SSブログ

鶴下絵三十六歌仙和歌巻(光悦書・宗達画)」周辺(その十四) [光悦・宗達・素庵]

(その十四)G図『鶴下絵和歌巻』(その一・10斎宮女御)

鶴下絵A-E  F-.jpg

「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」(A図~J図)
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/meihin/kinsei/item02.html

https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/meihin/kinsei/item02.html

鶴下絵和歌巻G図.jpg

10徽子(きし)女王(斎宮女御)(G図)
 寝(ね)る夢に現(うつつ)の憂さを忘られて 思ひ慰む程ぞかなしき(「俊」)
(釈文)ぬる夢尓う徒々(?)濃う左も王須ら禮天おもひなぐ左むほど曽ハ可那支 
11藤原敏行朝臣(G図)
  秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞ驚かれぬる(「撰」「俊」)

10女御徽子女王
 ぬる夢にうつつの憂さを忘られて思ひ慰むほどぞはかなき(新古今1383)

歌意は「夢のなかでのみ現実の憂いごとを忘れて、今の己を慰めるとは何とも空しく儚いことだ。」

https://amanokakeru.hatenablog.jp/entry/20180119

「徴子(よしこ)女王は、平安時代中期の皇族、歌人で三十六歌仙の1人。朱雀天皇朝の伊勢斎宮、のち村上天皇女御。この歌は、現実の憂さが夢で慰められることのはかなさを詠んでいる。生きることの哀しさを感じさせる。」

斎宮女御一.jpg

佐竹本三十六歌仙絵(模本)画像番号:E0071150 部分:巻上 撮影部位:本紙10(斎宮女御徽子)列品番号:A-1602_1 作者:中山養福(模)時代:江戸時代_19c数量:1巻
(東京国立博物館蔵)
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0071150

(周辺メモ)

「佐竹本の斎宮女御像は、口覆(くちおおい)をした半顔を中心に花のように広がる衣装の線も美しく、美麗な調度に囲まれている。唯一人の上ヶ畳画像である。(註:「身分の高い斎宮女御徽子のみは繧繝縁(うんげんべり)の上畳(あげだたみ)に座し、背後に屏風、手前に几帳を置いて、格の高さを表している。)」
(「馬場あき子、NHK取材班『秘宝三十六歌仙の流転 絵巻切断』、日本放送出版協会、1984」など)

  野宮に、斎宮の庚申し侍りけるに、松風入夜琴といふ題をよみ侍りける
琴のねに峰の松風かよふらしいづれのをよりしらべそめけむ(拾遺451)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/saiguu.html

【通釈】琴の音に、峰の松風の音が通いあっているらしい。一体この妙なる音色はどの琴の緒から奏で出し、どこの山の尾から響き始めて、ここに相逢ったのだろう。
【語釈】◇斎宮 娘の規子内親王。◇庚申 庚申の晩、徹夜して神仏を祭ること。◇松風入夜琴 松風、夜の琴に入る。唐の詩人李?の詩から採ったもので、正しくは「松声入夜琴」。◇かよふ 琴の音と松風の音が響き合う、交響する。「似通う」意とする説は採らない。◇いづれのをより 「を」は「(山の)尾」「(琴の)緒」の掛詞。もとより琴は作者自身が弾いていると解すべきであろうが、上空で松風の響きと混じり合うために、自分が奏でた音とも聞こえず、「いづれの緒より」と訝しんでいるのである。
【補記】規子内親王は天延三年(975)二月に伊勢斎宮に卜定され、翌年の貞元元年九月、嵯峨の野宮に入ったが、翌月の二十七日が庚申に当たり、源順等が招かれて歌会が催された。その時の題詠。

斎宮女御二.jpg

斎宮女御/竹内宮良尚親王:狩野尚信/慶安元年(1648) 金刀比羅宮宝物館蔵
http://www.konpira.or.jp/museum/houmotsu/treasure_house_2015.html

琴のねに峰の松風かよふらしいづれのをよりしらべそめけむ(拾遺451)

(再掲)『三十六歌仙』(本阿弥光悦書)の「斎宮女御」周辺(メモ)

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288424

斎宮一.jpg

参考A図『三十六歌仙』(斎宮女御)本阿弥光悦書(国立国会図書館デジタルコレクション)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288424
左方(十) 斎宮女御 袖にさへ秋の夕は知られけり消えし浅茅が露をかけつつ

斎宮二.jpg

参考B図『三十六歌仙』(斎宮女御)本阿弥光悦書(フリーア美術館蔵)
https://asia.si.edu/object/FSC-GR-780.97/
斎宮女御 袖にさへ秋の夕は知られけり消えし浅茅が露をかけつつ

斎宮三.jpg

参考C図「三十六歌仙和歌」(斎宮女御)角倉素庵筆(東京国立博物館蔵)
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0067247
斎宮女御 袖にさへ秋の夕は知られけり消えし浅茅が露をかけつつ

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/saiguu.html

  一品資子内親王にあひて、むかしの事ども申しいだしてよみ侍りける
袖にさへ秋の夕べは知られけり消えし浅茅が露をかけつつ(新古778)
【通釈】袖にさえ秋の夕暮はそれと知られます。浅茅の露のように儚く消えてしまわれた帝をお偲びしては、涙を注ぎかけて。
【語釈】◇資子内親王 村上天皇の皇女。母は藤原安子。徽子にとっては父方の従妹にあたる。◇消えし浅茅が露 はかなく逝去された村上天皇を暗示する。と同時に、露には作者自身の涙を暗喩。◇かけつつ (死者を)心にかける意と、袖に涙をかける意を掛ける。
【補記】村上天皇崩御ののちの哀傷歌。

(追記)「佐竹本三十六歌仙絵の所有者変遷」(メモ)

https://blog.goo.ne.jp/ak96/e/dd32e37e4cbddb512f2ffb384285ab97

佐竹本変遷一.jpg

(周辺メモ)

【 事件は大正八年、師走のある寒い日に起きた。信実の三十六歌仙 遂に切売となる。総価は三十七万八千円 最高は「斎宮女御」の四万円 昨日益田氏邸に数寄者四十余名集合して抽選で分配―(大正八年十二月二十一日付「東京朝日新聞」)
 この新聞の記事によれば、秋田の佐竹家に代々伝わっていた三十六歌仙絵巻が売りに出されのだが、あまりの高値に一人でこれを買い取る人がいないため、切断して一枚一枚を切り売りにすることになったのだという。そして、その記事はこう結んでいた。
「あはれ佐竹家の名物も遂に切売の悲運に陥った」 
 大正八年頃の一万円は、今日(注:1984年=昭和五九年当時)の一億円にも相当するといわれる。総価が三十七万八千円―今日でいえば、やはり四十億円近い金額になる。
(中略)
 佐竹本三十六歌仙絵巻が売りに出された大正時代は、まだ現在のような文化財保護法などない時代たった。国が買い取るという動きもおこらず、また、個人で買い切れる人もいなかった。結局、数寄者たちの間で切り売りするにまかせざるを得ないという状況たったのである。
(中略)
 斎宮女御の四万円を筆頭に、総じて女もの歌仙図には高い値段がつけられた。逆に最も安いのは三千円。僧侶や黒装束の男ものの絵などは人気薄を見越して安値がつけられた。また、紀貫之、凡河内躬恒は、後の江戸時代、狩野探幽の補筆になることから低い評価になったという。
(中略)
 あの切断の日から六十四年―バラバラに切り裂かれた三十六枚の歌仙図は、それぞれの流転を繰り返ししてきた。
(中略)
 これまで佐竹本の歌仙図を手にした人は、合わせて百五十人以上にものぼる。この間、関東大震災や度重なる空襲を経験しながら一点も失われることなく、また海外に持ち出されることもなかったのは本当に幸運であったと思う。
 しかし、最後まで所在の確認が難しかったのが、あの益田鈍翁が手にした「斎宮女御」の歌仙図であった。切断にあたって、三十六歌仙中最高の四万円という高値がつけられたこの逸品は、鈍翁なきあとの益田家から、いったいどこに渡っていったのだろうか。
(中略)
やっとつきとめた斎宮の絵の持ち主は、実に思いがけない人物であった。
(中略)
今年八十歳を迎えたその人とは、終戦後、日本を騒がせた大疑獄事件の主人公となった元昭和電工社長の日野原節三さんだったのである。(後略)  】
(「馬場あき子、NHK取材班『秘宝三十六歌仙の流転 絵巻切断』、日本放送出版協会、1984」など)

https://artexhibition.jp/topics/news/20191021-AEJ110010/

佐竹本展覧会一.jpg


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:アート

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。