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最晩年の光悦書画巻(その十二) [光悦・宗達・素庵]

(その十二)草木摺絵新古集和歌巻(その十二・伊勢)

花卉六.jpg

花卉摺下絵新古今集和歌巻(部分) 本阿弥光悦筆 (6)(伊勢)
MOA美術館蔵 紙本墨画 金銀泥摺絵 一巻 縦34.1㎝ 長907.0㎝

夢とても人に語るな知るといへば手枕ならぬ枕だにせず(「新古1159)

(釈文)ゆめと天も人尓語なしると以へバたま久ら怒枕多尓勢須

   忍びたる人と二人臥して
夢とても人に語るな知るといへば手枕ならぬ枕だにせず(「新古1159」)
(夢の中のこととしてでも、人にお語りなさいますな。枕は共寝の秘密を知るといいますから、手枕でない枕さえもしていないのです。)

 この「歌意」は『日本古典文学全集26 新古今和歌集(校注・訳:峯村文人)』に因っている。その「校注」で、この歌の参考歌として、「676 知るといへば枕だにせで寝しものをちりならぬ名の空に立つらむ」(伊勢「古今・恋三」)を挙げている。この参考歌と共に鑑賞すると、この「新古今」所収の歌がより一層鮮明に伝わって来る。
 この歌は、その詞書の「忍びたる人と二人臥して」、そのものずばりの「忍ぶ恋仲の二人の共寝」の歌なのである。参考歌は、「どうして、塵でもない恋仲の評判が立っているのであろうか」というもので、この掲出歌は、「手枕にこと寄せて、共寝の秘密を絶対に漏らさないで下さい」という、何とも優婉な恋歌である。
 伊勢は、下記のアドレスのとおり、「若くして宇多天皇の后藤原温子に仕え、温子の弟仲平と恋に落ちたが、やがてこの恋は破綻する。一度は父のいる大和に帰るが、再び温子のもとに出仕した後、仲平の兄時平や平貞文らの求愛を受ける。その後、宇多天皇の寵を得、皇子を産むが、その皇子は夭逝する。宇多天皇の出家後、同天皇の皇子、敦慶(あつよし)親王と結ばれ、中務(三十六歌仙・女房三十六歌仙の一人)を産む。このような華麗な遍歴の後、宇多天皇の没後に摂津国嶋上郡(大阪府)に庵を結んで隠棲した。作者の生没年が確認されていない」と、王朝女流歌人の典型的な華麗且つ悲哀の生涯を辿る。
 この「伊勢」(『古今和歌集目録』には更衣となったとある)を、『源氏物語』の発端の第一帖「桐壺」の、「桐壺更衣」そして、その「桐壺帝」は「宇多天皇」、そして、『源氏物語』の主人公「光源氏」は、その二人の間に生まれた夭逝した皇子、そして、その形見のような「宇陀天皇の『皇子・敦慶親王』(その「敦慶親王」と「伊勢」との間に自分の分身のような「中務」が生まれる)と見立てることも、歌人にして希代のストーリーテラーの「紫式部」の脳裏の片隅にあったことは、『源氏物語』(桐壺)の、次の一節の中に、「宇多天皇(亭子院)」と「伊勢」の名が出ていることが、それを示唆しているように思われる。

【命婦は、『まだ大殿籠もらせ給はざりける』と、あはれに見奉る。御前の壺前栽(せんざい)のいとおもしろき盛りなるを、御覧ずるやうにて、忍びやかに、心にくき限りの女房四五人さぶらはせ給ひて、御物語せさせ給ふなりけり。このごろ、明け暮れ御覧ずる長恨歌(ちょうごんか)の御絵、亭子院(ていしいん)の描かせ給ひて、伊勢、貫之に詠ませ給へる、大和言の葉をも、唐土(もろこし)の詩(うた)をも、ただその筋をぞ、枕言にせさせ給ふ。】(「桐壺」・「九 命婦帰参、さらに亭の哀傷深まる」)

 ここに、登場する「長恨歌」の「玄宗皇帝(桐壺帝=宇多天皇)と楊貴妃(桐壺更衣=伊勢御息所)」が、『源氏物語』の「桐壺」の背景に横たわっていることは周知のところであり、それを示唆するように、「亭子院(宇多上皇の御所)」と「伊勢、貫之」の「伊勢」が実名で登場している。

 この「亭子院のみかどの描かせた長恨歌」関連の、伊勢の歌がある。

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/ise.html

長恨歌の屏風を、亭子院のみかど描かせたまひて、
  その所々詠ませたまひける、みかどの御になして(二首)
もみぢ葉に色みえわかずちる物はもの思ふ秋の涙なりけり(伊勢集)
【通釈】紅葉した葉と色が区別できずに散るものは、物思いに耽る私の秋の涙であったよ。

かくばかりおつる涙のつつまれば雲のたよりに見せましものを(伊勢集)
【通釈】このほどまで流れ落ちる涙が包めるものなら、雲の上への便りに贈って見せるだろうに。

 ここで、あらためて女流歌人・伊勢に焦点を絞ると、「古今和歌集」には二十二首、「後撰和歌集」には六十五首、そして、「拾遺和歌集」には二十五首採録されていて、所謂、三大集随一の女流歌人ということになる。
 「新古今和歌集」に採録されている数は十五首とそれほど多くないが、「新古今和歌集」の編纂の方針が、すでに勅撰和歌集に採録されている和歌は選ばない方針であることに影響しているのであろう。


       寛平御時后宮の歌合歌
65   水のおもにあやおりみだる春雨や山のみどりをなべて染むらん
       題しらず
107  山桜ちりてみ雪にまがひなばいづれか花と春に問はなむ
       七條の妃の宮の五十賀屏風に
714   住江(すみのえ)の浜の真砂を踏むたづは久しき跡をとむるなりけり
       題知らず
721   山風は吹かねどしら波の寄する岩根は久しかりけり 
       題しらず
858  忘れなむ世にもこしぢの帰へる山いつはた人に逢はむとすらむ
       題しらず (二首)
1048  みくまのの浦よりをちに漕ぐ舟の我をばよそにへだてつるかな
1049  難波潟短かき蘆のふしのまも逢はでこの世をすぐしてよとや
       題しらず
1064  わが恋は荒磯(ありそ)の海の風をいたみしきりによする波の間もなし
忍びたる人と二人臥して
1159※  夢とても人に語るな知るといへば手枕ならぬ枕だにせず
1168 逢ふことの明けぬ夜ながら明けぬればわれこそ帰れ心やはゆく
       題知らず
1241 言(こと)の葉のうつろふだにもあるものをいとど時雨の降りまさるらん
       題知らず 
1257 更級(さらしな)や姨捨山の有明のつきずもものを思ふころかな
1381 春の夜の夢にありつと見えつれば思ひ絶えにし人ぞ待たるる
       題しらず
1408   思ひいづや美濃のを山のひとつ松ちぎりしことはいつも忘れず
       亭子院下りゐ給はんとしける秋よみ侍りける
1720 白露は置きて替れどももしきのうつろふ秋はものぞ悲しき

 これは「新古今和歌集」入集の伊勢の十五首である。小野小町の入集数六首に比して、それを凌駕している。因みに、「古今和歌集」の入集数は、伊勢、二十二首、小町、十八首で、両者は拮抗している。
 伊勢も小町も、恋歌の名手として知られているが、上記の「新古今和歌集」所収の句は、恋歌のみならず、オールラウンドの「女貫之」(紀貫之に匹敵する女流歌人)という雰囲気でなくもない。
 上記の十五首は、その殆どが「題知らず」なのだが、これが私家集の『伊勢集』になると、長文の詞書が付してある。その第一部を占める最初の歌群は三十二首から成り、その冒頭の詞書は、次のようなものである。

【 いづれの御時にかありけむ、大御息所(おほみやすんどころ)ときこゆる御局に、大和に親ありける人さぶらひけり。親いと愛(かな)しうして、男などもあはせざりけるを、
御息所の御せうと、年ごろ言ひわたりたまふを、しばしはさらに聞かざりけるに、いかがありけむ、親いかが言はむと嘆きたりけるを、年頃へにければ聞きつけてけり。されど縮世(すくせ)こそはありけめとて、ことに言はざりけり。……  】
 (『王朝女流歌人抄・清水好子著・新潮社』「伊勢」)

 これは、紛れもなく、『源氏物語』の冒頭の書き出し部分と一致して来る。

【 いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて 時めきたまふありけり。はじめより我はと思ひあがりたまへる御方方、めざましきものにおとしめねたみたまふ。同じほど、それより下臈の更衣たちはましてやすからず。朝夕の宮仕につけても、人の心をのみ動かし、恨みを負ふつもりにやありけむ、いとあつしくなりゆき、もの心細げに里がちなるを、いよいよ あかずあはれなるものに思ほして、人のそしりをもえ憚らせたまはず、世のためしにもなりぬべき御もてなしなり。…… 】 (『新編日本古典文学全集20 源氏物語①』)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/ise.html

伊勢(いせ) 生没年未詳

伊勢の御、伊勢の御息所(みやすどころ)とも称される。藤原北家、内麻呂の裔。伊勢守従五位上藤原継蔭の娘。歌人の中務の母。生年は貞観十六年(874)、同十四年(872)説などがある。没年は天慶元年(938)以後。
若くして宇多天皇の后藤原温子に仕える。父の任国から、伊勢の通称で呼ばれた。この頃、温子の弟仲平と恋に落ちたが、やがてこの恋は破綻し、一度は父のいる大和に帰る。再び温子のもとに出仕した後、仲平の兄時平や平貞文らの求愛を受けたようであるが、やがて宇多天皇の寵を得、皇子を産む(『古今和歌集目録』には更衣となったとある)。しかしその皇子は五歳(八歳とする本もある)で夭折。宇多天皇の出家後、同天皇の皇子、敦慶(あつよし)親王と結ばれ、中務を産む。
延喜七年(907)、永く仕えた温子が崩御。哀悼の長歌をなす。天慶元年(938)十一月、醍醐天皇の皇女勤子内親王が薨じ、こののち詠んだ哀傷歌があり、この頃までの生存が確認できる。
歌人としては、寛平五年(893)の后宮歌合に出詠したのを初め、若い頃から歌合や屏風歌など晴の舞台で活躍した。古今集二十三首、後撰集七十二首、拾遺集二十五首入集は、いずれも女性歌人として集中最多。勅撰入集歌は計百八十五首に及ぶ。家集『伊勢集』がある。特に冒頭部分は自伝性の濃い物語風の叙述がみえ、『和泉式部日記』など後の女流日記文学の先駆的作品として注目されている。三十六歌仙の一人。


(追記) 「 伊勢日記私注(一)・松原輝美稿」(高松短期大学紀要第十七号)

https://www.takamatsu-u.ac.jp/wp-content/uploads/2018/12/17_II_01-20_matsubara.pdf

「 伊勢日記私注(二)・松原輝美稿」(高松短期大学紀要第十七号)

file:///C:/Users/yahan/Downloads/AN00138796_17_21_37%20(2).pdf

伊勢系譜図.jpg


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yahantei

王朝女流歌人として和泉式部と双璧を為す「伊勢」が、『源氏物語』の「桐壺」の書き出しの、そのモデルの一端になっていることは、これまで、気かつかなかった。
しかし、「 伊勢日記私注(一)(二)」などの論考を見ていくと、さまざまな見解があり、肯定的な見方よりも否定的な見方の方が有力のようである。
それでも、なおかつ、肯定的に解した方が、面白い。

by yahantei (2020-08-25 08:56) 

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