥かな

(追記四)『鶴下絵和歌巻』の揮毫者が、「猿丸大夫」好きで、そして、「猿」好きであったら、それは、「本阿弥光悦」かもしれない(仮説メモ)

『本阿弥行状記下巻349』七猿(画:沢庵和尚・書:讃岐中院通純卿)この掛物江州壺井氏珍品なり

つくつくとうき世の中を思ふにはましらさるこそまさるなりけれ
つれなくもいとはさるこそうかりけれ定なき世をゆめと見なから
みきかてもいはてもかなはさるものをうき世の中にましるならひは
何事も見れはこそけにむつかしや見さるにまさることはあらしな
きけはこそ望みもおこれ腹も立きかさるそけにまさるなりけれ
心にはなにはの事を思ふとも人のあしきをいはさるそよき
見すきかすいはさる三ツの猿よりもおもはさるこそまさるなりけれ

http://wadamune.jp/watashi/160108.htm

1.つくづくと浮世の中を思うにはましら猿こそまさるなりけれ
2.つれなくもいとはざるこそうかりけれ定なき世を夢と見ながら
3.見聞かても言わてもかなわざるものを浮世の中にましる習いは
4.何事も見ればこそげにむずかしや見ざるにまさることはあらじな
5.聞けばこそ望みもおこれ腹も立ち聞かざるぞげにまさるなりけれ
6.心には難波の事を思うとも人の悪しきをいわざるぞよき
7.見ず聞かず言わざる三つの猿よりも思はざるこそ勝るなりけれ
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。