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源氏物語画帖「その二十一・乙女」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

21 乙女(光吉筆)=(詞)近衛信尹(一五六五~一六一四)  源氏33歳-35歳

光吉・乙女.jpg

源氏物語絵色紙帖   乙女  画・土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/563752/2

信尹・乙女.jpg

源氏物語絵色紙帖   乙女  詞・近衛信尹
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/563752/1

(「近衛信尹」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/03/20/%E8%96%84%E9%9B%B2_%E3%81%

風うち吹きたる夕暮に、御箱の蓋に、色々の花紅葉をこき混ぜて、こなたにたてまつらせたまへり
(第七章 光る源氏の物語 六条院造営 第六段 九月、中宮と紫の上和歌を贈答)

7.6.1 風うち吹きたる夕暮に、御箱の蓋に、色々の花紅葉をこき混ぜて、 こなたにたてまつらせたまへり。
(風がさっと吹いた夕暮に、御箱の蓋に、色とりどりの花や紅葉をとり混ぜて、こちら(紫夫人)に差し上げになさった。)


(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第二十一帖 乙女
 第一章 朝顔姫君の物語 藤壺代償の恋の諦め
  第一段 故藤壺の一周忌明ける
  第二段 源氏、朝顔姫君を諦める
 第二章 夕霧の物語 光る源氏の子息教育の物語
  第一段 子息夕霧の元服と教育論
  第二段 大学寮入学の準備
  第三段 響宴と詩作の会
  第四段 夕霧の勉学生活
  第五段 大学寮試験の予備試験
  第六段 試験の当日
 第三章 光る源氏周辺の人々の物語 内大臣家の物語
  第一段 斎宮女御の立后と光る源氏の太政大臣就任
  第二段 夕霧と雲居雁の幼恋
  第三段 内大臣、大宮邸に参上
  第四段 弘徽殿女御の失意
  第五段 夕霧、内大臣と対面
  第六段 内大臣、雲居雁の噂を立ち聞く
 第四章 内大臣家の物語 雲居雁の養育をめぐる物語
  第一段 内大臣、母大宮の養育を恨む
  第二段 内大臣、乳母らを非難する
  第三段 大宮、内大臣を恨む
  第四段 大宮、夕霧に忠告
 第五章 夕霧の物語 幼恋の物語
  第一段 夕霧と雲居雁の恋の煩悶
  第二段 内大臣、弘徽殿女御を退出させる
  第三段 夕霧、大宮邸に参上
  第四段 夕霧と雲居雁のわずかの逢瀬
  第五段 乳母、夕霧の六位を蔑む
 第六章 夕霧の物語 五節舞姫への恋
  第一段 惟光の娘、五節舞姫となる
  第二段 夕霧、五節舞姫を恋慕
  第三段 宮中における五節の儀
  第四段 夕霧、舞姫の弟に恋文を託す
  第五段 花散里、夕霧の母代となる
  第六段 歳末、夕霧の衣装を準備
 第七章 光る源氏の物語 六条院造営
  第一段 二月二十日過ぎ、朱雀院へ行幸
  第二段 弘徽殿大后を見舞う
  第三段 源氏、六条院造営を企図す
  第四段 秋八月に六条院完成
  第五段 秋の彼岸の頃に引っ越し始まる
  第六段 九月、中宮と紫の上和歌を贈答
(「近衛信尹」書の「詞」) → 7.6.1


http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=2902

源氏物語と「乙女」(川村清夫稿)

【日本の正月は、明治維新後の1873年に太陰太陽暦が太陽暦に改められてからは、太陽暦だけで祝われるようになった。他方中国、韓国、ベトナムでは、今でも旧正月が祝われている。太陰太陽暦を使っていた明治時代以前の日本では人の年齢は数え年で、正月には数え年で12歳から16歳になった男性を成人として認める元服という成人式があったのである。

 源氏物語では乙女(少女)の帖で、光源氏が長男の夕霧を元服させる場面がある。その場面で光源氏は夕霧を、高級貴族の子弟のみに許された特権である「蔭位の制」(大学寮で教育を受けなくても、父の位階が一位なら五位から自動的に官職につける制度)を通さず、大学寮で教育を受けさせてから官職につけることに決める。その理由として光源氏は、「ざえ」(または「からざえ」漢才)と「やまとだましひ」(大和魂)について語っている。
「からざえ」とは学問(特に漢学)、学問の才能のことである。そして「やまとだましひ」とは「からざえ」の反意語で、日本人が生まれながら持っている才能、常識的な知恵のことである。中国と日本を対比する「からざえ」と「やまとだましひ」は、印象の強い言葉である。「枕冊子」の研究で有名な田中重太郎相愛大学教授は、兼任されていた京都駿台予備校の古文の主任講師として、「からざえ」と「やまとだましひ」を引き合いに出して、学問の重要性を強調されておられた。

大島本原文、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(大島本原文)
なほ、才をもととしてこそ、大和魂の世に用ゐらるる方も強うはべらめ。さしあたりては心もとなきやうにはべれども、つひの世の重しとなるべき心おきてを習ひなば、はべらずなりなむ後もうしろやすかるべきによりなむ。

(渋谷現代語訳)
やはり、学問を基礎にしてこそ、政治家としての心の働きが世間に認められるところもしっかりしたものでございましょう。当分の間は、不安なようでございますが、将来の世の重鎮となる心構えを学んだなら、私が亡くなった後も、安心できようと存じてです。

(ウェイリー英訳)
For the truth is, that without a solid foundation of book learning this “Japanese spirit” of which one hears so much is not of any great use in the world. So you see that, though at the present moment I may seem to be doing less for him than I ought, it is my wish that he may one day be fit to bear the highest charges in the State, and be capable of so doing even if I am no longer here to direct him.

(サイデンステッカー英訳)
No, the safe thing is to give him a good, solid fund of knowledge. It is when there is a fund of Chinese learning that the Japanese spirit is respected by the world, he may feel dissatisfied for a time, but if we give him the proper education for a minister of state, then I need not worry about what will happen after I am gone.

  「ざえ」に関しては、渋谷が「学問」と解釈して、ウェイリーもbook learningと意訳しているのに対して、サイデンステッカーはChinese learningと直訳している。そして「やまとだましひ」については、渋谷が「政治家としての心の働き」と解釈しているのに対して、ウェイリーもサイデンステッカーもJapanese spiritと異国趣味的な直訳をしている。

 「やまとだましひ」が歴史に登場したのは、源氏物語が最初である。

 よって紫式部が「やまとだましひ」の発明者ということになる。
「やまとだましひ」が近現代において「日本精神」として扱われるようになったのは、江戸時代中期に国学の研究がさかんになり、本居宣長が類義語の「やまとごころ」を「からごころ」の反意語と定義してからである。

 本居は歴史の長い中国文化の性格を、ものごとを作為的な虚飾で飾り立てる、はからいの多い繁文縟礼的な「からごころ」だと言って批判する一方、日本文化の性格を、ものごとにはかりごとを加えず、あるがままのさまを肯定する素直な「やまとごころ」だと呼んで称賛したのである。この「やまとごころ」が、仏教や儒教が伝来する以前の日本古来の精神に拡大解釈され、「やまとだましひ」はその同義語として扱われ、日本の独自性を象徴する標語となり、大日本帝国において国粋主義的な「日本精神」に変化していったのである。

 紫式部が「やまとだましひ」を発明した平安時代中期の日本では、国風文化が開花していた。894年に菅原道真が遣唐使を廃止して、905年には紀貫之たちが古今和歌集を編纂した。和学にも漢学にも通じていた紫式部は光源氏の口を借りて、日本人が古来の素朴な行動様式を放棄せず、漢学を学ぶことによって、先進国である中国の文化を接ぎ木して、後進国だった日本の文化の発展を願ったのである。紫式部は「和魂漢才」の提唱者だったのである。この「和魂漢才」思想は明治時代の文明開化運動で、「和魂洋才」に換骨奪胎された。飛鳥時代から豊かな外国文化摂取の蓄積がある現代日本人にとって、自文化の価値観を保持しながら外来文化を摂取して自文化を強める「和魂漢才」思想は今なお有効である。 】


(「三藐院ファンタジー」その十一)

信尹・三十六歌仙・右.jpg

「三十六歌仙図屏風・右隻(近衛信尹書)」[右隻]156.5×354.1 慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション)
https://objecthub.keio.ac.jp/ja/object/2665

信尹・三十六歌仙・左.jpg

「三十六歌仙図屏風・左(近衛信尹書)」[左隻]156.5×355.0 慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション)
https://objecthub.keio.ac.jp/ja/object/1750

https://objecthub.keio.ac.jp/ja/object/2665

【 藤原公任〈ふじわらのきんとう・996-1041〉撰になる『三十六人撰』は、当時の秀歌の規範として貴族たちの文芸の座右に重んじられた。やがて、平安時代末期・12世紀になると、これら歌人の画像を描いてその代表歌1首を書き添えた歌仙絵が生まれた。後世、歌道の流行を歌仙信仰にともなって、絵巻形式の巻子本から、各歌仙ごと色紙に貼り込んだ色紙帖が考案された。いずれも、歌仙像は当時の名だたる絵師に、歌は能書の公卿に書写を依頼して制作されたものである。これは三十六歌仙を左右各18人の群像に描き分け6曲1双の屏風に仕立てたもの。歌仙図と和歌色紙を屏風に貼り交ぜたものはいくつか伝存するが、歌仙像を屏風に直に描いた上に和歌をも添書した遺例はきわめて珍しい。『三十六人撰』においては、柿本人麿を筆頭に、紀貫之・凡河内躬恒・伊勢……と続き、最後の36番目が中務となる。これを右・左に割り振って18人ずつに分け、人麿のグループを右隻に集めて画面左から順次配列、画像はすべて左向きに描いている。左隻には紀貫之から中務まで、画面右から配列する。1双の屏風を並べた時の画面効果をねらったものである。また、右隻の中央に斎宮女御〈さいぐうのにょうご=徽子女王・929-985〉を描くが、几帳を立てるばかりで、像主の絵姿を省略している。まことに大胆奇抜の構図である。歌仙中、最尊貴の斎宮女御に払う絵師の心情の発露というべきか。それらの歌仙像は下方に描かれ、上部の空間に近衛信尹〈このえのぶただ・1565-1614〉がそれぞれに対応する代表和歌をしたためる。信尹は桃山時代の公卿で、摂関家近衛家の当主。文禄元年〈1592〉、豊臣秀吉〈とよとみひでよし・1536-98〉の朝鮮出兵にみずからが総指揮をとるべく渡航従軍を企てたが失敗。同3年、義兄たる後陽成天皇〈ごようぜいてんのう・1571-1617〉の勅勘に触れ、薩摩国(鹿児島県)最南端、坊の津(ぼうのつ)に配流となった。後に帰洛し、還俗後、関白・氏長者さらには准三宮となった。歌道・書道に秀で、ことに書においては、近衛流(三藐院流)と称され、本阿弥光悦〈ほんあみこうえつ・1558-1637〉・松花堂昭乗〈しょうかどうしょうじょう・1584-1639〉とともに「寛永の三筆」の1人に挙げられ、不羈奔放の性格のままに、豪放自在、すこぶる個性的な書をかいた。この賛の書風もその典型である。縦横無尽の躍動的な健筆は信尹の真骨頂。墨の濃淡自在、連綿や墨継ぎ、一気呵成の運筆、眼にもとまらぬ筆跡の跡が、関白近衛信尹の生得の威厳を示してあまりある。歌仙図の白眉というにやぶさかでない。
 屛風の各隻に歌仙を18人ずつ描いた作品。それまで絵巻(出品番号10)に描くことの多かった三十六歌仙図であるが、近世では扁額や屛風という新しい支持体の上で揮毫されるようになった。歌仙が左右に分かれてゆるやかに列座する様子は、歌の優劣を競ったという往時の歌合を目の前で再現しているような臨場感がある。また、本図の制作に際しては何かしらの原本があったようで、絵の具の剝落や退色まで忠実に写している点は珍しい。右隻第5扇の素性(生没年不詳)、第6扇の凡河内躬恒(生没年不詳)に模写当時の様相が確認できる。
 屛風の上部には歌仙と対応するように詞書を記す。筆者は三藐院流の祖、近衛信尹(1565–1614)とされる。和歌の散らし書きは構成の変化に富み、能書家と名高い信尹の力量を感じさせよう。類似作例には信尹賛をともなう場合が多く、近世初期三十六歌仙図の関係を探る上でも重要な手がかりとなろう。(小松)   】

https://objecthub.keio.ac.jp/ja/object/1736

【 (釈文)

右隻(右から)

平兼盛/かそふれはわか身につもるとし月を/をくりむかふとなに急くらん
大中臣能宣朝臣/千年まてかきれる松もけふよりは/君にひかれてよろつ代や経ん
小大君/岩はしのよるの契りもたえぬへし/あくるわひしきかつらきの神
坂上是則/みよし野の山のしら雪つもるらし/ふる郷さむくなりまさる也
藤原興風/たれをかもしる人にせん高砂の/松もむかしの友ならなくに
藤原清正/ねのひしにしめつる野へのひめこ松/ひかてやちよのかけをまたまし
源宗于朝臣/ときはなる松のみとりも春くれは/いまひとしほのいろまさりけり
藤原敏行朝臣/秋来ぬとめにはさやかにみえねとも/風の音にそおとろかれぬる
斎宮女御/ことの音にみねの松風かよふらし/いつれのをよりしらへそめけん
源公忠朝臣/行やらて山路くらしつ郭公/いま一こゑのきかまほしさに
中納言敦忠/あひみての後のこゝろにくらふれは/むかしは物をおもはさりけり
中納言兼輔/人のおやの心はやみにあらねとも/子を思ふみちにまよひぬるかな
猿丸太夫/をちこちのたつきもしらぬ山なかに/おほつかなくもよふことりかな
素性法師/いまこんといひしはかりになかつきの/あり明の月を待出つるかな
在原業平朝臣/世間にたえてさくらのなかりせは/春の心はのとけからまし
中納言家持/さをしかの朝たつ小野の秋はきに/たまと見るまてをけるしら露
凢河内躬恒/我やとの花見かてらに来る人は/ちりなん後そこひしかるへき
柿本人丸/ほの〳〵とあかしの浦の朝霧に/しまかくれ行舟をしそ思ふ

左隻(右から)

紀貫之/櫻ちる木のした風はさむからて/空に知れぬ雪をふりける
伊勢/三輪の山いかに待みん年ふとも/たつぬる人もあらしとおもへは
山邊赤人/わかの浦にしほみちくれはかたをなみ/芦辺をさしてたつ鳴渡る
僧正遍照/すゑのつゆもとの雫や世中の/をくれ先たつためしなるらむ
紀友則/夕されはさほの河原の川風に/ともまよして千とり鳴也
小野小町/色みえてうつろふ物は世中の人の/心の花にそ有ける
中納言朝忠/あふ事の絶てしなくは中〳〵に/人をも身をも恨さらまし
藤原高光/かくはかり経かたくみゆる世間に/うらやましくもすめる月かな
壬生忠岑/春たつといふはかりにやみよし野の/山もかすみて今朝は見ゆらむ
大中臣頼基朝臣/子日する野へに小松をひきつれて/かへる山路にうくひすそなく
源重之/よし野山みねのしら雪いつきえて/今朝は霞のたちかはるらん
源信明朝臣/こひしさはおなし心にあらすとも/こよひの月を君見さらめや
源順/水のおもにてる月なみをかそふれは/こよひそ秌のもなか也ける
清原元輔/秋の野の萩のにしきを我やとに/鹿のねなからうつしてしかな
藤原元真/年毎の春のわかれをあはれとも/人にをくるゝ人を知らん
藤原仲文/あり明の月の光を待ほとに/わか世のいたくふけにけるかな
壬生忠見/やかすとも草はもえなむ春日野を/たゝはるの日にまかせたらなん
中務/鶯の聲なかりせは雪消ぬ/山里いかて春をしらまし           】

信尹・人麿自画賛.jpg

「近衛信尹筆柿本人麿自画賛(信尹筆:画・書)」 慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション)

https://objecthub.keio.ac.jp/ja/object/1719

【 近衛信尹〈このえのぶただ・1565-1614〉は、桃山時代の公卿で、摂関家近衛家の当主。文禄元年〈1592〉、豊臣秀吉〈とよとみひでよし・1536-98〉の朝鮮出兵にみずからが総指揮をとるべく、渡航従軍を企てたが失敗。同3年、義兄たる後陽成天皇〈ごようぜいてんのう・1571-1617〉の勅勘に触れ、薩摩国最南端、坊の津(ぼうのつ)に配流となった。後に帰洛し、還俗後、関白・氏長者さらには准三宮となった。歌道・書道に秀で、ことに書においては、近衛流(三藐院流)と称され、本阿弥光悦〈ほんあみこうえつ・1558-1637〉・松花堂昭乗〈しょうかどうしょうじょう・1584-1639〉とともに「寛永の三筆」の1人に挙げられ、不羈奔放の性格のままに、豪放自在、すこぶる個性的な書をかいた。この賛の書風もその典型である。信尹の書風は、没後、多くの追随者を得て、一世を風靡した。また、画にも非凡の才を発揮、とくに水墨画の名品を多く残している。本図は、画像・賛ともに信尹自筆の柿本人麿自画賛である。歌仙信仰の長い歴史の中で、柿本人麿は歌道の聖として崇められ、人々からひときわ高い信仰を集めてきた。以来、人麿を祀る人麿影供(人麿供とも)が生まれた。これは、歌会において、床に人麿の画像を掛け、歌聖柿本人麿を供養する儀礼で、歌道の向上を願い、あるいは歌会の成功を祈ったのである。平安時代・12世紀から起こった風習である。この画像も、こうした影響下で描かれたもの。ふつうは、大和絵の手法による極彩色の画像が好まれた。が、この画像は、柿本人麿(丸)像を文字絵に描いた略画。烏帽子と線描の顔貌に、狩衣姿の肩のあたりから胸にかけて「柿」の字。筆を持つ右手を「本」の草書体。右足と左足、指貫(袴)の姿を「人」字と「丸」字をもってあらわしている。あわせて柿本人麿の坐像に完成させている。図上の賛は、柿本人麿の代表的詠歌とされている歌で、『古今和歌集』(巻第九・羇旅歌)に収められる。花押に加えて「図書之」(これを図書す)は、画も賛も信尹の自筆を示すもの。花押の上に捺された印の字様は不明。

(釈文)

ほのぼのとあかしの浦の旦(=朝)霧にしまがくれ行ふねをしぞおもふ「印」「印」(花押)図書之                      】

 「三十六歌仙図屏風」の「右隻」と「左隻」に関しては、「人麿のグループを右隻に集めて画面左から順次配列、画像はすべて左向きに描いている。左隻には紀貫之から中務まで、画面右から配列する。1双の屏風を並べた時の画面効果をねらったものである。また、右隻の中央に斎宮女御〈さいぐうのにょうご=徽子女王・929-985〉を描くが、几帳を立てるばかりで、像主の絵姿を省略している。まことに大胆奇抜の構図である」の、その「大胆奇抜」の前に、「細心にして(神経細やかにして)」をも付加したい。
 「柿本人麿自画賛」に関して、「柿本人麿(丸)像を文字絵に描いた略画。烏帽子と線描の顔貌に、狩衣姿の肩のあたりから胸にかけて「柿」の字。筆を持つ右手を「本」の草書体。右足と左足、指貫(袴)の姿を「人」字と「丸」字をもってあらわしている」と、こういう一面を、寛永時代には既に死没していて、「寛永三筆」(近衛信尹・本阿弥光悦・松花堂昭乗)の、その筆頭に挙げられている「近衛信尹」は、有していたのであろう。
 「寛永の三筆」関連の、「中世から近世へ脱皮した書の姿」などについては、下記のアドレスが参考となる。

https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=471
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yahantei

「三十六歌仙図屏風(近衛信尹書)」の、この「和歌の散らし書きは構成の変化に富み、能書家と名高い信尹の力量を感じさせよう。類似作例には信尹賛をともなう場合が多く、近世初期三十六歌仙図の関係を探る上でも重要な手がかりとなろう」の指摘は、「寛永の三筆」の、本阿弥光悦や松花堂昭乗の、その「和歌の散らし書き」との関係を探る上でも、貴重なものであろう。
 なお、この「三十六歌仙」の選歌は、例えば、「左竹本三十六歌仙」のそれと、次のように異にしている。

凢河内躬恒/我やとの花見かてらに来る人は/ちりなん後そこひしかるへき → いつくとも春のひかりはわかなくに/またみよしのゝ山は雪ふる(佐竹本)

大中臣頼基朝臣/子日する野へに小松をひきつれて/かへる山路にうくひすそなく → つくはやまいとゝしけきに紅葉して/みちに見えぬまておちやしぬらん(佐竹本)




by yahantei (2021-06-05 10:21) 

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