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最晩年の光悦書画巻(その十) [光悦・宗達・素庵]

(その十)草木摺絵新古集和歌巻(その十・三条院女蔵人左近=小大君)

(4-5)

花卉五.jpg

花卉摺下絵新古今集和歌巻(部分) 本阿弥光悦筆 (4-5)(三条院女蔵人左近=小大君)
MOA美術館蔵 紙本墨画 金銀泥摺絵 一巻 縦34.1㎝ 長907.0㎝

 この右側の歌が、三条院女蔵人左近(小大君)の、次の一首である。

人ごころうす花ぞめのかり衣さてだにあらで色やかはらむ(新古1156・小大君)

(釈文)人心う須華曽免乃か里衣左天多尓安ら天色や可ハら無(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kodai.html

    題しらず
人ごころうす花ぞめのかり衣さてだにあらで色やかはらむ(新古1156)
【通釈】人の心は薄花染めの狩衣――その薄い色さえ保てず、たちまち褪せてしまうのでしょうか。
【補記】「花染め」は露草の花で縹(はなだ)色に染めること。もともと色落ちしやすい。
【本歌】よみ人しらず「古今集」
世の中の人の心は花ぞめのうつろひやすき色にぞありける

 西行の「逢ふまでの命もがなと思ひしはくやしかりけるわが心かな」から、この小大君の「人ごころうす花ぞめのかり衣さてだにあらで色やかはらむ」の流れは、西行の一首の「わが心」と、小大君の一首の「人ごころ」とが相通ずるという配慮からなのかも知れない。西行と小大君の接点というのはない。時代史的にも、小大君が平安中期の歌人とすると、西行は平安末期から鎌倉初期の歌人ということになる。
 前回の西行に関しても、「『美福門院加賀と待賢門院加賀』・『待賢門院とその女房たち』そして『上西門院と堀川の局・兵衛の局』」(追記メモ三)で、西行を巡る女房歌人たちの一端に触れてきたが、この小大君も、「三条院女蔵人左近」時代に、「藤原朝光・平兼盛・藤原実方・藤原公任」等々の、その当時の錚々たる男性歌人たちとの贈答歌が今に遺されている。
 しかし、その晩年の頃には、次のような、寂昭上人(大江定基)が亡くなったときの「釈教歌」も遺されている。

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kodai.html

    わづらひ侍りける比、寂昭上人にあひて戒うけけるに、
    ほどなくかへりければ
ながき夜の闇にまどへる我をおきて雲がくれぬる空の月かな(続後拾遺1298)

【通釈】無明長夜に惑う私を置いて、去ってしまわれた上人様よ。
【補記】釈教歌。「寂昭上人」は俗名大江定基。三河入道とも。長保五年(1003)、入宋。『小大君集』では第二句「やみにまよへる」、第五句「夜半の月かな

 小大君の歌の詞書にある「寂照上人」(大江定基)は、『宇治拾遺物語・第五九話』の「三川入道遁世之間事」や『今昔物語集・巻第一九』の「参河守大江定基出家語第二」などで知られている、平安時代中期の和歌に秀で図書頭・三河守を歴任した文人の筆頭格の人物である。
 これらの「寂照上人」(大江定基)に関しては、下記アドレスの「寂照説話の視点から(薗部幹夫稿)」が参考となる。

http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/17520/ktk034-03.pdf

 ここでは、平安時代の「女房文学」と「隠者文学」という観点(「女房文学から隠者文学へ(折口信夫稿)」)で、「女房歌人・三条院女蔵人左近」と「隠者出家僧文人・寂照上人」との、その交流の一端が見えて来る。
 こういう「女房歌人」と「隠者出家僧歌人」との交流の一端は、次の「待賢門院堀河と西行」との、次のよう贈答歌も見られる。

    西行法師を呼び侍りけるに、まかるべきよし
    は申しながら、まうで来(こ)で、月の明かり
    けるに、門の前を通ると聞きて、よみて遣は
    しける
1976 西へゆくしるべと思ふ月影の空頼めこそかひなかりけれ(待賢門院堀河「新古今」)
(西方極楽浄土へ行く案内者だと思っていた貴方の空約束は、まことに甲斐の無いことでし
た。)
返し
1977 立ち入らで雲間を分けし月影は待たぬけしきや空に見えけん(西行法師「新古今」
(門内に立ち入らないで雲間を分けて過ぎた月の光は、待っていない様子が空に見えたから
でしょうか。)

(追記メモ一)

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kodai.html

小大君(こおおきみ) 生没年未詳 別称:三条院女蔵人左近

出自未詳。三条天皇(在位1011-1016)の皇太子時代、女蔵人として仕える。藤原朝光・源頼光・藤原実方等と交渉があった。通称は「左近」。「小大君」は「こだいのきみ」と訓む説もある(本居宣長)が、「こおほきみ」「小おほきみ」などと作者名表記した古写本があるので、「こおほきみ」が正しいようである。
家集『小大君集』がある。同集には『小町集』と重複する歌があり、また『小町集』の別の二首は『栄花物語』に小大君の作として載り、小町と小大君の間で歌の伝承に混乱があったとみられる。拾遺集初出。勅撰入集二十一首。三十六歌仙・女房三十六歌仙。

(追記メモ二)平安・鎌倉(※)時代の女流歌人(「女房三十六歌仙」=1~36)

(三十六歌仙)(中古三十六歌仙)(百人一首)(新三十六歌仙)
1 小野小町   〇           〇 9     
2 伊勢     〇           〇19
3 中務     〇
4 斎宮女御   〇
5 小大君    〇
(三条院女蔵人左近)
6 右大将道綱母        〇    〇53
7 馬内侍           〇
8 赤染衛門          〇    〇59
9 和泉式部          〇    〇56
10 紫式部           〇    〇57
11 伊勢大輔             〇    〇61
12 清少納言          〇    〇62
13 相模              〇     〇65
14 右近                 〇38 
15式子内親王              〇89     〇
16周防内侍               〇67
17待賢門院堀河             〇80
18二条院讃岐              〇92
19祐猶子内親王             〇72
20殷富門院大輔             〇90     〇
21大弐三位(藤原賢子)            〇58
22高内侍(儀同三司母)        〇54
23小式部内侍                  〇60
24宮内卿※                      〇
25俊成卿女※                     〇
26宜秋門院丹後
27嘉陽門院越前※
28小侍従※
29後鳥羽院下野※
30弁内侍※
31少将内侍※
32土御門院小宰相※
33八条院高倉※ 〇
34後嵯峨院中納言典侍(典侍藤原親子)※
35式乾門院御匣※
36藻璧門院少将※                   〇

(追記メモ三)鶴下絵三十六歌仙和歌巻(光悦書・宗達画)」周辺(その二十)
(その二十)『鶴下絵和歌巻』(16小大君)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-04-03

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yahantei

 次は、藤原忠平(貞信公)の曽孫・藤原実方なのであるが、小大君は、「藤原朝光・源頼光・藤原実方・藤原公任・藤原道長」等々との華麗な親交もあったようで、それらとの恋歌の「贈答歌」も遺されているようである。しかし、その晩年は、「寂照上人」(大江定基)の死別の歌など、「女房歌人」と「隠者歌人」との歌も遺されている。
 ここから、じっくり、「女房文学から隠者文学へ(折口信夫稿)」に触れて行くと、またもや、迷路に入って行くことになる。そして、次の実方の後が、「伊勢・和泉式部・馬内侍」と続くので、(追記メモ二)平安・鎌倉(※)時代の女流歌人(「女房三十六歌仙」=1~36)などに手間取った。
 こういう表をエクセルでなくワードで簡単に出来ないかと思いつつ、なかなか、思ったようには、いかないようである。





by yahantei (2020-08-16 17:07) 

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