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最晩年の光悦書画巻(その十三) [光悦・宗達・素庵]

(その十三)草木摺絵新古集和歌巻(その十三・和泉式部)

花卉六.jpg

花卉摺下絵新古今集和歌巻(部分) 本阿弥光悦筆 (6)(和泉式部)
MOA美術館蔵 紙本墨画 金銀泥摺絵 一巻 縦34.1㎝ 長907.0㎝

枕だに知らねば言はじ見しままに君語るなよ春の夜の夢(新古1160)

(釈文)満久らだ尓しら年ハ以ハじ見しま々尓君可多るなよ春濃能夢

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/izumi.html

    題しらず
枕だに知らねば言はじ見しままに君語るなよ春の夜の夢(新古1160)
【通釈】枕さえ知らないのですから、告げ口はしないでしょう。ですからあなた、見たままに人に語ったりしないで下さい、私たちの春の夜の夢を。
【語釈】◇枕だに… 古歌より「人は知らなくても枕は情事を知る」という観念があったため、枕さえせずに寝たのである。だから枕も告げ口のしようがない(下記本歌・参考歌参照)。◇春の夜の夢 情事を喩える。
【補記】『和泉式部続集』では「おもひがけずはかりて、ものいひたる人に」の詞書に続く三首の第二首で、第四句は「君にかたるな」とする。
【本歌】伊勢「伊勢集」「新古今集」
夢とても人にかたるなしるといへば手枕ならぬ枕だにせず
【参考歌】
よみ人しらず「古今集」
わが恋を人しるらめや敷妙の枕のみこそしらばしるらめ    
伊勢「古今集」
知るといへば枕だにせで寝しものを塵ならぬ名の空にたつらむ

和泉式部(いずみしきぶ)生没年不詳

生年は天延二年(974)、貞元元年(976)など諸説ある。父は越前守大江雅致(まさむね)、母は越中守平保衡(たいらのやすひら)女。父の官名から「式部」、また夫橘道貞の任国和泉から「和泉式部」と呼ばれた。
母が仕えていた昌子内親王(冷泉天皇皇后)の宮で育ち、橘道貞と結婚して小式部内侍をもうける。やがて道貞のもとを離れ、弾正宮為尊(ためたか)親王(冷泉第三皇子。母は兼家女、超子)と関係を結ぶが、親王は長保四年(1002)六月、二十六歳で夭折。翌年、故宮の同母弟で「帥宮(そちのみや)」と呼ばれた敦道親王との恋に落ちた。この頃から式部が親王邸に入るまでの経緯を綴ったのが『和泉式部日記』である。親王との間にもうけた一子は、のち法師となって永覚を名のったという。
しかし敦道親王も寛弘四年(1007)に二十七歳の若さで亡くなり、服喪の後、寛弘六年頃から一条天皇の中宮藤原彰子のもとに出仕を始めた。彰子周辺にはこの頃紫式部・伊勢大輔・赤染衛門などがいた。その後、宮仕えが機縁となって、藤原道長の家司藤原保昌と再婚。寛仁四年(1020)~治安三年(1023)頃、丹後守となった夫とともに任国に下った。帰京後の万寿二年(1025)、娘の小式部内侍が死去。小式部内侍が藤原教通とのあいだに残した子は、のちの権僧正静円である。
中古三十六歌仙の一人。家集は数種伝わり、『和泉式部集』(正集)、『和泉式部続集』のほか、「宸翰本」「松井本」などと呼ばれる略本(秀歌集)がある。また『和泉式部日記』も式部の自作とするのが通説である。勅撰二十一代集に二百四十五首を入集(金葉集は二度本で数える)。名実共に王朝時代随一の女流歌人である。


「花卉摺下絵新古今集和歌巻」では、この歌が末尾で、この後に、「光悦」の黒印が押印してある。この「花卉摺下絵新古今集和歌巻」は、慶長十年(一六〇五)前後の作品とされ(『玉蟲他・前掲書』)、光悦の四十八歳前後に制作されたものということになる。
これらについては、下記のアドレスで触れてある。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-07-16

(再掲)

【  花卉摺下絵新古今集和歌巻(部分) 本阿弥光悦筆 (3-1)
17世紀初め、MOA美術館蔵 紙本墨画 金銀泥摺絵 一巻 縦34.1㎝ 長907.0㎝
具引き、すなわち胡粉を塗って整えた料紙に、梅、藤、竹、芍薬、蔦などの四季の花卉を金銀泥で摺り、「新古今集和歌集」巻十二、十三から選んだ恋歌21首を書写する。起筆の文字を大きく濃くしるし、高低、大小の変化をつけた散らし書きのリズムが心地よい。末尾に署名はなく「光悦」の黒印のみを捺している。背面は松葉文様を摺り、紙継ぎに「紙師宗二」印を記す。(『もっと知りたい本阿弥光悦―生涯と作品―(玉蟲敏子他著)』) 】

 そして、光悦は、その最晩年の、寛永十年(一六三三)に、「鷹峯隠士大虚庵齢七十有六」の署名と「光悦」の黒印のある、次のアドレスの「草木摺絵新古今集和歌巻」を仕上げる。
しかし、この末尾の歌は、上記の、和泉式部の歌(「新古1160」)ではなく、次の(「(新古1161)」)の「忘れても人に語るなうたた寝の夢見てのちも長からじ世の(馬内侍)」のものである。
 
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-07-15

馬内侍.jpg

(再掲)

【 草木摺絵新古今集和歌巻(部分) 寛永10年(1633)10月27日 静嘉堂文庫蔵
紙本墨書 金泥摺絵 一巻 縦35.8㎝ 長957.2㎝
四季順に、躑躅(つつじ)、藤、立松、忍草、蔦(つた)、雌日芝(めひしば)の木版模様を並べ、金泥や金砂子をほどこした下絵に、巻十二恋歌二の終わり二首、巻十三恋歌三の巻頭から十三首を選んで記す。巻末には「鷹峯隠士大虚庵齢七十有六」の署名と「光悦」の黒印がある。震えを帯びた細い線が所々に見出され、年紀どおり最晩年の書風を示している。(『もっと知りたい本阿弥光悦―生涯と作品―(玉蟲敏子他著)』) 】


 「伊勢・和泉式部・馬内侍」の関連などは、次の「馬内侍」で触れることにして、ここでは、『菟玖波集(上)』所収の「和泉式部」の連歌などについて触れて置きたい。

    清水寺に通夜し侍りけるに瀧の音を聞きて
  よる音すなり瀧の白絲            和泉式部
    と申してまどろみ侍りけるに、御帳の中より
    けだかき御声して
623 大悲じやの千千の手ごとにくりかけて
    これは観音の付けさせ給ひけるとぞ。

   みるめはなくて恋をするかな
    と侍るに
624 あふみなるいかごの海のいかなれば
    此句は保元の頃、近江に在廰成りけるもの、
    国中にならびなき美女をあひぐしたりける
    を、国司聞きて彼女を恋ひけるになげき申
    しければ、国司思ふ様ありて、みるめはな
    くてといふ連歌をして箱に入れて封を付け
    て、此連歌を見ずして付けたらんに、こと
    わとかなひたれば、汝がなげき申す旨をゆ
    るすべしと云いけるに、此男此道の行衛を
    知らねば、おもふばかりなくて、石山寺に
    こもりてさまざま祈り申しけるに、七日過
    ぎて泣く泣く下向しける時、大門より一町
    ばかり行きて下女一人行き逢ひて此句を詠
    じける程に、佛の教にこそと思ひて、国司
    のもとへ行きて申しければ、ことわり叶ひ
    たりとて、其女をゆるしてけり。是は観音
    の御連歌となん申し伝へたる。

 この「623」の校注(福井久蔵校注)に、「白絲の瀧の夜落ちる音を現実に聞いたことを前句にあげたので、白絲の詞により、大慈大悲の観音の手毎にその絲を繰りかけてと詞の縁にすがつて寄合をなした。夜に縒るをかけ、手に繰(く)るを寄合とした。また清水寺の本尊が千手観音佛でおはすことはいふまでもない。」とある。
  また、「624」の校注は、「みるめは海藻の一種、海松(みる)に見るをいひかけ、噂だけで、目のあたり見ないのになぜ恋ひしいのか、の意。今昔物語には『みるめもなきに人の恋ひしき』とある。」と「前句に対して、それはいかなるわけか知らぬといふべきであるのを、いかがといふのに序として用ゐる伊香胡の崎を出し、それは近江国にあるので、さらに近江なると加えた。」とある。

 この詞書(「前書き」と「後書き」)によると、この「付句」は、「観音」の「お告げ」に因るものということになる。

   よる音すなり瀧の白絲            和泉式部
623 大悲じやの千千の手ごとにくりかけて     (観音)

   みるめはなくて恋をするかな         国司
24 あふみなるいかごの海のいかなれば       (観音)

 ここで、連歌(「短連歌」と「長連歌」)というのは、大雑把に、「二人以上の作者が、一つの歌を作ることで、上の句(五七五句)と下の句(七七句)、又は、下の句と上の句とを作ることを、「短連歌」と言い、それを、繰り返し続けることを「長連歌」と言う」と定義することも出来よう。
 そして、二人で創作することを「両吟」、三人でする場合は「三吟」とかと呼ばれる。ここで、一人で創作する場合は「独吟」(片吟)と呼ばれるが、原則は、二人以上の共同(協同)創作ということになろう。
 その「独吟」の場合も、単純に、「上の句」と「下の句」とを創作するのではなく、それぞれが、「上の句」は「上の句」、「下の句」は「下の句」として、別人が創作したように独立していているように作ることが原則となって来る。
 
 大悲じやの千千の手ごとにくりかけて     (観音)
  よる音すなり瀧の白絲           和泉式部
 あふみなるいかごの海のいかなれば      (観音)
  みるめはなくて恋をするかな        国司

 上記のように表記すると「観音・和泉式部・国司」の「三吟」の四句ということになる。
「大悲じやの千千の手ごとにくりかけて」(前句)に対して「よる音すなり瀧の白絲」(付句)は、「校注」の場面ですると、京都の清水寺の御本尊、大慈大悲の「十一面千手観世音菩薩」
の前句に対して、その音羽山の「音羽の瀧」の付句である。
 続く、「よる音すなり瀧の白絲」(前句)の「京都の音羽の瀧」に対する「あふみなるいかごの海のいかなれば」(付句)は、場面を「近江の伊香胡(余呉湖)へと「転じ」ている。
 さらに、「あふみなるいかごの海のいかなれば」(前句)の「近江と相見」の「掛詞」に対して、「みるめはなくて恋をするかな」(付句)も「海松(みる)と見る」との「掛詞」で応酬   
している(この「掛詞」を「賦物」として読み取り「掛詞」で応じている)。
 この和泉式部の連歌は、南北朝時代の連歌の大成者、二条良基の『菟玖波集』に収載されているものだが、二条良基には、別に、連歌論書として、『筑波問答』『応安新式』『連理秘抄』などがある。
 その「筑波問答」に、「後鳥羽院建保の比より、白黒又は色々の賦物の獨(ひとり)連歌を、定家・家隆卿などに召され侍りしより、百韻などにも侍るにや」とあり、「伊勢・和泉式部」時代、そして、次の「後鳥羽院・定家・家隆」時代には、「賦物連歌」(追記一・追記二)で「獨連歌」(独吟)が主体であったことが了知される。
 しかし、この「後鳥羽院・定家・家隆」時代には、連歌式目(ルール)というのは確立しておらず、その萌芽は、後鳥羽院の第三皇子・順徳天皇の『八雲御抄』(追記三)あたりで、二条良基の『連理秘抄』では、「八雲の御抄にも、末代(同書巻一・正義部に見える)ことに存知すべしとて、式目など少々しるさるゝにや」と記されている。
 そして、これらの「短連歌」から「長連歌」、そして、「独(ひとり)連歌」(独吟)から「連歌」(両吟以上の連歌)への移行を知る上で、上記の『菟玖波集』所収の和泉式部の連歌は、多くの示唆を含んでいる。

【和泉式部といふ人こそ、おもしろう書き交しける。されど和泉はけしからぬかたこそあれ、うちとけて文走り書きたるに、そのかたの才ある人、はかない言葉のにほひも見えはべるなり。歌はいとをかしきこと。ものおぼえ、歌のことわり、まことの歌詠みざまにこそはべらざめれ、口にまかせたることどもに、かならずをかしき一ふしの、目にとまる詠み添へはべり。それだに、人の詠みたらむ歌、難じことわりゐたらんは、いでや、さまで心は得じ、口にいと歌の詠まるるなめり、とぞ見えたる筋に侍るかし。はづかしげの歌詠みや、とは覚えはべらず。】(『紫式部日記』の「和泉式部」評)

 この紫式部の「和泉式部」評で、「口にまかせたることどもに、かならずをかしき一ふしの、目にとまる詠み添へはべり」(口にまかせて詠んだ歌には、かならずこれはと、一ふし目にとまるおもしろいことを詠み添えております)と「口にいと歌の詠まるるなめり、とぞ見えたる筋に侍るかし」(口にすらすらと歌が詠み出されてくるといったたちの才能なのでしょうよ)とが、いわゆる、「連歌」(「短連歌」と「長連歌」)の本質の「当意即妙」「臨機応変」「挨拶と即興」などに「長けている歌人」であるという評なのであろう(この引用文の和訳は『王朝女流歌人抄(清水好子著)』に因っている)。


(追記一) 「賦物」(連歌におけることば遊び、「賦物(ふしもの)」)

https://japanknowledge.com/articles/asobi/06.html

(追記二) 「物名」(隠し題)

https://japanknowledge.com/articles/asobi/05.html

(追記)三 『八雲抄』巻第1-6 / [順徳天皇] [撰]

https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko20/bunko20_00288/index.html
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yahantei

どうにも先に進まないが、『菟玖波集(上下)』の「和泉式部」で、ひとまず、ここからは離れることとする。この『菟玖波集(上下)』(福井久蔵校注・日本古典全書)には、「西行」の連歌のほかに、「西行」の別豪の「園位法師」のものも収載されている。
 これらは、ひとまず、ストップして、「光悦書画和歌巻」に焦点を絞って行きたい。そして、それは、「光悦・宗達和歌巻」ではなく、「光悦」の「書」が中心となってくる。
 これが、また難題で、「宗達」(そして「宗達工房)そして「琳派」の「画」が中心で、その「書画和歌巻」の「書」と「和歌」に関するアプローチは、どうにも、影が薄いという感じである。
 それが、「書」(「書道芸術」)から、「和歌」(「和歌文学」)まで比翼を広げると、これまた、終始がつかなくなる。
by yahantei (2020-09-04 18:03) 

yahantei

「西行」の別豪の「園位法師」は、『千載集』時代の「円位法師」で、「別豪」は「別号」のミス。しかし、この「別豪」のパソコンのミスも面白い。
by yahantei (2020-09-04 18:08) 

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