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「鹿下絵新古今和歌巻」逍遥(その十七) [光悦・宗達・素庵]

その十七  左衛門督通光

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「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の九「通光・慈円」・式子内親王)」(シアトル美術館蔵)
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「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(通光その一)」(シアトル美術館蔵)
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「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(通光その二・慈円)」(シアトル美術館蔵)

http://art.seattleartmuseum.org/objects/14261/poem-scroll-with-deer?ctx=947bccb0-1f22-40c6-acef-ab7c81a74c67&idx=1

17 左衛門督通光:むさし野や行共秋のはてぞなき如何成(いかなる)風の末に吹らむ(シアトル美術館蔵)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-04-18

(再掲)

上記の絵図の和歌(「通光その一」と「通光その二」)は次の一首である。

378  左衛門督通光 みなせにて十首哥たてまつりし時
むさし野やゆけとも秋のはてそなきいかなる風かすゑにふくらん
(釈文)水無瀬尓天十首濃哥多天まつ利し時 右衛門督通光
 無左し野や行共秋能ハて曾那支 如何成風濃末尓吹ら舞

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/mititeru.html

  水無瀬にて、十首歌たてまつりし時
武蔵野やゆけども秋の果てぞなきいかなる風かすゑに吹くらむ(源通光「新古378」)

【通釈】武蔵野を行けども行けども、秋の景色は果てがなく、あわれ深さも果てがない。野末には、どんな風が吹いているのだろう。
【語釈】◇武蔵野 関東平野西部の台地。薄や萱の茂る広大な原野として詠まれる。◇秋の果てぞなき 武蔵野の果てしなさに掛けて、秋のあわれ深い情趣が尽きないことを言う。◇いかなる風か… 今、風は野を蕭条と吹いているが、まして野末に至れば、どれほど…。「末」には「秋の末」の意が響き、晩秋になれば、との心を読み取ることも可能か。下句秀逸。

源通光 文冶三~宝治二(1187-1248)

 内大臣土御門通親の三男。母は刑部卿藤原範兼女、従三位範子。通宗・通具の異母弟。承明門院在子(後鳥羽院妃)の同母異父弟。内大臣定通・大納言通方の同母兄。子に大納言通忠・同雅忠・式乾門院御匣ほかがいる。
 後鳥羽天皇の文治四年(1188)、叙爵。正治元年(1199)、禁色を聴される。右少将・中将などを経て、建仁元年(1201)、従三位に叙せられる。同二年には正三位・従二位と累進。同年末、父を亡くすが、その後も後鳥羽院政下で順調に昇進し、同四年四月、権中納言。土御門天皇の元久二年(1205)、正二位に昇り、中納言に転ず。建永二年(1207)二月、権大納言。   
 建保元年(1213)、娘を雅成親王に嫁がせる。順徳天皇の建保五年(1217)正月、右大将を兼ねる。同六年十月、大納言に転ず。同七年三月、内大臣に至る。しかし承久三年(1221)の承久の乱後、幕府の要求により閉居を命ぜられ、官を辞した。安貞二年(1228)三月、朝覲行幸の際に出仕を許され、後嵯峨院院政の寛元四年(1246)十二月二十四日、辞任した西園寺実氏に代り太政大臣に任ぜられた。同日、従一位。宝治二年(1248)正月十七日、病により上表して辞職、翌十八日、薨ず。六十二歳。
 建仁元年(1201)、十五歳の時歌壇に登場し、早熟の才を発揮した。同年の「千五百番歌合」では参加歌人中最年少。同年三月の「通親亭影供歌合」、同二年(1202)五月の「仙洞影供歌合」、同三年(1203)六月の「影供歌合」、元久元年(1204)の「春日社歌合」「元久詩歌合」、建永元年(1206)七月の「卿相侍臣歌合」、同二年の「賀茂別雷社歌合」「最勝四天王院和歌」などに出詠。順徳天皇の内裏歌壇でも活躍し、建保四年(1216)閏六月の「内裏百番歌合」、建保五年(1217)十一月の「冬題歌合」、承久元年(1219)七月の「内裏百番歌合」などに詠進。 
 建保五年(1217)八月には自邸に定家・慈円・家隆らを招き、歌合を催す(「右大将家歌合」)。承久の乱後は歌壇から遠ざかるも、後鳥羽院への忠義を失わず、嘉禎二年(1236)の遠島歌合に出詠した。宝治元年(1247)には、後嵯峨院の内裏歌合に出席、俊成卿女と詠を競った。
新古今集初出(十四首)。勅撰入集計四十九首。琵琶の名手でもあったという。


「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥ノート(その十五)

 ここから「シアトル美術館蔵」の作品(断簡絵図)が続く。今回の和歌は、「源通光→慈円→式子内親王」のもので、源通光(左衛門督通光)の背後に、一匹の雄鹿が描かれている。この雄鹿は、通光のイメージで見立てることは自然の流れであろう。
 通光は、源通親(内大臣土御門通親)の三男。「通宗(長男・後嵯峨天皇の外祖父)・通具(次男・堀川家の祖)」は異母兄。「第八十二代後鳥羽天皇の妃・第八十三代土御門天皇の国母」の承明門院在子は同母姉。「土御門定通(土御門家の祖)・中院通方(中院家の祖)」は同母弟で、通光は「久我家」の祖とされている。曹洞宗の開祖で『正法眼蔵』の著者として名高い道元禅師は、この久我家の出身とされ、通親の子とも道具の子ともいわれている。
 これまでにも、通親・通具については、俊成卿女との関連などで、しばしば触れてきたが、この通親を父とする、その子の周辺というのは、平安時代の末期から鎌倉時代初期の全ての事象に、大きな影響を与え続けていたということを実感する。
 通親は、建仁二年(一二〇二)十月二十四日、五十四歳で「内大臣正二位兼行右近衛大将東宮傅」の現役のままに急死した。以後、後鳥羽上皇を諫止できる者はいなくなり、後鳥羽院政が本格的に始まったとされている。
 建久九年(一一九八)に通親の長男・通宗は三十一歳で夭逝しており、通親の正室(藤原範子・通光の母)の関係で、通親の次男・通具は、「村上源氏久我家分流堀川家」を継ぎ、この三男・通光が通親の嫡男(久我家)扱いとなっている。
 通光は、承久三年(一二二一)の承久の乱後、幕府の要求により閉居を命ぜられ、官を辞している。安貞二年(一二二八)三月、朝覲行幸の際に出仕を許され、後嵯峨院院政の寛元四年(一二四六)十二月二十四日、辞任した西園寺実氏に代り太政大臣に任ぜられている。
 なお、通光は、承久の乱後は歌壇から遠ざかっていたが、後鳥羽院への忠義を失わず、嘉禎二年(一二三六)の遠島歌合に出詠している。また、宝治元年(一二四七)には、後嵯峨院の内裏歌合に出席し、俊成卿女と詠を競い合っている(この時の「宝治歌合」は、下記の末尾の一首である)。

http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-YMST/yamatouta/sennin/mititeru.html

   詩をつくらせて歌に合せ侍りしに、水郷春望といふことを
三島江や霜もまだひぬ蘆の葉につのぐむほどの春風ぞ吹く(新古25)

【通釈】三島江の、その汀に生える蘆の群――霜もまだ乾かない葉に、今朝はのどかな春風が吹き付ける、若芽がめぐむばかりに。
【語釈】◇三島江 摂津国の歌枕。現在の大阪府高槻市の淀川沿岸にあたる。蘆・菰・白菅などの繁る場所として詠まれることが多い。◇霜もまだひぬ 霜は融けたが、まだ乾いていない。◇つのぐむほどの 芽ぐむばかりの。「つのぐむ」は新芽が角のように出ること。
【補記】新古今の清新な叙景歌として評価の高い作。「霜もまだひぬ」「つのぐむほどの」という描写によって、春風に吹かれる水辺の蘆が官能性を帯びてさえ感じられる。元久二年(1205)、元久詩歌合に出詠された。

   最勝四天王院の障子に、清見が関かきたる所
清見がた月はつれなき天の門を待たでもしらむ波の上かな(新古259)
【通釈】清見潟の上空、有明の月は、夜が明けかけたことなど素知らぬふうに照っていて、天の扉が開くのを待たぬ内から、波の上は早くも白んでいるのだなあ。
【語釈】◇清見がた 駿河国の歌枕。静岡市清水区興津の海辺にあたる。「かた(潟)」は遠浅の海。富士山や三保の松原を望む景勝地。平安時代に関が設けられ、柵が海まで続いていた。「関屋どもあまたありて、海まで釘貫したり」(『更級日記』)。◇月はつれなき 「有明のつれなくみえし別れより…」(壬生忠岑『古今集』)を響かせる。◇天の門 日や月が出入りする天の門扉。これが開いて夜が明ける。
【補記】承元元年(1207)十一月の最勝四天王院障子和歌。清見が関を描いた障子絵に添える歌である。短夜を詠んでいるので新古今集夏部に入っている。

   和歌所歌合に、朝草花といふ事を
明けぬとて野べより山に入る鹿のあと吹きおくる萩の下風(新古351)

【通釈】夜が明けたというので、野辺から山へ帰り入ってゆく鹿――その後を慕うように、萩を靡かせて吹き送る風。
【語釈】◇山にいる鹿 山に帰り入る鹿。「鹿と云ふものは、夜になれば山より野に出でて、明くれば山に帰るなり」(増抄)。◇萩の下風 萩が風に靡くさまを、鹿を見送っていると見立てた。万葉集から萩は鹿の妻として詠まれている。「吾が岳にさ壮鹿来鳴く初萩の花妻問ひに来鳴くさ壮鹿」(大伴旅人『万葉集』)。
【補記】建永元年(1206)七月二十五日、卿相侍臣歌合。

   題しらず
龍田山よはにあらしの松吹けば雲にはうとき峰の月かげ(新古412)

【通釈】龍田山を、夜半、越えて行くと、嵐が峰の松に吹き付けて、雲は追い払われてゆく。そうして松の木の間にあらわれる月光――雲にとってはつれない仲というわけだ。
【語釈】◇龍田山 奈良県生駒郡三郷町の龍田神社背後の山。◇雲にはうとき 「月に親しく懸かりたる雲が、吹き退けられたる体也」(増抄)。峰の松と月影は親密になった一方、雲にとっては月影が疎遠な関係となった、ということ。
【補記】宣長は「三の句、まづは先也、松とかける本はひがごとぞ」とし、「いり方の月には、よく雲のかかるものなれども、いまだかたぶかざるさきに、夜はには先(まづ)あらしの吹きはらへる故に、雲にはうとしと也」と独自の解釈をしている。

   千五百番歌合に
さらにまた暮をたのめと明けにけり月はつれなき秋の夜の空(新古434)

【通釈】長いはずの秋の夜だが、月を見飽きないうちに明けてしまった。もっと見たいのなら、また日が暮れるのを待てとでも言うような月――つれないなあ。明るくなってゆく空に、平気な顔をしてまだ残っている。
【語釈】◇暮をたのめと 月を見たいなら暮を期待しろと。続く「明けにけり」の主語は末句「秋の夜の空」であるが、「たのめ」と促しているのは月であろう。

   河霧といふことを
あけぼのや川瀬の波のたかせ舟くだすか人の袖の秋霧(新古493)

【通釈】曙、川の浅瀬に波の音が高く聞こえ、秋霧の絶え間から人の袖がほの見える。船頭が高瀬舟を下してゆくのか。
【語釈】◇たかせ舟 高瀬(浅瀬)を越えやすいように、底を平に造った川舟。◇人の袖の秋霧 人の袖を垣間見せる秋霧。下記本歌を踏まえる。

   最勝四天王院の障子に、なるみの浦かきたるところ
浦人の日もゆふぐれになるみがたかへる袖より千鳥なくなり(新古650)

【通釈】鳴海の浦に住む海人が、一日も夕暮になり、入江を帰ってゆく。塩水に濡れた袖を、冬の夕風に翻(ひるがえ)らせて…。その陰から千鳥が鳴いて立つよ。
【語釈】◇日もゆふぐれに 「紐結ふ」を掛け、袖の縁語となる。「唐衣ひもゆふぐれになる時は返す返すぞ人はこひしき」(よみ人しらず『古今集』)。◇なるみがた 鳴海潟。今の名古屋市緑区あたりにあった入江。「潟」は遠浅の海。千鳥や鴫と共に詠まれ、潮の満ち干にも着目される。◇かへる袖より 「帰る」「翻(かへ)る」を掛けるか。「袖より…」には俊恵の「花すすきしげみが中を分けゆけば袂を越えて鶉鳴くなり」、または定家の「から衣すそののいほの旅枕袖よりしぎのたつ心ちする」の影響があるか。◇千鳥鳴くなり 千鳥は飛び立つ時に鳴くものとされた。なお「なり」は、音が聞こえることに、ある感慨を催している心をあらわす。

   千五百番歌合に
かぎりあればしのぶの山のふもとにも落葉がうへの露ぞ色づく(新古1095)

【通釈】耐えることにも限度があるので、「忍ぶ」という名の信夫(しのぶ)山の麓の木々だって、紅葉し、やがて葉を落とすことには抵抗できないのだ。そうして落葉の上には露が置き、紅く色づいている。そのように、人の心も堪え忍ぶことには限度があるから、思いを外に表わしてしまって、ついには涙の色も紅く染まるのだ。
【語釈】◇しのぶの山 陸奥国信夫郡の歌枕。いまの福島市内にある山。「忍ぶ」を掛ける。◇露ぞ色づく 落葉の上に落ちた露が、葉の色に染まる。紅涙(血涙)を暗示する。
【補記】「詞ごとに其意よくかなひて、露ばかりもいたづらなることのまじらぬ歌也、すべて歌は、かやうにいたづらなる詞をまじへず、一もじといへどもよしあるやうによむべきわざぞかし」(本居宣長『美濃の家づと』)。

   千五百番歌合に
ながめ侘びそれとはなしに物ぞ思ふ雲のはたての夕暮の空(新古1106)

【通釈】むら雲の彼方の夕空をじっと眺めていた――そのうち眺める気力も失せて、「天空の人を恋する」とかいうのでなく、これといった宛もなしに、暮れてゆく空の下、ぼんやり物思いに耽っているのだ。
【語釈】◇それとはなしに 「本歌のやうに、天つ空なる人をこふとにはあらでといふ意なり」(美濃の家づと)。「たれをたのむとはなけれども」(聞書)。◇雲のはたて 雲の果て。但し『新古今集聞書』には「村々立たる雲はたをひろげたるやうなりといふ事也」とあり、雲の旗手と解している。

   寄風懐旧
浅茅生や袖にくちにし秋の霜わすれぬ夢を吹く嵐かな(新古1564)

【通釈】荒れ果て、浅茅の茂る庭よ――私の袖には涙が秋の霜として置いているが、それも袖といっしょに朽ちてしまった。もはや、昔を忘れず思い出すのは夜寝て見る夢ばかりだが、茅屋を嵐が吹いて、眠りも破られてしまう。
【語釈】◇浅茅生(あさぢふ) 浅茅は丈の低いチガヤ。それが茂った荒れた庭を言い、茅屋を暗示する。◇秋の霜 秋になって霜に変じた涙。題から明瞭なように、懐旧の涙である。◇わすれぬ夢 昔を忘れぬ夢。現実は、すべてを忘却させるかのごとく荒れ果てているのである。

   社頭祝
八幡山さかゆく峰も越えはてて君をぞ祈る身 のうれしさに(宝治歌合)

【通釈】栄えゆく八幡様の山の頂もついに越えて、大君の長久をお祈りします。かかる御代に生を享け、ここまで永らえ得た我が身の幸に感謝しつつ。
【語釈】◇八幡(やはた)山 石清水八幡宮の鎮座する山。京都府八幡市。下記本歌の「をとこ山」と同じ。
【本歌】よみ人しらず「古今集」
今こそあれ我も昔はをとこ山さかゆく時も有りこしものを
  藤原家隆「新古今集」
大かたの秋の寝覚の長き夜も君をぞ祈る身を思ふとて
【補記】宝治元年(1247)九月、後嵯峨院主催の内裏歌合。「宝治二年歌合」とも。十題百三十番、二十六名参加の、当時としては大規模な歌合であった。六十一歳の通光は、七十歳を超えていた俊成卿女と左右を分けて対戦した。当時生き残っていた新古今歌人といえば、ほかに二、三の名を数えるばかりである。
上句は八幡に参詣する状を描くと共に、古今集の「我も昔はをとこ山」を想起させ、年の盛りを超え果てた我が身に対する感慨をこめる。下句では後鳥羽院を思いやった家隆の歌を懐かしく響かせつつ「我が身のうれしさに」と賀歌に相応しく晴ばれと結んで、深い感動を禁じ得ない。
 通光はこの歌合を歌人としての最後の晴舞台とし、翌年正月、病没した。
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yahantei

左衛門督通光の晩年の「社頭祝」の歌、しみじみとした「通光」の心が伝わってくる。
(上記「再掲」)

 社頭祝
八幡山さかゆく峰も越えはてて君をぞ祈る身 のうれしさに(宝治歌合)
【通釈】栄えゆく八幡様の山の頂もついに越えて、大君の長久をお祈りします。かかる御代に生を享け、ここまで永らえ得た我が身の幸に感謝しつつ。
【語釈】◇八幡(やはた)山 石清水八幡宮の鎮座する山。京都府八幡市。下記本歌の「をとこ山」と同じ。
【本歌】よみ人しらず「古今集」
今こそあれ我も昔はをとこ山さかゆく時も有りこしものを
  藤原家隆「新古今集」
大かたの秋の寝覚の長き夜も君をぞ祈る身を思ふとて
by yahantei (2020-06-04 16:52) 

yahantei

相変わらず、誤記が多く、「通具」が「道具」になってるのがうんざりする。これを訂正するには、「管理画面」での操作が必要だが、この「コメント」欄でメモ書きで、それを付記して置くことが出来るのは便利という感じ(?)
by yahantei (2020-06-05 17:52) 

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