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四季花卉下絵古今集和歌巻(その五) [光悦・宗達・素庵]

その五 梅(その四)

四季花卉下絵古今集和歌巻73.jpg

「尾形光琳生誕三五〇周年記念 大琳派展―継承と変奏(東京国立博物館・読売新聞社編)」
所収「1-01 俵屋宗達下絵・本阿弥光悦筆 四季草花下絵古今和歌巻・重要文化財・畠山記念館蔵」(「四季花卉下絵古今集和歌巻」=『光悦……琳派の創始者(河野元昭編)』所収「書画の二重奏への道……光悦書・宗達画和歌巻の展開(玉蟲敏子稿)」) 三三・七×九一八・七

    五節の舞姫を見てよめる
872 天つ風雲のかよひぢ吹きとぢよ乙女の姿しばしとどめむ(良岑宗貞 )
(空を吹く風よ、雲の通い路を吹き閉じてくれ。そして、空に帰る乙女たちの姿を今しばらく留めておきたいのだ。)
    五節のあしたに簪の玉の落ちたりけるを見て、
    誰がならむととぶらひてよめる
873 主や誰問へど白玉言はなくにさらばなべてやあはれと思はむ(河原左大臣)
(誰のものかと聞いても簪の白玉は何も言わない。それ故に、誰とかは特定せずに、五節の舞女全員が愛らしく思えるのだ。)

釈文(揮毫上の書体)=(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)

872 安(あ)ま徒(つ)可(か)世(ぜ)雲濃(の)通路(かよひぢ)吹(ふき)きと知(ぢ)よをとめ能(の)姿しハ(ば)しと々(ど)免無(めむ)

※安(あ)ま徒(つ)可(か)世(ぜ)=天つ風。天空を吹き渡る風。乙女が舞う宮廷の庭を天上になぞらえているために、そこを吹く風を「天つ風」と言っている。
※雲濃(の)通路(かよひぢ)=雲の通ひ路。天空の通り路。「殿上をば雲の上と云へば、そのおりのぼる道を雲のかよひぢとは云也」(『顕註密勘抄』)。
※吹(ふき)きと知(ぢ)よ=「天つ風」に対し、「雲をたくさん吹き寄せて、天の通り道を塞いでしまえ」と願っている。
※をとめ=乙女。五節の舞姫のこと。
※※五節(ごせち)=新嘗祭の翌日(十一月の中の辰の日)、豊明(とよのあかり)の節会に際して舞われた少女楽。公卿・国司の娘より美しい少女を四、五名選んで舞姫に召した。

873 ぬしやた連(れ)問(とへ)ど白玉以(い)者(は)那(な)久(く)尓(に)左(さ)ら半(ば)なべ天(て)や阿(あ)ハ(は)連(れ)と於(お)もハ(は)無(む)

※ぬしやた連(れ)=主(持ち主)や誰。白玉に対して問いかけている。
※以(い)者(は)那(な)久(く)尓(に)=言わないのに。「でも、それなら私はこう思おう」と続く文脈。
※左(さ)ら半(ば)なべ天(て)=さらば(それなら)なべて(すべて)。
※※とぶらひて=訪ねて。

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/henjou.html

良岑宗貞(よしみねのむねさだ)→遍昭(へんじょう)

【遍昭(へんじょう) 弘仁七~寛平二(816-890) 俗名:良岑宗貞 号:花山僧正 
桓武天皇の孫。大納言良岑朝臣安世の八男。素性法師は在俗時にもうけた息子。名は遍照とも書かれる。
承和十二年(845)、従五位下に叙せられ、左兵衛佐となる。蔵人・左近少将等を経て、嘉祥二年(849)、蔵人頭の要職に就く。翌三年正月、従五位上に叙されたが、同年三月二十一日、寵遇を受けた仁明天皇が崩御すると、装束司の任を果たさず出家した。この時三十五歳。比叡山に入り、慈覚大師円仁より菩薩戒を受け、台密の修行に励む。貞観十年(868)に創建された花山寺(元慶寺)の座主となる。また、貞観十一年(869)に仁明天皇の皇子常康親王より譲り受けた雲林院をその別院とした。元慶三年(879)、権僧正。仁和元年(885)十月、僧正。同年十二月、七十の賀を光孝天皇より受ける。寛平二年正月十九日、七十五歳で死去。花山(かざん)僧正の称がある。
六歌仙・三十六歌仙。後世の他撰家集『遍昭集』がある。惟喬親王や小野小町と歌を贈答している。古今集に十七首、勅撰集入集歌は計三十六首(連歌一首含む)。】

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tohoru.html

河原左大臣(河原の左のおほいまうちの君=かわらのさだいじん)→源融(みなもとのとおる) 

【源融(みなもとのとおる) 弘仁一三~寛平七(822-895) 号:河原左大臣 
嵯峨天皇の皇子。母は大原全子。子に大納言昇ほか。子孫に安法法師がいる。系図
臣籍に下って侍従・右衛門督などを歴任、貞観十四年(872)、五十一歳で左大臣にのぼった。元慶八年(884)、陽成天皇譲位の際には、新帝擁立をめぐって藤原基経と争い、自らを皇位継承候補に擬した(『大鏡』)。仁和三年(887)、従一位。寛平七年(895)八月二十五日、薨去。七十四歳。贈正一位。河原院と呼ばれた邸宅は庭園に海水を運び入れて陸奥の名所塩釜を模すなど、その暮らしぶりは豪奢を極めたという。また宇治に有した別荘は、その後変遷を経て現在の平等院となる。古今集・後撰集に各二首の歌を残す。】

(参考) 「四季花卉下絵古今集和歌巻」(「その一~その三」「その四~その六」)




「四季草花下絵古今和歌巻」(その一・その二・その三)
四季花卉下絵古今集和歌巻一.jpg

「「四季草花下絵古今和歌巻」(その四・その五・その六)

四季花卉下絵古今集和歌巻二.jpg 

 これまでの、「その一、その二、その三/その四」と今回(「その五」)の歌(863~873、865は欠番)と関連する『伊勢物語』の歌(と※※※)一首は、次のとおりである。

(その一)
863  わが上に露ぞ置くなる天の川とわたる舟のかいのしずくか(読人知らず)
864   思ふどちまどゐせる夜は唐錦たたまく惜しきものにぞありける(読人知らず)
865 (省略されている。)
(その二)
866  限りなき君がためにと折る花は時しもわかぬ物にぞありける(読人知らず)
867  紫のひともとゆゑに武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る(読人知らず)
(その三)
※868 紫の色こき時は目もはるに野なる草木ぞわかれざりける(※業平朝臣)
869   色なしと人や見るらむ昔より深き心に染めてしものを(近院右大臣)
(その四)
870  日の光の藪しわかねば石上(いそのかみ) ふりにし里に花も咲きけり(布留今道)
※二条のきさきのまだ東宮の御息所と申しける時に、
     大原野にまうでたまひける日よめる
※871 大原や小塩(をしほ)の山も今日こそは神世のことも思ひいづらめ(※在原業平)
※※※白玉かなにぞと人の問ひし時露とこたへて消えなましものを(『伊勢物語』第6段)
(その五)
872 天つ風雲のかよひぢ吹きとぢよ※乙女の姿しばしとどめむ(良岑宗貞 )
873 主や誰問へど※※白玉言はなくにさらばなべてやあはれと思はむ(河原左大臣)

 ここで、今回の「873 主や誰問へど※※白玉言はなくにさらばなべてやあはれと思はむ(河原左大臣)」の、この「※※白玉」は、「『伊勢物語』第6段(芥川)」の「※※※ 白玉かなにぞと人の問ひし時露とこたへて消えなましものを」の「※※※白玉」と、同じ意図を持ったもので、その主題は、「五節の舞姫」の「簪の白玉」ということになろう。
そして、それは同時に、『伊勢物語』の主人公(※在原業平、この『古今集』の「868・871」の作者)と「五節の舞姫」の一人であった「※二条の后(后となる以前の乙女の頃)」との、その「恋物語(ラブストーリー・ロマンス)」を背景にしているものと理解をしたい。
『伊勢物語』での、この「恋物語(ラブストーリー・ロマンス)」は、主として次の段(第3段~第9段、第76段)などにその背景が書かれているが、第1段(初冠)、第65段(御手洗川)、第69段(伊勢の斎宮)そして第125段(終章)も付記して置きたい。

http://teppou13.fc2web.com/hana/narihira/ise_story.html

※第1段 初冠(春日野の若紫の摺衣(しのぶずり)しのぶの乱れかぎり知られず)
第3段 ひじき藻(思ひあらば葎の宿にねもしなむひじきのものには袖をしつゝも)
第4段 西の対(月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身は一つもとの身にして)
第5段 関守(人知れぬわが通ひ路の関守は宵々ごとにうちも寝ななむ)
※※※第6段 芥川(白玉かなにぞと人の問ひし時露とこたへて消えなましものを)
第7段 東下り(伊勢・尾張)(いとゞしく過ぎ行く方の恋しきにらやましくもかへる浪かな)
第8段 東下り(信濃)(信濃なる浅間の嶽にたつ煙をちこち人の見やはとがめぬ)
第9段 東下り(八橋)(唐衣きつゝ馴にしつましあればはるばる来ぬる旅をしぞ思ふ)
     同(宇津)(駿河なる宇津の山辺のうゝにも夢にも人に逢はぬなりけり) 
     同(富士)(時しらぬ山は富士の嶺いつとてか鹿の子まだらに雪の降るらむ)
     同(隅田川)(名にしおはゞいざこと問は都鳥むわが思ふ人はありやなしやと)
※第65段 御手洗川(恋せじと御手洗川にせしみそぎ神はうけずもなりにけるかな)
※第69段 伊勢の斎宮(かち人の渡れどぬれぬ江にしあれば/またあふさかの関は越えなむ
第76段 小塩の山(大原やをしほの山も今日こそは神代のことも思ひいづらめ)
(※※871 大原や小塩(をしほ)の山も今日こそは神世のことも思ひいづらめ(※※在原業平『古今集』))
※第125段 終章(つひにゆく道とはかねて聞きしかどきのふけふとは思はざりしを)

 ここまで来ると、前回の『伊勢物語・第七段(芥川)』=「伊勢物語図色紙・芥川:伝俵屋宗達筆」に続くものとしては、次の「蔦の細道図屏風」(書=烏丸光広、画=伝俵屋宗達、萬野美術館旧蔵→相国寺承天閣美術館蔵)ということになろう。


蔦の細道一.jpg

俵屋宗達派「蔦の細道図屏風」(「伊年」印) 右隻 十七世紀後半 六曲一双
各一五八・〇×三五八・四㎝ 萬野美術館旧蔵 紙本金地着色 重要文化財

蔦の細道二.jpg

俵屋宗達派「蔦の細道図屏風」(「伊年」印) 左隻 十七世紀後半 六曲一双
各一五八・〇×三五八・四㎝ 萬野美術館旧蔵 紙本金地着色 重要文化財

 これらについては、下記のアドレスで触れている。その「作品解説(山根有三稿)」を全文掲載して置きたい。

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-07-22

【 六曲一双の金地屏風に、緑青一色の濃淡だけで蔦の葉と土坡を描いたもの。上部に書かれた烏丸光広の賛から『伊勢物語』第八段に出てくる蔦かずらの生い茂った宇津の山の細道であることがわかる。話の筋は、東に行けばなにかよいことがあるだろうと、都をあとにした男が途中三河の八ツ橋を渡り、駿河の宇津の山の細道を抜け、富士の山を眺めつつ、やっとの思いで東についたが、隅田川に遊ぶ鳥が都(みやこ)鳥であると聞き、有名な「名にし負はば……」を歌を詠み、都に思いをはせる、という一種の旅日記である。この蔦の細道は、原文では、「いと暗う細きに、つたかえでは茂り、物心ぼそく……」とあって、暗く心細いことが都への郷愁をいっそうかきたてる心理的に重要なくだりであるが、この屏風ではそんなことは頓着なく、すっきりと明るく仕上げている。『伊勢物語』のくだりは、発想のための一起点にすぎず、画家の心は金と緑青のあやなす夢幻の世界を快げに飛びかっている。
それにつけても大胆、かつ斬新な構図である。屏風の大画面を左から右へゆるやかに流れる三本の線、おそらく中央の蔦を描いた細い帯は、山あいを走る蔦の細道の象徴的な表現であろう。この蔦を除いて、あとは三本の線で区切られた抽象的な面の響き合いによる構成である。
では、この屏風は宗達の作であろうか。結論からいえば宗達ではないと私は考えている。理由の第一は、空間処理の感覚が宗達とは異質のものである。宗達の画面に描かれたものは、必ず二次元の平面的な位置だけではなく、三次元の前後関係における位置もしっかりと定められている。つまり広がりと奥行が綿密な計算のうえに、きわめて整然と画面のなかに組み立てられているのである。しかるにこの屏風では、三次元的な前後関係はいっさい無視して、平面におけるパターンの効果とおもしろ味をねらっている。もちろん蔦の葉の重なりには、おのずから前後ん゛描かれているが、この蔦全体の属する空間の位どりが゜は、はっきりしておらず、そのため土坡らしき緑青(補彩が多い)の面と、賛の書かれた金地の空間との関係も明確にされていない。しかし、それは技及ばずして描きえなかったのではなく、初めその意図がなかったとみるべきであろう。
古くより、宗達でなければこれほどのものは描けまいとする説があるが、もし宗達に共通点を求めるならば、金銀泥絵巻物の世界であろう。たしかに、上下よりも左右への広がりを見せるこの屏風は、巻物的な構図をしており、技法も金銀泥絵的といえる。また名士烏丸光広の賛があることからみて、宗達が金銀泥絵巻物を媒体にして、直接または間接に影響を与えた可能性は考えられる。
宗達の作でないとする第二の理由は、その金銀泥絵巻物に関連する蔦の葉の描法である。宗達の「四季草花図」和歌巻(注・(その四)俵屋宗達画・本阿弥光悦書「四季草花下絵和歌巻」=https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-07-11)の巻末に、一面蔦の葉ばかりを描いた場面があるが、濃淡による葉の重なり、葉の配置による奥行の深さなどにおいて、この屏風より一段まさっている。同一画家の出来・不出来であることに異論はない。なお光広とされる賛は次のとおり。

 行さきもつたのした道しけるより
  花は昨日のあとのやまふみ
 夏山のしつくを見えは青葉もや
  今一入(ひとしお)のつたのしたみち
 宇津の山蔦の青葉のしけりつゝ
  ゆめにもうとき花の面影
 書もあへすみやこに送る玉章(たまずさ)よ
  いてことつてむひとはいつらは
 あとつけていくらの人のかよふらん
  ちよもかはらぬ蔦の細道
 茂りてそむむかしの跡も残りける
  たとらはたとれ蔦のほそ道
 ゆかて見る宇津の山辺はうつしゑの
  まことわすれて夢かとそおもふ     】
(『原色日本の美術14宗達と光琳(小学館)』所収「作品57「『蔦の細道図(山根有三稿)』」)

(追記メモ) 「蔦の細道図屏風」(書=烏丸光広、画=伝俵屋宗達、萬野美術館旧蔵→相国寺承天閣美術館蔵)周辺

(『ウィキペディア(Wikipedia)』)
承天閣美術館(じょうてんかくびじゅつかん)は、京都府京都市上京区の相国寺境内にある美術館。
相国寺創建600年記念事業の一環として1984年に開館した。相国寺および臨済宗相国寺派に属する鹿苑寺(金閣寺)や慈照寺(銀閣寺)などが所有する墨蹟・絵画・工芸品等の文化財(国宝 2件(5点)[1]と国の重要文化財多数を含む)を収蔵・展示している。2004年には同年閉館した萬野美術館(大阪市)から国宝・重要文化財を含む約200点の美術品が寄贈された。

『形成される教養 十七世紀日本の<知>(鈴木健一編・勉誠出版)』所収「烏丸光広の画賛(田代一葉稿)」

蔦の細道図屏風(絵師・画者:俵屋宗達)
(左隻)
 行さきもつたのした道しげるより花は昨日のあとのやまふみ
 夏山のしづくをみえは青葉もや今一入(ひとしお)のつたのしたみち
 宇津の山蔦の青葉のしげりつゝゆめにもうとき花の面影
 書もあへずみやこに送る玉章(たまずさ)よいでことづてむひとはいづらば
 あとつけていくらの人のかよふらんち世もかはらぬ蔦の細道
(右隻)
 茂りてぞむかしの跡も残りけるたどらばたどれ蔦のほそ道
 ゆかで見る宇津の山辺はうつしゑのまことわすれて夢かとぞおもふ 
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yahantei

「蔦の細道図屏風」(書=烏丸光広、画=伝俵屋宗達、萬野美術館旧蔵→相国寺承天閣美術館蔵)は、現在は、相国寺承天閣美術館蔵とか。
 相国寺も、上京区の白峯神社の近く。とすると、実相院町の光悦の仕事場「徳有斎」の近く。
 この相国寺は、「伊藤若冲・円山応挙・長谷川等伯」等々、名品が揃っている。
 これに、「光悦・宗達・光広」、さらには、「光琳・乾山」などが加わると、しかし、これは無理筋かも(?)
 二・三年前、若冲ものを見にいった時、この「蔦の細道図屏風」など「萬野美術館旧蔵品」は全然展示されていなかった感じ。
 それにしても、「光悦と宗達」のコラボもさることながら「光広・宗達」のコラボ、特に、水墨画の「牛図」(頂妙寺蔵)の光広の「身のほどにおもへ世の中うしとても つながぬうしのやすきすがたに」が何とも妙がある。
 これは、前に、どこかで触れているが、検索しても出て来ない。検索は、なかなか、曖昧な人種には、相性が悪い感じ(?)
by yahantei (2020-11-27 15:28) 

yahantei

https://www.jisyameguri.com/event/cyomyoj



このサイトで「牛図」(宗達筆、・光広賛)が見られる。ここに、何と「伝俵屋宗達墓」の写真もアップされていた。この種のものは、数ある「活字情報・ネット情報」でも、管見の限り、このサイトで初めての感じ。
関連して、『ウィキペディア(Wikipedia)』を見ると、そもそもは、禁裏(御所)の近くにあったのを、「1673年(寛文13年)禁裏に隣接しているという理由で、現在の地に移転した」とある。

「光悦・宗達・素庵・光広・黒雪」時代(生存中)には、御所近くにあり、上京区の「本阿弥辻」(その近くに、白峰神社・相国寺がある)とも近接していた感じである。

当時の、上層町衆(光悦・尾形宗伯・茶屋四郎次郎など、光悦と共に鷹峯に居を構える)の多くは、法華宗(日蓮宗)であり、この本阿弥辻近辺の上層町衆は、この頂妙寺の檀徒だった感じでなくもない、

さらに、ここには、明智光秀の「愛宕百韻」で知られている連歌師「里村紹巴」一族の「里村昌叱・昌休・昌琢」の墓もあり、里村家の菩提寺なのかも知れない。
 すると、里村家は角倉了安・素庵とも姻族となり、「光悦→素庵→宗達→昌叱→光広」等々と、まさに、当時の「光悦サロン」が現出して来ることになる。
 また、「角倉了安・素庵」家には、加賀の前田家(利家)の姻族も嫁いでおり、その仲介人が光悦ともされ、この「光悦サロン」は、さらに広がりを見せることになる(但し、角倉家は法華宗ではなく、同様に、光悦を法華宗の観点からだけのアプローチは、その的を外すことになる)。
 何やら、光悦の「和歌巻」よりも、この周辺探索の方が面白い感じが濃厚である。いずれにしろ、この京都の「頂妙寺」は、「光悦アプローチ」には欠かせない。

 
by yahantei (2020-11-28 09:19) 

yahantei

https://www.chugainippoh.co.jp/article/ron-kikou/ron/20200826-001.html



上記のアドレスに、「謎の絵師・俵屋宗達とは(1/2ページ)日蓮宗大法寺住職 栗原啓允氏」の論稿がアップされている。(以下、要点の抜粋とメモ。)

「江戸初期に活躍した俵屋宗達は琳派の祖とされる最も著名な絵師でありながら、史料が極端に少なく生没年すら不明とされています。今般の論考では、俵屋蓮池・喜多川一門が「広範で強固な日蓮法華衆ネットワーク」の主要な構成員であった事実に着目しました。」

「(天正4)年には中小川に頂妙寺に結縁した蓮池常知、蓮池周政、喜多川宗利などの信徒が在ったことを確認しました。ことに蓮池常知はこれまでほとんど知られてこなかった人物ですが、本法寺及び本阿弥一門との関連においても俵屋蓮池一門の系譜の要にある人物であろうと考えました。また本法寺塔頭教行院第6世で蒔絵師の名門五十嵐一門出身の教行院日富によって調製された「教行院日富過去帳」中にも「蓮池平右衛門常賢日晋 延宝四 七、廿七日妙蓮父」との記載を確認し、『妙蓮寺文書』中の本尊裏書に宗達、千少庵などと交流のあった紋屋入道妙持の寄進記録も見いだしました。」

(メモ)「千少庵書状」(大和文華館蔵)の「千少庵・俵屋宗達・紋屋入道妙持」との三者関係が確認され、さらに、光悦と関係の深い「蒔絵師の名門五十嵐一門」との関係も浮き彫りにされる。

「蓮池常知の後継者である蓮池常有が15(元和元)年には光悦町に屋敷を所有していたこと。今出川通小川東江入兼康町に居住する俵屋蓮池宗家の系譜に連なると思われる蓮池平右衛門宗和なる織師が、08(慶長13)年に西陣織屋の名門、紋屋宗家井関宗帖から紋織法の秘伝を授けられている等の既知の史料を合わせて考察することによって蓮池常有と蓮池平右衛門宗和が同一人物であることも併せて類推されました。」

(メモ)「鷹峯光悦町古図」(光悦寺蔵)に記載されている「蓮池常有」が、「今出川通小川東江入兼康町に居住する俵屋蓮池宗家の系譜に連なる」ということ、そして、「立本寺・頂妙寺」の有力な檀徒であったことが分かってくる。

「頂妙寺墓所に現存する俵屋喜多川一門の供養塔に元祖宗利として記載される人物について「喜多川宗家歴代譜」には「元祖宗利 慶長七年五月十日 八十五歳 俗名蓮池平右衛門秀明」と記載されており、これまで蓮池秀明と喜多川宗利は同一人物であるとされてきました。しかし今回見いだした「妙法堂過去帳」の「十日 喜多川宗利 常通父 八月 十三年忌慶長十二年丁未八月也」の記載は喜多川宗利の命日が1595(文禄4)年8月10日であることを教えていて、「喜多川宗家歴代譜」に1602(慶長7)年5月10日に85歳で没したとされている蓮池秀明とは別人であることが確認されました。」



「蓮池秀明と喜多川宗利、蓮池常知の間にも親子関係を類推しました。さらに蓮池秀明は子息の常知に俵屋蓮池宗家を継承させるに加えて宗利に同じ「大舎人座」の座衆であった喜多川家を継承させたと考えました。」



「俵屋喜多川宗家の家職は現在に至るも織屋であり、俵屋蓮池一門では織屋に加えて絵屋も家職としていました。俵屋宗達が絵屋工房を主宰した絵師であったことから、俵屋蓮池常知は常有をして蓮池宗家の織屋の家職を引き継ぐとともに、喜多川宗家から甥にあたる喜多川常通を養子に迎えることで一門の一方の家職である絵屋工房を継承させたと考えられます。そして蓮池常有が平右衛門宗和を名乗ったように後年入道名宗達を授与された常通は、絵屋俵屋の当主宗達、俵屋宗達と通称されるに至った。」

(メモ) この論稿の結論は、「俵屋喜多川宗家の家職は現在に至るも織屋であり、俵屋蓮池一門では織屋に加えて絵屋も家職としていました。俵屋宗達が絵屋工房を主宰した絵師であったことから、俵屋蓮池常知は常有をして蓮池宗家の織屋の家職を引き継ぐとともに、喜多川宗家から甥にあたる喜多川常通を養子に迎えることで一門の一方の家職である絵屋工房を継承させた」という「宗達上層町衆出自説」(山根有三等の「通説」)ということであろう。

しかし、『宗達絵画の解釈学(林進著)』の「宗舟・平次宛 素庵書状」の「六原ノ絵かき」説からは、当然に異論は出てくることであろう。








by yahantei (2020-11-28 16:46) 

yahantei

https://souda-kyoto.jp/travel/life/matsubara.html

このアドレス(松原通り)に、「ハッピー六原」というスーパーの名が出てくる。ここらに、「扇は都たわらやひかるげんじのゆふがほまきえのぐをあかせてかいたりけり」(『竹斎』医師磯田道冶)で紹介されている、光悦・宗達時代の慶長期の「俵屋」(宗達の営む絵屋)があったと推測されている(『宗達絵画の解釈学(林進著)』)。
この向かい側に「六道珍皇寺」(臨済宗建仁寺派)があり(本山の「建仁寺」には「風神雷神図」(宗達筆)がある)、同じ通りに「西福寺」(浄土宗)がある。
 「二条は帯の百足屋、三条は頭巾の唐物屋甚吉、四条は数珠の恵比寿屋、五条は扇の俵屋」というのは、『源氏物語』(夕顔)の光源の二条から五条にかけての道行きを下敷しているとか(前掲書)。
 さらに、「五条」には、「旧五条通り」(松原通り)と「新五条通り」の二つがあって、『竹斎』の記述を五条通りにすると、「鴨川の新五条大橋の西詰南には時宗の新善行寺御影堂があり、。境内には何軒かの扇屋が店を構え、女たちが扇の地紙を折り扇に仕立て、御影堂の扇は大変な人気で、一大販売センターになっていた」(『雍州府誌』「新善行寺」)との記述も見られる(前掲書)。
 この「五条大橋」関連の「高瀬川開削」に関連しての「角倉了以と素庵」関連のことは、下記のアドレスに詳しい(「素庵と宗達」との関連は「新五条大橋」の御影堂近辺の「俵屋」という理解もあるだろう)。

https://www.kyoto-yuka.com/column/h26.html



ここには、「角倉了以別邸跡」(京都市中京区木屋町通二条下ル)の写真が掲載されている(素庵は、ここと、嵯峨と、伏見の別邸の三か所を拠点にしていたようである)。




by yahantei (2020-11-29 10:05) 

yahantei

上記の『竹斎』の記述を五条通りにすると、「鴨川の新五条大橋の西詰南には時宗の新善行寺御影堂があり、(以下、略)」の「五条通りにすると」は「新五条通り」のミス。

岩波文庫の『竹斎』の著者が「烏丸光広著」(守随憲治校注)は、誤伝によるとか(?) しかし、何かしらの伝承はあるのかも(?)

ちなみに、「光悦・宗達・素庵・光広」の時代の「光広」の邸宅は、何処だったのか(?) これに直接触れた文献は、管見にして目にしていないが、「コトババンク」の次の記事が参考となる。

京都市上京区烏丸(からすま)今出川の北の相国寺門前にあった足利義政(あしかがよしまさ)の邸宅。烏丸御所。

とすると、「蔦の細道図屏風」(書=烏丸光広、画=伝俵屋宗達、萬野美術館旧蔵→相国寺承天閣美術館蔵)が、大阪の萬の美術館から相国寺に寄贈(?)されたのは、里帰りしたということになる。

烏丸光広を知るには、次のアドレスが参考となる。ここには、烏丸光広の『東行記』(京都国立博物館蔵)の、光広その人のスケッチが見られる。「和歌・狂歌・連歌・俳諧・書・画・古今伝授継受者・正二位・権大納言・徳川家光の歌道指南役・清原宣賢に儒学を学び、沢庵宗彭・一糸文守(いっしもんじゅ)に帰依して禅をも修めている」。光悦・素庵もマルチにストだが、光広もスケールが大きい。

これで、大体、「光悦・素庵・宗達・光広」の住んでいたのが、いくらか明瞭になってきた。「R京都(きょうと)駅から北にまっすぐ走る大通り―烏丸(からすま)通り→相国寺前」の、特に、「新五条大橋」(旧五条大橋)周辺と「相国寺・御所」周辺がメインとなる(明らかなミスは京都の助っ人のサポートもあるだろう。)

これで、「和歌巻」の次のステップに進みたい。

by yahantei (2020-11-29 15:43) 

yahantei

https://www.kyohaku.go.jp/jp/dictio/shoseki/59tokoki.html

大事なアドレスが抜けていた。

JR京都(きょうと)駅から北にまっすぐ走る大通り―烏丸(からすま)通り、この通りの名を家名(かめい)にしていた公家(くげ)の家がありました。これからお話しする紀行記(きこうき)『東行記(とうこうき)』の作者光広(みつひろ:1579~1638)が生まれた烏丸家(からすまるけ)です。烏丸家は室町(むろまち)時代に始まり、歴代(れきだい)の当主(とうしゅ:主人)は和歌(わか)を得意としたことで知られる古い家です。(以下略)


by yahantei (2020-11-29 15:49) 

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