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最晩年の光悦書画巻(その九) [光悦・宗達・素庵]

(その九)草木摺絵新古集和歌巻(その九・西行)

(4-2)

花卉四の二.jpg
花卉摺下絵新古今集和歌巻(部分) 本阿弥光悦筆 (4-2) (源正清朝臣)
MOA美術館蔵 紙本墨画 金銀泥摺絵 一巻 縦34.1㎝ 長907.0㎝

(4-3)

花卉四-三.jpg

花卉摺下絵新古今集和歌巻(部分図) 本阿弥光悦筆 (4-3) (西行)

 上記の上の図(4-2)の左側の三行が西行の歌である。それを拡大して、西行の歌の全体が見られるものが、上記の下の図(4-3)である。

 逢ふまでの命もがなと思ひしはくやしかりけるわが心かな(西行『新古今1155』)

(釈文)あふま天濃い乃知も可なとおも日しハ久やし可利介る我心可那(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)

『新古今和歌集』では、次の詞書のある一首である。

  題知らず
逢ふまでの命もがなと思ひしはくやしかりけるわが心かな(西行法師『新古今1155』)
(逢うまでの命がほしいものだと思ったのは、まことにくやしかったわたしの心であることよ。)

 この西行の一首は、『山家集』・「恋歌」の部の「恋歌百十首」に、「あふまでの命もがな
と思ひしは悔しかりける我がこころかな」の歌形で収載されている。この『山家集』には西行の連歌は収載されていない。
 西行の数少ない連歌が収載されているのは、「聞書集」と「聞書残集」(『岩波文庫山家集』収載「聞書集」「残集」)とである。
 その「聞書集」に、「藤原俊成」宅に「西行・西住・寂然(藤原頼業)」等が集い、次のような「俊成と西行」との連歌(付け合い)を遺している。

【    五条の三位入道、そのかみ大宮の家に住まれける折、
     寂然・西住なんどまかりあひて、後世の物語申しける
     ついでに、向花念浄世と申すことを詠みけるに
心をぞやがてはちすに咲かせつる今見る花の散るにたぐへて (西行)
     かくて物語中しつつ連歌しけるに、扇に桜をおきて、
     さしやりたりけるを見て         家主 顕広(俊成)
梓弓はるのまとゐに花ぞ見る              (俊成)
     とりわき附くべき由ありければ
やさししことに猶ひかれつつ              (西行)      】
                       (「聞書集」(『岩波文庫山家集』)

 上記の記述中の「五条の三位入道」は、「藤原俊成のこと。五条は五条東京極に住んでいたことに因る。三位は最終の官位を指している」。「家主 顕広」も俊成のことで、「仁安二年(一一六七)十二月二十四日に顕広という名を俊成と改めているので(時に俊成五十四歳、西行五十歳、それ以前の作)ということになる。
 この仁安二年(一一六七)というのは、西行にとって大きな節目の年で、「平清盛が太政大臣となった」年である。その三年前に、西行の『山家集』にしばしば登場する「新院」こと「崇徳上皇」が讃岐で崩御し、西行は、その慰霊のため、仁安三年(一一六八)に、「中国・四国への旅、崇徳院慰霊、善通寺庵居」を決行する。
 すなわち、釈阿(俊成)と西行(円位)とは、保元元年(一一五六)の「保元の乱」(崇徳上皇讃岐に配流)、そして、「平治の乱」(京都に勃発した内乱。後白河上皇の近臣間の暗闘が源平武士団の対立に結びつき、藤原信頼・源義朝による上皇幽閉、藤原通憲(信西)殺害という事件に発展した。しかし、平清盛の計略によって上皇は脱出し、激しい合戦のすえ源氏方は敗北した。以後、平氏の政権が成立した。)という、大動乱時代に、その絆を深め合った「真の同志」(歌友)だったのである。

ここで、これらの「聞書残集」(『岩波文庫山家集』の連歌)を理解するためには、次の
アドレスの、「西行の連歌(窪田章一郎稿)」が、その足掛かりとなってくれる。

file:///C:/Users/yahan/Downloads/KokubungakuKenkyu_9-10_Kubota%20(6).pdf

 そこで、「顕広(俊成)の句(「梓弓はるのまとゐに花ぞ見る」)は眼前に即して作った、唱和をもとめる短連歌で、それを西行に名ざしで求めたのである。長連歌の発句にもなりうるもので、穏やかな、明るい、整った句である。寂然、西住たちも同座している楽しげな席であったから、二句のみに終らずに長く連らねられたことも想像されるが、これも何ともいえない」としている。
 さらに、「西行の附句は、『やさししこと』は、矢を挿して負う意で、前句の『梓弓』『まと』と縁を持ち、また『ひかれつつ』は弓を可く意で縁を持っているのは、連歌の常道である。もう一つ『やさししこと』」、語として無理であるが、優しいことの意をもっていると採っていいだろう。この方が一句の意としては表立っている。諸友とともに春のたのしい集いに花を見て、出家の身ではあるが在俗のころとかわらずに風雅の境地に猶心ひかれているという意になろう」と続けている。
 また、「俊成と西行との交際は御裳濯川歌合に俊成によって記されたように『天承の頃ほひ西行(十四歳)より同じ道にたづさはり、仙洞の花下、雲井の月に見なれし友)であったので、西行の附句は俊成の胸にひびいてゆくものをもっていた筈で、二人のみに交流する個人的な感情のあったことがわかる」と記している。

大原三寂・御子左家系図.jpg

「大原三寂・御子左家系図」(『岩波新書西行(高橋貞夫著)』)

 『古今著聞集(巻十五、宿執第二十三)』に、「西行法師、出家よりさきは、徳大寺左大臣の家人にて侍る」と記されている。西行の出家は、保延六年(一一四一)、二十三歳のときであるが、それ以前は「徳大寺家の家人」で、鳥羽院の北面武士として奉仕していたことも記録に遺されている。
 この徳大寺家と俊成の「御子左家は、上記の系図のように近い姻族関係にあり、そして、この御子左家と「常盤三寂(大原三寂)」(「寂念・寂然・寂超」の三兄弟)で知られている「常盤家」と、寂超(藤原為経)の出家で離縁した妻の「美福門院加賀」が俊成の後妻に入り、「藤原定家」の生母となっているという、これまた、両家は因縁浅からぬ関係にある。
 さらに、この美福門院加賀と寂超の子が「藤原隆信」(歌人で「肖像画=「似せ絵」の名手)なのである。この美福門院加賀は、天才歌人・藤原定家と天才画人・藤原隆信の生母で、御子左家の継嗣・定家は、隆信の異父弟ということになる。
 上記の「大原三寂・御子左家系図」の左端の「徳大寺家」の「実能(さねよし)」に、西行は、佐藤義清時代は仕え、この実能の同母妹が「待賢門院璋子(しょうし)」(鳥羽天皇の皇后(中宮)、崇徳・後白河両天皇の母)なのである。
 この待賢門院は、幼女の頃から白河上皇の鍾愛の下に育てられ、鳥羽天皇の中宮になって生まれた子の「崇徳天皇」は、鳥羽天皇に「叔父子(祖父の白河上皇の子)として忌避されていた。大治四年(一一二九)に、「治天の君」として院政を敷いた白河上皇が崩御すると、待賢門院は立場は弱くなり、鳥羽天皇は、長承二年(一一三三)に、藤原長実(六条藤家の顕季の長子)の女「美福門院得子(とくし)」を後宮に迎え入れ、西行が出家した翌々年(永治二年=一一四二)に、待賢門院は出家する。
 待賢門院は、西行より十七歳も年長であり、西行の出家の一つの「悲恋(高貴なる女人)」
説の相手方と目する見方もあるが、それは「西行伝説」の域内に留めるべきものなのかも知れない。しかし、西行が、「美福門院派、近衛天皇(美福門院の子・夭折)・後白河院(待賢門院)派」ではなく、「待賢門院派、崇徳院派」であることは、それは動かし難い事実に属することであろう。
 そして、上記の系図の右端の「常盤家」の為忠は、白河院の側近の一人であり、その子の「常盤(大原)三寂」の「寂念・寂然=唯心房・寂超」の三兄弟も、西行と同じく、「待賢門院派、崇徳院派」と解するのが自然であろう。
 同様に、上記の「御子左家」の俊成も、「六条藤家」出の「美福門院」派よりも「待賢門院」派と解するのが、これまた自然であろう。
 ここで、先の「聞書残集」(『岩波文庫山家集』)の「俊成と西行」との連歌(付け合い)に戻って、「寂然・西住なんどまかりあひて」の「西住(さいじゅう)法師」は、俗名は「
源季正(すえまさ)」という武士で、これまた、西行の出家前からの友人なのである。西行は、その『山家集』では「同行(どうぎょう)に侍りける上人」と「同行」(いっしょに修行する人)という詞書を呈している。この西住については、次のアドレスに詳しい。

http://www.eonet.ne.jp/~yammu/saiju.html

【 為忠が常磐に為業侍りけるに、西住・寂然侍りて、
  太秦に籠りたりけるに、かくと申したりければ、
  罷りたりけり。有明と申す題を詠みけるに
今宵こそ心の隈は知られぬれ入らで明けぬる月を眺めて (西行)

  かくて静空・寂昭なんど侍りければ、物語り申しつつ、
  連歌しけり。秋のことにて肌寒かりければ、
  寂然まで来て背中を合せてゐて連歌しにけり。
思ふにも後合せになりにけり             (寂然)                  
  この連歌異人つくべからずと申しければ
裏返りたる人の心は                 (西行)

  後の世の物語おのおの申しけるに、人なみなみに
  その道には入りながら、思ふやうならぬ由申して
人まねの熊野詣でのわが身かな             静空

  と申しけるに
そりといはるる名ばかりはして            (西行)

  雨の降りければ、檜笠、蓑を着てまで来たりけるを、
  高欄に掛けたりけるを見て                
檜笠着る身のありさまぞあはれなる           西住

  むごに人つけざりければ、興なく覚えて
雨しづくとも泣きぬばかりに             (西行)        
   
  さて明けにければ各々山寺へ帰りけるに、
  後会いつとしらずと申す題、寂然いだして詠みけるに
帰りゆくもとどまる人も思ふらむ又逢ふことのさだめなの世や(西行)  】
 (「聞書残集」(『岩波文庫山家集』)

 この「西行・西住・寂然らの連句」は、『聞書残集』に収載されているものである。この「為忠が常磐に為業侍りけるに」の「為忠が常盤に」は、「藤原為忠の太秦の常盤邸に」の意で、「為業侍りけるに」の「為業」は「常盤(大原)三寂」の「二男・為業=寂念」で、まだ、出家前のことを意味するのであろう。そして、「西住・寂然」の「西住・寂然(四男・頼業)」は、「西行の刎頸の親友」ということになる。
 この「静空」については、「静空は誰れともわからぬが、尾山氏(尾山篤二郎氏)は為忠の長男為盛かといっている。出家後の西行の文学のグループのおもだった人々がこの日は集っている」と、「西行の連歌」(窪田章一郎稿)では、記述されている。
 また、そこで、この「西行・西住・寂然らの連句」について、「この日の西行は心の深さよりはユーモラスな軽妙な味わいを中心として居る。『そり』は剃りで剃髪した僧形のことをいっていると思われ、言葉そのものに無理のあることが興趣を呼んでいるといえよう。西住の句は『身の』に蓑を詠みこんで居り、勾欄にかけられている檜笠と蓑からしたたる雨の雫を、人間化して泣く涙としているところにューモアがある。『あはれなる』を『泣きぬばかり』と受けとめて人間の姿にしたのは、超俗の人がこの一時だけ俗界にかえって心を遊ばせていることが思いあわされて、ユーモアも軽くないものとして味わわれる。夜が明けて別れぎわに『帰りゆくもとどまる人も』と詠んだ時は、ふたたび山寺の生活気分にたちもどっていたのである」との、この評の一端を示されている。


(追記メモ一) 『菟玖波集』における「西行の連歌」関連

「西行の連歌」(窪田章一郎稿)では、「西行の連歌は菟玖波集にも一句も採りいれられず、従来の連歌研究もいまだ扱っていない」というのである。

file:///C:/Users/yahan/Downloads/KokubungakuKenkyu_9-10_Kubota%20(6).pdf
 ↓
 しかし、これは、戦前の昭和五年(一九三〇)の「校本つくば集新釈上巻」(福井久蔵著・早稲田大学出版)当時に基づく論孜なのかも知れない。
 戦後の昭和二十六年(一九五一)に刊行された『日本古典全集 筑波集(上・下)・校注福井久蔵・朝日新聞刊』の、その下巻の「巻十二」と「巻十九」に、次のような、西行の連歌が収載されている。

   空にぞ冬の月は澄みける
    と侍るに
1187 舎(やど)るぺき水は氷にとぢらへて  西行法師 (『菟玖波集・下・巻十二』)
(月が映えるべき水は氷ってしまったので、冬月は空に澄わたっていると前後して見る句)
   (『日本古典全集 筑波集(下)・校注福井久蔵・朝日新聞刊』所収「巻十二」)

  ひろき空にすばる星かな
1948 深き海にかがまる蝦(えび)の有るからに 西行法師 (『菟玖波集・下・巻十九』)
(深い海に身体を十分伸ばしてよいのに、海老はなぜあのように腰をかがめるかと禅の問答のような付けである。参考: 「すばる星」=昴(すばる)=統(す)ばる=集まって一つになる。すまる=すぼまる=窄まる=すぼむ→すばる星。 「深き海」と「広い空」、「すばる星」と「すぼむ蝦」との対比。)
    (『日本古典全集 筑波集(下)・校注福井久蔵・朝日新聞刊』所収「巻十九」)

菟玖波集.jpg

https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he05/he05_02110/he05_02110_0007/he05_02110_0007_p0027.jpg

     修行し侍るりけるに、奈良路をゆくとて、
     尾もなき山のまろきを見て
   世の中にまんまろにこそ見えにけれ  西住法師
     と侍るとて
1956 あそこもここもすみもつかねば    西行法師 (『菟玖波集・下・巻十九』)
(奈良路の山の形がまんまるなのを見て、円に対して四角のものはないということを利かせようとして設けた付合。参考: 「まんまろ」→まんまろ頭→坊主頭→僧=西住法師と西行法師。西行の別号の「円位法師」を掛けているか。「まんまろ」と「四角の四隅」→融通無碍と四角四面との対比。 )
    (『日本古典全集 筑波集(下)・校注福井久蔵・朝日新聞刊』所収「巻十九」)


(追記メモ二)『千載和歌集』の「西住・寂然」の歌(『新日本古典文学大系10 千載集』)

(西住法師)

    行路ノ雪といへる心をよめる
463 駒のあとはかつふる雪にうづもれてをくるヽ人やみちまどふらん
(駒の足跡は次から次へと降る雪に埋もれて、後から遅れて来る人は、道に迷うのではなかろうか。)

     夏のころ越の国へまかりける人の、秋はかならず
     上りなん、待てといひけれど、冬になるまで上り
     まうでこざりければ、つかはしける
493 待てといひて頼めし秋もすぎぬればかへる山路の名ぞかひもなき
(待っていて下さいと、私をあてにさせた約束の秋も過ぎてしまったので、帰って来る山路という帰山の名もそのかいがありませんよ。)

     乍臥無実恋といへる心をよめる
753 手枕のうゑに乱るゝ朝寝髪したに解けずと人は知らじな
(私の手枕の上に乱れている恋人の朝寝髪、それなのに実は打ち解けていないということを他人は知らないだろうな。参考: 乍臥無実恋=臥シ乍ラ実ノ無キ恋=共に臥しながら男女の関係に至らなかった恋。)

1140 まどろみてさてもやみなばいかゞせむ寝覚めぞあらぬ命なりける
(睡眠中にそのまま死を迎えたらどうしたらよかろう。寝覚めというものにこそ無いはずの命なのであったよ。)

(寂然法師)

230 秋はきぬ年もなかばにすぎぬとや荻吹く風のおどろかすらむ
(秋が来た。一年も半ばまで過ぎたと言ってであろうか。荻に吹く風が目を覚まさせるようだ。)

     西住法師みまかりける時、終り正念なりけるよしを聞きて、
     円位(西行)法師のもとへつかはしける
604 乱れずと終りを聞くこそうれしけれさても別れはなぐさまねども
(乱れるところがなかった、とその臨終の様を聞けるのは嬉しいことです。そうとはいっても、死別の悲しみは慰められないのですが。)

664 みちのくの信夫もぢずり忍びつヽ色には出でじ乱れもぞする。
(みちのくの信夫もじずりではないが、忍び忍びしてわが恋心を表にあらわすまい。)

      世を背(そむ)きて又の年の春、花を見てよめる
1068  この春ぞ思ひはかへすさくら花空(むな)しき色に染めし心を
(この春にこそ、桜花の空しい色に染めて執着していた心を翻して、色即是空と悟ることだ。参考: 思ひかへす悟りや今日はなからまし花にそめおく色なかりせば/西行)

      題不知
1069  世の中を常なきものと思はずはいかでか花の散るに堪へまし
(この世を無常と思わなかったら、どうして花の散ることに堪えられるだろうか。無常の認識に立つからこそ散華のあわれに堪えられるのだ。)

      火盛久不燃
1251  煙(けぶり)だにしばしたなびけ鳥辺山たち別れにし形見とも見ん
(荼毘の煙だけでもしばらくの間たなびいていて欲しい。鳥辺山よ、せめてそれを死別したあの人の形見と見ようと思うから。参考: 「火盛久不燃」=罪業応報経の偈の一節。栄枯盛衰の無常をいう。)

(追記メモ三) 「美福門院加賀と待賢門院加賀」・「待賢門院とその女房たち」そして「上西門院と堀川の局・兵衛の局」

(美福門院加賀)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kaga_b.html

1232 よしさらばのちの世とだにたのめおけつらさにたへぬ身ともこそなれ(『新古今・藤原俊成』)
       返し
1233 たのめおかむたださばかりを契りにて憂き世の中を夢になしてよ(『新古今・藤原定家朝臣母=美福門院加賀)

(待賢門院加賀)→ 大宮の女房加賀

https://sakuramitih31.blog.fc2.com/blog-entry-4412.html?sp

799 かねてより思ひし事ぞ伏柴のこるばかりなる歎きせむとは(『千載集・待賢門院加賀)

(待賢門院とそのの女房たち)

http://sanka11.sakura.ne.jp/sankasyu3/42.html

〇中納言の局
〇堀川の局
〇兵衛の局
堀川の局の妹。待賢門院のあとに上西門院に仕えています。西行との贈答歌が山家集の中に三首あります。
〇帥の局
〇加賀の局→大宮の加賀 
西行より13歳の年長ということです。母は新肥前と言うことですが、詳しくは不明です。千載集に一首採録されています。この人は待賢門院の後に近衛院の皇后だった藤原多子に仕えて、大宮の女房加賀となります。有馬温泉での贈答歌が135Pに二首あります。ただし、  西行の歌は他の人の代作としてのものです。寂超長門入道の妻、藤原俊成の妻、藤原隆信や藤原定家の母も加賀の局と言いますが、年齢的にみて、この美福門院加賀とは別人とみられています。 ○紀伊の局
〇安芸の局
〇尾張の局
〇新少将
源俊頼の娘。新古今集・新拾遺集に作品があります。

(上西門院と堀川の局・兵衛の局)

http://sanka11.sakura.ne.jp/sankasyu3/42.html

〇上西門院
〇堀川の局・兵衛の局
二人ともに生没年不詳です。村上源氏の流れをくむ神祇伯、源顕仲の娘といわれています。姉が堀河、妹が兵衛です。二人の年齢差は不明ですが、ともに待賢門院璋子(鳥羽天皇皇后)に仕えました。堀川はそれ以前に、白河天皇の令子内親王に仕えて、前斎院六条と称していました。1145年に待賢門院が死亡すると、堀川は落飾出家、一年間の喪に服したあとに、仁和寺などで過ごしていた事が山家集からも分かります。兵衛は待賢門院のあとに上西門院に仕えてました。1160年、上西門院の落飾に伴い出家したという説があります。それから20年以上は生存していたと考えられています。上西門院は1189年の死亡ですが、兵衛はそれより数年早く亡くなったようです。
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yahantei

西行の「聞書残集」から、次の連歌(長連歌)が拾えたのは収穫であった。

【 為忠が常磐に為業侍りけるに、西住・寂然侍りて、
  太秦に籠りたりけるに、かくと申したりければ、
  罷りたりけり。有明と申す題を詠みけるに
今宵こそ心の隈は知られぬれ入らで明けぬる月を眺めて (西行)

  かくて静空・寂昭なんど侍りければ、物語り申しつつ、
  連歌しけり。秋のことにて肌寒かりければ、
  寂然まで来て背中を合せてゐて連歌しにけり。
思ふにも後合せになりにけり             (寂然)                  
  この連歌異人つくべからずと申しければ
裏返りたる人の心は                 (西行)

  後の世の物語おのおの申しけるに、人なみなみに
  その道には入りながら、思ふやうならぬ由申して
人まねの熊野詣でのわが身かな             静空

  と申しけるに
そりといはるる名ばかりはして            (西行)

  雨の降りければ、檜笠、蓑を着てまで来たりけるを、
  高欄に掛けたりけるを見て                
檜笠着る身のありさまぞあはれなる           西住

  むごに人つけざりければ、興なく覚えて
雨しづくとも泣きぬばかりに             (西行)        
   
  さて明けにければ各々山寺へ帰りけるに、
  後会いつとしらずと申す題、寂然いだして詠みけるに
帰りゆくもとどまる人も思ふらむ又逢ふことのさだめなの世や(西行)  】
 (「聞書残集」(『岩波文庫山家集』)

『日本古典全集 筑波集(上・下)・校注福井久蔵・朝日新聞刊』の下巻、第十二巻(雑連歌一)から第十六(雑連歌五)までは、「短連歌」(二句掛け合い、二句唱和)だが、『菟玖波集』の見どころの一つ。巻十七巻(羇旅連歌)、第十八巻(賀連歌)、第十九巻(雑多体連歌)―俳諧・聯句連歌・雑句・片句連歌―=この巻も「俳諧」との関連で大事な巻である。第二十巻(発句)。

『菟玖波集』の参考書は実に少ない。『新撰菟玖波集』もしかり、それに比すると、「犬菟玖波集」などは多い。

1232 よしさらばのちの世とだにたのめおけつらさにたへぬ身ともこそなれ(『新古今・藤原俊成』)
       返し
1233 たのめおかむたださばかりを契りにて憂き世の中を夢になしてよ(『新古今・藤原定家朝臣母=美福門院加賀)



俊成が、美福門院加賀を、出家した寂超に離縁された美福門院加賀(連れ子の「隆信」)を後妻に迎え入れたのは、この贈答歌からすると、俊成に懇望されたと理解をして置きたい。
 ついでに、「西行失恋説」の相手方は、上記の、待賢門院・上西門院とその局たちの中に隠れているのかも知れない。

by yahantei (2020-08-11 16:17) 

yahantei

上記、第十九巻(雑多体連歌)→(雑体連歌)など、誤記などが多い。それよりも、早く、この「草木摺絵新古集和歌巻」・「花卉摺下絵新古今集和歌巻」をゴールにしたい。
by yahantei (2020-08-11 18:02) 

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