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源氏物語画帖「その三十四 若葉(上)」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

34 若菜(上) (光吉筆) =(詞)菊亭季宣(一五九四~一六五二)   源氏39歳冬-41歳春 

光吉・若菜上.jpg

源氏物語絵色紙帖  若菜上  画・土佐光吉
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html

菊亭・若菜上.jpg

源氏物語絵色紙帖  若菜上  詞・菊亭季宣
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html

(「菊亭季宣」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/04/04/%E8%8B%A5%E8%8F%9C%EF%BC%88%E4%B8%8A%EF%BC%89_%E3%82%8F%E3%81%8B%E3%81%AA%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E4%B8%89%E5%8D%81%E5%9B%9B%E5%B8%96%E3%80%91

鞠に身を投ぐる若君達の、花の散るを惜しみもあへぬけしきどもを見るとて、人びとあらはを ふともえ見つけぬなるべし
(第十三章 女三の宮の物語 第八段 柏木、女三の宮を垣間見る)

13.8.3 鞠に身を投ぐる若君達の、 花の散るを惜しみもあへぬけしきどもを 見るとて、人びと、あらはを ふともえ見つけぬなるべし。
(蹴鞠に夢中になっている若公達の、花の散るのを惜しんでもいられないといった様子を見ようとして、女房たちは、まる見えとなっているのを直ぐには気がつかないのであろう。)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第三十四帖 若菜上
第一章 朱雀院の物語 女三の宮の婿選び
 第一段 朱雀院、女三の宮の将来を案じる 
  第二段 東宮、父朱雀院を見舞う
  第三段 源氏の使者夕霧、朱雀院を見舞う
  第四段 夕霧、源氏の言葉を言上す
  第五段 朱雀院の夕霧評
  第六段 女三の宮の乳母、源氏を推薦
 第二章 朱雀院の物語 女三の宮との結婚を承諾
  第一段 乳母と兄左中弁との相談
  第二段 乳母、左中弁の意見を朱雀院に言上
  第三段 朱雀院、内親王の結婚を苦慮
  第四段 朱雀院、婿候補者を批評
  第五段 婿候補者たちの動静
  第六段 夕霧の心中
  第七段 朱雀院、使者を源氏のもとに遣わす
  第八段 源氏、承諾の意向を示す
 第三章 朱雀院の物語 女三の宮の裳着と朱雀院の出家
  第一段 歳末、女三の宮の裳着催す
  第二段 秋好中宮、櫛を贈る
  第三段 朱雀院、出家す
  第四段 源氏、朱雀院を見舞う
  第五段 朱雀院と源氏、親しく語り合う
  第六段 内親王の結婚の必要性を説く
  第七段 源氏、結婚を承諾
  第八段 朱雀院の饗宴
 第四章 光る源氏の物語 紫の上に打ち明ける
  第一段 源氏、結婚承諾を煩悶す
  第二段 源氏、紫の上に打ち明ける
  第三段 紫の上の心中
 第五章 光る源氏の物語 玉鬘、源氏の四十の賀を祝う
  第一段 玉鬘、源氏に若菜を献ず
  第二段 源氏、玉鬘と対面
  第三段 源氏、玉鬘と和歌を唱和
  第四段 管弦の遊び催す
  第五段 暁に玉鬘帰る
 第六章 光る源氏の物語 女三の宮の六条院降嫁
  第一段 女三の宮、六条院に降嫁
  第二段 結婚の儀盛大に催さる
  第三段 源氏、結婚を後悔
  第四段 紫の上、眠れぬ夜を過ごす
  第五段 六条院の女たち、紫の上に同情
  第六段 源氏、夢に紫の上を見る
  第七段 源氏、女三の宮と和歌を贈答
  第八段 源氏、昼に宮の方に出向く
  第九段 朱雀院、紫の上に手紙を贈る
 第七章 朧月夜の物語 こりずまの恋
  第一段 源氏、朧月夜に今なお執心
  第二段 和泉前司に手引きを依頼
  第三段 紫の上に虚偽を言って出かける
  第四段 源氏、朧月夜を訪問
  第五段 朧月夜と一夜を過ごす
  第六段 源氏、和歌を詠み交して出る
  第七段 源氏、自邸に帰る
 第八章 紫の上の物語 紫の上の境遇と絶望感
  第一段 明石姫君、懐妊して退出
  第二段 紫の上、女三の宮に挨拶を申し出る
  第三段 紫の上の手習い歌
  第四段 紫の上、女三の宮と対面
  第五段 世間の噂、静まる
 第九章 光る源氏の物語 紫の上と秋好中宮、源氏の四十賀を祝う
  第一段 紫の上、薬師仏供養
  第二段 精進落としの宴
  第三段 舞楽を演奏す
  第四段 宴の後の寂寥
  第五段 秋好中宮の奈良・京の御寺に祈祷
  第六段 中宮主催の饗宴
  第七段 勅命による夕霧の饗宴
  第八段 舞楽を演奏す
  第九段 饗宴の後の感懐
 第十章 明石の物語 男御子誕生
  第一段 明石女御、産期近づく
  第二段 大尼君、孫の女御に昔を語る
  第三段 明石御方、母尼君をたしなめる
  第四段 明石女三代の和歌唱和
  第五段 三月十日過ぎに男御子誕生
  第六段 帝の七夜の産養
  第七段 紫の上と明石御方の仲
 第十一章 明石の物語 入道の手紙
  第一段 明石入道、手紙を贈る
  第二段 入道の手紙
  第三段 手紙の追伸
  第四段 使者の話
  第五段 明石御方、手紙を見る
  第六段 尼君と御方の感懐
  第七段 御方、部屋に戻る
 第十二章 明石の物語 一族の宿世
  第一段 東宮からのお召しの催促
  第二段 明石女御、手紙を見る
  第三段 源氏、女御の部屋に来る
  第四段 源氏、手紙を見る
  第五段 源氏の感想
  第六段 源氏、紫の上の恩を説く
  第七段 明石御方、卑下す
  第八段 明石御方、宿世を思う
 第十三章 女三の宮の物語 柏木、女三の宮を垣間見る
  第一段 夕霧の女三の宮への思い
  第二段 夕霧、女三の宮を他の女性と比較
  第三段 柏木、女三の宮に執心
  第四段 柏木ら東町に集い遊ぶ
  第五段 南町で蹴鞠を催す
  第六段 女三の宮たちも見物す
  第七段 唐猫、御簾を引き開ける
  第八段 柏木、女三の宮を垣間見る
(「菊亭季宣」書の「詞」)  →  13.8.3
第九段 夕霧、事態を憂慮す
 第十四章 女三の宮の物語 蹴鞠の後宴
  第一段 蹴鞠の後の酒宴
  第二段 源氏の昔語り
  第三段 柏木と夕霧、同車して帰る
  第四段 柏木、小侍従に手紙を送る
  第五段 女三の宮、柏木の手紙を見る

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=3723

源氏物語と「若菜」(川村清夫稿)

【 光源氏は「藤の裏葉」の帖で准太上天皇になり栄華を極めた。しかし「若菜」の帖から彼の運命は暗転する。光源氏は、出家する異母兄の朱雀上皇から娘の女三宮との結婚を受け入れて、紫上との夫婦生活が不安定になり、紫上は出家を考えるようになる。ところが女三宮は紫上とくらべ女性として未熟で、六条院の蹴鞠の会で彼女に一目ぼれした、太政大臣(頭中将)の子息である柏木と密通して、宇治十帖の主役となる薫を産んでしまう。光源氏は、かつて藤壺女御と密通して冷泉帝が生まれた過去を思い出し、因果応報の条理を思い知るのである。

 「若菜」の帖は、他の帖とくらべて異常に長大で、それ自体で中編小説になれる。源氏物語を初めて現代語訳した与謝野晶子は、「藤の裏葉」と「若菜」の間で表現に相違点があるので、紫式部が書いたのは「藤の裏葉」までで、「若菜」以降は彼女の娘の大弐三位が書いたのだろうと考えている。

 「若菜」の帖を描いた映画では、1966年に武智鉄二が日活で製作、脚本、監督した「源氏物語」が知られている。光源氏は花ノ木寿、紫上は浅丘ルリ子、女三宮は柏美紗、柏木は中村孝雄が扮していた。
 テレビドラマでは、1980年にTBSで、向田邦子が脚本を書き、久世光彦が演出した「源氏物語」がある。光源氏は沢田研二、紫上は叶和貴子、女三宮は藤真利子、柏木はジョニー大蔵が扮していた。1991年にもTBSで、橋田寿賀子が脚本を書き、鴨下信一が演出した「源氏物語・上の巻、下の巻」もある。光源氏は東山紀之(上の巻)と片岡仁左衛門(下の巻)、藤壺女御と紫上は大原麗子、女三宮は若村麻由美、柏木は坂上忍が扮していた。

 それでは、光源氏が女三宮と結婚して彼女の幼さに幻滅する場面を、藤原定家の自筆本に次いで重要な写本である明融臨模本の原文、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(明融臨模本原文)
姫宮は、げに、まだいと小さく、片なりにおはするうちにも、いといはけなきけしきして、ひたみちに若びたまへり。
かの紫のゆかり尋ね取りたまへりし折思し出づるに、
「かれはされていふかひありしを、これは、いといはけなくのみ見えたまへば、よかめり。憎げにおしたちたることなどはあるまじかめり」
と思すものから、「いとあまりものの栄なき御さまかな」と見たてまつりたまふ。

(渋谷現代語訳)
姫宮は、なるほど、まだとても小さく、大人になっていらっしゃらないうえ、まことにあどけない様子で、まるきり子供でいらっしゃった。
あの紫のゆかりを探し出しなさった時をお思い出しなさると、
「あちらは気が利いていて手ごたえがあったが、こちらはまことに幼くだけお見えでいらっしゃるので、まあ、よかろう。憎らしく強気に出ることなどあるまい」
とお思いになる一方で、「あまり張り合いのないご様子だ」と拝見なさる。

(ウェイリー英訳)
The little princess, though now well on in her thirteenth year, was very small for her age, and indeed still looked a mere child. Her conversation and behavior also savored solely of the nursery, and Genji could not help remembering how lively, how full of character and imagination little Murasaki had been when twenty years ago he had carried her to his home. But perhaps it was a good thing that the newcomer was, except in actual years, so very much of a child. She would certainly be less likely to get into scrapes. But unfortunately, Genji reflected, people who do not get into scrapes are a great deal less interesting than those who do.

(サイデンステッカー英訳)
The Third Princess was, as her father had said, a mere child. She was tiny and immature physically, and she gave a general impression of still greater, indeed quite extraordinary, immaturity. He thought of Murasaki when he had first taken her in. She had even then been interesting. She had had a character of her own. The Third Princess was like a baby. Well, thought Genji, the situation had something to recommend it: she was not likely to intrude and make Murasaki unhappy with fits of jealousy. Yet he did think he might have hoped for someone a little more interesting.

 ウェイリー訳は、サイデンステッカー訳とくらべて冗長でない。「紫のゆかり」とは、光源氏が紫上を見初めた「若紫」の帖のことである。光源氏の独白にある「かれはされていふかひありし」を、ウェイリーはhow full of character and imagination little Murasaki had been、サイデンステッカーはShe had had a character of her ownと、同じように訳している。「憎げにおしたちたることなどはあるまじかめり」は、ウェイリーはshe would certainly be less likely to get into scrapesと訳しているが、サイデンステッカーはshe was not likely to intrude and make Murasaki unhappy with fits of jealousyと踏み込んで訳している。「いとあまりものの栄なき御さまかな」は、ウェイリーはpeople who do not get into scrapes are a great deal less interesting than those who doとあくの強い翻訳をしたが、サイデンステッカーはhe might have hoped for someone a little more interestingと、そっけない翻訳をしている。

 六条院の蹴鞠の会で唐猫の悪戯で御簾が外れ、柏木は女三宮の姿を見てしまうのである。 】

(「三藐院ファンタジー」その二十四)

今出川晴季短冊.jpg

「今出川晴季筆短冊」(慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション)
https://objecthub.keio.ac.jp/object/1262

【今出川晴季〈いまでがわはるすえ・1539-1617〉は、左大臣公彦〈きんひこ・1506-78〉の長男。初名は実維(さねつぐ)。天文14年〈1545〉晴季と改名。今出川氏は、西園寺実兼〈さいおんじさねかね・1249-1322〉の四男兼季〈かねすえ・1280-1338〉を祖とする名家。晴季は右大臣まで上りつめ、豊臣秀吉〈とよとみひでよし・1536-98〉と結び、秀吉の関白宣下に尽力するなど、朝政を握るほどの権勢を振るった。が、文禄4年〈1595〉女婿にあたる豊臣秀次〈とよとみひでつぐ・1568-95〉の聚楽第の公金流用事件により、越後に配流となる。が、翌年赦免され、右大臣に還任した。元和3年、79歳で没。晴季は野心家で、政治面においてその才能を発揮したが、一方で歌や書にもすぐれ、書は尊鎮流の名手としても謳われた。これらの短冊の筆致がそれを如実に物語る。この短冊は、藍と紫の打曇に金銀泥の下絵で雲と松を描いた、美しい装飾料紙が用いられている。

(釈文)

色も香も名にめでゝみむをのづからさく桜あれば桜木の宮晴季  】
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yahantei

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%82%E4%B8%8A%E5%AE%B6

江戸時代の「堂上公家」で、石高の高い順位で見てみると次のとおりとなる。

近衞家 →     2,862石 (摂家)
九条家 →     2,044石 (摂家)
一條家 →     2,044石 (摂家)
二條家 →     1,708石 (摂家)
菊亭(今出川)家→ 1,655石 (清華家)※
鷹司家 →     1,500石 (摂家)
日野家     → 1,153石 (名家)※
烏丸家     → 1,004石 (名家)※
萩原家     → 1,000石 (半家) ※※※
飛鳥井家    → 928石  (羽林家)
廣橋家     → 858石  (名家)
高倉家     → 813石  (半家)
吉田家     → 766石  (半家) ※※※
花山院家    → 715石  (清華家)※※
勸修寺家    → 708石  (名家)
久我家     → 700石  (清華家)
水無瀬家    → 631石  (羽林家)
西園寺家    → 597石  (清華家)※※
三條西家    → 502石  (大臣家)
廣幡家     → 500石  (清華家)
中院家     → 50の0コ石  (大臣家)※※
橋本家     → 500石  (羽林家)



この「堂上公家」の石高を見て、「菊亭(今出川)家」(1,655石)が、群れを抜いているということは、一目瞭然であろう。これらのことに関し、下記のアドレスの指摘は、その一端を物語っている。

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14109490189



【"秀次事件"で暗転、右大臣を解任の上佐渡に流される事に成ります。娘(一の台)が秀次の妾だった事からの仕打ちと思われます。
其の晴季を赦免し、右大臣に環任させたのが家康だと言われて居ります。
秀吉没後から関ヶ原直後に架けての時期、年数にして5〜6年の間再び右大臣の地位に在り、家康の将軍就任、江戸開幕等立て続けを朝廷内で工作したのが、菊亭晴季詰まり今出川晴季と言う事に成ると思われます。
右大臣辞任後も、源氏物語の講義受講を家康に勧めたのも晴季の可能性が大きいと思われます。】



同様に、「日野家」(1,153石)・「烏丸家」(1,004石)が高いのも、当時の「徳川家」との親近関係に因るということを物語っているが、「菊亭晴季」と「日野資勝・烏丸光広」とは、「晴季」は、「秀吉を、色々策を凝らして関白にしたのは右大臣だった菊亭晴季と言う人物」で、「資勝・光広」の大先達で、「晴季」に対峙できるのは、「近衛信尹」クラスということになろう。こういう観点からも、「菊亭晴季」というのは、興味の惹かれる風姿を有している。



ついでに、「萩原家」(1,000石)が高いのも、下記のアドレスのとおり、時の江戸幕府の裁量に因る。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%A9%E5%8E%9F%E5%AE%B6



【半家でありながら家禄が摂家並なのは、萩原家がそもそも豊国神社の社務を世襲する社家として豊臣秀吉の推挙により創設された家で、社家としての役料が大坂の陣後に豊国神社が破却された後も家領としてそのまま徳川家康(江戸幕府)にも認められたためである。】

by yahantei (2021-07-11 10:47) 

yahantei

【 「若菜」の帖は、他の帖とくらべて異常に長大で、それ自体で中編小説になれる。源氏物語を初めて現代語訳した与謝野晶子は、「藤の裏葉」と「若菜」の間で表現に相違点があるので、紫式部が書いたのは「藤の裏葉」までで、「若菜」以降は彼女の娘の大弐三位が書いたのだろうと考えている。】



与謝野晶子の、【「若菜」以降は彼女の娘の大弐三位が書いた】という視点も「なるほど」という思いもするが、これらに関して、下記アドレスの「若菜・柏木物語」(吉岡 曠稿)などが参考となる。


https://glim-re.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_snippet&pn=1&count=50&order=3&lang=japanese&creator=%E5%90%89%E5%B2%A1+%E6%9B%A0&page_id=13&block_id=21
by yahantei (2021-07-11 10:57) 

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