SSブログ

「鹿下絵新古今和歌巻」逍遥(その十六) [光悦・宗達・素庵]

その十六  藤原有家

鹿下絵七.JPG
「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の八「藤原家隆・藤原有家」)」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)

鹿下絵(有家).jpg
「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(有家)」(個人蔵)

16 藤原有家:かぜ渡るあさぢがすゑの露にだにやどりもはてぬよゐのいなづま(個人蔵)
(釈文)摂政太政大臣家 百首哥合尓
    藤原有家朝臣
可勢渡る安左知可須ゑ濃露尓多に屋ど里も者天怒るよゐ濃い那徒満

(「藤原有家」周辺メモ)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/ariie.html

   摂政太政大臣家百首歌合に
風わたるあさぢがすゑの露にだにやどりもはてぬよひの稲妻(新古377)

【通釈】浅茅の生える荒野を、風が吹きわたる宵――稲妻が閃き、茅(ちがや)の葉末の露にその光を宿した……と思う間もなく、露はこぼれ落ちてしまうのだ。
【語釈】◇やどりもはてぬ 宿りおおせることができない。「やどり」は「よひ」と縁語になる。

藤原有家 久寿二~建保四(1155-1216)

 六条藤家従三位重家の子。母は中納言藤原家成女。清輔・顕昭・頼輔・季経らの甥。経家・顕家の弟。保季の兄。子には従五位下散位有季・僧公縁ら。
 仁安二年(1167)、初叙。承安二年(1172)、相模権守。治承二年(1178)、少納言。同三年、讃岐権守を兼ねる。同四年(1180)、有家と改名。元暦元年(1184)、少納言を辞し、従四位下に叙せられる。建久三年(1192)、従四位上。同七年、中務権大輔。正治元年(1199)、大輔を辞し、正四位下。建仁二年(1202)、大蔵卿。承元二年(1208)、従三位。建保三年(1215)二月、出家。法名、寂印。翌年の四月十一日、薨ず。
 文治二年(1186)の吉田経房主催の歌合、建久元年(1190)の花月百首、建久二年(1191)の若宮社歌合、建久四年(1193)頃の六百番歌合、建久九年(1198)の守覚法親王家五十首に出詠。後鳥羽院歌壇でも主要歌人の一人として遇され、建仁元年(1201)の新宮撰歌合・千五百番歌合、建仁二年(1202)の水無瀬恋十五首歌合、元久元年(1204)の春日社歌合、承元元年(1207)の最勝四天王院和歌などに出詠した。順徳天皇の建暦三年(1213)内裏歌合、建保二年(1214)の歌合などにも参加している。
 建仁元年(1201)、和歌所寄人となり、新古今集撰者となる。六条家の出身ながら御子左家(みこひだりけ)に親近した。

(六条藤家系図)

六条藤家系図.jpg

(御子左家系図)

御子左家系図.jpg

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥ノート(その十四)

 『新古今和歌集』の撰者(六名)の、入集歌数の多い順から見て行くと、「定家(四十六首)→家隆(四十三首)→寂蓮(三十五首)→雅経(二十二首)→有家(十九首)→通具(十七首)」の順となる。
 上記の「六条藤家系図」には、「有家(顕季→顕輔→重家→有家)」、「御子左家系図」には、「定家(俊成→定家)」が出てくる。寂蓮は俊成の養子で、上記の「御子左家系図」の定家の脇に記載されるべき歌人であろう。
 家隆は、俊成門で「御子左家」に近い歌人であるが、後鳥羽院歌壇にあっては御子左家=定家」と双璧をなす歌人と理解したい。同様に、雅経も俊成門の歌人というよりも、後鳥羽院の側近歌人で、「飛鳥井家」(蹴鞠と歌道)の祖と目されている歌人ということになろう。
 そして、通具は、時の左大臣(藤原=九条良経)と右大臣(近衛家実)とを束ねている最高実力者(土御門内大臣)源通親の継嗣(次男)で、定家が、「御子左家」総帥・藤原俊成(釈阿)の名代とすると、源通親の名代ということになろう。と同時に、道親の歌道の師は、六条(藤原)季経で、上記の「六条藤家系図」の「顕季」の子(有家の叔父)に当たり、「通親→通具」は「六条藤家」系の歌人ということになろう。
 ここで、「六条藤家」有家の、『新古今和歌集』の入集句の幾つかを挙げて置きたい。

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/ariie.html

   土御門内大臣の家に、梅香留袖といふ事をよみ侍りけるに
ちりぬれば匂ひばかりを梅の花ありとや袖に春かぜの吹く(新古53)

【通釈】散ってしまったので、今はもう匂いが残っているばかりなのに。梅の花びらがまだここにあると思ってか、私の袖に春風が吹いてくる。
【語釈】◇梅香留袖 梅の香、袖に留まる。
【補記】飽くまでも梅の花を散らそうとする心を持っているかのように、春風を擬人化している。
【補記】建仁元年(1201)三月十六日、通親亭影供歌合。三番右負。

   千五百番歌合に
あさ日かげにほへる山の桜花つれなく消えぬ雪かとぞ見る(新古98)

【通釈】朝日があたり、まばゆく照り映えている、山の桜。それを私は、平然と消えずにいる雪かと思って見るのだ。
【語釈】◇つれなく消えぬ 形容詞「つれなし」の原義は「然るべき反応がない」。雪は陽に当たれば消えるのが当然なのに、平然と消えずにいる、ということ。
【補記】「千五百番歌合」巻三、二百二十一番左持。俊成の判詞は「『あさひかげ』とおき、『つれなくきえぬ』と見ゆらむ風情いとをかしく侍るべし」。

   摂政太政大臣家百首歌合に
風わたるあさぢがすゑの露にだにやどりもはてぬよひの稲妻(新古377)

【通釈】浅茅の生える荒野を、風が吹きわたる宵――稲妻が閃き、茅(ちがや)の葉末の露にその光を宿した……と思う間もなく、露はこぼれ落ちてしまうのだ。
【語釈】◇やどりもはてぬ 宿りおおせることができない。「やどり」は「よひ」と縁語になる。
【補記】「六百番歌合」秋上、十八番左勝。

   同じ家にて、所の名をさぐりて冬歌よませ侍りけるに、伏見の里の雪を
夢かよふ道さへたえぬ呉竹のふしみの里の雪の下をれ(新古673)

【通釈】雪によって道が閉ざされてしまったが、その上、夢の往き来する道さえ途絶えてしまった。伏見の里で寝る夜、竹が雪の重さで折れる音に、眠りを破られて。
【語釈】◇同じ家 新古今集の一つ前の歌の詞書にある「摂政太政大臣」の家を指す。藤原(九条)良経家。◇所の名をさぐりて 籖(くじ)などで地名(歌枕)を選んで。◇ふしみ 京都の伏見。「臥し見」を掛ける。◇呉竹の 竹の節(ふし)に掛けて伏見を導く枕詞。◇雪の下をれ 雪の重みで枝が根もとの方から折れること。

   摂政太政大臣家に百首歌合し侍りけるに
さらでだに恨みんと思ふわぎも子が衣のすそに秋風ぞ吹く(新古1305)

【通釈】そうでなくても恨み言を言いたいと思っているあの子の衣の裾に、秋風が吹いて、衣の裏を見せる。私にすっかり飽きて、「裏見よ」と言っているみたいに。
【語釈】◇恨みん 衣の縁語「裏見」を掛ける。◇秋風 秋に飽きを掛ける。
【補記】「六百番歌合」恋六、寄風恋。十八番左勝。

   水無瀬の恋十五首の歌合に
物思はでただおほかたの露にだにぬるればぬるる秋のたもとを(新古1314)

【通釈】物思いをしなくても、秋は露っぽい季節なのだから、濡れるというなら、ちょっとそこいらの露にだって濡れる秋の袂なのに。まして恋をしている私の袂ときたら…。涙よ、そんなに濡らさなくてもいいだろう。
【語釈】◇ただおほかたの 単に普通の。全くありふれた。
【補記】建仁二年(1202)九月十三日、「水無瀬恋十五首歌合」。題は秋恋。十四番右勝。

   千五百番歌合に
春の雨のあまねき御代をたのむかな霜にかれゆく草葉もらすな(新古1478)

【通釈】春の雨が大地をあまねく潤すように、余すところなく恵みをたまわる御代に、おすがりしております。どうか、霜に枯れてゆく草葉のような私も、見落とすことなくご慈悲を下さい。
【語釈】◇御代 天皇の治める世。この場合、具体的には後鳥羽上皇の治世を指す。
【補記】千五百番歌合、千四百三十六番左勝。
nice!(1)  コメント(4) 
共通テーマ:アート

nice! 1

コメント 4

yahantei

「六条藤家」と「土御門内大臣」(源通親)との関係というのは、その実態は、よく分からない。通親は、「和歌を六条季経に学び」(『日本古典文学全集26新古今和歌集(峯村文人校注・訳)』)とあるが、『新古今和歌集』の編纂の頃には、「御子左家」(俊成・定家)に対して、「六条藤家」(通親・通具、そして、有家)という意識もあったのだろうか(?) この通親は、歌人としても、『新古今和歌集』に、六首入集しており、それらを見ただけでも、政敵の「九条兼実」(そして、その後継者の「藤原=九条良経)を背景として「御子左家」に対して、「和歌所寄人」の一人として、「六条藤家」の「藤原有家と源通具(通親の二男)」を、通親自身が描いていたのかどうかは、「鹿下絵和歌巻」に関係していると思われる「光悦・宗達・素庵」の背景にあるように思われる。 
by yahantei (2020-06-02 17:12) 

yahantei

上記をアップしていて、読み返すと、例えば、

『新古今和歌集』の入集句の幾つかを挙げて置きたい。

「入集句」ではなく「入集歌」の誤記。

しかし、「俳諧・連句・俳句・川柳?」(「句」の世界)は「歌=和歌・連歌・短歌・狂歌?」(「歌」の世界))の一支流であること、即、「和歌の前の平等」(憲法十四条?)というのを、思い知る感じ(?)でなくもない(戯言)。

by yahantei (2020-06-02 17:29) 

yahantei

政敵の「九条兼実」(そして、その後継者の「藤原=九条良経)を背景として「御子左家」に対して、「和歌所寄人」の一人として、「六条藤家」の「藤原有家と源通具(通親の二男)」を、通親自身が描いていたのかどうかは、「鹿下絵和歌巻」に関係していると思われる「光悦・宗達・素庵」の背景にあるように思われる。

その後継者の「藤原=九条良経)を背景として「御子左家」に対し

この「後継者」も「支援している」の誤記。

しかし、枝葉末節の「言葉尻り」は兎に角として、大筋は、「鹿下絵和歌巻」の、そのバックグランドであることは、何となく、伝わってくる。
by yahantei (2020-06-02 17:51) 

yahantei

そして、つくづく、これらの「鹿下絵和歌巻」(「諸家分蔵」・後半は「シアトル美術館蔵」)の主たる作者(本阿弥光悦の「書・画・陶・蒔絵・「鷹が峰=宗教と芸術の里」の生みの親=コーディネーター+???)の、その一端に触れたいという思いがする。
by yahantei (2020-06-02 18:15) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。