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「鶴下絵三十六歌仙和歌巻(光悦書・宗達画)」周辺(その十三) [光悦・宗達・素庵]

(その十三)F図『鶴下絵和歌巻』(その二・9源公忠)

鶴下絵F図.jpg

8権中納言敦忠(藤原敦忠) 身にしみて思ふ心の年経(ふ)れば 遂に色にも出でぬべきかな(「俊」)
9源公忠朝臣  行きやらで山路暮らしつほととぎす 今一声の聞かまほしさに(「撰」「俊」)
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/meihin/kinsei/item02.html

9源公忠朝臣  行きやらで山路暮らしつほととぎす 今一声の聞かまほしさに(「撰」「俊」)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kintada.html

北宮の裳着(もぎ)の屏風に
ゆきやらで山路くらしつほととぎす今ひと声のきかまほしさに(拾遺106)

【通釈】行きすぎることができずに、山道で日を暮らしてしまった。時鳥のもう一声を聞きたさに。
【補記】詞書の「北宮」は醍醐天皇第十四皇女康子内親王(藤原師輔室)。

源公忠一.jpg

『三十六歌仙』(源公忠)本阿弥光悦書(国立国会図書館デジタルコレクション)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288424

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kintada.html

  延喜御時、南殿に散りつみて侍りける花を見て
とのもりのとものみやつこ心あらばこの春ばかり朝清めすな(拾遺1055)

【通釈】殿守の伴の御奴よ、風流の心を解するならば、暮れようとするこの春の日々ばかりは朝の庭の清掃をしないでくれ。
【語釈】◇南殿 紫宸殿。◇殿守 主殿寮。宮中の清掃などを管理する役所。◇伴のみやつこ 伴の御奴。下級官人。◇この春ばかり 残ったこの春の日々ばかりは。
【補記】散った桜の花びらを掃除するなと言っている。

源公忠二.jpg

【狩野尚信画・竹内宮良尚親王書「三十六歌仙・源公忠」金刀比羅宮宝物館蔵 】
http://www.konpira.or.jp/museum/houmotsu/treasure_house_2015.html

ゆきやらで山路くらしつほととぎす今ひと声のきかまほしさに(拾遺106)

(追記一)「鷹ヶ峰の光悦」関連メモ(その二)

鷹ケ峰.jpg

(『もっと知りたい 本阿弥光悦 玉蟲敏子他著』)

【 光悦村の主な住人」 (通り町筋東側・北より)
在所 口二十間   本阿弥 又次郎    宗家
   同上      同上 宗知     光悦の弟
   同上      同上 彌市     光味:従兄弟
   同上      同上 光瑳     養嫡子
   同六十間    同上 光悦
   同 五間    同上 孫助     一族
   同十五間    同上 宗珠     一族
   口二十間    土田 了左衛門   蒔絵師
   同上      本阿弥 光栄    宗家:九代目光徳の子 
   同十五間    同上  喜了    宗家
   同 九間    同上  光栄    宗家
   同二十間    同上  光益    宗家: 九代目光徳の子 
   同 五間     仁左衛門 
   同 四間     九郎右衛門
            (通り町筋西側・北より)
   同十八間     くぼう 常清 
   同十二間         宗壽
   同 六間        仁兵衛
   同二十間    茶屋 四郎次郎 豪商(本阿弥家姻族)
   同上       尾形 宗伯 呉服商・書家(本阿弥家姻族:尾形光琳の祖父)
   同上       むめたに道安  (金工・象嵌細工師:埋忠道安?)
   同 九間     蓮池 常有   (唐織屋:俵屋宗達の縁者?)
   同上         孫右衛門
   同十五間       そたに宗右衛門
   同二十六間      土田 宗澤    蒔絵師
   同十五間       筆屋 妙喜   筆師
   同上         紙屋 宗仁   紙師・経師
   同上        本阿弥 光伯   光昧の子
   同六間           久右衛門
   同上            次兵衛
   同五間           名助
   同六間           伊右衛門
   同五間           與右衛門
   同六間           次郎三郎
   同五間           助右衛門
   同十五間      本阿弥 光甫   光悦の孫(光瑳の子)
( 西の道筋北側・西より ) 
同二十間       本阿弥 三郎兵衛 叔父:八代目光刹
   同十五間       同上  一郎兵衛  叔父:光意 
   卍 ・いはい所   光悦寺
  同 六間       大工   次兵衛
  同 十五間      同上   久右衛門
              ( 西の道筋南側・西より )
  同 十三間      本阿弥  十郎兵衛  叔父
  同 十五間       秋ば  多兵衛
  同  五間           與兵衛
  口  源兵衛
  同上              與右衛門
  同上              助右衛門
  同上              平右衛門
  口六間             道賀
  口五間             六兵衛
  口九間             かめ
  口十間             新介
  口六間             かめ
  口八間
  口十五間            藤十郎
  口十間        たいあみ 八郎右衛門
  口十五間       たいあみ 道有    
  卍          源光院
  卍          常照寺            】(『本阿弥行状記と光悦・正木篤三著・中央公論美術出版』)など

(追記二)「鷹ヶ峰の光悦」関連メモ(その三)

 『本阿弥行状記』(『本阿弥行状記と光悦・正木篤三著』)の「鷹ヶ峰拝領」の段は、次のところである。

【上巻51段】光悦と「家康・家光」「京都の豪商・角倉家と茶屋四郎二郎」「京都所司代・板倉周防守」などの関係並びに「光悦の東下」など(「光悦に御屋敷を被下候事・・・」)

 光悦に御屋敷を被下候事(注・家康が光悦に鷹峯に御屋敷を与えたこと)は其故なきにしもあらず。光悦が父光二と申もの、刀脇指の目利細工竝もなき名人ゆゑ、諸大名国々へ御召寄候で国中の刀脇指を御見せなされし也。駿河国今川殿へ参り、久しく滞留いたし候事あり。其ころ権現様(注・家康)御幼少にて竹千代様と申奉りし御時、するがに御座被成けるが、光二が細工仕候をいつも御覧なされ、御小刀などとぎ候てさし上、御膳を被召候御相伴を被仰付、(中略) 古きむかしの事を思召出され候故にや、毎度光悦が儀を御尋被成候よし、松平右衛門太夫殿御申候。
 角倉(注・京都の豪商、角倉了以・素庵の「角倉家」)に被仰付、高麗筆、唐墨など度々拝領仕、又中風気(注・光悦の軽い中風気)にて手ふるひ候と御聞に達し候へば、茶屋四郎二郎(京都の豪商「茶屋」家)承りにて烏犀圓(佐賀藩の名薬)を度々拝領、難有仕合どもにて御座候。(中略) 台徳院様(注・二代将軍徳川秀忠の法名)、大猷院様(注・三代将軍徳川家光の法名)、厳有院様(四代将軍徳川家綱の法名)御代に光甫(光悦の孫)御目見仕り冥加に相叶ひ申候。
 又、台徳院様の御代寛永二年霜月(注・十二月)二十六日に本阿弥光室(十代宗家当主)儀御城御前にて中風煩ひ出し、土井大炊守殿(老中・大老)手を御引被成御玄関迄御出候て、御玄関前より乗物に御のせ、石町一丁目の宿へ御かへし候。(中略)
 右之趣京、都へ聞えければ、倅又三郎若輩ゆゑ跡目の事光悦こゝろ元なく存じ、板倉周防守殿(京都所司代)より大炊守殿への御状を申請、十二月中旬京を発足、同二十七日直に大炊守殿へ来りければ、寒気の時分大儀に存ずる。休息仕り候へと仰られ、御登城被成暮がた御宿に帰らせられ、下りし事言上被成候へば、御逢可被成との上意なり。献上物仕度仕来り候かと被仰ける。光悦申けるは、御目見申上候事は中々存じ候ゆゑ、何の用意も無御座候と申ければ、色紙をさし上然るべしと被仰ける。光悦申上候は差上候程の色紙有合も無御座候と申上ければ、先年御貰ひ候色紙有之間、まづ是を御貸可被成候間、献上いたししかるべしと被仰、御さし図にまかせ明日二十八日に御目見仕ける。寒き時分大儀に下り候、光室が事はやく相果惜しく不便に被思召候まゝ、又三郎を跡目に被仰付候間気遣ひ有間敷、光悦は年寄て、座敷にてもよろよろと致すべきと思召つるに達者にて御悦被思召候。いよいよ養生いたし長生仕候へ、天下の重宝と仰られ、有がたき上意を蒙り、罷立候。(以下略)

 これに続く、【上巻52段】が、「鷹峰拝領」(その二)の記録である。

【上巻52段】家康よりの「鷹峰拝領」関連のことなど(「権現様大坂御帰陣の御時・・・)

 権現様大坂御帰陣の御時板倉伊賀守殿に御尋ね被候事は、本阿弥光悦は何としたるぞと仰せ有ける。存命に罷在候。異風者(注・変わり者)にて、京都に居あき申候間、辺土に住居仕度(つかまつりたき)よしを被申上ければ、近江丹波などより京都への道に、用心あしき、辻切追はぎもする所あるべし。左様の所をひろびろと取らせ候へ、在所をも取立べきもの也との上意なり。此旨還御の後伊賀守殿より被仰渡、忝(かたじけなき)仕合に存じ奉る也。其拝領の地は鷹が峰の麓なり。東西二百間余り、南北七町の原なり。清水の流れ出る所を光悦が住居と定む。道春(注・林蘿山の僧号)記をかけり。其外を数々にわけて、一類(注・一族)、朋友、ひさしくめしつかひし者どもまでに銘々分ちとらせける。(以下略)

【 以上は、光悦の子孫の手になる『本阿弥行状記』のなかにしるされている鷹が峯拝領のくだりであるが、それは、言葉の厳密な意味において、鷹が峯の拝領ではなく、鷹が峯への追放であるまいか。むろん、天下泰平の江戸時代に生きていた光悦の子孫は、家康を「権現様」と崇め、ついでに脇差しをといで差しあげたという、先祖の一人のかれに対するささやかな奉仕を忘れずに、光悦に広大な土地をたまわった「権現様」の気前のよさを有難がっている。しかし、たえず盗賊の出没するような危険な土地への移住を強いられた光悦自身にとっては、家康の贈り物は、むしろ、有難迷惑だったのではなかろうか。にもかかわらず、光悦は、べつだん、ためらうこともなく、本阿弥一族や出入りの工人たちを引き連れて、鷹が峯へ乗りこみ、私財を投じて、新しい村をつくった。(中略)
 鷹が峯へ移った元和元年は、かれの五十八歳のころのことであって、もはやかれは、家康の善意がじつは善意の仮面をかぶった悪意以外のなにものでもないことに気が付かないほど、若くはなかった。なぜ光悦は、家康の投げた手袋を敢然とひろいあげ、狸おやじの挑戦に応じたのであろうか。善意にしろ、悪意にしろ、さらにまた、盗賊の出没するような土地にしろ、土地は、やはり、土地であって、くれるというのなら、遠慮せずにもらって置こう、といったようないい加減の考えかたほど、光悦にとって無縁のものはない。本阿弥家は、六代目の本光が、日親上人の感化を受けて、熱烈な法華宗の信徒になって以来、物をもらうばあいにも、物をほどこすばあいにも、人一倍、神経をつかう、固法華(かたほっけ)の当主たちによって受けつがれてきた。したがって、かならずや光悦もまた、子供のころから、日親ゆずりの「不受不施の思想」を、徹底的にたたきこまれていたにちがいない。一言にしていえば、不受とは、法華宗以外の信者からは物をもらわないということであり、不施とは、法華宗以外の僧侶には物をほどこさないということである。(中略)
光悦は、鷹が峯の土地をもらったばかりでない。寛永四年(一六二七)、七十歳の光悦は、鷹が峯の一隅に常照寺を創立し、日乾(にっけん)を招いて住職にした。日乾は、翌年、関東において、将軍秀忠の妻の葬式のお布施をもらうとか、もらわないとかといったようないつもの問題で、不受不施派の本門寺の日樹と、受不施派の身延山主の日暹(にっせん)とのあいだにはげしい宗論がおこったさい、身延山がわを助けて堂々の論陣をはり、ついに幕府の力を借りて、不受不施派の追放に成功した、悪名高い傑物である。といって―だからといって、わたしは、ただちに、光悦もまた、受不施派の一人だったと断ずるものではない。ただ、かれは、殉教を覚悟の不受不施派が、お布施を気にして宗団内部の反対派の折伏にばかり熱中する結果、しだいに視野が狭くなり、いつか現実から遊離してしまうのを残念におもっていたことであろう。
 かれらには、日蓮にあった転形期を生きつつあるのだという強烈な自覚や、そこからうまれるするどい危機感など、薬にしたくともないのである。しかし、ひるがえって考えるならば、鷹が峯の土地に関するかぎり、あたえたものよりも、もらったもののほうが、役者が一枚上だったといわなければならない。家康の嫌がらせにあたえた不毛の土地を、光悦は、またたくまに桃源郷に変え、そこを根拠地にして、芸術の共同制作に乗りだした。家康は舌をまいた。そして、こんどは本当に好意から、たびたび、高麗筆や唐墨などを、角倉了以に託して、光悦に贈った。しかし、相手は、はかばかしい反応を示さなかった。お返しに、色紙一枚よこす気配さえなかった。家康は、くやしがって、「そろそろ、本阿弥めも、くたびれが出て、ヨイヨイになる年ごろだわ。」といった。そして、意地悪じじいの本来の面目を発揮して、茶屋四郎次郎に託し、「うさいえん」という中風によく利く薬を光悦に贈った。だが、光悦は、家康の死後、二十年以上も生きのび、八十歳で死んだ。幕府が、内乱や外寇におそれをなして、鎖国に踏みきった二年前のことである。  】
(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦(中央公論社)』所収「鷹が峯拝領顛末記(花田清輝稿)

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