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「鹿下絵新古今和歌巻」逍遥(その十五) [光悦・宗達・素庵]

その十五  藤原家隆朝臣

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「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の八「藤原家隆朝臣・藤原有家」)」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)
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「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(俊成女・家隆)」(MOA美術館蔵)
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「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(家隆)」(MOA美術館蔵)

15 藤原家隆朝臣:有明の月待宿の袖の上に人だのめなるよゐの稲妻(MOA美術館蔵)
(釈文)守覚法親王五十首う多よま世侍介る尓
    藤原家隆朝臣 
有明濃月待宿乃袖の上尓人多のめなるよ井乃稲妻

(「藤原家隆」周辺メモ)

   守覚法親王、五十首歌よませ侍りけるに
有明の月待つ宿の袖の上に人だのめなる宵の稲妻(「新古今」376)
(歌意:夜明けの月を待っている宿のわたしの袖の上に、光を投げかけて、月の光かとそら頼みさせる、宵の稲妻よ。)(『日本古典文学全集26新古今和歌集(校注・訳 峯村文人)』)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/ietaka_t.html

藤原家隆 保元三~嘉禎三(1158-1237)

 良門流正二位権中納言清隆(白河院の近臣)の孫。正二位権中納言光隆の息子。兼輔の末裔であり、紫式部の祖父雅正の八代孫にあたる。母は太皇太后宮亮藤原実兼女(公卿補任)。但し尊卑分脈は母を参議藤原信通女とする。兄に雅隆がいる。子の隆祐・土御門院小宰相も著名歌人。寂蓮の聟となり、共に俊成の門弟になったという(井蛙抄)。
 安元元年(1175)、叙爵。同二年、侍従。阿波介・越中守を兼任したのち、建久四年(1193)正月、侍従を辞し、正五位下に叙される。同九年正月、上総介に遷る。正治三年(1201)正月、従四位下に昇り、元久二年(1205)正月、さらに従四位上に進む。同三年正月、宮内卿に任ぜられる。建保四年(1216)正月、従三位。承久二年(1220)三月、宮内卿を止め、正三位。嘉禎元年(1235)九月、従二位。同二年十二月二十三日、病により出家。法号は仏性。出家後は摂津四天王寺に入る。翌年四月九日、四天王寺別院で薨去。八十歳。

 家隆卿は、若かりし折はきこえざりしが、建久のころほひより、殊に名誉もいできたりき。哥になりかへりたるさまに、かひがひしく、秀哥ども詠み集めたる多さ、誰にもすぐまさりたり。たけもあり、心もめづらしく見ゆ」(後鳥羽院御口伝)。

 「風体たけたかく、やさしく艶あるさまにて、また昔おもひ出でらるるふしも侍り。末の世にありがたき程の事にや」(続歌仙落書)。

 「かの卿(引用者注:家隆のこと)、非重代の身なれども、よみくち、世のおぼえ人にすぐれて、新古今の撰者に加はり、重代の達者定家卿につがひてその名をのこせる、いみじき事なり。まことにや、後鳥羽院はじめて歌の道御沙汰ありける比、後京極殿(引用者注:九条良経を指す)に申し合せまゐらせられける時、かの殿奏せさせ給ひけるは、『家隆は末代の人丸にて候ふなり。彼が歌をまなばせ給ふべし』と申させ給ひける」(古今著聞集)。

 「家隆は詞ききて颯々としたる風骨をよまれし也。定家も執しおもはれけるにや、新勅撰には家隆の哥をおほく入れられ侍れば、家隆の集のやう也。但少し亡室の躰有て、子孫の久しかるまじき哥ざま也とて、おそれ給ひし也」(正徹物語)。

 「妖艷の彩を洗い落とした後の冷やかな覚醒、鬼拉の技の入り込む隙もない端正なしかもただならぬ詩法、それは俊成を師とした彼と、俊成を父とした定家の相肖つつ相分つ微妙な特質であった」(塚本邦雄『藤原俊成・藤原良経』)。


「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥ノート(その十三)

 ここから、鹿が描かれていない、和歌の揮毫だけの、藤原家隆と藤原有家との二首が続く。この家隆と有家とも、『新古今和歌集』の撰者である。

 後鳥羽院は、建仁元年(一二〇一)七月二十八日、「和歌所」を設置し、「寄人(よりうど)」(職員)として、「左大臣藤原良経・内大臣源通親・天台座主慈円・釈阿入道(藤原俊成)・源通具・藤原有家・藤原定家・藤原家隆・藤原雅経・源具親・寂連の十一名を任命し(後に、藤原隆信・鴨長明・藤原秀能と藤原清範(異説あり)が追加される)、その「開闔(かいこう)」(書記役)として、源家長が任命された。
 そして、十一月三日、その十一名の寄人のうち、「源通具・藤原有家・藤原定家・藤原家隆・藤原雅経・寂蓮」の六名に対して、上古以来の和歌を撰進せよという院宣が下され、寂蓮は、翌、建仁二年(一二〇二)七月に没しているので、撰進は寂蓮を除いた五名の撰者によって実施された。

 ここで、十一名の寄人を寸描的な評言で見ていくと、次のとおりである。

藤原良経→「左大臣」(朝廷の最高機関、太政官の長官で、太政大臣の次、右大臣の上。)

源通親→「内大臣」(初めは名誉称号であったが、のち、左右大臣を補佐し、権限は左右大臣に準ずる。)

慈円→「天台座主」(天台宗の総本山である比叡山延暦寺の貫主(住職)で、天台宗の諸末寺を総監する役職。)藤原忠通の子、九条兼実の弟、良経の叔父。

藤原俊成(釈阿)→九条兼実等が支援する「御子左家」の総帥。西行と双璧の大歌人。

藤原有家→「御子左家」と相対立する「六条藤家」に連なる歌人。俊成・定家とも親しい。

藤原定家→「御子左家」の俊成の子。父の指導を受けながら後鳥羽院歌壇で活躍。「新古今和歌集」「新勅撰和歌集」の撰者となり、「小倉百人一首」も撰した。

藤原家隆→藤原定家と双璧の後鳥羽院歌壇の二大歌人。後鳥羽院と定家間には、晩年大きな確執があったが、家隆は、終始、後鳥羽院側にあった。

藤原雅経→蹴鞠の名手で「飛鳥井流」の一派を開き鎌倉に招かれていたが、後鳥羽院の懇望により帰朝し、俊成門だが後鳥羽院側近の歌人。

源具親→「内大臣」源通親の継嗣。「御子左家」俊成卿女の夫であったが、後に離別し、後鳥羽院歌壇にあっては、父の「通親」の名代を引き継いでいる。

寂連→俊成の養子、定家誕生に際し家督を譲り出家。諸国を行脚、歌道に精進し、「御子左家」の中心的歌人として活躍した。

 以上(有家から寂連まで)が、『新古今和歌集』の撰者である。

源具親→後鳥羽院の秘蔵子の女流歌人「宮内卿」の兄。鎌倉幕府二代執権・北条義時の三男・北条重時の娘を妻としている後鳥羽院側近の歌人の一人。

 以下(「藤原隆信・鴨長明・藤原秀能・藤原清範」の追加寄人)は、本来は続けるべきであろうが、ここでは略し、以後、必要な個所で触れていきたい。

 そして、藤原家隆については、この「鹿下絵和歌巻」のゴール地点(最終箇所)で、「西行・俊成そして定家・家隆」のような関連で再度言及して行きたい。
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「定家・家隆」周辺のデータは、沢山あるが、「通親→通具・通光」関連になると、どうにも、データ不足の感じでなくもない。そして、ややこっしいのは、「九条兼実と源通親」との確執の「建久七年の政変」などが加わると、どうにも厄介である。しかし、それらのキィーポイントは、何やら、「源平盛衰記」と「後鳥羽院」との、この二者の「せめぎあい」ということで、これは、避けて通れないなのかも知れない。
by お名前(必須) (2020-06-01 17:21) 

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上記で、源通親の継嗣(嫡男)は、二男通具(堀川家の祖)ではなく、三男通光(久我家の祖)が正しいようである。「家隆→有家→通光」で、次の次が「通具」の順序となっている。この『新古今和歌集』の配列順は絶妙である。
 これらの歌の揮毫者・光悦は、それらのことについても熟知していたのかも知れない。
by お名前(必須) (2020-06-02 16:10) 

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次の次が「通具」の順序となっている。

これは、誤記。

「通光」が正しい。
by お名前(必須) (2020-06-02 16:12) 

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