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四季花卉下絵古今集和歌巻(その四) [光悦・宗達・素庵]

その四 梅(その三)

四季花卉下絵古今集和歌巻72-73.jpg

「尾形光琳生誕三五〇周年記念 大琳派展―継承と変奏(東京国立博物館・読売新聞社編)」
所収「1-01 俵屋宗達下絵・本阿弥光悦筆 四季草花下絵古今和歌巻・重要文化財・畠山記念館蔵」(「四季花卉下絵古今集和歌巻」=『光悦……琳派の創始者(河野元昭編)』所収「書画の二重奏への道……光悦書・宗達画和歌巻の展開(玉蟲敏子稿)」) 三三・七×九一八・七

    いそのかみのなむまつが宮づかへもせで、
    石上といふ所にこもり侍りけるを、
    にはかにかうぶりたまはりければ、よろこび
    いひつかはすとてよみてつかはしける
870 日の光の藪しわかねば石上(いそのかみ) ふりにし里に花も咲きけり(布留今道)
(日の光が籔も区別することなく照らすように、あまねく照らすお恵みにより、石上の古い里にも花が咲いた。)
    二条のきさきのまだ東宮の御息所と申しける時に、
    大原野にまうでたまひける日よめる
871 大原や小塩(をしほ)の山も今日こそは神世のことも思ひいづらめ(在原業平)
(大原の小塩山も今日こそは、神世のことも思い出すであろう。)

釈文(揮毫上の書体)=(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)

870 日濃(の)光屋(や)ぶしわ可(か)年(ね)盤(ば)以曾濃可三(いそのかみ)婦利(ふり)尓(に)し里尓(に)華も咲(さき)介梨(けり)

※わ可(か)年(ね)盤(ば)=分かねば。区別することなく。
※以曾濃可三(いそのかみ)=石上(いそのかみ)。天理市の石上神宮付近から西一帯。
※婦利(ふり)尓(に)し里=「古い里」と「布留の里」とを掛けている。古い都のあった「石上の布留の里」の意。)
※※いそのかみのなむまつ=石上並松(人名)。仁和二年(八八六)に従七位から従五位下に昇叙された。石上神宮に関わりのある人物か。
※※かうぶりたまはり=冠(かうぶり)賜り。位階を賜った。

871 お保(ほ)ハ(は)らやをしほ濃(の)山も今日こ曾(そ)ハ神代(かみよ)濃(の)事を思出(おもひいづ)らめ

※お保(ほ)ハ(は)らや=大原や。大原野神社。大和の春日神社を勧請したもので、京都市右京区にある。
※をしほ濃(の)山=小塩の山。大原野神社の背後の山。
※神代(かみよ)濃(の)事=藤原氏の祖神・天児屋命(あめのこやねのみこと)が皇祖・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に従って天降りしたことを指しているか。
※※二条のきさき=二条の后。清和天皇の女御、藤原高子(たかいこ)。

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/imamiti.html

【 布留今道(ふるのいまみち) 生没年未詳
布留氏は代々石上神宮の神主をつとめた家系。貞観三年(861)、内蔵少属。元慶六年(882)、従五位下。下野介などを経て、寛平十年(898)、三河介。古今集に三首を載せる。 】

http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-YMST/yamatouta/sennin/narihira.html

【 在原業平(ありわらのなりひら)=前掲=下記アドレス
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-11-23      】

芥川.jpg

A図(『伊勢物語・第七段(芥川)』=「伊勢物語図色紙・芥川:伝俵屋宗達筆」)
(「尾形光琳生誕三五〇周年記念 大琳派展―継承と変奏(東京国立博物館・読売新聞社編)」出品目録1-53: 伝俵屋宗達筆 紙本着色 縦二四・六 横二〇 大和文華館蔵)

【むかし、男ありけり。女のえ得まじかりけるを、年を経てよばひわたりけるを、からうじて盗み出でて、いと暗きにきけり。芥河といふ河を率ていきければ、草のうへにおきたりける露を、「かれは何ぞ」となむ男に問ひける。ゆくさきおほく、夜もふけにければ、鬼ある所とも知らで、神さへいといみじう鳴り、雨もいたう降りければ、あばらなる蔵に、女をば奥におし入れて、男、弓、やなぐひを負ひて、戸口にをり。はや夜も明けなむと思ひつゝゐたりけるに、鬼一口に食ひてけり。 「あなや」といひけれど、神鳴る騒ぎにえ聞かざりけり。やうやう夜も明けゆくに、見れば、率て来し女もなし。足ずりをして泣けどもかひなし。

 白玉かなにぞと人の問ひし時
   露とこたへて消えなましものを

これは、二条の后の、いとこの女御の御もとに、仕うまつるやうにてゐ給へりけるを、かたちのいとめでたくおはしければ、盗みて負ひて出でたりけるを、御せうと堀河の大臣、太郎国経の大納言、まだ下臈にて内裏へまゐり給ふに、いみじう泣く人あるを聞きつけて、とゞめてとり返し給うてけり。それをかく鬼とはいふなりけり。まだいと若うて后のたゞにおはしける時とや。   】『伊勢物語・第七段(芥河)』

871 大原や小塩(をしほ)の山も今日こそは神世のことも思ひいづらめ(在原業平)
(大原の小塩山も今日こそは、神世のことも思い出すであろう。)

 この業平の歌の「詞書」(「二条のきさきのまだ東宮の御息所と申しける時に、大原野にまうでたまひける日よめる」)の「二条のきさき(后)」は、上記の「伊勢物語図色紙・芥川: 伝俵屋宗達筆」の「男性(在原業平か)に背負われて女性(のちの二条の后か)」の女性である。
 この絵図について、次のように絵解きをしたものもある。

【 「男=業平」は手に入れがたい「女=のちの二条の后」に何年ものあいだ求婚しつづけ、やっとのことで盗みだし、暗いなか、「芥川」(大阪府高槻市を流れる川)のほとりまで逃げてきた場面。男と女の駆け落ちの場面だ。画面のほぼ中央に大きく、女を背負った男を描く。二人の体はもはや離れがたく一体化している。夢のなかにふわりと浮かんでいるように見え、リアリズム絵画にない幻想的な表現だ。「恋の逃走行」なのだが、切迫した悲壮感はない。
絵の詞書は、「女のえうまじかりけるを、としをへてよばひわたりけるを、からうじてぬすみて、いとくらきに、来けり」とある。この段の初めの一節だ。詞書は絵の一部かのように染筆されている。色紙の肌表紙の裏書に「昌程」とあり、その染筆は連歌師の里村昌程が担当したことがわかる。
なお、素庵の叔父吉田宗恂の女は、連歌師の里村玄仲に嫁しており、里村家と角倉・吉田家とは親戚関係にあった。素庵は、近衛信尹・近衛信尋・昌俔らの連歌会で詠まれた和歌・発句・連歌の清書を行なっている。素庵は公家たちと親交をもった。 】(『宗達絵画の解釈学―「風神雷神図屏風」の雷神はなぜ白いのか(林進著)』(敬文舎・2016年)


(参考)「四季花卉下絵古今集和歌巻」(梅その三・梅その四・躑躅・躑躅と糸薄)

四季花卉下絵古今集和歌巻二.jpg

「尾形光琳生誕三五〇周年記念 大琳派展―継承と変奏(東京国立博物館・読売新聞社編)」
所収「1-01 俵屋宗達下絵・本阿弥光悦筆 四季草花下絵古今和歌巻・重要文化財・畠山記念館蔵」彩箋墨書、三三・七×九一八・七

雷神.jpg

B図(『伊勢物語・第七段(芥川・雷神)』=「伊勢物語図色紙・芥川:伝俵屋宗達筆」)
(「尾形光琳生誕三五〇周年記念 大琳派展―継承と変奏(東京国立博物館・読売新聞社編)」出品目録1-54: 伝俵屋宗達筆 紙本着色 縦二四・六 横二〇 個人蔵)

 上記で紹介したA図(大和文華館蔵)とこのB図(個人蔵)については、嘗て、次のアドレスで次のように記した。それを関連するところを全文再掲して置きたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-04-03

(再掲)

【『伊勢物語』(第六段)は「芥川」と題される段で、「伊勢物語図色紙(伝俵屋宗達画)」の三十六図(益田家本)の中では、この第六段中の「芥川」の図は夙に知られている。
 これを第六段の全文に照らすと(上記の※)、「をとこ(若い男=業平)と女(愛する尊い女性=後の二条の后)」とが「駆け落ち」する場面で、これは、宗達自身の肉筆画というよりも、宗達工房(宗達が主宰する工房)の一般受けする、いわゆる「宗達工房ブランド」の絵図と解したい。
 そして、次の「雷神」図なのであるが、この「雷神」図は、宗達画の代表的な作品の「風神雷神図屏風」(建仁寺蔵・国宝)の、その「雷神」図の原型のようで、これこそ、「伊勢物語図色紙」の三十六図(益田家本)中の、宗達自身の肉筆画のように解したい。
 それにしても、この「雷神」図の詞書の「か見(神)さへ/いと/伊(い)ミし(じ)う/奈(な)り」は、どうにも謎めいているような感じで、『伊勢物語』の原文と照らすと、「神→雷神→鬼→(駆け落ちした女の「兄」)」という図式となり、その結末は、「鬼はや一口に食ひけり」、即ち、「女を連れ戻したり」ということで、何とも、他愛いない、これこそ、滑稽(俳諧)の極みという感じでなくもない。
 しかし、『宗達絵画の解釈学(林進著・敬文社)』の口絵(『伊勢物語図色紙』第六段「雷神図」)の紹介は次のとおりで、何と角倉素庵の追善画というものである。

[宗達は、癩(ハンセン病)で亡くなった角倉素庵を追善するために『伊勢物語図色紙』三六図を描き、素庵の知友、親王・門跡・公家・大名・連歌師らも、詞書をその上に書き入れ、表立ってはおこなえぬ法要に替えて供養した。素庵も雷神となって色紙のなかに登場し、生前の知己たちの間をとび回り、出来映えをたのしんでいるようだ。] (『宗達絵画の解釈学(林進著・敬文社)』)

 その「友人素庵を追善する『伊勢物語図色紙』」(第六章)では、その制作年代を寛永十一年(一六三四)十一月二十八日、二十二歳の若さで亡くなった、後陽成天皇の第十二皇子の「道周法親王」(「益田家本」第八八段の詞書染筆者、同染筆者の「近衛信尋・高松宮好仁親王・聖衛院道晃法親王の弟宮)の染筆以前の頃としている。
 ちなみに、その「益田家本『伊勢物語図色紙』詞書揮毫者一覧」の主だった段とその揮毫者などは次のとおりである。

第六段   芥川    里村昌程(二二歳)    連歌師・里村昌琢庄の継嗣(子)
同上    雷神    同上
第九段   宇津の山  曼殊院良尚法親王(一二歳) 親王(後水尾天皇の猶子)
同上    富士の山  烏丸資慶(一二歳)     公家・大納言光広の継嗣(孫)
同上    隅田川   板倉重郷(一八歳)     京都所司代重宗の継嗣(子)
第三九段  女車の蛍  高松宮好仁親王(三一歳) 親王(後陽成天皇の第七皇子)
第四九段  若草の妹  近衛信尋(三五歳)  親王(後陽成天皇の第四皇子)        
第五六段  臥して思ひ 聖衛院道晃法親王(二二歳)親王後陽成天皇の第一一皇子?) 
第五八段  田刈らむ  烏丸光広(五五歳)    公家(大納言)

 これらの「詞書揮毫者一覧」を見ていくと、『伊勢物語図色紙』」は角倉素庵追善というよりも、第九段(東下り)の詞書揮毫者の「曼殊院良尚法親王(一二歳)・烏丸資慶(一二歳)」などの「※初冠(ういこうぶり)」(元服=十一歳から十七歳の間におこなわれる成人儀礼)関連のお祝いものという見方も成り立つであろう。
 ちなみに、烏丸光広(五五歳)の後継子(光広嫡子・光賢の長子)、烏丸資慶(一二歳)は、寛永八年(一六三一)、十歳の時に、後水尾上皇の御所で催された若年のための稽古歌会に出席を許され、その時の探題(「連夜照射」)の歌、「つらしとも知らでや鹿の照射さす端山によらぬ一夜だになき」が記録に遺されている(『松永貞徳と烏丸光広(高梨素子著)』)。 】

(追記メモ)

    いそのかみのなむまつが宮づかへもせで、
    石上といふ所にこもり侍りけるを、
    にはかに※かうぶりたまはりければ、よろこび
    いひつかはすとてよみてつかはしける
870 日の光の藪しわかねば石上(いそのかみ) ふりにし里に花も咲きけり(布留今道)
(日の光が籔も区別することなく照らすように、あまねく照らすお恵みにより、石上の古い里にも花が咲いた。)

 この歌の詞書の「※かうぶり」と、上記の「※初冠(ういこうぶり)」は関連性がある。

    ※二条のきさきのまだ東宮の御息所と申しける時に、
大原野にまうでたまひける日よめる
871 大原や小塩(をしほ)の山も今日こそは神世のことも思ひいづらめ(在原業平)
(大原の小塩山も今日こそは、神世のことも思い出すであろう。)

 この歌の詞書の「※二条のきさき」は、紛れもなく、「『伊勢物語』(第六段・芥川)」の「二条の后」そのものであろう。
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yahantei

 昨日は、光悦の上京区の住まいなどが、白峯神社の近くであることが分かり、前よりも、イメージが鮮明になってきた。光悦は鷹峯の「芸術と信仰の里」の「大(太)虚庵」に移住した後も、この上京区の「徳有斎」も、常時、利用していたのであろう。
 ただ、江戸初期(慶長の「関ヶ原」合戦前後)の、光悦の時代と、「古今・新古今」の時代とは、この上京区近辺のイメージは、全然、様変わりしていることであろう。
 何よりも、現在の御所近くの「白峰神社」も、光悦の時代には存在していなく(?)、江戸から明治への「明治維新」に近い神社の感じである。
 と同時に、平安時代の御所と光悦の時代の御所の位置も、これまた、違っていて、秀吉の伏見城、徳川家の二条城を整備など、「京都のイメージ」は、その時代、時代の影響を最も強く反映し、それらが複雑な形相を呈している。(思いつくままに、余白に。)

by yahantei (2020-11-25 10:29) 

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