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四季草花下絵千載集和歌巻(その二十一) [光悦・宗達・素庵]

(その二十一) 和歌巻(その二十一)

和歌巻17.jpg

「光悦筆 四季草花宗達下絵和歌巻」(日本古典文学会・貴重本刊行会・日野原家蔵一巻)

     久我内大臣の家にて、「身ニ代エテ花ヲ惜シム」
     といへる心をよめる
92 桜花うき身にかふるためしあらば生きてちるをば惜しまざらまし(権中納言通親)
(桜の花が散るのを、この憂き身に代えて止めるというためしがあるのなら、私は(身代わりになるから)生き永らえて散る花を惜しむことはないであろう。)

釈文(揮毫上の書体)=(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)
左久らハ那(さくらばな)う来身尓(うき身に)可ふる(かふる)多免し安ら半(ためしあらば)以来天(いきて)散るをハ(ば)おしま左(ざ)らまし

※左久らハ那(さくらばな)=桜花。
※う来身尓(うき身に)=憂き身。辛い現世を生きている身。
※多免し安ら半(ためしあらば)=ためしあらば。前例があるならば。
※以来天(いきて)散るをハ(ば)=いきて散るをば。生き永らえて散る(花)をば。
※おしま左(ざ)らまし=惜しまざらまし。惜しむことはないであろう。
※※久我内大臣=作者(通親)の父、源雅通。

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/mititika.html

【源通親(みなもとのみちちか)久安五~建仁二(1149-1202) 号:土御門内大臣・源博陸(げんはくろく)
村上源氏。内大臣久我(こが)雅通の長男。母は藤原行兼の息女で美福門院の女房だった女性。権大納言通資の兄。子には、通宗(藤原忠雅女所生)、通具(平道盛女所生)、通光・定通(藤原範子所生)がいる。道元(松殿基房女所生)も通親の子とする説がある。後鳥羽院后在子は養女。
保元三年(1158)八月、従五位下に叙される。仁安二年(1167)、右近衛権少将。同三年正月、従四位下に昇叙され、加賀介を兼任する。同年二月、高倉天皇が践祚すると昇殿を許され、以後近臣として崩時まで仕えることになる。同年三月、従四位上、八月にはさらに正四位下に叙せられ、禁色宣下を受ける。嘉応元年(1169)四月、建春門院(平滋子)昇殿をゆるされる。承安元年(1171)正月、右近衛権中将。十二月、平清盛の息女徳子の入内に際し、女御家の侍所別当となる。治承二年(1178)、中宮平徳子所生の言仁(ときひと)親王(安徳天皇)の立太子に際し、東宮昇殿をゆるされる。同三年(1179)正月、蔵人頭に補される。十二月、中宮権亮を兼ねる。同四年正月、参議に任ぜられる。同年三月、高倉上皇の厳島行幸に供奉。六月には福原遷幸にも供奉し、宮都の地を点定した。
平安京還都後の治承五年(1181)正月、従三位に叙されたが、その直後、高倉上皇が崩御(二十一歳)。上皇危篤の時から一周忌までを通親が歌日記風に綴ったのが『高倉院升遐記』である。同年閏二月には平清盛が薨じ、政治の実権は後白河法皇へ移る。以後、通親も法皇のもとで公事に精励することになる。改元して養和元年の十一月、中宮権亮を罷め、建礼門院別当に補される。同二年正月、正三位。
寿永二年(1183)七月、平氏が安徳天皇を奉じて西下すると、通親はそれ以前に比叡山に逃れていた後白河天皇のもとに参入。ついで院御所での議定に列した。同年八月、後鳥羽天皇践祚。この後、通親は新帝の御乳母藤原範子(範兼の娘)を娶り、先夫との間の子在子を引き取って養女とした。
元暦二年(1185)正月、権中納言に昇進。文治二年(1186)三月、源頼朝の支持のもと、九条兼実が摂政に就任。この時通親は議奏公卿の一人に指名された。同三年正月、従二位。同五年正月、正二位(最終官位)。同年十二月、法皇寵愛の皇女覲子内親王(母は丹後局高階栄子)の勅別当に補される。以後、丹後局との結びつきを強固にし、内廷支配を確立してゆく。
建久元年(1190)七月、中納言に進む。同三年三月、後白河院が崩じ、摂政兼実が実権を握るに至るが、通親は故院の旧臣グループを中心に反兼実勢力を形成した。同六年十一月、養女の在子が皇子を出産(のちの土御門天皇)。同月、権大納言に昇る。建久七年(1196)十一月、任子の内裏追放と兼実の排斥に成功。同九年(1198)には外孫土御門天皇を即位させ、後鳥羽院の執事別当として朝政の実権を掌握。「天下独歩するの体なり」と言われ、権大納言の地位ながら「源博陸」(博陸は関白の異称)と呼ばれた(兼実『玉葉』)。
正治元年(1199)正月、右近衛大将に任ぜられる。その直後源頼朝が死去すると、通親排斥の動きがあり、院御所に隠れ籠る。結局幕府の支持を得て事なきを得、同年六月には内大臣に就任し、同二年四月、守成親王(のちの順徳天皇)立太子に際し、東宮傅を兼ねる。
和歌は若い頃から熱心で、嘉応二年(1170)秋頃、自邸で歌合を催している。同年の住吉社歌合・建春門院滋子北面歌合、治承二年(1178)の別雷社歌合などに参加。
殊に内大臣となって政局の安定を果したのちは、活発な和歌活動を展開し、後鳥羽院歌壇と新古今集の形成に向けて大きな役割を果すことになる。正治二年(1200)十月、初めて影供歌合を催し、以後もたびたび開催する。同年十一月には後鳥羽院百首歌会に参加(正治初度百首)。建仁元年(1201)三月、院御所の新宮撰歌合、同年六月の千五百番歌合に参加。同年七月には、二男通具と共に後鳥羽院の和歌所寄人に選ばれた。
しかし新古今集の完成は見ることなく、建仁二年(1202)冬、病に臥し、同年十月二十日夜(または二十一日朝)、薨去。五十四歳。民百姓に至るまで死を悲しみ泣き惑ったという(源家長日記)。贈従一位を宣下される。
著書には上記のほか『高倉院厳島御幸記』などがある。千載集初出。勅撰入集三十二首。】

(参考) 「九条兼実」と「源通親」周辺

 「九条兼実」は、「藤原北家、関白・藤原忠通の六男。官位は従一位・摂政・関白・太政大臣。月輪殿、後法性寺殿とも呼ばれる」。一方の「源通親」は、「村上源氏久我流、内大臣・源雅通の子。官位は正二位・内大臣、右大将、贈従一位。土御門通親と呼ばれている」。
 この二人は、共に、久安五年(一一四九)の同年の生まれで、没年は、兼実が、承元元年(一二〇七)、通親は、建仁二年(一二〇二)と、通親の方が、早く亡くなっている。
 ここで、この通親が、「関白・兼実」を失脚させる「建久七年(一一九六)の政変」以降の、両者の「官職名」の推移を明記すると次のとおりとなる(『ウィキペディア(Wikipedia)』)。

「建久七年(一一九六)の政変」後の「兼実」

建久7年(1196年)11月25日:関白停任。無上表事。
建仁2年(1202年)1月28日:出家。法名「圓證」
承元元年(1207年)4月5日:薨去。享年59

「建久七年(一一九六)の政変」後の「通親」

建久9年(1198年)1月5日:後院別当を兼帯。
正治元年(1199年)
1月20日:右近衛大将を兼任。
6月22日:内大臣に転任。
6月23日:右近衛大将如元。
正治2年(1200年)4月15日:東宮傅を兼任。
建仁2年(1202年)10月21日、薨去。享年54。時に、内大臣正二位兼行右近衛大将東宮傅。

 すなわち、兼実が出家した建仁二年(一二〇二)に、通親は、その生涯を閉じている。この通親の死について、兼実の異母弟の慈円の『愚管抄』は次のように記している。

http://www.st.rim.or.jp/~success/gukansyo06_yositune.html

【建仁二年十月廿一日ニ。通親公等ウセニケリ。頓死ノ躰ナリ。不可思議ノ事ト人モ思ヘリケリ。承明門院〔在子〕ヲゾ母ウセテ後ハアイシ参ラセケル。カカリケル程ニ。院ハ範季ガムスメヲ思召テ三位セサセテ。美福門院ノ例ニモニテ有ケルニ。王子モアマタ出キタル。御アニ〔守成〕ヲ東宮ニスエマイラセントヲボシメシタル御ケシキナレバ。通親ノ公申沙汰シテ立坊有テ。正治二年四月十四日ニ東宮ニ立テ。カヤウニテ過ル程ニ。九條〔良経〕殿ハ又北政所ニヲクレテ出家セラレニケリ。サル程ニ院ノ御心ニフカク世ノカハリシ我ガ御心ヨリヲコラズト云コトヲ人ニモシラレントヤ思召ケン。建仁二年十一月廿七日ニ。左大臣〔良経〕ニ内覧氏長者ノ宣旨ヲクダシテ。ヤガテ廿八日ニ熊野御進発ナリニケリ。母北政所重服コノ十二月バカリニテアリケリ。サテ熊野ヨリ御帰洛ノ後。十二月廿七日ニ摂政ノ詔クダサレニケリ。サテ正月一日ノ拝禮ノサキニヨロコビ申サセラレニケレバ。世ノ人ハコハユユシク目出キコトカナト思ケリ。宗頼大納言ハ成頼入道ガ高野ニ年比ヲコナイテアリケル入滅シタル服ヲキルベキヲ。真ノ親ノ光頼ノ大納言ガヲバ成頼ガヲキムズレバトテキザリケリ。是ハ又アマリニ世ニアイテイトマヲオシガリテキズ。サテ親モナカリケル者ニナリヌル事ヲ。人モカタブキケルニヤ。カク熊野ノ御幸ノ御トモニマイリテ。松明ノ火ニテ足ヲヤキタリケルガ。サシモ大事ニナリテ正月卅日ウセニケル。其後卿二位ハ夫ヲウシナイテ又トカクアンジツツ。コノ太相國頼実ノ七條院辺〔後鳥羽院御母〕ニ申ヨリテ候ケルニ申ナドシテ。又夫ニシテヤガテ院ノ御ウシロミセサセテ候ケル。】(『愚管抄第六』=上記アドレス)

 この「建仁二年十月廿一日ニ。通親公等ウセニケリ。頓死ノ躰ナリ。不可思議ノ事ト人モ思ヘリケリ」の「頓死」とは「急死」のことであり、「不可思議ノ事ト人モ思ヘリケリ」については、例えば『藤原定家『明月記』の世界(村井康彦著・岩波新書)』では、「これまでの権謀術数の数々を思えば、敵はゴマンといたはずで、密かに殺害されたのではないかという疑念を抱かれてもおかしくない」と紹介されている。
 これに続く、「建仁二年十一月廿七日ニ。左大臣〔良経〕ニ内覧氏長者ノ宣旨ヲクダシテ。」、そして、「十二月廿七日ニ摂政ノ詔クダサレニケリ。」と、失脚した兼実(この時には出家している)の継子の「九条良経」は、後鳥羽院の宣旨をもって「藤氏長者」(藤原氏一族全体の氏長者)となり、さらに、良経は、「左大臣」(「関白」にならず)のまま土御門天皇の「摂政」(君主に代わって政務をとること,またはその者)と朝廷のトップに立つこととなる。
 この時、良経、三十五歳、この宣旨・詔を発した後鳥羽院は、二十三歳で、兼実は出家、
通親は頓死、既に後白河法皇・源頼朝も没しており、名実ともに治天の君となった。しかし、この良経は、元久三年(一二〇六)三月七日深夜に頓死。享年三十八歳であった。この良経の頓死(急死)についても、下記のアドレスで触れてきた。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-11-03

 そして、承久三年(一二二一)の「承久の乱」(後鳥羽院と時の執権・北条義時との戦乱)により、後鳥羽院は隠岐島(隠岐国海士郡の中ノ島、現海士町)に配流され、そこで、延応元年(一二三九)に、その六十年の生涯を閉じた。

 ここで、上記の『愚管抄第六』の事項を理解するには、下記のアドレスの図解が恰好のものである。

http://dabohazj.web.fc2.com/kibo/note/motomichi/motomichi.htm

後鳥羽系図.jpg

(「後白河~順徳天皇」・「藤原忠実~道家」・「源頼朝~頼嗣)」と「兼実と通親」関連図)

一 天皇家は、「1後白河→2二条→3六条→4高倉→5安徳→6後鳥羽→7土御門→8順徳」の流れである。
二 藤原家は、「1忠実→2忠通→3基実(近衛家)→4基房(松殿家)→5・7・9基通(近衛家)→6師家(松殿家)→8兼実(九条家)→10良経(九条家)→11・13家実(近衛家)→12・14道家」の流れである。
三 源頼朝家→1頼朝→2頼家→3実朝→4頼経→5頼嗣の流れである。
四 後鳥羽院=任子(兼実の娘、良経の妹)、後鳥羽院=在子(通親の養女、通親正室範子の娘)、後鳥羽院と任子(宜秋門院)の内親王=昇子(春華門院)、後鳥羽院と在子(承明門院)の親王=土御門天皇、後鳥羽院と重子(修明門院)の親王=順徳天皇
五 源通親の側室(兼実の兄・基房の娘)
六 兼実の娘任子は後鳥羽天皇の中宮宜秋門院となっているが、建久六年(1195)八月に女子を産む(昇子・春華門院)。源通親の養女・在子は宮仕していたが同十一月に皇子(為仁・土御門天皇)を生む。これで通親と兼実の形勢が逆転し、通親による「建久七年の政変」が起こり、かねて憎まれていた兼実は失脚する。そして、村上源氏の全盛時代となり、古い後白河派とみなされた近衛基通が10年ぶりに関白として返り咲く(上掲および前掲 系図 の基通の数字「9」)。
七 建久九年(1198年)正月に後鳥羽天皇(十九歳)は土御門天皇へ践祚した。これで通親は天皇の外祖父の地位を得たのであり、後鳥羽は若い院としての自由な立場を得て京都内外を活発に「御幸」したという。祖父・後白河の血が確かに伝わっていたのであろう。基通は土御門天皇(四歳)の摂政にもなる。政治の実権を握っていた通親は正治元年(1199)に内大臣となり、「源博陸」(げんはくりく、博陸は関白の意)と呼ばれた。
八 通親は建仁二年(1202)十月に急死(享年五十四歳)する。それを契機に九条家にバランスをとる人事がなされ、摂政が九条良経に移る。良経は溢れるほどの才能に恵まれた人物だったようで慈円が『愚管抄』に「コノ人は三ツノ舟ニノリヌベキ人」(詩・和歌・管弦の三つの舟)と言葉を極めて賞讃している。その良経は元久三年(1206)二月廿日に急死(享年三十八歳)する(『愚管抄』は「ネ死ニ頓死」、『玉葉』は夕刻まで良経が普段通りであったことを記したあと、良経の「女房」が走ってきて急を知らせ、兼実が「劇速して行く」が「身冷気絶」であったと)。このため良経の死には他殺説もある。
九 良経の急死を受け、近衛家実が摂政となった。基通の息子である。こののちは、松殿は摂関家としては基房-師家で絶え、近衛家と九条家のバランスを考えた人事となって、文永十年(1273)この両家から「五摂家」が成立する(近衛家・鷹司家・九条家・一条家・二条家)。「五摂家」体制のもとで江戸時代終末まで形式的な摂関は続く。
十 三代将軍実朝の暗殺で頼朝の系譜は断たれる。上掲系図のように、良経は義朝の娘と婚姻し、九条家が将軍となるきっかけを作っている。藤原将軍時代である。しかしそれも2代しか続かず、そのあとは親王将軍の時代となる。

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yahantei

 「源通親」について、『愚管抄第六』との関連で触れられたのは収穫であった。
 また、(「後白河~順徳天皇」・「藤原忠実~道家」・「源頼朝~頼嗣)」と「兼実と通親」関連図)で、「1忠実→2忠通→3基実(近衛家)→4基房(松殿家)→5・7・9基通(近衛家)→6師家(松殿家)→8兼実(九条家)→10良経(九条家)→11・13家実(近衛家)→12・14道家」の流れに触れられたのは、収穫であった。
 この「5・7・9基通(近衛家)→6師家(松殿家)→8兼実(九条家)」関連で、「5・7・9基通(近衛家)」の「5基通(近衛家)→6師家(松殿家)
→7基通(近衛家)→8兼実(九条家)→9基通(近衛家)」の流れで、「8兼実(九条家)」の関白失脚は、嫡男家の「9基通(近衛家)」にバトンタッチしただけと、「建久七年(一一九六)の政変」のクーデター説を否定的に解する説も一理あるのだろう。
 しかし、『愚管抄』では、この時に、「兼実流刑」の話題にも触れられており、「兼実(任子)・通親(在子)・頼朝(大姫)」と「後鳥羽天皇」との、この四者からみで、その真相は、闇の中という雰囲気である。
 そして、「兼実・通親」亡き後、後鳥羽天皇の周りは、「イエスマン」のみで、「慈円」などの忠告には耳を貸さなかったのだろう。
 この慈円の『愚管抄』と兼実の四十年余にわたる公私にわたる日誌の『玉葉』とがを、どちらも、ネット情報で見られるのは、実に、素晴らしいことである。

by yahantei (2020-11-11 16:14) 

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