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「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥(その二十五) [光悦・宗達・素庵]

その二十五 法性寺前関白太政大臣

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「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の十二「堀河右大臣・橘為仲・藤原忠通」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)

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「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(藤原忠通・源頼政)」(シアトル美術館蔵))

25 法性寺前関白太政大臣:風吹ばたまちるはぎのしたつゆにはかなくやどる野辺の月哉
(釈文)風吹盤たま知るハ幾能志多徒ゆ尓ハ可那久やどる野邊濃月哉

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-04-26

風ふけば玉ちる萩の下露にはかなく宿る野辺の月かな(藤原忠通「新古386」)

歌意は、「風が吹くと、玉となって散っていく萩の葉の下露に、かりそめにもその影を宿している野辺の月であることよ。」
(参考)法性寺入道前関白太政大臣(artwiki)
【藤原忠通。承徳元年(1097)~長寛二年(1164)藤原氏摂気相続流、関白忠実の息子で母は右大臣源顕房の娘師子。関白太政大臣従一位に至る。保元の乱の際には後白河天皇の関白として、崇徳院側であった父忠実や弟の左大臣頼長と対立した。しばしば自邸に歌合を催している。漢詩をもよくし、また法性寺流の能書で知られる。(百人一首 秀歌集) 】

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥ノート(その二十三)

百人一首歌人系図(藤原氏)

http://kitagawa.la.coocan.jp/data/100keizu02.html

藤原道長系図.jpg

 上図は、藤原氏の「百人一首歌人系図」であるが、その七十六番の作者「法性寺入道前関白太政大臣」(藤原忠通)は、道長直系(道長→頼通→師実→師通→忠実→忠通)なのである。
 この忠通が「藤氏長者」となった頃には、既に「摂関政治」は形骸化し、さらに父や弟との対立を抱え、本来対抗勢力である鳥羽法皇や平氏等の「院政」勢力と巧みに結びつきながら、「保元の乱」に続く「平治の乱」でも実質的な権力者・信西(藤原通憲)とは対照的に生き延び、彼の直系子孫のみが「五摂家」(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)として、原則的に明治維新まで摂政・関白職を独占することとなる。
 この「百人一首」を編んだ定家(九十七番作者)も道長直系で、この道長直系は、忠通・定家の他に、六人(基俊・俊成・寂蓮・良経・雅経・慈円)を数える。そして、忠通の前後の作者はいずれも忠通との政争に敗れた人物(藤原基俊、崇徳天皇)である。

75契りおきしさせもが露を命にて あはれ今年の秋も去ぬめり(藤原基俊)
76わたの原こぎいでてみれば久方の雲いにまがふ沖つ白波(法性寺入道前関白太政大臣)
77瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末に逢はむとぞ思ふ(崇徳院)

ここで、これまでの「道長→頼通・頼宗→忠通」の「月の歌」は、次のとおりである。

此の世をば我が世とぞ思ふ望月のかけたる事も無しと思へば(藤原道長「小右記」)
(歌意: 今の世は、我が一族の世であることよ。それは丁度、今宵の満月が欠けることなく満ち足りていることと同じであることよ。 )

有明の月だにあれやほととぎすただ一声のゆくかたも見む(藤原頼通「後拾遺192」)
(歌意: 暁闇の中、ほととぎすが鳴いて、たちまち飛び去ってしまった。せめて空に有明の月が出ていたらなあ。たった一声鳴き捨てて去って行く方を、見送ることもできように。)

人よりも心のかぎりながめつる月はたれとも分かじものゆゑ(藤原頼宗「新古384」)
(歌意: 誰よりも深く、心を尽して月を眺めたよ。月の方では、見ているのが誰だろうと、区別などしないだろうに。)

風ふけば玉ちる萩の下露にはかなく宿る野辺の月かな(藤原忠通「新古386」)
(歌意: 風が吹くと、玉となって散っていく萩の葉の下露に、かりそめにもその影を宿している野辺の月であることよ。)

 これに、同じく道長・忠常直系の「寂蓮・良経」の「月の歌」を抜粋すると次のとおりである。

いつまでか涙くもらで月は見し秋待ちえても秋ぞ恋しき(慈円「新古379」)
(歌意: 涙に目がくもらないで月を見たのは、いつ頃までのことだったろう。待望の秋を迎えても、さやかな月が見られるはずの、ほんとうの秋が恋しいのだ。)

ゆくすゑは空もひとつの武蔵野に草の原よりいづる月かげ(良経「新古422」)
(歌意: ずっと先の方は夕空と一つになっている広大な武蔵野――その草の原からさしのぼる月よ。)

道長の時代(康保三年~万寿四年(九六六~一〇二八年))から良経の時代(嘉応元~建永元(一一六九~一二〇六))まで、平安時代(中期)の全盛時代から平安時代(後期)の終焉時代へと、それは、京都の平安宮を中心する「公家時代」から武蔵野の一隅の鎌倉幕府を中心する「武家時代」への変遷の流れでもあった。
 これらのことは、その他の道長直系の「基俊・俊成・寂蓮・定家・雅経」の、次の「月の歌」でも、如実に感知される。

あたら夜を伊勢の浜荻をりしきて妹恋しらに見つる月かな(基俊「千載500」)
(歌意: もったいないような月夜なのに、私は伊勢の海辺で旅寝するために葦を折り敷いて寝床に作り、都の妻を恋しがりながら、こうして月を眺めることよ。)

ひとり見る池の氷にすむ月のやがて袖にもうつりぬるかな(俊成「新古640」)
(歌意: 独り見ていた池の氷にくっきりと照っていた月が、そのまま、涙に濡れた袖にも映ったのであるよ。)

ひとめ見し野辺のけしきはうら枯れて露のよすがにやどる月かな(寂蓮「新古488」)
(歌意: このあいだ来た時は人がいて、野の花を愛でていた野辺なのだが、秋も深まった今宵来てみると、その有様といえば、草木はうら枯れて、葉の上に置いた露に身を寄せるように、月の光が宿っているばかりだ。)

ひとりぬる山鳥の尾のしだり尾に霜おきまよふ床の月影(定家「新古487」)
(歌意: 独りで寝ている山鳥の尾、その垂れ下がった尾に、霜が置いているのかと迷うばかりに、しらじらと床に射す月影よ。)

はらひかねさこそは露のしげからめ宿るか月の袖のせばきに(雅経「新古436」)
(歌意: 払っても払いきれないほど、そんなに露がたくさんおいているにしても、よくまあ月の光が宿るものだわ、こんな狭い袖の上に。)

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yahantei

百人一首歌人系図(藤原氏)を見て、「御子左家」(俊成・定家)と「六条藤家」(顕輔・清輔)とが、同じ「忠平→師輔」の系列であること、また、「藤原基俊」が、道長の二男の「頼宗」の孫で、これまた、「御子左家」と近いことに、こういう系図を見ると、いろいろと思い当たることが多い。

by yahantei (2020-06-30 08:07) 

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