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洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その十) [岩佐又兵衛]

(その十)「方広寺大仏殿」の「鐘楼」は何を語っているのか?

方広寺鐘楼.jpg

「方広寺大仏殿・鐘楼」(右隻第一扇・中部) → A図
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&webView=null

 この「洛中洛外図屏風・舟木本」の「方広寺大仏殿・鐘楼」は、前回(その九)の「方広寺の前の喧嘩」図と連動しており、「大阪冬の陣」の勃発する「方広寺鐘銘事件」を示唆しているように思われる。
 「方広寺鐘銘事件」関連については、次のアドレスのものが参考となる。

https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=805

【方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)

 豊臣秀頼による方広寺大仏殿再興に際しひき起され、大坂冬の陣の原因の一つとなった事件。豊臣秀頼は、亡父秀吉追善供養のため、慶長七年(一六〇二)、方広寺大仏殿(東山大仏堂)の再建に着手したが、年末の失火で頓挫、あらためて片桐且元を奉行に七年後に事業を再開、同十五年六月十二日地鎮祭、八月二十二日立柱式にこぎつけた。大工事で出費も莫大なものであったが、最後に、慶長十九年四月十六日、高さ一丈七寸(三・二四メートル)、口径九尺五寸(二・八八メートル)、銅使用量一万七千貫(六三・七五トン)という巨鐘の鋳造をもって無事竣工した。
 五月二十一日、大仏開眼供養と堂供養とを併せて八月三日に行うことが決まり、駿府の徳川家康の了承も得て準備がすすめられた。ところが七月十八日に家康から開眼供養と堂供養の分離案が出され、ついで同二十六日、鐘銘と棟札の文章に疑義ありとして供養の延期を命ぜられた。特に、鐘銘の中の「国家安康」「君臣豊楽」の二句がヤリ玉にあげられ、安の一字で家康を分断した上、豊臣を君として楽しむとの底意が隠されていると難詰、銘文を草した禅僧文英清韓と且元が弁明のため八月十三日駿府へ赴いたが、全く耳をかさなかった。
 それのみか、大坂城への浪人雇用を責め、九月に入るとさらに豊臣氏に対し、国替えまたは淀殿か秀頼の江戸下向のいずれかに応ぜよと強要するに至り、ついには大坂冬の陣が勃発した。なお、この事件の原因となった巨大な梵鐘は、明治十七年(一八八四)建立の方広寺鐘楼に納められて現存している。→大坂の陣(おおさかのじん)
[参考文献]『大日本史料』一二ノ一三・一四、岡本良一『大坂冬の陣夏の陣』(『創元新書』一六) (渡辺 武)   】

方広寺大仏殿・鐘楼図.jpg

「方広寺大仏殿・鐘楼」周辺(右隻第一・二扇) → B図

 この図の右端の一番下の所に「三十三間堂」の一部が見える。その左上が「方広寺大仏殿・鐘楼」である。その上が大きく描かれた「方広寺大仏殿」である。その左上に、前回(その九)の「方広寺前の喧嘩」図が描かれている。「大仏殿」の右手の後ろ、そして、「方広寺」の後方に「妙法院」その右手に「豊国社と豊が、国廟参道」が描かれ、この図の右端の一番奥に「豊国廟」が描かれている。そして、「方広寺」の上が「清水寺」で、その「清水寺の舞台」の一部が、この図の左端の奥ということになる。前々回(その八)の「豊国定舞台」は、「大仏殿」の右後方に描かれている。
 
 これらの「三十三間堂→大仏殿・鐘楼→大仏殿→方広寺・妙法院→豊国社→豊国廟→清水寺」というル-トは、殆ど同時期に原本が成立しているとされる「仮名草子」の『竹斎』(「岩波文庫・黄258-1」)の冒頭では、「三条大橋→祇園林→清水寺→豊国社→豊国廟→大仏殿→三十三間堂」のル-トで出て来る。

竹斎物語・清水寺.jpg

『竹斎』(「国文学研究資料館・東京大学国文学研究室蔵」)
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0004-007001&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=null&SHOMEI=%E3%80%90%E7%AB%B9%E6%96%8E%E3%80%91&REQUEST_MARK=null&OWNER=null&BID=null&IMG_NO=6

 この挿絵の中央は「清水寺」、「竹斎・にらみの介」の下に「大仏殿」、そして、右手は「豊国社→豊国廟」に続いている感じである。

「三条大橋うち渡り、ぎおん林にさしかゝりまづ清水へまいり……」(略)

竹斎物語・豊国社.jpg

『竹斎』(「国文学研究資料館・東京大学国文学研究室蔵」)
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0004-007001&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=null&SHOMEI=%E3%80%90%E7%AB%B9%E6%96%8E%E3%80%91&REQUEST_MARK=null&OWNER=null&BID=null&IMG_NO=7

 この挿絵は、上の図が「豊国社」、そして、下の図が「三十三間堂」のようである。

「とよ国大明神に参て、さきの関白ひで吉公の御れいせきなり。(略) 大仏でんをふしおがみ、三十三げんにまいりつゝ(略) 扨てそれより誓願寺に参り」

 この「とよ国大明神」は、豊臣秀吉の神号の「豊臣大明神」であるが、慶長十九年(一六一四)、大阪冬の陣、その翌年の元和元年(一六一五)の、大阪夏の陣で、豊臣家が滅亡すると、「徳川家康の意向により後水尾天皇の勅許を得て豊国大明神の神号は剥奪され、秀吉の霊は『国泰院俊山雲龍大居士』と仏式の戒名を与えられることになる。神社も徳川幕府により廃絶され、秀吉の霊は方広寺大仏殿裏手南東に建てられた五輪石塔(現:馬塚、当時の史料では「墳墓」とされる)に遷される」(「ウィキペディア」)こととなる。
 あまつさえ、「豊臣秀頼」の遺児「国松」(側室「伊那」との遺児)は、「徳川方の捜索により、国松は京都所司代板倉勝重のもとに連行され、5月23日、市中車引き回しの後、六条河原で田中六郎左衛門、長宗我部盛親と共に斬首。享年8。田中六郎左衛門は京極家の者として死罪を免れ得たものの、自ら殉死を志願して同時に処刑されたという。戒名は漏世院雲山智西大童子。墓所は京都市中京区の誓願寺にあったが、1911年、東山区の豊国廟に移されている」(「ウィキペディア」)という、これが、「大阪冬の陣・夏の陣」の「徳川(家康)」方と「豊臣(秀吉)」方の、その終戦処理の象徴的な出来事として、その墓所となっているとされる「誓願寺」の逸話として伝えられている。
 これらに関連して、岩佐又兵衛が、寛永十四年(一六三七)に妻子を残して福井を離れ、京に立ち寄ってから江戸へ向かった折の旅日記『廻国道之記』が今に遺されているが、その四条河原での感慨を、次のように綴っている。

「四条河原に行(ゆ)ひて見れば、さまざまのあやつり、色々けだもの、世の常に替はりて生れ付たるもの共あり。美しい若衆踊り紛るる見物おゝかれむりし、僅かなる御足もうくるとて、捻りを骨折り汗水になりてとろめくをみれば、世の中をわたる程かなしきものはあらじと、あわれもふかくおもはれ、…… 」

 この後、建仁寺の前を通り、方広寺の大仏殿と三十三間堂へ足を運び、続いて、豊国神社を参拝し、そこで、華麗な社殿が朽ち荒れたままの有様を見て、「久しからぬ命のうちにさかへおとろへを見るこそあはれなりけれ」と感慨にふけっている。

 これが、岩佐又兵衛が、その「洛中洛外図屏風・舟木本」で、豊臣秀頼によって再建された最期の栄華を誇っていた頃の「方広寺大仏殿・豊国廟」周辺の、それから、凡そ二十年後の、現実の姿であったのであろう。
 この岩佐又兵衛の『廻国道之記』は、次のアドレスで、その前半部分(「研究資料 廻国道の記」)だけ見ることができる。

file:///C:/Users/User/Downloads/327_33_Suzuki_Redacted.pdf

 なお、「誓願寺」関連については、「2021年6月5日(土)〜2021年7月25日(日)」に、「京都文化博物館」で、「京都文化プロジェクト 誓願寺門前図屏風 修理完了記念 花ひらく町衆文化 ―近世京都のすがた」展が開催された。その関連の記事が、次のアドレスで見ることが出来る。

https://www.bunpaku.or.jp/exhi_special_post/machishubunka/

 そこで、「【花ひらく町衆文化展】誓願寺門前図屏風(修理ドキュメント)」と題して、二本の「動画」(「YouTube」)が紹介されている。

誓願寺前屏風.jpg

岩佐又兵衛筆 誓願寺門前図屏風 17世紀 江戸時代 (京都文化博物館蔵)
https://www.bunpaku.or.jp/exhi_special_post/machishubunka/

 この「二曲一隻屏風の」の左隻の下部に、次の「かぶき者の喧嘩」図が描かれている。

誓願寺前屏風・喧嘩図.jpg

「岩佐又兵衛筆 誓願寺門前図屏風」(左隻下部)の「後藤庄三郎邸前のかぶき者の喧嘩図」

 この「かぶき者の喧嘩図」に、前回の「『洛中洛外図屏風・舟木本(A図)』」と『豊国祭
礼図屏風(B図)』」との「方広寺前の喧嘩図」とを並列させると次のとおりとなる。

(再掲)

方広寺前の冬の陣・夏の陣.jpg

「『洛中洛外図屏風・舟木本(A図)』」と『豊国祭礼図屏風(B図)』」との「方広寺前のかぶき者の喧嘩図」
誓願寺前屏風・喧嘩図.jpg

『誓願寺門前図屏風(C図)』の「後藤庄三郎邸前のかぶき者の喧嘩図」

 ここで、「洛中洛外図屏風・舟木本(A図)」と「豊国祭礼図屏風(B図)」、そして、「誓願寺門前図屏風(C図)」との、この三者関係を、どのように解するかについては、この段階で触れるのには、どうにもデータ不足で如何ともし難いが、「ファンタジー」(幻想的・独断的な仮説)的な視点で、次のように解して置きたい。

《 「ファンタジー」(幻視想的=独断的な仮説)的視点「その一」

「洛中洛外図屏風・舟木本(A図)」と「豊国祭礼図屏風(B図)」との「かぶき者の喧嘩図」は、何れも、「方広寺・妙法院・大仏殿・大仏殿鐘楼・豊国社・豊国廟」の、その門前の喧嘩図で、これらの背後に、「大阪冬の陣・夏の陣」が潜んでいると解して、殆ど、同時期の作品と解したい。強いて、どちらが先かとすると、扱っている主題の、『豊国祭礼』(慶長九年八月に行われた秀吉七回忌の豊国大明神臨時祭礼)から、「豊国祭礼図屏風(B図)」が先行し、その後を、総括的に、「豊国祭礼図屏風(B図)」を描いたものと理解をして置きたい。
そして、「豊国祭礼図屏風(B図)」の注文主は、「蜂須賀家政・蓬庵」周辺(『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著)』)の方向で、そして、もう一つの、「洛中洛外図屏風・舟木本(A図)」は、これまでの「松平忠直・一伯」周辺と解して置きたい。

「ファンタジー」(幻視的=独断的な仮説)的視点「その二」

 「誓願寺門前図屏風(C図)」の「後藤庄三郎邸前のかぶき者の喧嘩図」は、「『洛中洛外図屏風・舟木本(A図)』」と『豊国祭礼図屏風(B図)』」との「方広寺前のかぶき者の喧嘩図」に、先行する作品と解したい。そして、その注文主は、「豊国祭礼図屏風(B図)」の注文主は、「蜂須賀家政・蓬庵」(『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著)』説)周辺や、「洛中洛外図屏風・舟木本(A図)」の注文主の「松平忠直・一伯」周辺の「武家有力大名」と解して、「誓願寺門前図屏風(C図)」は、「後藤庄三郎邸前の喧嘩図」の「後藤庄三郎」周辺の「京の有力町衆」と解したい。  》

(参考)「町衆」周辺

まちしゅう【町衆】
林屋辰三郎が1950年に〈町衆の成立〉と題する論文で使用した歴史概念。林屋説によると,応仁・文明の乱後,京都住民の日常生活の前面に出てきた地域共同体を〈町(まち)〉といい,〈まち〉は〈街路を挟む二つの頰(つら)〉を指し,そこで生活する住民を〈町衆(まちしゆう)〉という。林屋の町衆概念の要点は,(1)町衆は応仁・文明の乱後に成立してくる生活共同体である〈町〉の構成員であり,(2)〈町〉は〈街路を挟む二つの頰〉であること,(3)応仁・文明の乱後の史料に〈町衆〉の用語が頻出してくること,(4)町衆は自己の責任で自己の〈町〉を防衛すること,(5)町衆の中核は酒屋,土倉などの高利貸業者であり,(6)酒屋,土倉などの上層町衆は京都近郊農民を収奪し,土一揆と対立し,(7)〈町〉の連合組織である〈町組〉が結成され,その指導的位置を上層町衆が占める,などである。(世界大百科事典 第2版)

https://www.doshisha.ac.jp/attach/page/OFFICIAL-PAGE-JA-370/140491/file/75Machishu.pdf

「町衆について」(仲村研稿)

https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000090297

京都の三長者

江戸時代初期,角倉・茶屋・後藤を合わせて京の三長者といいました。三家とも,織豊~徳川の時代にかけて,政権との結びつきが強く,政商としての性格を強く持っていました。朱印船貿易では,角倉・茶屋両氏は船を出し,後藤庄三郎は朱印船の帰国後,家康に土産を献上する際に指図したといわれています。また,三家ともに法華宗との関わりを持っており,茶屋・後藤両家は大檀那で,天文法華の乱の際は,町衆方の大将分として活躍しました。角倉家は浄土宗ですが,法華宗の僧である日禛(にっしん)に私有地の小倉山を提供しています。

〈角倉家〉
医家。土倉。代官職を世襲。本姓は吉田。朱印船貿易では「角倉船」を出しました。通算航海数17回は,朱印船貿易家の中では最多です。了以・与一(素庵)親子は大堰川や高瀬川の開削など,河川土木事業で業績をあげました。

〈茶屋家〉
呉服商。将軍家呉服御用達。糸割符商人。京都町人頭。本姓は中島。代々「四郎次郎」を名乗る。朱印船貿易では「茶屋船」を出しました。初代四郎次郎清延は本能寺の変の際,家康の伊賀越えを先導し,命の恩人となりました。武人でもあり,家康に付き添って戦に出ること52回という猛者でした。

〈後藤家〉
金工。御金改役。分銅の製作,分銅改め。金座。小判の検定極印。代々四郎兵衛を通称とした「彫金(または大判座)後藤」と代々庄三郎を名乗る「金座(または小判座)後藤」とがあります。四郎兵衛家は庄三郎家の師家筋に当たります。彫金後藤は祐乗を祖とする,室町時代から続く彫金師の家系です。五代徳乗のとき,秀吉から関東下向の命が下った際,弟子の橋本(一説には山崎とも)庄三郎に後藤姓と光の一字を与えて名代として遣わせました。その後,庄三郎は家康に可愛がられ,外国人から「家康の財務長官」と呼ばれるほどになりました。
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yahantei

「洛中洛外図屏風・舟木本」と「豊国祭礼図屏風」との二本立てが、何やら、「誓願寺門前屏風」の三本立てになって来る感じである。あまつさえ、「豊国祭礼図屏風」は、何やら、「徳川美術館本」(「舟木本=A図」に対応する「豊国祭礼図=B図」)の他に、「豊国社本」と「妙法院本」とがあり、コれもまた、三本立ての、「相互、あれか・これか」と難問が続くようである。実に、「鬱陶しい」感じである。しかし、先に、進める他はない。
by yahantei (2021-09-12 17:01) 

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