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「鹿下絵新古今和歌巻」逍遥(その二十) [光悦・宗達・素庵]

その二十 円融院御歌

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「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の十「式子内親王その二・円融院その一」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)

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「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(円融院その二)」(シアトル美術館蔵)

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「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(円融院その三)」(シアトル美術館蔵)

20 円融院御歌:月影は初秋風と更行(ふけゆけ)ば心づくしに物をこそおも
(釈文)題しらず
    円融院御哥
月影盤初秋風登更行登心徒久し尓物をこ曽おもへ

(「円融院」周辺メモ)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/enyuu.html

    題しらず
月かげの初秋風とふけゆけば心づくしに物をこそ思へ(新古今381)

【通釈】夜が更け、初秋の風が吹きつのると共に月の光が一層明るくなってゆくと、心魂が尽きるほどに物思いをするのだ。
【語釈】◇月かげの 月の光が。◇初秋風と 初秋の風とともに ◇ふけゆけば 深くなってゆくと。月光がいっそう明るくなり、秋風が涼しさを増すことを言う。「夜が更け行けば」の意も重なる。
【本歌】よみ人しらず「古今集」
木の間よりもりくる月の影見れば心づくしの秋は来にけり

円融院  天徳三~正暦二(959-991)

村上天皇の第五皇子。母は藤原安子(師輔女)。一条天皇の父。
康保四年(967)五月、父帝が崩じ、同母兄憲平親王即位(冷泉天皇)ののち、皇太弟に立てられた。安和二年(969)八月、冷泉天皇の譲位を受け、十一歳で即位。天延元年(973)七月、藤原兼通の娘を皇后とする。貞元元年(976)五月、内裏が焼亡したため、同年七月、堀河院(顕徹大)に映る。翌年新造なった内裏に戻るが、天元水戸市(980)十一月、再び火
災に相、翌年、藤原頼忠の四条坊門大宮第(四条後院)に移った。
同年中に内裏は新造されたが、翌天元五年には三たび焼亡した。永観二年(984)八月、師貞親王(花山天皇。冷泉天皇皇子)に譲位。寛和元年(985)二月、紫野に子の日の遊びをし、平兼盛・清原元輔・源重之ら歌人を召して歌を奉らせた。この時、召しのないまま推参した曾禰好忠が追い立てられた話は名高い。同年八月出家し、以後円融院に住む。正暦二年二月十二日、崩御。三十三歳。 
『円融院御集』がある。拾遺集初出。勅撰入集二十四首

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥ノート(その十八)

 ここから、絵図としては後半の部となる。和歌は、「円融院→三条院→堀河院」と、天皇の御製歌が続く。その時代(御製歌)も、下記のとおり『千載集』そして『新古今和歌集』時代の前の時代ということになる。

安和(968~970) 円融天皇(「後撰集・拾遺集」時代)
寛弘(1004~1013)三条天皇(「後拾遺集」時代)
応徳 (1084~1087) 堀河天皇(「金葉集・詞花集」時代)

 歴代の天皇というのは、皆、和歌を詠み、天皇の歌は「御製(ぎょせい)」、皇后は「御歌(みうた)」と特別な用例扱いとなっている。上記の三人の天皇の、『新古今和歌集』の入集数は、円融院=七首、三条院=二首、堀河院=一首だが、三条院は、「小倉百人一首68」、堀河院は、「堀河院艶書合」「堀河百首」などで夙に知られている。
 ここでは、円融院の『新古今和歌集』入集歌(七句、上記に一句、下記に六句)を掲出して置きたい(以下の「歌意」などは、『日本古典文学全集26』を参考にしている)。

    題知らず
置き添える露やいかなる露ならん今は消えねと思ふわが身は(新古今1173)
(歌意:置きくわわる涙の露は、どういう露なのであろうか。今は消えてしまえと思っているわが身であるのに。)

    御返し
ひきかへて野べのけしきは見えしかど昔を恋ふる松はなかりき(新古今1438)
(歌意:野べのようすは、昔と変わって見えたけれど、昔を恋い慕うようすの松はなかった。)

    御返し
紫の雲にもあらで春霞たなびく山のかひはなにぞも(新古今1447)
(歌意:紫の雲でなくて、春霞がたなびく山の狭、なんの住みがいがあろう。 )
(補記:「紫の雲」は天人などの乗るめでたい雲。皇后の異称である「紫の雲」をかけている。「かひ」=「狭(かひ)」に「甲斐(かひ)」を掛けている。「狭(かひ)というのは何なのか」に「何の甲斐があろうか」を掛けている。)

   堀河院におはしましけるころ、閑院の左大臣家の桜を折らせに
   遣わすとて
垣根ごしに見るあだ人の家桜花散るばかりゆきて折らばや(新古今1450)
(歌意:垣根ごしに見る、実のない人の家の桜は、花も散るほどに、行って、折りたいものだ。)
(補記:「堀河院」=京都(中央区)の二条南・堀河東にあった藤原兼通邸。「閑院の左大将の家」=藤原兼通の子、左近衛府長官・藤原朝光邸。「あだ人」=うわき者・実のない人、桜を折ってよこすことをしなっかたので、戯れに呼ばれている。 )

   御返し
九重にあらで八重咲く山吹のいはぬ色をば知る人もなし(新古1479)
(歌意:九重ではなくて、また宮中でもなくて、八重に咲いている山吹の、くちなし色を知っている人もない。 )
(補記:山吹のくちなし色で、ご意志でないご退位のご苦悩を巧みにほのめかしていられる。)

   御返し
昔より絶えせぬ川の末なれば淀むばかりをなに嘆くらん(新古1647)
(歌意:)昔から絶えないで栄えている家筋の末であるのだから、ちょつと停滞したというだけであるのに、どうして嘆いているのであろうか。 )

 上記の『新古今和歌集』入集歌(七句)のうち四首が「御返し」(返歌)で、その「贈歌」も全て、その四首の前に入集されている。

    円融院位去り給ひて後、船岡に子日し給ひけるに
    給ひて、朝に奉りける
あはれなり昔の人を思ふには昨日の野べに御幸(みゆき)せましや(新古1437)
             一条左大臣(源雅信)
   御返し
ひきかへて野べのけしきは見えしかど昔を恋ふる松はなかりき(新古今1438)

   東三条院、女御におはしける時、円融院つねに渡り給いひけるを
   聞き侍りて、ゆげの命婦のもとに遣はしける
春霞たなびきわたる折にこそかかる山べはかひもありけれ(新古1446)
                   東三条入道前摂政太政大臣(藤原兼家)
   御返し
紫の雲にもあらで春霞たなびく山のかひはなにぞも(新古今1447)

  円融院、位去り給ひて後、実方朝臣、小馬命婦と物語し侍るける
   所に、山吹の花を屏風の上より投げこし給ひて侍りければ
八重ながら色も変らぬ山吹のなど九重に咲かずなりにし(新古1478)
                          実方朝臣(藤原実方)
   御返し
九重にあらで八重咲く山吹のいはぬ色をば知る人もなし(新古1479)

   冬ころ、大将離れて嘆くこと侍りける、明る年、右大臣になりて
   奏し侍りける
かかる瀬もありけるものを宇治川の絶えぬばかりも嘆きけるかな(新古1646)
                   東三条入道前摂政太政大臣(藤原兼家)
   御返し
昔より絶えせぬ川の末なれば淀むばかりをなに嘆くらん(新古1647)

 これらの「贈答歌」(二人、多くは男女が意中を述べ合ってやりとりする歌)は、「相聞歌・恋歌」(男女間で詠みかわされる恋の歌)を内容とするものが多いのだが、この円融院の「贈答歌」は、当時の「天皇と近臣者との述懐的な贈答歌」である同時に、当時の「天皇家と藤原摂関家との葛藤を背景としての贈答歌」のようにも解せられる。
 例えば、東三条入道前摂政太政大臣(藤原兼家)の返歌の「紫の雲にもあらで春霞たなびく山のかひはなにぞも」には、円融院の「紫の雲(皇后)ならいざ知らず女御(皇后・中宮に次ぐ女官)のままでは、何の甲斐があろうか」と、「東三条入道前摂政太政大臣(藤原兼家)」(摂関は兼家の子孫が独占し、兼家は東三条大入道殿と呼ばれて畏怖されている)に対する陰に含めた返歌のようにも詠み取れる。
 同様に、兼家の「大将離れて嘆くこと侍りける」を詞書とする歌の返歌の「昔より絶えせぬ川の末なれば淀むばかりをなに嘆くらん」の「昔より絶えせぬ川の末」に「昔から栄華を誇っている藤原北家の家筋」と兼家の歌の「宇治川の譬え」とを喝破し、それにしては一時的に大将を解かれて「淀む」(停滞する)でも、「そんなに嘆くことはあるまいに」と、兼家を突き放している感じでなくもない。
 それに対して、信任の厚い一条左大臣(源雅信)の「あはれなり昔の人を思ふには」の「返歌」の「昔を恋ふる松はなかりき」にすら、「昔を恋い慕う自分(円融院)の心を分かってくれる人は皆無なのです」と、何とも絶望感に充ちた「返歌」のように思われる。
 同様に、在位中寵愛していた実方朝臣(藤原実方)の「御返し」に、「山吹のいはぬ色をば知る人もなし」(「山吹のくちなし色」と「口に出して言わない」とを掛けている)とは、円融院の、「ご意志でないご退位の無念やる方のない気持ち」が伝わってくる。

 これらのことに関し、下記のアドレスの「栄花物語における円融天皇像(中村康夫稿)」で、その詳細な背景の一端が記述されている。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/chukobungaku/33/0/33_42/_pdf/-char/en

 その論稿の中で、円融院の『新古今和歌集』入集歌(七句)の鑑賞上参考になると思われる個所を、下記に抜粋して置きたい。

【円融朝は一六年続いたのだが、摂政または関白の交替が激しかった。そして、冷泉・円融二代のあいだに、ようやく摂関職常置の慣行がほぼかたまったことは、注目すべき政治的現象であろう。専制君主としての天皇の独自の機能が弱体化し、それを補強する後見の摂関の力が伸張してきたことを意味する。これ以後、皇嗣の決定、在位期間さえもがほとんど摂関家の意向によって左右されるという事態にまでなってゆくのである。】

【A みかどの御心いとうるはしうめでたうおはしませど、「雄雄しき方やおはしまさざらん」とぞ、世の人申し思ひたる。東三条の大臣世の中を御心のうちにしそしておぼすべかめれど、猶うちとけぬさまに御心もちゐぞ見えさせ給ふ。みかどの御心強からず、いかにぞやおはしますを見奉らせ給へればなるべし。 (花山たづぬる中納言) 】

【B みかど、太政大臣の御心に違はせ給はじとおぼしめして、「この女御后に据ゑ奉らん」との給はすれど、大臣なまつつましうて、「一の御子生れ給へる梅壷を置きてこの女御の居給はんを、世の人いかにかはいひ思ふべからん」と、「人敵はとらぬこそよけれ」などおぼしつつ過ぐし給へば、「などてか。梅壷 は今はとありともかかりとも必ずの后なり。世も定なきに、この女御の事をこそ急がれめ」と、常にの給はすれば、嬉しうて人知れずおぼし急ぐ程に、今年もたちぬれば、口惜しうおぼしめす。(花山たづぬる中納言) 】

【C かかる程に、今年は天元五年になりぬ。三月十一日中宮立ち給はんとて、太政大臣急ぎ騒かせ給ふ。これにつけても右の大臣あさましうのみよろづ聞しめさるる程に、后たたせ給ひぬ。いへばおろかにめでたし。太政大臣のし給ふもことわりなり。みかどの御心捉を、世の人目もあゃにあさましき事に申し思へり。一の御子おはする女御を置きながら、かく御子もおはせぬ 女御の后に居給ひぬる事、安からぬ事に世の人なやみ申して、「素腹の后」とぞっけ奉りたりける。されどかくて居させ給ひぬるのみこそめでたけれ。(花山たづぬる中納言) 作者 】

【D「位につきて今年十六年になりぬ。いままであベうも思はざりつれど、月日の限やあらん、かく心より外にあるを、この月は相撲の事あれば騒しかるべければ、来月ばかりにとなん思ふを、『東宮位につき給ひなば、若宮をこそ東宮には据ゑめ』と思ふに、祈所所によくせさせて、思ひの如くあベう祈らすべし。おろかならぬ心の中を知らで、誰誰も心よからぬけしきのある、いと口惜しき事なり。あまたあるをだに、人は子をばいみじき ものにとそ思ふなれ。ましていかでかおろかに思はん」など、よろづあベき事ども仰せらるる受け給はりて、かしこまりでまかで給て、…… (花山たづぬる中納言) 】
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yahantei

安和(968~970) 円融天皇(「後撰集・拾遺集」時代)
寛弘(1004~1013)三条天皇(「後拾遺集」時代)
応徳 (1084~1087) 堀河天皇(「金葉集・詞花集」時代)

この背後には、「栄花物語」とか「大鏡」の世界が横たわっている。

「専制君主としての天皇の独自の機能が弱体化し、それを補強する後見の摂関の力が伸張してきたことを意味する。これ以後、皇嗣の決定、在位期間さえもがほとんど摂関家の意向によって左右されるという事態にまでなってゆく」・・・

『新古今和歌集』の、円融院の七首、そして、その「贈答歌」の「贈歌」と「返歌」とが対で入集しているものを目の当たりにすると、つくづくと、実質的な撰者の「後鳥羽院」の実像の一端を垣間見る思いがしてくる。

by yahantei (2020-06-12 09:20) 

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