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「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥(その二十二) [光悦・宗達・素庵]

その二十二 堀川院御歌

鹿下絵十.JPG
「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の十一「円融院・三条院・堀河院」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)

鹿下絵・シアトル二.jpg
「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(三条院・堀河院」(シアトル美術館蔵)

22 堀河院御歌:しきしまやたかまど山の雲間よりひかりさしそふ弓張の月(シアトル)
(釈文)雲間微月といふ事を   
    堀河院御哥
し支しまや可まど山濃雲間よ利日可利左し曽ふ弓張の月

(「堀河院」周辺メモ)
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/horikawa.html

   雲間微月といふ事を
しきしまや高円山の雲間より光さしそふ弓はりの月(新古383)

【通釈】大和の国、高円山には雲がかかり、月も隠していたが、いま雲間から弓張月の光が射して、山はだんだんと明るくなってゆく。
【語釈】◇しきしまや 「大和」にかかる枕詞。ここでは「大和の国の」ほどの意。◇高円(たかまと)山 奈良市の東南郊、春日野の南に続く丘陵地帯。主峰の高円山は標高432メートル。◇弓はりの月 弓を張ったような形の月。弦月。

堀河天皇  承暦三~嘉承二(1079-1107)

白河院第二皇子。母は中宮賢子(藤原師実の養女。実父は源顕房)。鳥羽天皇の父。
応徳元年(1084)、母を亡くす。同二年、叔父の皇太子実仁親王が死去したため、翌三年(1086)十一月、立太子し、即日父帝の譲位を受けて即位した。時に八歳。寛治七年(1093)、篤子内親王を中宮とする。嘉保三年(1096)、重病に臥したがまもなく快復。康和元年(1099)、荘園整理令を発布。同五年、宗仁親王(のちの鳥羽天皇)が生れ、同年、皇太子にたてる。嘉承二年(1107)七月十九日、病により崩御。二十九歳。
幼くして漢詩を学び、成人後は和歌をきわめて好んだ。近臣の源国信・藤原仲実・藤原俊忠、および源俊頼らが中心メンバーとなって所謂堀河院歌壇を形成、活発な和歌活動が見られた。長治二年(1105)か翌年、最初の応製百首和歌とされる「堀河百首」(堀河院太郎百首・堀河院御時百首和歌などの異称がある)奏覧。同書は後世、百首和歌の典範として重んじられた。康和四年(1102)閏五月「堀河院艶書合」を主催、侍臣や女房に懸想文の歌を詠進させ、清涼殿で披講させた。なお永久四年(1116)十二月二十日成立の「堀河後度百首」(永久百首・堀河院次郎百首とも)は、堀河天皇と中宮篤子内親王の遺徳を偲び、旧臣仲実らが中心となって催した百首歌とされる。金葉集初出。勅撰入集九首

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥ノート(その二十)

 堀河院(1079-1107)は、八歳で天皇に即位し、二十九歳で夭逝した、その一生は、父・白河天皇(堀河天皇崩御後は、第七十四代鳥羽天皇、更に曾孫の第七十五代崇徳天皇と三代にわたり幼主を擁し、四十三年間にわたり院政を敷き、後世「治天の君」と呼ばれた)に翻弄された、先に続く「円融院→三条院→堀河院」との、一連の「悲運の帝王」(「末代の賢王=堀河天皇の呼称」)の系譜という思いが拭えない。
 
64 円融天皇 安和2(969) 8 . 13~永観2(984) 8.27  →新古七首
67※三条天皇 寛弘8(1011) 6 . 13~長和5(1016) 正.29→ 同 二首
72 白河天皇 延久4(1072) 12 . 8~応徳3(1086) 11.26→後拾遺集(白河天皇)同四首
73 堀河天皇 応徳3(1086) 11 . 26~嘉承2(1107) 7.19→金葉集(白河院) 同一首
74 鳥羽天皇 嘉承2(1107) 7 . 19~保安4(1123) 正.28→ 同二首
75※崇徳天皇 保安4(1123) 正 . 28~永治元(1141) 12. 7→詞花集(崇徳院)同七首
77 後白河天皇 久寿2(1155) 7 . 24~保元3(1158) 8.11→千載集(後白河院)同三首
82※後鳥羽天皇 寿永2(1183) 8 . 20~建久9(1198) 正.11→新古今集(後鳥羽院)三四首
84※順徳天皇  承元4(1210) 11 . 25~承久3(1221) 4.20 

 上記は、第六十四代(円融天皇)から第八十四代(順徳天皇)までの、主に『新古今和歌集』に入集している天皇(上記の「新古七首」など)の一覧である。その中で※印は『百人一首』に入集している天皇、その他「八代集」の勅(院)宣を下した天皇に付記をしている。
 ここで、堀河天皇の実父の白河天皇(白河院)は、『後拾遺和歌集』(藤原通俊撰)と『金葉集』(源俊頼撰)の勅(院)宣を下した方で、この『金葉和歌集』に関して、最初の草稿の奏覧は、新味がないとし、次に改撰して奏上すると、今度は現代歌人に偏りすぎるという理由で受納せず、三度目に再々奉して成ったという逸話が今に遺っている(『今鏡』『増鏡』)。
 こういう絶大なる専制君主を後ろ盾にする堀河天皇というのは、「末代の賢王」(『続古事談』)と評されるほど賢帝であり、人望もありながら、政務、その他全般にわたり、何らの実績を示すこともなく、例えば、本来ならば、『金葉和歌集』の勅宣者(白河院)に匹敵する能力を有しているにも関わらず、その和歌の世界でも、こと白河院の後塵を拝していたということになろう。
 しかし、この第五勅撰集『金葉和歌集』のバックグラウンドとなっているのは、堀河院を中心とする『堀河(院)百首』の、「藤原公実(きんざね)、大江匡房(まさふさ)、源国信(くにざね)、源師頼(もろより)、藤原顕季(あきすえ)、藤原仲実(なかざね)、源俊頼(としより)、源師時(もろとき)、藤原顕仲(あきなか)、藤原基俊(もととし)、隆源(りゅうげん)、肥後、紀伊、河内、源顕仲(あきなか)、永縁(えいえん)」などの歌人群なのであろう。
 とした上で、上記の八人の天皇(順徳天皇は除く)の中で、『新古今和歌集』の入集数の、堀河院の一首というのは、どうにも、侘しいようにも思われるのである。
 ここで、「白河院」(父=「治天の君」)と堀河院(子=「末代の賢王」)との、それぞれの『新古今和歌集』入集歌の、「雲間の月」の歌を並列して鑑賞をしてみたい。

「a詞書のある歌」(『新古今和歌集』の二首)

    卯花如月といへる心をよませ給ひける
卯の花のむらむらさける垣根をば雲まの月のかげかとぞみる(白河院御製「新古180」)
(歌意:卯の花が所々に群がって咲いている垣根を、雲の切れ間からさとたる月の光かと見えることだ。)
    雲間微月といふ事を
しきしまや高円山の雲間より光さしそふ弓はりの月(堀河院御製「新古383」)
(大和の高円山の雲間から、光がだんだんくわわってさす、弓張の月よ。)
(鑑賞)白河院の歌は「見立ての面白さ」(群咲く卯の花を月の影と見立てている)の歌である。堀河院の歌は「題詠」(雲間の月)であるが実写的な叙景歌(光さしそふ弓張りの月)である。どちらを採るかは、鑑賞者の好みによる。

「b詞書無・左右番いの『歌合形式』の二首」(上記の二首を「歌合形式」とする)

(左)
卯の花のむらむらさける垣根をば雲まの月のかげかとぞみる(白河院)
(右)
しきしまや高円山の雲間より光さしそふ弓はりの月(堀河院)
(判詞=鑑賞)左は、「時わかず月か雪かと見るまでに垣根のままに咲ける卯の花」(後撰・夏、詠人知らず)の本歌取りの一首。卯の花(夏)が主題の歌。右は、「高円山」の「(まと)に「的」をかけ、「弓」の縁語。「さしそふ」は「だんだんくわわってさす」、この動的な把握が持ち味。「雲間の月」の歌としては、右を勝とす。(但し、左の見立ても新鮮で、持=引き分けとしても可。)

「c詞書無・『歌合形式』の『左・右』の表示無の二首」(c-1)番いの二首表記(二首ピックアップ)、「題」=雲間の月。

(雲間の月)
卯の花のむらむらさける垣根をば雲まの月のかげかとぞみる(白河院)
しきしまや高円山の雲間より光さしそふ弓はりの月(堀河院)
(鑑賞)「a詞書のある歌」と「b詞書無・左右番いの『歌合形式』の二首」の「鑑賞」に基好き、新しい視点を加味する。例えば、白河院の歌は「地上の歌」、そして、堀河院の歌」は「天空の歌」とすると、この二首の合わせ併せは面白い。

「d詞書無・非『歌合形式』の一首」(c-2)番いの二首のうち一首表記(一首ピックアップ)

(撰歌方針・鑑賞視点)

卯の花のむらむらさける垣根をば雲まの月のかげかとぞみる(白河院)
しきしまや高円山の雲間より光さしそふ弓はりの月(堀河院)

 この二首について、前回取り上げていた『百人一首』の、の三条院の、「心にもあらで憂き世に長らへば恋しかるべき夜半の月かな(三条院『百人一首68』)の、この歌との、この三者関係を並列(年代順)して見たいのである。

心にもあらで憂き世に長らへば恋しかるべき夜半の月かな(三条院)
卯の花のむらむらさける垣根をば雲まの月のかげかとぞみる(白河院)
しきしまや高円山の雲間より光さしそふ弓はりの月(堀河院)

 三条院(第六十七代天皇)は、藤原摂関(道長)の後宮政策下、失意のまま失明し、退任後一年足らずにして、三十一歳で亡くなった「悲運の帝王」である。
 白河院(第七十二代天皇)は、摂関家の権勢の弱体化に伴い、早々に退位し、若き天皇の背後で強力な院政を敷き、天皇の権能を超越した政治権力を行使し、七十七歳で崩御した「治天の君」である。
 堀河院(第七十三代天皇)は、白河天皇の後を、立太子と同時に八歳で即位し、その白河上皇の「治天の君」の下で、「末代の賢王」と仰がれつつ、その持てる力を存分に発揮できないままに、二十九歳で崩御した。
 さて、白河天皇(白河院)の勅(院)宣の『後拾遺和歌集』(藤原通俊撰)は、「実生活に即し、散文的・叙情的な歌風」、そして、『金葉和歌集』(源俊頼撰)は、「叙景歌に優れ、革新的な傾向」と、その特色を簡潔に評している(『三訂・常用国語便覧・浜島書店』)。
この「叙情的歌風」と「叙景的歌風」の区別ですると、三条院のは「叙情歌」そして、白河院と堀河院のは「叙景歌」ということになる。この「叙情歌」の「情」は、「歌論・連歌論・俳論」などの「心」(内面的なもの)というものに近く、そして、「叙景歌」の「景」は、「姿・詞」(外面的なもの)というニュアンスに近い。
この「心」は、「作歌する心=風情」に通じ、この「姿・詞」は、「作歌する装い=風姿」というニュアンスに置き換えることも出来よう。この「風情・風姿」論は、「後鳥羽院御口伝」(『日本古典文学大系53歌論集・能楽論集』所収「補注」など)に出てくるものである「1序―姿の色々」。
この「風情・風姿」論の言葉尻を借用すると、三条院の歌は、「風情をむね」とする一首で、白河院の歌は「風詞おもしろき」一首で、堀河院の歌は「風姿うるはしき」一首と解することも出来よう。
 その上で、この三首のうち一首撰ということになると、「後鳥羽院御口伝」(「4定家評」=定家と釈阿・西行を比しての評)の、「最上の秀哥は、詞(ことば)を優にやさしき上、心が殊(こと)に深く、いはれもある」歌と、己(鑑賞者自身)が感ずるものを撰ぶということになろう。
 ここで、天皇の御製ということを加味をすると、堀河院の初句の「しきしま」(「大和」に掛かる枕詞であると同時に「日本」の別称、『敷島の道』=和歌の道)を無視することは、
「いはれ(筋道・道理など)」無きものの評を受けることになろう。

(参考)

万葉集 巻十三

    柿本朝臣人麻呂の歌集の歌に曰く
3253葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙(ことあげ)せぬ国 然(しか)れども 言挙ぞ吾(あ)がする 事幸(ことさき)く 真幸(まさき)くませと恙(つつみ)なく 幸(さき)くいまさば 荒磯波 ありても見むと百重波(ももえなみ) 千重波(ちえなみ)しきに 言挙す吾は 言挙す吾は
    反歌
3254しきしまの日本(やまと)の国は言霊のさきはふ国ぞ真幸(まさき)くありこそ

歌意(参考『桜井満訳注』)
3253葦原の瑞穂の国は、神の意のままに言挙げしない国である。だが、私はあえて事挙げををする。言葉が祝福をもたらし、無事においでなさいと―。もし恙なく無事でいらっしゃれば、荒磯の波のように 後にも逢えようと―。百重波や千重波が後から寄せて来るように。しきりに言挙げするよ、私は。しきりに言挙げするよ、 私は。

歌意(参考『桜井満訳注』)
32547大和の国は、言霊が人を助ける国であるよ。私が言挙げしましたからどうぞ御無事であって欲しい。

万葉集 巻五

    山上憶良頓首謹みて上(たてまつ)る
    好去好来の歌一首 反歌二首
894神代(かみよ)より 言い傳(つ)て来らく そらみつ 倭(やまと)の国は 皇神(すめかみ)の 厳(いつか)しき国 言霊の 幸(さき)はふ国と 語り継(つ)ぎ 言い継(つ)かひけり 今の世の 人もことごと 目の前に 見たり知りたり 人多(さは)に 満ちてはあれども 高光る 日の朝廷(みかど) 神(かむ)ながら 愛(めで)の盛(さか)りに 天(あめ)の下(した) 奏(まを)し給(たま)ひし 家の子と 選び給ひて 勅旨(おおみこと) 戴(いただ)き持ちて 唐(もろこし)の 遠き境に 遣はされ 罷(まか)りいませ 海原(うなばら)の 邊(へ)にも沖にも 神留(かむづま)り 領(うしは)きいます 諸(もろもろ)の 大御神等 船舳(ふなのへ)に 導き申(まを)し 天地の 大御神たち 倭の 大国霊(おほくにたま) ひさかたの 天の御虚(みそら)ゆ 天(あま)がけり 見渡し給ひ 事了(をは)り 還らむ日には また更(さら)に 大御神たち 船(ふな)の舳(へ)に 御手打ち懸けて 墨縄(すみなは)を 延(は)へたるごとく あちかをし 値嘉(ちか)の岬(さき)より 大伴の 御津の濱びに 直泊(ただはて)に 御船泊(みふねは)てむ つつみなく 幸(さき)くいまして 早帰りませ

反歌
895大伴(おおとも)の御津(みつ)の松原かき掃(は)きて我(われ)立ち待たむはや帰りませ
896難波津にみ船泊(は)てぬと聞こえ来(こ)ば紐解(ひもと)き放(さ)けて立ち走(ばし)りせむ

https://blog.goo.ne.jp/taketorinooyaji/e/0edafede5afb44146a798ee9417ba424

万葉集 巻二十

族(うから)を喩(さと)す歌一首并せて短歌

(集歌)4465 比左加多能 安麻能刀比良伎 多可知保乃 多氣尓阿毛理之 須賣呂伎能 可未能御代欲利 波自由美乎 多尓藝利母多之 麻可胡也乎 多婆左美蘇倍弖 於保久米能 麻須良多祁乎々 佐吉尓多弖 由伎登利於保世 山河乎 伊波祢左久美弖 布美等保利 久尓麻藝之都々 知波夜夫流 神乎許等牟氣 麻都呂倍奴 比等乎母夜波之 波吉伎欲米 都可倍麻都里弖 安吉豆之萬 夜萬登能久尓乃 可之[波]良能 宇祢備乃宮尓 美也[婆]之良 布刀之利多弖氏 安米能之多 之良志賣之祁流 須賣呂伎能 安麻能日継等 都藝弖久流 伎美能御代々々 加久左波奴 安加吉許己呂乎 須賣良弊尓 伎波米都久之弖 都加倍久流 於夜能都可佐等 許等太弖氏 佐豆氣多麻敝流 宇美乃古能 伊也都藝都岐尓 美流比等乃 可多里都藝弖氏 伎久比等能 可我見尓世武乎 安多良之伎 吉用伎曽乃名曽 於煩呂加尓 己許呂於母比弖 牟奈許等母 於夜乃名多都奈 大伴乃 宇治等名尓於敝流 麻須良乎能等母
(訓読) 久方の 天の門開き 高千穂の 岳(たけ)に天降りし 皇祖(すめろぎ)の 神の御代より 櫨弓(はじゆみ)を 手握り持たし 真鹿子矢(まかこや)を 手挟み添へて 大久米の ますら健男(たけを)を 先に立て 靫(ゆき)取り負ほせ 山川を 岩根さくみて 踏み通り 国(くに)覓(ま)ぎしつつ ちはやぶる 神を言向け まつろはぬ 人をも和(やは)し 掃き清め 仕へまつりて 蜻蛉島(あきつしま) 大和の国の 橿原の 畝傍の宮に 宮柱 太知り立てて 天の下 知らしめしける 天皇(すめろぎ)の 天の日継と 継ぎてくる 大王(きみ)の御代御代 隠さはぬ 明き心を 皇辺(すめらへ)に 極め尽して 仕へくる 祖(おや)の官(つかさ)と 辞(こと)立(た)てて 授けたまへる 子孫(うみのこ)の いや継ぎ継ぎに 見る人の 語り継ぎてて 聞く人の 鏡にせむを 惜しき 清きその名ぞ おぼろかに 心思ひて 虚言(むなこと)も 祖(おや)の名絶つな 大伴の 氏と名に負へる 大夫(ますらを)の伴
(訳) 遥か彼方の天の戸を開き高千穂の岳に天降りした天皇の祖の神の御代から、櫨弓を手に握り持ち、真鹿児矢を脇にかかえて、大久米部の勇敢な男たちを先頭に立て、靫を取り背負い、山川を巖根を乗り越え踏み越えて、国土を求めて、神の岩戸を開けて現れた神を平定し、従わない人々も従え、国土を掃き清めて、天皇に奉仕して、秋津島の大和の国の橿原の畝傍の宮に、宮柱を立派に立てて、天下を統治なされた天皇の、その天皇の日嗣として継ぎて来た大王の御代御代に、隠すことのない赤心を、天皇のお側に極め尽くして、お仕えて来た祖先からの役目として、誓いを立てて、その役目をお授けになされる、われら子孫は、一層に継ぎ継ぎに、見る人が語り継ぎ、聴く人が手本にするはずのものを。惜しむべき清らかなその名であるぞ、おろそかに心に思って、かりそめにも祖先の名を絶つな。大伴の氏と名を背負う、立派な大夫たる男たちよ。

4466磯城島(しきしま)の大和の国に明らけき名に負ふ伴(とも)の男(を)心つとめよ
4467剣太刀(つるぎたち)いよよ磨ぐべし古(いにしへ)ゆさやけく負ひて来にしその名ぞ

本居宣長.jpg
『本居宣長(小林秀雄著・新潮社)』(「口絵」表)
「口絵」裏

本居宣長六十一歳自畫自賛像
古連(これ)は宣長六十一寛政之(の)二登(と)せと
いふ年能(の)八月尓(に)手都(づ)可(か)らう都(つ)し
多流(たる)おの可(が)ゝ(か)多(た)那(な)里(り)

筆能(の)都(つ)い天(で)尓(に)
 志(し)き嶋のやま登(と)許(ご)ゝ(こ)路(ろ)を人登とハ(は)ゞ(ば)
  朝日尓(に)ゝ(に)ほふ山佐(ざ)久(く)ら花

P12-寛政二年秋になった、宣長自畫自賛の肖像畫を言ふので、有名な「しき嶋の やまとごゝを 人とはゞ 朝日にゝほふ 山ざくら花」の歌は、その賛のうちに在る。だがこゝでは、歌の内容を問ふよりも、宣長という人が、どんなに桜が好きな人であつたか、その愛着には、何か異常なものがあつた事を書いて置く。

P13-寛政十二年の夏(七十一歳)、彼は遺言書を認めると、その秋の半ばから、冬の初めにかけて、桜の歌ばかり、三百首も詠んでいる。

P15-物ぐるほしいのは、また我が心でもあつたであらうか。彼には、塚の上の山桜が見えてゐたやうである。
  我心 やすむまもなく つかはれて 春はさくらの 奴なりけり
  此花に なぞや心の まどふらむ われは桜の おやならなくに
  桜花 ふかきいろとも 見えなくに 

P245-宣長は「新古今集」を重んじた。「此道ノ至極セル處ニテ、此上ナシ」「歌の風体ノ全備シタル處ナレバ、後世ノ歌ノ善悪劣ヲミルニ、新古今ヲ的ニシテ、此集ノ風ニ似タルホドガヨキ歌也」。

P246-「歌道ノ盛ハ、定家ニキハマルトイヘドモ、衰ハハヤ俊成ヨリ兆シアリ。タトヘバ、五月ノ中ニハ、イマダ暑気ノ盛ニハイタラザレドモ、ハヤ陰気ノキザス如ク、十二月ノ大寒ヲマタズシテ、十一月ヨリ、ハヤ一陽来復スルガ如シ」。
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yahantei

「新三十六歌仙」の頃、「後鳥羽院御口伝」、そして、「本居宣長(小林秀雄著)」に行き着いたが、ここで、またまた、再会するとは思わなかった。として、

「本居宣長六十一歳自畫自賛像
古連(これ)は宣長六十一寛政之(の)二登(と)せと
いふ年能(の)八月尓(に)手都(づ)可(か)らう都(つ)し
多流(たる)おの可(が)ゝ(か)多(た)那(な)里(り)

筆能(の)都(つ)い天(で)尓(に)
 志(し)き嶋のやま登(と)許(ご)ゝ(こ)路(ろ)を人登とハ(は)ゞ(ば)
  朝日尓(に)ゝ(に)ほふ山佐(ざ)久(く)ら花」
の、この宣長の自賛の、「変体仮名」(和歌などを揮毫するときの字配り)が、本阿弥光悦(鶴下絵和歌巻・鹿下絵和歌巻など)と、瓜二つということには驚いた。

by yahantei (2020-06-20 17:36) 

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