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源氏物語画帖「その三十三 藤裏葉」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

33 藤裏葉(光吉筆)=(詞)菊亭季宣(一五九四~一六五二)     源氏39歳春-冬

土佐光吉・藤裏葉.jpg

源氏物語絵色紙帖  藤裏葉  画・土佐光吉
https://syuweb.kyohaku.go.jp/ibmuseum_public/index.php?app=pict&mode=detail&list_id=1900649&parent_data_id=320&data_id=532

菊亭季宣・藤裏葉.jpg

源氏物語絵色紙帖  藤裏葉  詞・菊亭季宣
https://syuweb.kyohaku.go.jp/ibmuseum_public/index.php?app=pict&mode=detail&list_id=1900649&parent_data_id=320&data_id=533

(「菊亭季宣」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/04/03/%E8%97%A4%E8%A3%8F%E8%91%89_%E3%81%B5%E3%81%98%E3%81%AE%E3%81%86%E3%82%89%E3%81%B0%E3%83%BB%E3%81%B5%E3%81%A2%E3%81%AE%E3%81%86%E3%82%89%E3%81%B0%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_

紫にかことはかけむ藤の花 まつより過ぎてうれたけれども
宰相、盃を持ちながら、けしきばかり拝したてまつりたまへるさま、いとよしあり
(第一章 夕霧の物語 第五段 藤花の宴 結婚を許される)

1.5.8 紫にかことはかけむ藤の花 まつより過ぎてうれたけれども
(紫色のせいにしましょう、藤の花の待ち過ぎてしまって恨めしいことだが。)
1.5.9 宰相、盃を持ちながら、けしきばかり拝したてまつりたまへるさま、いとよしあり。
(宰相中将、杯を持ちながら、ほんの形ばかり拝舞なさる様子、実に優雅である。)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第三十三帖 藤裏葉
 第一章 夕霧の物語 雲居雁との筒井筒の恋実る
  第一段 夕霧と雲居雁の相思相愛の恋
  第二段 三月二十日、極楽寺に詣でる
  第三段 内大臣、夕霧を自邸に招待
  第四段 夕霧、内大臣邸を訪問
  第五段 藤花の宴 結婚を許される
(「菊亭季宣」書の「詞」) → 1.5.8  1.5.9 
  第六段 夕霧、雲居雁の部屋を訪う
  第七段 後朝の文を贈る
  第八段 夕霧と雲居雁の固い夫婦仲
 第二章 光る源氏の物語 明石の姫君の入内
  第一段 紫の上、賀茂の御阿礼に参詣
  第二段 柏木や夕霧たちの雄姿
  第三段 四月二十日過ぎ、明石姫君、東宮に入内
  第四段 紫の上、明石御方と対面する
 第三章 光る源氏の物語 准太上天皇となる
  第一段 源氏、秋に准太上天皇の待遇を得る
  第二段 夕霧夫妻、三条殿に移る
  第三段 内大臣、三条殿を訪問
  第四段 十月二十日過ぎ、六条院行幸
  第五段 六条院行幸の饗宴
  第六段 朱雀院と冷泉帝の和歌

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=3689

源氏物語と「藤裏葉」(川村清夫稿)

【 天皇家の皇位継承の歴史には、皇室を離れて臣籍に下った元皇族が皇室に復帰して天皇に即位した前例がある。9世紀末に菅原道真の後援者になって藤原氏を抑え天皇親政を実現した宇多天皇と、彼が臣籍にいた時に生まれた子息で10世紀初めに藤原氏と協調しながら天皇親政を継続した醍醐天皇である。宇多天皇は臣籍にいた間は源定省(さだみ)、醍醐天皇は源維城(これざね)と名乗っていた。

 「藤の裏葉」の帖は、皇室を離れて臣籍に下っていた光源氏が、冷泉帝のはからいで准太上天皇(准上皇)に、内大臣は太政大臣に、夕霧は中納言になって、光源氏一家も内大臣一家も栄華の絶頂を迎える、めでたしめでたし型の帖である。与謝野晶子は、紫式部が書いた源氏物語は「藤の裏葉」までで、「若菜」の帖以降は娘の大弐三位が書いたと考えている。それでは光源氏が准太上天皇になる場面を、大島本原文、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(大島本原文)
明けむ年、四十になりたまふ。御賀のことを、朝廷よりはじめてたてまつりて、大きなる世のいそぎなり。

その秋、太上天皇に准らふ御位得たまうて、御封加はり、年官年爵など、皆添ひたまふ。かからでも、世の御心に叶はぬことなけれど、なほめづらしかりける昔の例を改めで、院司どもなどなり、さまことにいつくしうなり添ひたまへば、内裏に参りたまふべきこと、難かるべきをぞ、かつ思しける。

かくても、なほ飽かず帝は思して、世の中を憚りて、位をえ譲りきこえぬことをなむ、朝夕の御嘆きぐさなりける。

(渋谷現代語訳)
明年、四十歳におなりになる。御賀のことを、朝廷をお初め申して、大変な世を挙げてのご準備である。

その年の秋、太上天皇に準じる御待遇をお受けになって、御封が増加し、年官や年爵など、全部お加わりになる。そうでなくても、世の中でご希望通りにならないことはないのが、やはりめったになかった昔の例を踏襲して、院司たちが任命され、各段に威儀厳めしくおなりになったので、宮中に参内なさることが、難しいだろうことを、一方では残念にお思いであった。

それでも、なおも物足りなく帝はお思ひあそばして、世間に遠慮して、皇位をお譲り申し上げられないことが、朝夕のお嘆きの種であった。

(ウェイリー英訳)
Next year would see his fortieth birthday, and he heard that both at Court and in the country at large great preparation were afoot for celebrating this event. Already in the autumn of the present year he was proclaimed equal in rank to an Imperial parent, and his fiefs and patronage were correspondingly increased. His actual power had for a long time past been absolute and complete, so that these changes brought him no great advantage. Indeed, in one respect they were inconvenient; for in defiance of a very well-established precedent he was burdened with the special retinue of his new rank, which, magnificent though it made his public appearances, rendered his comings and goings in the Palace very burdensome, and he was no longer able to meet the Emperor so often as he desired.

Ryozen still felt acutely the illegality of his own position and would at any moment have been prepared to resign the Throne, had not Genji refused to sanction such a step, pointing out that it would have a disastrous effect on public opinion if it became known that the true line of succession had been impaired.

(サイデンステッカー英訳)
Genji would be forty next year. Preparations were already under way at court and elsewhere to celebrate the event. In the autumn he was accorded benefices equivalent to those of a retired emperor. His life had seemed full enough already and he would have preferred to decline the honor. All the old precedents were followed, and he was so hemmed in by retainers and formalities that it became almost impossible for him to go to court. The emperor had his own secret reason for dissatisfaction: public opinion apparently would not permit him to abdicate in favor of Genji.

 この場面は源氏物語における重要な場面なのだが、ウェイリー訳はいささか冗漫で、サイデンステッカー訳は簡潔だがそっけない翻訳をしている。「太上天皇に准らふ御位」を、ウェイリーはequal in rank to an Imperial parentと訳しているが、桐壺帝と同じ「天皇」の意味になってしまい、誤訳である。サイデンステッカーはbenefices equivalent to those of a retired emperorと訳している。彼によれば「太上天皇」はretired emperorである.「なほめづらしかりける昔の例」とは、一度臣籍に下りながら皇室に復帰して即位した、宇多天皇と醍醐天皇のことである。これをウェイリーはa very well-established precendentと、サイデンステッカーはall the old precedentsと訳している。サイデンステッカーはこの箇所に註釈を設けてIt is interesting to note that there were no real precedentsと書いている。彼は元皇族が天皇に即位した、歴史的事実を知らないようである。ウェイリーは「冷泉帝」を、間違えてRyozenと表記している。日本の古典文学を正確に翻訳するためには、日本史に関する十分な知識が必要なのである。

 光源氏の栄耀栄華は「藤の裏葉」の帖までで、この後に続く「若菜」の帖から光源氏の運勢は暗転してゆくのである。      】

(「三藐院ファンタジー」その二十三)

https://reichsarchiv.jp/%E5%AE%B6%E7%B3%BB%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88/%E4%BB%8A%E5%87%BA%E5%B7%9D%E5%AE%B6%EF%BC%8F%E8%8F%8A%E4%BA%AD%E5%AE%B6%EF%BC%88%E6%B8%85%E8%8F%AF%E5%AE%B6%EF%BC%89

今出川経季(→ 菊亭季宣 )
生没年:1594-1652
父:権中納言 今出川季持
初名:宣季
1598 従五位下
1604 従五位上
1604 侍従
1607 正五位下
1608 従四位下
1611 従四位上
1611 左近衛少将
1612 正四位下
1612 左近衛中将
1613 従三位
1614 権中納言
1614 踏歌外弁
1616 正三位
1619-1627 権大納言
1620 従二位
1628 正二位
1638-1639 権大納言
1638-1639 右近衛大将
1644 武家伝奏
1649 院別当
1652 右大臣
妻:(父:氏家行広、義父:若狭小浜藩初代藩主 京極高次)

公嗣

(養子)春照院(父:西園寺実晴)
1638-1697 (養子)公規
今出川公規

 「源氏物語画帖」の筆者の「菊亭季宣」は、別姓が「今出川」で、「故実拾要によると、大納言の時までは、菊亭を称し、大臣以後に今出川を称するのだという。 明治以降、菊亭に改姓」と、下記のアドレスでは紹介されている。また、その名の「季宣」は、「今出川(菊亭)経季(宣季)」の「初名」のようである。

https://geocity1.com/okugesan_com/imadegawa.htm#google_vignette

 「菊亭(今出川)家」は、大臣・大将を兼ねて太政大臣になることのできる七家(久我・三条・西園寺・徳大寺・花山院・大炊御門・菊亭)の「精華家」の一つで、最上位の「五摂家」(近衛・鷹司・九条・二条・一条)に次いで、「大臣家」の上の序列に位置する。
 この「菊亭(今出川)家」の「今出川経季(菊亭宣季・季宣)」関連については、その祖父「今出川(菊亭)晴季」に関する、次のアドレスの「今出川晴季伝―豊臣・徳川政権交替期を生きた一人物―(松原一義稿)」が参考となる。

https://kokubunken.repo.nii.ac.jp/index.php?active_action=repository_view_main_item_detail&page_id=13&block_id=21&item_id=2073&item_no=1

 この論稿では、「慶長九(一六〇四) 宣季(季持の遺児)侍従、元服、禁色昇殿」などと紹介されているが、季宣〈宣季〉の父「季持」は早世して、「菊亭(菊亭)家」は、祖父・晴季(その前年に内大臣を辞去)から孫・季宣(宣季)へと、実質的に継受されたということを意味しよう。
 そして、この「晴季」に関しては、上記論稿で紹介されている年譜の、次の記事のように、「豊臣秀吉の関白就任・豊臣秀次追放・自殺と一族集団処刑」など、当時の大きなドラマと深く関わっている。

「天正十三(一五八六) 晴季、右大臣。内大臣、秀吉を案内して参内ついで、関白職を斡旋。
文禄四(一五九五) 秀吉、秀次を高野山に追う。秀次室(一の台)他、子女、女房を処刑。晴季も越後に左遷される。」

http://fuujinnomon.the-ninja.jp/person09.html

【今出川晴季。今出川家第10代当主。今出川家は琵琶を家職とした。居所から今出川、菊花を愛したことから菊亭と称されたという。豊臣秀吉を関白太政大臣にするために周旋した。秀吉は織田信長亡き後の政権を握るため、織田氏に負けない身分がほしかった。そのため、前将軍足利義昭の猶子(養子)となり征夷大将軍の位を請うたが、義昭に拒絶され為す術を失っていた。同じ頃朝廷では、二条昭実と近衛信尹(のぶただ)が関白太政大臣の位を争っていた。この機に乗じた晴季は、前関白の近衛前久(さきひさ)に図り、秀吉を前久の猶子とさせ関白職を譲らせた。この同じ年(天正13年/1585年)、晴季は従一位に叙せられる。ところが、文禄4年(1595年)に秀吉の甥であり関白職にあった豊臣秀次が失脚すると、娘を秀次に嫁していた晴季も連座し、越後に流罪となってしまう。しかし翌慶長元年には赦されて帰京。秀吉没後の慶長3年(1598年)に右大臣に還補された。慶長8年(1603年)右大臣を辞任。大坂の陣の2年後の元和3年(1617年)薨去する。 】

 これらの記述からして、「近衛家」(近衛信尹)と「菊亭家」(菊亭晴季)との確執は根深いものがあったであろうが、慶長十九年(一六一四)に信尹が亡くなり、そして、晴季も元和三年(一六一七)に没しており、この「源氏物語画帖」の「詞書」の制作時期の、「慶長十九年(一六一四)以前より始まり、元和三年(一六一七)の頃に一応の完成を見て、最終的に元和五年(一六一九)の頃に完成した」(『源氏物語画帖(京都国立博物館蔵))・勉誠社』所収「源氏物語画帖の詞書(下坂守稿)」)と、菊亭季宣(宣季)が、この画帖の筆者になっていることは、「近衛家」(信尋)と「菊亭家」(季宣・宣季)との和解をも意味しているように思われる。
 なお、源氏物語画帖」筆者(詞書)関連の「堂上公家」は、下記(参考)のとおりである。

(参考) 「源氏物語画帖」筆者(詞書)関連の「堂上公家」

堂上家一覧一.jpg

堂上家一覧二.jpg


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%82%E4%B8%8A%E5%AE%B6
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yahantei

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%82%E4%B8%8A%E5%AE%B6

江戸時代の「堂上公家」で、石高の高い順位で見てみると次のとおりとなる。

近衞家 →     2,862石 (摂家)
九条家 →     2,044石 (摂家)
一條家 →     2,044石 (摂家)
二條家 →     1,708石 (摂家)
菊亭(今出川)家→ 1,655石 (清華家)※
鷹司家 →     1,500石 (摂家)
日野家     → 1,153石 (名家)※
烏丸家     → 1,004石 (名家)※
萩原家     → 1,000石 (半家) ※※※
飛鳥井家    → 928石  (羽林家)
廣橋家     → 858石  (名家)
高倉家     → 813石  (半家)
吉田家     → 766石  (半家) ※※※
花山院家    → 715石  (清華家)※※
勸修寺家    → 708石  (名家)
久我家     → 700石  (清華家)
水無瀬家    → 631石  (羽林家)
西園寺家    → 597石  (清華家)※※
三條西家    → 502石  (大臣家)
廣幡家     → 500石  (清華家)
中院家     → 500石  (大臣家)※※
橋本家     → 500石  (羽林家)

※菊亭(今出川)家

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E4%BA%AD%E5%AE%B6

※日野家

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%87%8E%E5%AE%B6

※烏丸家


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%83%8F%E4%B8%B8%E5%AE%B6

※※花山院家 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E5%B1%B1%E9%99%A2%E5%AE%B6

※※西園寺家

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%AE%B6

※※中家家

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E9%99%A2%E5%AE%B6

※※※萩原家

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%A9%E5%8E%9F%E5%AE%B6

※※※吉田家 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E5%AE%B6


〇武家伝奉

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%AE%B6%E4%BC%9D%E5%A5%8F

〇昵懇衆

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%B5%E6%87%87%E8%A1%86

https://ncode.syosetu.com/n2494bo/21/

1.公家の収入
【家ごとの表高、収入を家格ごとの例で示します。 括弧内は年貢収入の実高相当で、幕末頃の状況です。 数字の単位は石です。(1の位は四捨五入)

摂家:近衛家が2、800(2000)、一条家2、000(800)清華:菊亭 1、650(760)、大臣家: 三条西 500(250)

宮家:有栖川 1、000(不明)、伏見 1、300(400)

羽林:綾小路 200(120)、岩倉 150(95)、大原 三十(御蔵米)名家:萬里小路 390(190)、柳原 200(160)半家:高倉 800(510)、土御門 180(120)、錦小路 三十(御蔵米)

2.公家の副収入
3.仕事ぶり
4.幕府との関係   】

https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/collection/kikutei



京都大学貴重資料デジタルアーカイブ

【菊亭文庫は西園寺実兼の四男兼季を遠祖とする菊亭家相伝の文書・典籍の収集である。
 菊亭家は藤原氏、北家西園寺の世系である。西園寺実兼の四男兼季は京都今出川殿に住み、初めて今出川氏を称した。兼季は生来菊を愛し、邸内に多く菊を栽培したために、菊亭右大臣とよばれ、ついにこの名を自らの姓としたと伝えられている。八清家の一つに列なり、琵琶の演奏を家業とし、累世相うけて明治に至り、華族に列して候爵をさずけられた。
 本文庫に「御琵琶誓状案」「琵琶許状」「琵琶秘曲伝受事」「琵琶入門誓紙」等琵琶の弾奏法ならびにその秘伝のこと、または「催馬楽譜」「箏譜」「奏琶要録」「仁智要録」「文机談」「楽道伝授状」等音楽、楽器に関する稀書珍籍が豊富であることは、菊亭家が、琵琶の演奏を家職とし、歴代音楽をもって朝廷に奉仕したことに由来する。これら伝世の楽書の原典が邦楽研究の根本的資料であることは多言を要しないであろう。
 また「伊勢外宮正遷宮」「春日祭次第」等の神祗行事、「改元勘文」「節会次第」「三節会部類記」「禁中年中行事」等のように近世の宮廷生活ならびにその環境を想察せしめる文書記録も多い。しかもこれらの公家の文書記録は、朝儀典礼の最も権威ある貴重な文献である。
 また「今出川家歴代履歴」「今出河家伝」等自家の世系、口宣案等の菊亭家家記類に富むことも、この文庫の一つの特長であろう。しかし本文庫の最も誇るべき点は、室町時代の公卿の自筆日記が収蔵されていることである。日記には「建内記」応永35年~文安1年、「惟房公記」天文10~11年、「薩戒記」嘉吉1年8月、「教忠卿記」嘉吉3年5月、「言国卿記」文明8年冬、「言継卿記」天正4年等がある。そのうち「建内記」は万里小路時房、「惟房公記」は万里小路惟房、「薩戒記」は中山定親、「言継卿記」は山科言継の日記で、いずれも自筆本である。
 さらにまたこれらの日記はその当時の政治、経済、宗教、風俗等を知る最も貴重な資料である。「建内記」の用紙には消息文等が使用され、その紙背には家領に関する文書案、醍醐三宝院の満済准后等の消息文があり、この紙背文書もまた珍重すべき史料として重視されている。
 本文庫の蔵書は菊亭家家記、特に家業の音楽書を主軸として有職故実に関する文書記録をもって構成されている。「源氏物語」「十訓抄」等国文学書も含まれているが、量的にも少なく、質的にも注目に値するものは乏しい。漢籍は極めて少なく「冊府元亀」等二三のものが架蔵されているに過ぎない。
 菊亭文庫は大正10年11月に図書872部1,326冊、大正12年12月に図書38部43冊および文書822部が2回にわたり、故菊亭公長侯爵より永久寄託されたものである。(解説の出典: 京都大学附属図書館編「京都大学附属図書館六十年史」第3章第3節) 】







by yahantei (2021-07-09 18:14) 

yahantei

上記のコメントの「中家家」は「中院家」のミス。

※※中家家→中院家

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E9%99%A2%E5%AE%B6

「中院家」関連については、下記のアドレスは参考となる。

https://3dkyoto.blog.fc2.com/blog-entry-268.html



by yahantei (2021-07-11 07:35) 

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