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源氏物語画帖「その二十二・玉鬘」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

22 玉鬘(光吉筆)=(詞)近衛信尹(一五六五~一六一四)  源氏35歳

光吉・玉鬘.jpg

源氏物語絵色紙帖  玉鬘  画・土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/578353/2

信尹・玉鬘.jpg

源氏物語絵色紙帖  玉鬘  詞・近衛信尹
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/578353/1

(「近衛信尹」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/03/23/%E7%8E%89%E9%AC%98%E3%83%BB%E7%8E%89%E8%94%93%E3%83%BB%E7%8E%89%E8%91%9B_%E3%81%9F%E3%81%BE%E3%81%8B%E3%81%9A%E3%82%89%E3%83%BB%E3%81%9F%E3%81%BE%E3%81%8B%E3%81%A5%E3%82%89%E3%80%90%E6%BA%90

曇りなく赤きに、山吹の花の細長は、かの西の対にたてまつれたまふを、上は見ぬやうにて思しあはす。内の大臣の、はなやかに、あなきよげとは見えながら、なまめかしう見えたる方のまじらぬに似たるなめり。と
(第五章 光る源氏の物語 末摘花の物語と和歌論 第一段 歳末の衣配り)

5.1.14 曇りなく赤きに、山吹の花の細長は、 かの西の対にたてまつれたまふを、上は見ぬやうにて思しあはす。「 内の大臣の、はなやかに、あなきよげとは見えながら、なまめかしう見えたる方のまじらぬに似たるなめり」と、
(曇りなく明るくて、山吹の花の細長は、あの西の対の方に差し上げなさるのを、紫の上は見ぬふりをして想像なさる。「内大臣が、はなやかで、ああ美しいと見える一方で、優美に見えるところがないのに似たのだろう」と、)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第二十二帖 玉鬘
 第一章 玉鬘の物語 筑紫流離の物語
  第一段 源氏と右近、夕顔を回想
  第二段 玉鬘一行、筑紫へ下向
  第三段 乳母の夫の遺言
  第四段 玉鬘への求婚
 第二章 玉鬘の物語 大夫監の求婚と筑紫脱出
  第一段 大夫の監の求婚
  第二段 大夫の監の訪問
  第三段 大夫の監、和歌を詠み贈る
  第四段 玉鬘、筑紫を脱出
  第五段 都に帰着
 第三章 玉鬘の物語 玉鬘、右近と椿市で邂逅
  第一段 岩清水八幡宮へ参詣
  第二段 初瀬の観音へ参詣
  第三段 右近も初瀬へ参詣
  第四段 右近、玉鬘に再会す
第五段 右近、初瀬観音に感謝
  第五段 右近、初瀬観音に感謝
  第六段 三条、初瀬観音に祈願
  第七段 右近、主人の光る源氏について語る
  第八段 乳母、右近に依頼
  第九段 右近、玉鬘一行と約束して別れる
第四章 光る源氏の物語 玉鬘を養女とする物語
  第一段 右近、六条院に帰参する
  第二段 右近、源氏に玉鬘との邂逅を語る
  第三段 源氏、玉鬘を六条院へ迎える
  第四段 玉鬘、源氏に和歌を返す
  第五段 源氏、紫の上に夕顔について語る
  第六段 玉鬘、六条院に入る
  第七段 源氏、玉鬘に対面する
  第八段 源氏、玉鬘の人物に満足する
  第九段 玉鬘の六条院生活始まる
 第五章 光る源氏の物語 末摘花の物語と和歌論
  第一段 歳末の衣配り
(「近衛信尹」書の「詞」) → 5.1.14
第二段 末摘花の返歌
  第三段 源氏の和歌論

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=3071

源氏物語と「玉鬘」(川村清夫稿)

【玉鬘は、「夕顔」の帖で光源氏と密会中に六条御息所の怨霊に憑(つ)き殺された夕顔と、頭中将の間に生まれた遺児である。

夕顔の死後、玉鬘は乳母とその夫の太宰小弐と共に九州に移り、そこで美しく成長した。太宰小弐が当地で世を去った後、玉鬘は大夫の監という肥後の豪族から求婚されるが、彼女たちはいやがり、ひそかに船で京都へ戻って来たのである。玉鬘と乳母たちは奈良桜井にある長谷寺へ参詣するが、ここで偶然、元は夕顔の侍女で今は光源氏に仕えている右近と再会した。そして右近は光源氏に、夕顔の遺児に会ったと報告するのである。

 光源氏と右近の対話を、大島本の原文、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(大島本原文)
「かの尋ね出でたりけむや。何ざまの人ぞ。尊き修行者語らひて、率て来たるか」と問ひたまへば、
「あな、見苦しや。はかなく消えたまひにし夕顔の露の御ゆかりをなむ、見たまへつけたりし」と聞こゆ。
「げに、あはれなりけることかな。」…
「容貌などは、かの昔の夕顔と劣らじや」などのたまへば、
「かならずさしもいかでかものしたまはむと思ひたまへりしを、こよなうこそ生ひまさりて見えたまひしか」と聞こゆれば、
「をかしのことや。誰ばかりとおぼゆ。この君と」とのたまへば、
「いかでか、さまでは」と聞こゆれば、
「したり顔にこそ思ふべけれ。我に似たらばしも、うしろやすしかし」と、親めきてのたまふ。

(渋谷現代語訳)
「あの捜し出した人というのは、どのような人か。尊い修行者と親しくして、連れて来たのか」と(光源氏が)お尋ねになると、
「まあ、人聞きの悪いことを。はかなくお亡くなりになった夕顔の露の縁のある人を、お見つけ申したのです」と(右近が)申し上げる。
「ほんとうに、思いもかけないことであるなあ。」…
「器量などは、あの昔の夕顔に劣らないだろうか」などとおっしゃると、
「きっと母君ほどでいらっしゃるまいと存じておりましたが、格別に優れてご成長なさってお見えになりました」と申し上げるので、
「興味あることだ。誰くらいに見えますか。この紫の君とは」とおっしゃると、
「どうして、それほどまでは」と申し上げるので、
「得意になって思っているのだな。わたしに似ていたら、安心だ」と、実の親のようにおっしゃる。

(ウェイリー英訳)
“Tell me about the interesting person whom you have discovered,” he went on. “I believe it is another of your holy men. You have brought him back here, and now I am let him pray for me. Have I not guessed right?” “No, indeed,” Ukon answered indignantly; “I should never dream of doing such a thing!” And then, lowering her voice: “I have become acquainted with the daughter of a lady whom I served long ago… The mother came to a miserable end… You will know of whom it is I am speaking.” “Yes,” said Genji… “I know well enough, and your news is indeed very different from anything I had imagined.” …
“Is she as handsome as her mother?” Genji then asked. “I did not at all expect that she would be,” answered Ukon. “But I must say that I have seldom seen…” “I am sure she is pretty,” he said. “I wonder whether you mean anything more than that. Compare with my lady…?” and he nodded towards Lady Murasaki. “No, indeed,” Ukon hastily; “that would be going too far…” “Come,” he said, “it would not be going much farther than you go yourself. I can see that by your face. For my part, I must own to the usual vanity of parents. I hope that I shall be able to see in her some slight resemblance to myself.” He said this because he intended to pass off the girl as his own child, and was afraid that part of the conversation had been overheard.

(サイデンステッカー英訳)
“Now, then, who is the interesting person in the hills? A well-endowed hermit you have come to an understanding with?”
“Please, sir, someone might hear you. I have found a lady who is not unrelated to those evening faces. Do you remember? The ones that faded so quickly.”
“Ah, yes, memories do come back..” …
“Is she as pretty as her mother?”
“I wouldn’t have thought she could possibly be, but she has grown into a very beautiful young lady indeed.”
“How interesting. Would you compare her with our lady here?”
“Oh, sir, hardly.”
“But you seem confident enough. Does she look like me? If so, then I can be confident too.”
He was already talking as if he were her father.

 ウェイリー訳は原文にないことを加えて冗漫だが、サイデンステッカー訳は原文に忠実で簡潔である。「あな、見苦しや」をウェイリーはI should never dream of doing such a thing、サイデンステッカーはsomeone might hear youと訳しているが、後者の方が正確である。また「我に似たらばしも、うしろやすしかし」をウェイリーはI hope that I shall be able to see in her some slight resemblance to myself、サイデンステッカーはDoes she look like me? If so, I can be confident tooと訳しているが、これも後者の方が正しい。
玉鬘の父は頭中将だが、光源氏は玉鬘を引き取り、花散里を後見にして育てるのである。】

(「三藐院ファンタジー」その十二)

信尹和歌屏風一.jpg

(A-1図)「三笠山図屏風(近衛信尹賛)」 慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション) 六曲一隻(金地着色)

https://objecthub.keio.ac.jp/object/1860

【近衛信尹〈このえのぶただ・1565-1614〉は、桃山時代の公卿で、摂関家近衛家の当主。文禄元年〈1592〉、秀吉の朝鮮出兵に際し、みずからが総指揮をとるべく渡航従軍を企てたが失敗。同3年〈1594〉、義兄たる後陽成天皇〈ごようぜいてんのう・1571-1617〉の勅勘に触れ、薩摩国最南端、坊津に配流となった。後に帰洛し、還俗後、関白・氏長者さらには准三宮となった。歌道・書道に秀で、ことに書においては、近衛流(三藐院流)と称され、本阿弥光悦〈ほんあみこうえつ・1558-1637〉・松花堂昭乗〈しょうかどうしょうじょう・1584-1639〉とともに「寛永の三筆」の1人に挙げられ、不羈奔放の性格のままに、豪放自在、すこぶる個性的な書をかいた。この賛の書風もその典型である。信尹の書風は、没後多くの追随者を得て、一世を風靡した。また、画にも非凡の才を発揮、とくに水墨画の名品を多く残している。この屏風は、金地の上に濃彩に描かれる三笠山を情景に、『古今和歌集』(巻第四・秋上)と『後拾遺和歌集』(巻第十四・恋四)所収の2首を大字で散らし書きにする。信尹の自負のみなぎりが発揮される、数少ない大字仮名作品のひとつである。三笠山は、奈良市東部、春日大社の背後の山で、笠を伏せたような円錐形が3つ折り重なった形をしていることからこの名がある。画は、なだらかな稜線に桧の若木の垂直線をからませ、画面の右に丈高い薄、その上方に月、彼方に遠山が描かれている。ひときわのびやかな勾配やリズミカルで軽快な樹の描写に、長谷川派の手法をうかがうが、筆者は不明。伝来途次による剥落が見られるのは残念ながら、信尹の豪放な筆跡と桃山時代の特色である華やかな絵との見事な調和が見所である。「奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき/白露も夢もこの世も幻もたとへていへば久しかりけり」

(釈文)

尾久山爾赤葉布美倭計□□之□□聲□□□秋婆悲気しら露も夢も此世もまぼろしもたとへていへばひさしかりけり   】


信尹和歌屏風二.jpg

(A-2図)「三笠山図屏風(近衛信尹賛)」(一扇・二扇の部分図、釈文:「尾久山爾赤葉布美倭計」)


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(A-3図)「三笠山図屏風(近衛信尹賛)」(三扇・四扇の部分図、釈文:「秋婆悲気」)


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(A-4図)「三笠山図屏風(近衛信尹賛)」(五扇・六扇の部分図、釈文:「しら露も夢も此世もまぼろしもたとへていへばひさしかりけり 」)

 ここに描かれている、「画(A-1図)は、なだらかな稜線に桧の若木(A-3図)の垂直線をからませ、画面の右に丈高い薄、その上方に月(A-2図)、彼方に遠山が描かれている。ひときわのびやかな勾配やリズミカルで軽快な樹(A-4図)の描写に、長谷川派の手法をうかがうが、筆者は不明。伝来途次による剥落が見られるのは残念ながら、信尹の豪放な筆跡と桃山時代の特色である華やかな絵との見事な調和が見所である」と、第一扇に描かれている「薄と月」(A-2図)、第三・四扇以下に描かれている「桧の若木」(A-3図)、そして、第五・六扇の「のびやかな勾配(土坡)やリズミカルで軽快な樹」(A-4図)は、「長谷川(等伯)派の手法をうかがわせる」(筆者は不明)というのである。
 これら(A-1図)は、光悦と宗達とが切り拓いていた、「書画二重奏への道―光悦書・宗達画和歌巻」の世界の、それらの原型の世界と軌を一にするものと解したい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-11-06

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-11-02

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-10-10

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-06-28

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-05-28

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-12-16

 ここで、ここに書かれている、近衛信尹の、次の二首について触れたい。

「尾久山爾赤葉布美倭計□□之□□聲□□□秋婆悲気」(A-1・2・3図)

 この万葉仮名の表記による歌は、『古今和歌集』(巻第四・秋上)の次の一首である。

奥山にもみぢ踏みわけ鳴く鹿の声きく時ぞ秋はかなしき(詠人しらず『古今和歌集』215)

「五七調の歌として二句目と四句目で切って解釈する。真淵がはっきりそのように解している。作者の身分・境遇などはわからないが、秋の悲しみが身に迫るようで、沈痛な響きをもつ歌である。俊成・定家には高く評価され、『百人一首』では作者を猿丸大夫とする。しかし、そのころは三句目で切って、奥山の鹿の声を作者が里で聞くように解したのであろう。
」(『日本古典文学全集「古今和歌集(小沢正夫校注・訳)」』)

 この『俊成三十六人歌合』では、次のように、謎に充ちた「猿丸太夫と小野小町」との歌合として収載されている。

(左)

31 遠近(をちこち)のたづきを知らぬ山中におぼつかなくも呼子鳥かな(猿丸太夫)
32 ひぐらしの鳴きつるなへに日は暮れぬと思ふは山の陰にぞありける(同上)
33 奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき(同上)

(右)

34 花の色は移りにけるないたづらに我が身世にふるながめせしまに(小野小町)
35 色見えで移ろふものは世の中の人の心の花にぞありける(ど同上)
36 海人(あま)の住む浦漕ぐ舟の梶を絶え世を倦み渡る我ぞ悲しき(同上)

 これが、定家の『百人秀歌』で、次のように収載されて来る。

8 奥山にもみぢ踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき(猿丸太夫)
13 花の色は移りにけるないたづらに我が身世にふるながめせしまに(小野小町)

そして、『百人一首』では、「1天智天皇・2持統天皇・3柿本人麻呂・4山辺赤人」に次いで五番目に収載されている。

5 奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき(猿丸太夫)

 しかし、信尹の、この「三笠山図屏風(近衛信尹賛)」(A-2図・A-3図)は、漢字(真名=真字・万葉仮名=真仮名)の表記で、上記の『古今集』や『百人一首』のものではなく、次の『新撰万葉集』(菅原道真編)の表記をアレンジして書いているようなのである。

猿丸歌(万葉仮名).jpg

『新撰萬葉集』(著者:菅原 道真)  宮内庁書陵部 マイクロ収集 153,169
https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100061606/viewer/18

 奥山丹黄葉(モミヂ)踏別鳴鹿之音聴時曾秋者金敷
   秋山寂々葉零々(秋山・寂々=セキセキ、葉・零々=レイレイ)
   糜鹿鳴音数處聆(糜鹿=ビロク・鳴音、数處ニ聴ユ)
   勝地尋来遊宴處(勝地=ショウチ・尋来、遊宴スル處) 
   無朋無酒意猶冷(朋無シ酒無シ、意猶冷ス)  →  (菅原道真の「漢詩」)

 奥山丹黄葉(モミヂ)踏別鳴鹿之音聴時曾秋者金敷 (『新撰万葉集』=道真)     
 尾久山爾赤葉(モミヂ)布美倭計□□之□□聲□□□秋婆悲気(「三笠山図屏風」=信尹)
  (「A-2図)」・「A-3図)」)
奥山に紅葉(モミヂ)踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき(猿丸太夫『百人一首5』・『古今集・巻第四・秋上215・詠人しらず』)
 天の原振りさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも(安倍仲丸『百人一首7』・『古今集・巻第九・羇旅歌406・安倍仲麿』) (「A-2図)」)
 白露も夢もこの世も幻もたとへていへば久しかりけり(和泉式部『後拾遺集831』)
  (「A-4図」)

以下は、「三藐院ファンタジー」の「ファンタジー」的な試行的な解となる。

一 「A-2図」に描かれている「月」は、『古今集・巻第九・羇旅歌406・安倍仲麿』の「天の原振りさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」の、「春日(大和の春日の地)の三笠山(遣唐使が出発する際祈願する春日神社に聳える山)の上空の月」を暗示している。しかし、この「三笠の山の月」は、遠く離れた異国の「唐土」からの望郷の「大和(倭=日本)」の「幻想の山と月」と解したい。

二 そして、この歌が収載されている『古今集』の「真名序」(紀淑望が書いたといわれる漢文の「序」)と「仮名序」(紀貫之が書いたらしい仮名文の「序」)に倣い、一首目は「男手(おのこで)」(漢字・真名・真字・万葉仮名=真仮名)の「万葉仮名」で、二首目は「女手(おんなで)」(仮名=平仮名)での揮毫を、信尹はイメージをしたように思われる。

三 さらに、その「男手」(万葉仮名)で仕上げる一首目は、その「真名序」で、「(大友黒主ガ歌ハ)古猿丸大夫之次也(古ノ猿丸大夫ノ次ナリ)」と、その名(「猿丸太夫」)は刻まれているのに、その名を冠した和歌は一首も撰歌されず(その後の勅撰集にも収載されず)、後世、猿丸太夫の作とされる(『古今集・巻第四・秋上215・詠人しらず』)の「幻」の一首、「奥山にもみぢ踏みわけ鳴く鹿の声きく時ぞ秋はかなしき」(『百人一首5』)がクローズアップされてきたように思えるのである。

四 次に、信尹は、「男手」の、「奥山丹黄葉(モミヂ)踏別鳴鹿之音聴時曾秋者金敷」(『新撰万葉集』=道真)を、「奥山に紅葉(モミヂ)踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき(猿丸太夫『百人一首5)』」のフィルターを介して、「黄葉(モミヂ)→紅葉(モミヂ)→赤葉(モミヂ)」という発想と結びついて行くものと解したい。

五 これは、「黄葉(モミヂ)」の、「萩の黄葉(モミヂ)」の「中秋の季題(季語)」から、「紅葉(モミヂ)」の「楓の紅葉(モミヂ)」の、「晩秋の季題(季語)」へと様変わりである。そして、それは、「黄(色)」から「赤(色)」の、造形的な色彩の変化を意味するものと解したい。

 ここで、次の「女手」で仕上げた、和泉式部の「白露も夢もこの世も幻もたとへていへば久しかりけり(『後拾遺集831』)」(「A-4図」)について触れたい。

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/izumi.html
  ↓
【   露ばかりあひ見そめたる男のもとにつかはしける
 白露も夢もこの世もまぼろしもたとへて言へば久しかりけり(和泉式部『後拾遺831』)

【通釈】人が果敢ないと言う白露も、夢も、この世も、幻も、あなたとの逢瀬の短さに比べれば、長く続くものであったよ。
【補記】果敢ないものの例を挙げて、逢瀬の短かった不満を恋人に訴えた。正集・続集に見えず、宸翰本・松井本に見える歌。
【本歌】よみ人しらず「後撰集」
人心たとへて見れば白露のきゆるまもなほひさしかりけり
【主な派生歌】
まぼろしも夢も久しき逢ふことをいかに名づけてそれと頼まむ(木下長嘯子)   】

 この和泉式部の歌は、その詞書と一体になって詠むと「逢瀬の恋歌」なのであるが、信尹の「三笠山図屏風」の二首を、連作(一連の作品)として鑑賞すると、上記の「木下長嘯子」の派生歌(「まぼろしも夢も久しき逢ふことをいかに名づけてそれと頼まむ」)や、その長嘯子と深い姻族の関係にある「豊臣秀吉」の辞世の歌とされる「露と落ち露と消えにし我が身かな浪速のことも夢のまた夢」に近いものが、イメージとして伝わってくる。

尾久山爾赤葉(モミヂ)布美倭計(鳴鹿)之聲(聴時曾)秋婆悲気(「A-2図)」・「A-3図)」)
白露も夢もこの世も幻もたとへていへば久しかりけり (「A-4図」)

 下記のアドレスの「〈まぼろし〉考-『和泉式部歌集』私抄四-(千葉千鶴子稿)」によると、『万葉集』には、「まぼろし」を詠んだ歌は一首も無いようである。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/oojc/12/0/12_KJ00000733320/_pdf

 そして、『源氏物語』には、次の二首の「まぼろし」の歌があることが紹介されている。

たづねゆくまぼろしもがなってにてもたまのありかをそこと知るべく(「1桐壷」―桐壺帝)
(亡き桐壺更衣を探し行ける幻術士(『長恨歌』の「玄宗皇帝は楊貴妃を失った悲しみに堪えきれず、死者の魂を探しに行かせる幻術士)がいてくれればよいのだがな、人づてにでも魂のありかをどこそこと知ることができるように。)

大空をかよふまぼろし夢にだに見えこぬたまのゆくゑたづねよ(「41幻」―光源氏)
(大空を飛びゆく幻術士よ、夢の中にさえ 現れない亡き人の魂の行く方を探してくれ。)

 しかし、この二首とも、「まぼろし=幻術士」の歌で、和泉式部の「まぼろし」(「幻」そのもの)の歌ではない。そして、紫式部の「まぼろし」とは、第一帖(「1桐壷」―桐壺帝の「まぼろし」の歌)から第四一帖(「41幻」―光源氏の歌)に至る、この光源氏の一生涯の底流に流れている「もののあわれ(もののあはれ)」を象徴する、第四一帖」の帖名の「幻」の一字に集約されているのではなかろうか。
 これらのことは、下記のアドレスの「幻術士(まぼろし)から「幻」へ : 源氏物語、哀悼の方法(天野紀代子稿)」を、先の「〈まぼろし〉考-『和泉式部歌集』私抄四-(千葉千鶴子稿)」と、併せ参照することによって、その実態の一端が浮かび上がってくる。

https://hosei.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=10160&item_no=1&page_id=13&block_id=83

「もののあわれ(もののあはれ)」関連については、下記のアドレスなどで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-06-20

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-01-05

「和泉式部」関連については、下記のアドレスなどで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-09-11

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-05-19

「猿丸太夫」関連については、下記のアドレスなどで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-03-11

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-02-28

「木下長嘯子」については、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-11-20


(追記一) 『猿丸幻視行(井沢元彦著)』周辺

https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwjpw-fmiYXxAhWTHHAKHWCxDz4QFjASegQICBAD&url=https%3A%2F%2Fmukogawa.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_action_common_download%26item_id%3D1227%26item_no%3D1%26attribute_id%3D22%26file_no%3D1&usg=AOvVaw1YPpXAZM8HkHB4E00CHpFo

【 もう一度猿丸大夫の歌といわれている「奥山の 紅葉ふみわけ 鳴く鹿の 声きくときぞ 秋はかなしき」を振り返ってみる。「ふみわける」のは、この歌を詠んでいる作者と考えられるが、逆に隠者の立場からみると、紅葉を踏み分けてるのは、鹿と考えられることもで
きる。そのために、猿丸大夫はどういう考えでいたのか詠んでみる。「もう秋も深くなった。
彼はすでに孤独にも馴れてきた。不安は諦観(あきらめ)になり、かつやりきれなく思っ
た山奥での孤独も、今は閑静を楽しむ心に変わった。その彼の孤独を鹿が訪れる。カサカ
サと紅葉の落ち葉をふみ分けて、雌を求めて鳴いている。彼はかつて彼自身もあの様に悲
しげな声で女性を求めて歌を歌ったことを思い出す。すべては紅葉の様に散ってしまった。
今彼の前にあるものははてしない寂寥だけである。彼は世界の根底にある悲哀の声を聞い
た思いであった。」このように世捨て人の立場として悲しい歌を作ったということも考えら
れる。最後に猿丸大夫の歌というものが最初に表れたのは 11 世紀の前半、藤原公任の選ん
だ「三十六人撰」においてである。「三十六人撰」において彼の歌とされるのは次の 3 首が
ある。
「をちこちの たつきもしらぬ 山中に おぼつかなくも よぶことりかな」
「ひぐらしの なきつるなへに 日は暮れぬと みしは山のかげにざりける」
「奥山の 紅葉ふみわけ鳴く鹿の 声聞くときぞ 秋は悲しき」          】

(追記二) 「清少納言・紫式部・和泉式部」周辺

http://www.gregorius.jp/presentation/page_23.html

【 清少納言は、正暦四年(993年、27歳位)の冬頃から中宮定子(16歳位)に仕え、長保二年(1000年、34歳位)に定子が亡くなってまもなく、宮仕えを辞めたとされます。
 和泉式部は、寛弘五年(1008年、30歳位)から中宮彰子(20歳位)に出仕しました。四十歳を過ぎた頃、藤原保昌と再婚し、夫の任国丹後に下りました。
 紫式部は、寛弘二年(1005年、26歳位)の末から中宮彰子(17歳位)に女房兼家庭教師役として仕え、少なくとも同八年(1011年、32歳位)まで続けたとされます。  】

(追記三)  「三笠山図屏風(近衛信尹賛)」と「檜原図屏風(近衛信尹賛)」(素性法師歌屏風)・「いろは歌屏風(近衛信尹賛)」そして「和歌六義屏風(近衛信尹筆)

信尹和歌屏風一.jpg

(A-1図)「三笠山図屏風(近衛信尹賛)」慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション) 六曲一隻(金地着色)

檜原・いろは歌屏風.jpg

近衛信尹筆 檜原図屏風 素性法師歌屏風(上=(B-1図)) いろは歌屏風(下=(B-2図)) (禅林寺蔵)(出典: 『三藐院 近衛信尹 残された手紙から(前田多美子著)』p235) 

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-05-15

和歌六義屏風.png

(C図)「和歌六義屏風」(近衛信尹筆)」 六曲一双 彩箋墨書 各一四八・四×二八五・五㎝  (陽明文庫蔵) (出典: 『近衛家陽明文庫の名宝―王朝文化の創造と伝承(MOA美術館・特別展)』所収「作品解説80」 

尾久山爾赤葉(モミヂ)布美倭計(鳴鹿)之聲(聴時曾)秋婆悲気(「A-2図)」・「A-3図)」)
しら露も夢も此世もまぼろしもたとへていへばひさしかりけり (「A-4図」)
  
  はつせ山ゆふこえくれてやとゝへは(三輪の檜原に)秋風そふく(B-1図)
  
  いろはにほへと 散ぬるを
  わか世誰そ   常ならむ 
  有為のおく山  けふこえて 
  あさき夢みし  ゑひもせす     (B-2図)

(右隻)

  そへうた
  なには津にさくやこのはなふゆこもりいまははるへとさくやこのはな
  かそへうた
  開花におもひつく身のあちきなき身のいたつきのいるもしらすて
  なすらへうた
  君にけさあしたの露のおきていなはこひしきことにきえやわたらむ
  (左隻)
  たとへ哥
  我こひはよむともつきしありそ海のはまの真砂はよみつくすとも
  たゞごとうた
  いつはりのなき世なりせはいかはかり人のことの葉うれしからまし
  いはひ謌
  此殿はむへもとみけりさきくさのみつはよつはにとのつくりせり

https://www.bijutsushi.jp/pdf-files/reikai-youshi/2015_11_21_01_hamano.pdf

「近衛信尹筆「檜原いろは歌屏風」に関する考察」(浜野真由美稿)

【永観堂禅林寺に伝来する「檜原いろは歌屏風」は、「檜原図屏風」と「いろは歌屏風」の二隻からなる紙本墨画墨書の六曲一双屏風である。両隻の書はともに近衛信尹(1565~1614)筆と見做され、大字仮名の嚆矢として日本書道史上重要な位置を占めるが、そうした知名度に反し、実証的な考究はほとんど進められてはいない。近年「檜原図屏風」の画については長谷川等伯(1539~1610)筆に比定されたものの、「いろは歌屏風」の簡略な画は閑却されており、また、両隻には内容的にも関連性が見出せないとの指摘から、現在では本来別個の作であるとする見方が強い。
 (中略)
『禅林寺年譜録』の元和 9 年(1623)の項、すなわち禅林寺第 37 世住持果空俊弍(?~1623)没年の項に「伊呂波屏風一双ナル」の記述が見出され、信尹と懇意であった果空上人の在世時に二隻が一双屏風として禅林寺に伝来したこと、つまり制作後ほどなくより一双屏風であったことが判明する。となれば、二隻に何らかの関係性が伏在した可能性も否めない。
 (中略)
「檜原図屏風」に表出された三輪地方が柿本人麻呂(660~720?)に縁深い地であることから、その主題は人麻呂の鎮魂にあるとの推察が可能であり、一方「いろは歌屏風」の主題はいろは歌の諸行無常観にあると考えられる。近年の和歌研究においては、人麻呂の歌にいろは歌と諸行無常偈を併記して解釈するといった、和歌文学における仏教的付会の傾向が指摘されており、二隻は内容的にも関連性を認めることができる。 】

(『猿丸幻視行(井沢元彦著)』周辺)

【 奥山丹黄葉(モミヂ=イロハ)踏別鳴鹿之音聴時曾秋者金敷 (『新撰万葉集』=道真) 
  ↓
  奥山丹黄葉踏
  別鳴鹿之音聴
  時曾秋者金敷
  ↓
  奥山丹 黄葉踏(いろは文〈ふみ〉)
  別鳴鹿 之音聴(の音〈こえ〉きく)
  時曾秋 者金敷(はかなしき)
  ↓
  「いろは文の音(こえ)きくは悲しき」
  ↓
『古今伝授秘事の一、呼子鳥の条 ― 君が解いたのはそれさ』(『猿丸幻視行(井沢元彦著・講談社)p116』)
  ↓
 いろはにほへ※と
 ちりぬるるをわ※か
 よたれそつ※な
 らむうゐのお※く
 やまけふこえ※て
 あさきゆめみ※し
 ゑひもせ※す
  ↓
『※とかなくてしす ― 咎(罪)無くて死す』(『猿丸幻視行(井沢元彦著・講談社)p94-95』)

『猿ならば猿にしておけ呼子鳥(白猿)』(「公家達の勿体ぶっただけで内容のない伝統を皮肉った川柳」=(『猿丸幻視行(井沢元彦著・講談社)p1164-117』)

『従四位下柿本朝臣佐留卒(従四位下柿本朝臣佐留卒〈死〉ス)』(『猿丸幻視行(井沢元彦著・講談社)p238』)

『水底の歌』(みなそこのうた)は、哲学者・梅原猛の著した柿本人麿に関する評論→井沢元彦はこの影響を受けて『猿丸幻視行』(ミステリー小説)を著している。(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

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yahantei

(アップした画像のミスや誤記などが目立ち、気が付いたところを修正した。)

「檜原図屏風」(B-1図)の、「はつせ山ゆふこえくれてやとゝへは(三輪の檜原に)秋風そふく」との、一連の連作ものと解すると、「三笠山図屏風」(A-1図)は、「三笠山」よりも、「三輪山」か「初瀬山」のネーミングが相応しいような思いもする。


https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-05-15


【謡曲「浮島」(世阿弥〈作詞:横尾元久=室町幕府管領 細川満元の被官の武家歌人〉の「道行」

初瀬山 夕越えくれし(来・暮)宿もはや 夕越え暮れし宿もはや
檜原のよそにみわ(見・三輪)の山 しるしの杉もたちわかれ(立つ・立ち別れ)。嵐とともになら(鳴る・奈良・楢)の葉の しばし(柴・暫し)休らふほどもなく、こま(狛・駒)の渡りや足早(あしはや)み、宇治の里にも着きにけり 宇治の里にも着きにけり。】


 「三笠山」では、「天の原振りさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも(安倍仲丸『百人一首7』・『古今集・巻第九・羇旅歌406・安倍仲麿』)」のイメージがが先行して、「三輪の檜原」(三輪山にほど近い巻向の地は、柿本人麻呂とその妻が暮らしていた場所かとされている)が、活きて来ない。


「三笠山図屏風」(A-1図)も「檜原図屏風」(B-1図)も、この下絵は「檜・檜原」、そして、それは、「三輪の檜原」で、柿本人麻呂の居住地の「巻向(まきむく)の地」を、近衛信尹はイメージしていたと解すべきなのであろう。

春山は散り過ぎぬとも三輪山はいまだ含めり君待ちかてに (人麻呂歌集 巻九・一六八四)

三諸(みもろ)のその山並に児らが手を巻向山(まきむくやま)は継ぎの宜しも (人麻呂歌集 巻七・一〇九三)



奥山にもみぢ踏みわけ鳴く鹿の声きく時ぞ秋はかなしき(詠人しらず『古今和歌集』215 、猿丸太夫『百人一首5』 )

初瀬山夕越え暮れてやどとへば三輪の檜原に秋かぜぞ吹く(禅性法師『新古今和歌集966』)

秋風の身にさむければつれもなき人をぞたのむ暮るる夜ごとに(古今555「素性法師」)

今来むと言ひしばかりに長月の有明の月を待ち出でつるかな(古今691・百人一首21「素性法師」)



これらの歌も、「安倍仲麻呂」の「三笠山」よりも、柿本人麻呂の「三輪山・三輪の檜原」の方が、イメージとしては馴染むような思いがする。



(C図)「和歌六義屏風」(近衛信尹筆)」の、「そへうた・かそへうた・たとへ哥・たゞごとうた・いはひ謌」は、古今集の「仮名序」の「うたの様」で、「真名序」の「和歌有六義」の「風・雅・頌・比・賦・興」ではない。



そして、近衛信尹が、「仮名序」の「うたの様」を揮毫しているのは、間違いなく、「真名序」と「仮名序」を意識したもので、それは、同時に、「男手」と「女手」の二様で、「三笠山図屏風」(A-1図)の書を仕上げていることに通ずるものと思われる。

尾久山爾赤葉(モミヂ)布美倭計(鳴鹿)之聲(聴時曾)秋婆悲気(「A-2図)」・「A-3図)」)
しら露も夢も此世もまぼろしもたとへていへばひさしかりけり (「A-4図」)




この和泉式部の「幻」は、これもまた、『源氏物語』の第四一帖」の帖名「幻」の一字と深い関係にあるものと解したい。



そして、それらは、下記のものと連動するように解したい。

(【 奥山丹黄葉(モミヂ=イロハ)踏別鳴鹿之音聴時曾秋者金敷 (『新撰万葉集』=道真) 
  ↓
  奥山丹黄葉踏
  別鳴鹿之音聴
  時曾秋者金敷
  ↓
  奥山丹 黄葉踏(いろは文〈ふみ〉)
  別鳴鹿 之音聴(の音〈こえ〉きく)
  時曾秋 者金敷(はかなしき)
  ↓
  「いろは文の音(こえ)きくは悲しき」
  ↓
『古今伝授秘事の一、呼子鳥の条 ― 君が解いたのはそれさ』(『猿丸幻視行(井沢元彦著・講談社)p116』)
  ↓
 いろはにほへ※と
 ちりぬるるをわ※か
 よたれそつ※な
 らむうゐのお※く
 やまけふこえ※て
 あさきゆめみ※し
 ゑひもせ※す
  ↓
『※とかなくてしす ― 咎(罪)無くて死す』(『猿丸幻視行(井沢元彦著・講談社)p94-95』)

『猿ならば猿にしておけ呼子鳥(白猿)』(「公家達の勿体ぶっただけで内容のない伝統を皮肉った川柳」=(『猿丸幻視行(井沢元彦著・講談社)p1164-117』)

『従四位下柿本朝臣佐留卒(従四位下柿本朝臣佐留卒〈死〉ス)』(『猿丸幻視行(井沢元彦著・講談社)p238』)

『水底の歌』(みなそこのうた)は、哲学者・梅原猛の著した柿本人麿に関する評論→井沢元彦はこの影響を受けて『猿丸幻視行』(ミステリー小説)を著している。(『ウィキペディア(Wikipedia)』)
)





by yahantei (2021-06-09 11:00) 

yahantei

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-03-11

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-03-11

【『鶴下絵和歌巻』(一番歌~五番歌)

(一番歌=人丸)
ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れ行く舟をしぞ思ふ
(二番歌=躬恒)
いづくとも春の光は分かなくにまだみ吉野の山は雪降る
(三番歌=家持)
かささぎの渡せる橋に置く霜の白きを見れば夜ぞ更けにける
(四番歌=業平)
月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身一つは元の身にして
(五番歌=猿丸)
をちこちのたづきも知らぬ山中におぼつかなくも呼子鳥かな

https://ameblo.jp/0358rainbow/entry-12299649093.html

をちこちのたづきもしらぬ山中におぼつかなくも呼子鳥かな(<よみ人しらず>古今29)

【通釈】どこがどことも見当のつかない山中で、心もとないさまで人を呼ぶ、呼子鳥であるよ。
【語釈】◇をちこち あそことここ。◇たづき 語源は《手付き》という。手段、手がかり。中世には「たつき」とも。◇おぼつかなくも 「おぼつかなし」は事態がはっきりせず、頼りない気持をあらわす。◇呼子鳥 鳴き声が「子」(人を親しんで呼ぶ称)を呼んでいるように聞える鳥。万葉集にも多く見え、古今伝授の三鳥の一つであるが、どの鳥を指すか不明。その声が「吾子(あこ)」とも聞こえるので、カッコウとする説があるが、カッコウは早春には鳴かないので、古今集の「呼子鳥」には適合しない。動詞「呼ぶ」と掛詞。
【補記】山中深く迷い込み恋しい人を呼ぶように鳴く呼子鳥の声に、不安な感じを覚えている。春の歌ではあるが、恋の趣がこもる。『猿丸集』は詞書なし。古今集ではよみ人しらず。

「佐竹本三十六歌仙絵(模本)」(猿丸大夫=六番歌)

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0071146


6おちこちのたつきもしらぬやま中におほつかなくもよふことりかな(猿丸大夫)
(5 いまこむといひしはかりになかつきのありあけの月をまちいてつるかな・素性法師)

 追記一)「呼子鳥」と「古今伝授」周辺

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-11-08

(追記二)「猿丸大夫」伝説周辺

【「猿丸大夫(さるまるのたいふ / さるまるだゆう)とは、三十六歌仙の一人。生没年不明。「猿丸」は名、大夫とは五位以上の官位を得ている者の称。」
「『古今和歌集』の真名序(漢文の序)には六歌仙のひとりである大友黒主について、『大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次(つぎて)なり』と述べていることから、すくなくとも『古今和歌集』が撰ばれた頃には、それ以前の時代の人物として知られていたものと見られる。」
「山背大兄王の子で聖徳太子の孫とされる弓削王とする説、天武天皇の子弓削皇子とする説や道鏡説、また民間伝承では二荒山神社の神職小野氏の祖である『小野猿丸』とする説など諸説ある。」
「哲学者の梅原猛が『水底の歌-柿本人麻呂論』において、『猿丸太夫=柿本猨(さる)=柿本人麻呂』」の『猿丸太夫=柿本人麻呂』(同人説)を主張している。」 】(『ウィキペディア(Wikipedia)』など)

追記三)『鶴下絵和歌巻』の「五番歌(猿丸)・六番歌(素性法師)」と「佐竹三十六歌仙」の「五番歌(素性法師)・六番歌(猿丸)」との周辺(メモ)

 『鶴下絵和歌巻』の五番歌(「をちこちのたづきも知らぬ山中におぼつかなくも呼子鳥かな」)は、下記のように、十三行にわたり、余白をたっぷりと取って分かち書きされている。

をち
こち
   の
たつきも
 知らぬ
 山中
   に
おほつか
  なく
   も
よふこ
  とり
  かな

 この『鶴下絵和歌巻』の五番歌は、そのテキストの一つと思われる「「佐竹本三十六歌仙」では、六番歌で、五番歌は、素性法師の「いまこむといひしはかりになかつきのありあけの月をまちいてつるかな」である。
 このことに関して、『宗達絵画の解釈学(林進著・慶文舎刊・2016年)』では、下記のアドレスで触れたとおり、「大きな失敗」の一つとして取り上げている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-02-28

(再掲)

『鶴下絵和歌巻』の和歌本文は、大きな失敗を二つ犯している。すなわち(五番左)素性法師と(六番左)猿丸大夫の順番を間違えて揮毫したことだ。これでは、三六人の歌合は成立しない。なぜなら、歌合の番いはすでに決定しているからだ。また、(一八番右)中務の和歌を揮毫し終えて、(一一番右)源重之と(一二番右)源信明朝臣の歌を書き漏らしたことに気づき、最後に、(一〇右)大中臣頼基と(一三番)源順の歌のあいだに、その二首を本紙上部に細字で書き入れたことだ。



 これは、揮毫者の「間違えて揮毫した」ものではなく、意識して、「素性法師→猿丸大夫」を「猿丸大夫→素性法師」と順序を入れ替えて揮毫したと解したい。その理由は、先に触れた「百韻連歌」(四折り)の、下記の「初折(一の折)」の山場の「D図」を独り占め(十三行の分かち書き)するには、謎の伝説上の歌人(『古今集』の「真名序」にその名があり、「仮名序」でその名が消えている)猿丸大夫(『古今集』では<よみ人しらず>)の「古今伝授中の三種の鳥『喚<呼>子鳥(よぶこどり)・稲負鳥(いなおおせどり)・百千鳥(ももちどり・<都鳥とも >』」の「呼子鳥」の一首が、この場に最も相応しいと解するからに他ならない。 】


by yahantei (2021-06-09 15:34) 

yahantei

https://ja.wikisource.org/wiki/%E4%B8%87%E8%91%89%E9%9B%86/%E7%AC%AC%E5%8D%81%E5%B7%BB

【万葉集/第十巻

[歌番号]10/1812
[題詞]春雜歌
[原文]久方之 天芳山 此夕 霞霏d 春立下
[訓読]ひさかたの天の香具山この夕霞たなびく春立つらしも
[仮名]ひさかたの あめのかぐやま このゆふへ かすみたなびく はるたつらしも
[左注](右柿本朝臣人麻呂歌集出)

歌番号]10/1813
[題詞]なし
[原文]巻向之 桧原丹立流 春霞 欝之思者 名積米八方
[訓読]巻向の桧原に立てる春霞おほにし思はばなづみ来めやも
[仮名]まきむくの ひはらにたてる はるかすみ おほにしおもはば なづみこめやも
[左注](右柿本朝臣人麻呂歌集出)

[歌番号]10/1814
[題詞]なし
[原文]古 人之殖兼 杉枝 霞<霏>d 春者来良之
[訓読]いにしへの人の植ゑけむ杉が枝に霞たなびく春は来ぬらし
[仮名]いにしへの ひとのうゑけむ すぎがえに かすみたなびく はるはきぬらし
[左注](右柿本朝臣人麻呂歌集出)

歌番号]10/1815
[[題詞]なし
[原文]子等我手乎 巻向山丹 春去者 木葉凌而 霞霏d
[訓読]子らが手を巻向山に春されば木の葉しのぎて霞たなびく
[仮名]こらがてを まきむくやまに はるされば このはしのぎて かすみたなびく
[左注](右柿本朝臣人麻呂歌集出)

[歌番号]10/1816
[題詞]なし
[原文]玉蜻 夕去来者 佐豆人之 弓月我高荷 霞霏d
[訓読]玉かぎる夕さり来ればさつ人の弓月が岳に霞たなびく
[仮名]たまかぎる ゆふさりくれば さつひとの ゆつきがたけに かすみたなびく
[左注](右柿本朝臣人麻呂歌集出)

[歌番号]10/1817
[題詞]なし
[原文]今朝去而 明日者来牟等 云子鹿丹 旦妻山丹 霞霏d
[訓読]今朝行きて明日には来なむと云子鹿丹朝妻山に霞たなびく
[仮名]けさゆきて あすにはきなむと **** あさづまやまに かすみたなびく
[左注](右柿本朝臣人麻呂歌集出)

[歌番号]10/1818
[題詞]なし
[原文]子等名丹 關之宜 朝妻之 片山木之尓 霞多奈引
[訓読]子らが名に懸けのよろしき朝妻の片山崖に霞たなびく
[仮名]こらがなに かけのよろしき あさづまの かたやまきしに かすみたなびく
[左注]右柿本朝臣人麻呂歌集出  】



1813 巻向の桧原に立てる春霞おほにし思はばなづみ来めやも
(巻向之 桧原丹立流 春霞 欝之思者 名積米八方)



この歌も、「三輪の檜原」の、柿本人麻呂の歌として相応しいであろう。



1814 いにしへの人の植ゑけむ杉が枝に霞たなびく春は来ぬらし 
(古 人之殖兼 杉枝 霞<霏>d 春者来良之)



「近衛信尹」の「連歌」の号(俳号)は、「杉」のようなのであるが(後に、信尹の連歌なども紹介したい)、この柿本人麻呂の「三輪の檜原」の「杉」なども、信尹の意識の片隅にはあるのかも知れない。
by yahantei (2021-06-09 16:07) 

yahantei

https://objecthub.keio.ac.jp/object/697

近衛信尹筆連歌懐紙

【夢想連歌は、夢に現れた神仏が示現した句を発句として詠む連歌。これは、その夢想連歌を近衛信尹〈このえのぶただ・1565-1614〉が清書したもの。3句目の「杉」は、信尹の一字名である。この他に、西洞院時慶〈にしのとういんときよし・1552-1640〉、滋野井冬隆〈しげのいふゆたか・1586-1655〉、北野社の松梅院禅昌〈しょうばいいんぜんしょう・生没年未詳〉、西洞院時直〈にしのとういんときなお・1584-1636〉、連歌師里村昌琢〈さとむらしょうたく・1574-1636〉らの名前がみられる。執筆(しゅひつ=書記)役を務める信尹の、のびやかな筆致、見事な行配りが真骨頂を示す。

(釈文)

夢想来二十三日みどりあらそふ友鶴のこゑ(後陽成天皇)霜をふる年もいく木の庭の松瑞久冬より梅の日かげそふ宿杉朝附日軒のつま/\うつろひて時慶月かすかなるおくの谷かげ冬隆うき霧をはらひははてぬ山颪禅昌あたりの原はふかき夕露時直村草の中にうづらの入臥て昌琢田づらのつゞき人かよふらし宗全   】



夢想来  二十三日
みどりあらそふ友鶴のこゑ  (後陽成天皇)※(桐壺・箒木・空蝉)
霜をふる年もいく木の庭の松  瑞久
冬より梅の日かげそふ宿    杉 ※(澪標・乙女・玉鬘・蓬生)
朝附日軒のつま/\うつろひて 時慶  
月かすかなるおくの谷かげ   冬隆 
うき霧をはらひははてぬ山颪  禅昌 
あたりの原はふかき夕露    時直  ※(若紫・末摘花)
村草の中にうづらの入臥て   昌琢 
田づらのつゞき人かよふらし  宗全  



 この発句は、「後陽成天皇」の作らしい。そして、この発句は、「長句・短句」の「短句」(七・七句) なのである。
 次の脇句は、「瑞久」の作で、作者は不詳。通常、天皇の御製の付けは、身分の高い皇族などのようであるが、「大覚寺空性法親王・曼殊院良恕法親王・八条宮智仁親王・妙法院常胤法親王」などの「源氏物語画帖」の筆者(皇族)などがイメージされるが、どうも、その感じではないような雰囲気である。
 ちなみに、この「連衆」のうちでの、「源氏物語画帖」の筆者は三人〈後陽成天皇・杉=近衛信尹・時直=西洞院時直〉の三人で、この連歌の中心は、この「杉=近衛信尹」の雰囲気を漂わしている。
 いずれにしろ、この連歌は、「後陽成天皇・近衛信尹」周辺の貴重な作品で、「源氏物語画帖」とも深い作品というイメージなのである。

この脇句の作者の「瑞久」が誰なのか、そのうちに、正体を現すのかも知れない。


 

by yahantei (2021-06-11 09:31) 

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