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洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その九) [岩佐又兵衛]

(その九)「方広寺」前の「かぶき者」の喧嘩は何を意味するのか?

方広寺前の喧嘩.jpg

「方広寺前の喧嘩(右隻第一・二扇上・中部」 → A図

 「方広寺」の前で「かぶき者」の喧嘩が始まっている。その右側は「豊国社」(豊国神社)である。その「方広寺」と「豊国社」の後方に「妙法院」と「豊国廟」に至る参道が描かれ、
この「方広寺」と「豊国社」の門前に、「方広寺大仏殿」の屋根の一角見える。
この図の下方に「方広寺大仏殿」が大きく描かれ、その下に、「三十三間堂」が描かれて
いる。そして、その「方広寺大仏殿」の右手に「豊国定舞台」が描かれ、そこで「烏帽子折」
の「能」が演じられている(「その八」)。
 この「洛中洛外図屏風・舟木本」の「右隻第一・二扇」は、この「舟木本」が出来た「大阪冬の陣・夏の陣」の前後の、「豊臣家」滅亡の頃の、「慶長十九年(一六一四)・元和元年(一六一五)」を背景としたもので、当時の豊国神社は社領が一万石、境内の敷地は三十万坪の誇大な敷地を有した頃の遺影ともいうべきものであろう。
 この後、「豊臣宗家が滅亡すると、徳川家康の意向により後水尾天皇の勅許を得て豊国大明神の神号は剥奪され、秀吉の霊は『国泰院俊山雲龍大居士』と仏式の戒名を与えられることになる。神社も徳川幕府により廃絶され、秀吉の霊は方広寺大仏殿裏手南東に建てられた五輪石塔(現:馬塚、当時の史料では「墳墓」とされる)に遷された。
 そして、秀吉の室北政所のたっての願いで社殿は残されたものの、以後一切修理をすることは禁止され、慶応四年(一八六八)閏四月、明治天皇の御沙汰書により、秀吉の社壇が再興されるまで朽ち果てるままに放置され、明治八年(一八七五)、大明神号は復されて、方広寺大仏殿跡に、現在の豊国神社が再建されるという経過を踏んでいる。」(「ウィキペディア」)

 さて、この「洛中洛外図屏風・舟木本」の「方広寺前の喧嘩」が、この「洛中洛外図屏風・舟木本」より先に描かれたとされる、同じ、岩佐又兵衛作とされる「豊国祭礼図屏風(六曲一双)」(徳川美術館蔵)の右隻(第五・六扇上・中部)に、次のような図柄で描かれている。

豊国祭礼図屏風・方広寺前の喧嘩.jpg 

「豊国祭礼図屏風(六曲一双)」(徳川美術館蔵)の右隻(第五・六扇上・中部)「方広寺前の喧嘩」 → B図
https://artsandculture.google.com/asset/festival-of-h%C5%8Dkoku-shrine-right-screen-iwasa-matabei/2AFW7iv6tr1u3g?hl=ja&ms=%7B%22x%22%3A0.14614200500288632%2C%22y%22%3A0.38997394883895614%2C%22z%22%3A12%2C%22size%22%3A%7B%22width%22%3A0.2922840100057726%2C%22height%22%3A0.3016%7D%7D

 この図の右上が「方広寺」の入り口である。その入り口の木戸で、一人の僧が、その喧嘩の様子を窺がっている。その前を「金雲」で一部省略しているが、一団の集団が、右手から左手に向けて、今や、喧嘩が勃発する一瞬の状態である。

 これらの、A図の「洛中洛外図屏風・舟木本」の「方広寺前の喧嘩」と、B図の「豊国祭礼図屏風」の「方広寺前の喧嘩」に関しては、下記のアドレスなどで、幾度となく触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-02

 ここで、改めて、この「A図の『洛中洛外図屏風・舟木本』の『方広寺前の喧嘩』」は、「大阪冬の陣」の見立てで、その「B図の『豊国祭礼図屏風』の『方広寺前の喧嘩』」は、「大阪夏の陣」の見立てであるということなのである。
 ということで、その「A図」と「B図」を合成すると、次のようになる。

方広寺前の冬の陣・夏の陣.jpg

「A図の『洛中洛外図屏風・舟木本』」と「B図の『豊国祭礼図屏風』」との「方広寺前の喧嘩」 → C図

 この「C図」(「方広寺前の喧嘩」)の元になっているものが、「洛中洛外図」(歴博D本)の、下記の「豊国社(耳塚)前の喧嘩」図である。

耳塚の前の喧嘩図.jpg

「洛中洛外図」(歴博D本)右隻(第一・二扇上部)の「「豊国社(耳塚)前の喧嘩」→D図
https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/rakuchu_d/rakuchu_d_r.html

 この(「D図」)の左上部に「耳塚(鼻塚)」(戦死者の耳や鼻を弔ったとされる塚。文禄・慶長の役の戦功の証として討取った朝鮮・明国兵の耳や鼻を削ぎ持ち帰ったものを葬った塚として知られている)があり、その前で「かぶき者」の喧嘩が始まっている。
このD図の喧嘩は、「大阪冬の陣・夏の陣」の見立てではない。というのは、これは「豊国社」の「耳塚」の前の喧嘩で、「豊国社」に隣接した「方広寺の前の喧嘩」(C図)ではない。
「大阪冬の陣・夏の陣」の端緒を切ったのは、「方広寺鐘銘事件」(慶長一九年(一六一四)豊臣秀頼が京都方広寺大仏再興に際して鋳造した鐘の銘文中、「国家安康」の文に対して、徳川家康の名前が分割されて使われていることから、家康の身首両断を意図したものとして、家康が秀頼を論難した事件。大坂冬の陣のきっかけとなった)に由来する。
 これらの「方広寺の前の喧嘩」(C図)が、「大阪冬の陣・夏の陣」の見立てて解することについては、下記のアドレスなどで触れているので、末尾に、その要点となるところを再掲して置きたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-02

 その前に、「洛中洛外図」(歴博D本)の中に、前回(その八)の「『豊国定舞台』」で演じられている『烏帽子折』を、「寝そべって、頬杖で見物している二人の男性は誰か?」の、元になっているよう図があるので、紹介をして置きたい。

清水寺の寝そべっている男.jpg

「洛中洛外図」(歴博D本)右隻(第二扇上部)の「清水寺の寝そべっている男」→E図
https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/rakuchu_d/rakuchu_d_r.html

 この図(「E図」)は、「清水寺の舞台」で、周りの景色を眺めている図。左端に、寝そべって眺めている男性が二人居る。これを、岩佐又兵衛は、その「洛中洛外図屏風・舟木本」のスタート地点の「豊国定舞台」で演じられている「烏帽子折」を、地面に横になって見物している男性二人(前回に「岩佐又兵衛と門弟一人」に見立てた男性二人)に応用して描いたように思われる。
 「岩佐又兵衛」は、この種の「剽窃」というよりも「応用・転用」して、「新たな世界」を産み出すという、そういうことを意識して多用している雰囲気が濃厚のように感じられる。
 例えば、この「清水寺の舞台で寝そべって見学している二人の男性」は、別の視点からすると、「清水寺の舞台から必死になって飛び降りるのを躊躇している二人の男性」と「穿った」(俳諧用語の「穿ち」)見方も許容されることであろう。
 その「穿った」眼を、「清水寺の舞台」に非ず「豊国定舞台」の、「景色」に非ず「牛若丸の金色の『烏帽子折』」を、「必死になって観能している『怒った顔』付きの男性(門弟)」と、「演じられている『烏帽子折』と同時にその周囲の観能している見物客を『胡散臭げに観察している顔』付きの男性(岩佐又兵衛)」と取ることも、これまた許容範囲のことであろう。

(再掲)

豊国定舞台・横になっている男.jpg

「豊国定舞台」の「左折烏帽子」と「寝そべっての観客二人」(右隻第一扇中部)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-09-06

 ここで、冒頭の「A図」(「方広寺前の喧嘩(右隻第一・二扇上・中部」)に戻って、これは、「大阪冬の陣」を象徴する一場面と理解することが出来よう。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-02

【 (再掲)

舟木本・大阪冬の陣.jpg

「洛中・洛外図屏風・舟木本」(東京国立博物館本)の「右隻第二扇中部部分拡大図」
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&

徳川美術館蔵「豊国祭礼図」の注文主
―桟敷に坐る武士の姿と蜂須賀家政の肖像画―(黒田日出男稿)

https://www.tokugawa-art-museum.jp/academic/publications/kinshachi/items/%E9%87%91%E9%AF%B1%E

【《二年前に出した拙著『豊国祭礼図を読む』では、徳川美術館本の右隻第五・第六扇の喧嘩の場面に、「かぶき者」に見立てられた豊臣秀頼の姿を見出したというに、この舟木本の喧嘩の場面については、肝心のディテールを「見落とし」てしまったのである。家紋を見落としたのだ。》

《妙法院と照高院の門前で喧嘩が始まっている。双方六人ずつ、武器は鑓・薙刀と刀である。》

《この妙法院と照高院の門前の喧嘩は何を意味しているのか? それを物語るのが、右側の男の背中に描かれている家紋であったのだ。この男の茶色の短い羽織の背中には、「丸に卍紋」が大きく描かれている。この「丸に卍紋」は阿波の蜂須賀氏の家紋である。妙法院・照高院の門前に描かれているのは下郎ないし「かぶき者」の喧嘩であるが、この家紋は、それが大きな戦いの「見立て」であることを示唆している。》

《慶長十九年(一六一四)十月からの「大阪冬の陣」において、とくに目立った軍勢は阿波の蜂須賀家勢(蜂須賀隊)であった。十一月十九日、大阪方の木津川の砦を、蜂須賀至鎮・浅野長晟・池田忠雄の三者で攻めることになったが、蜂須賀至鎮は抜け駆して、砦を陥落させたのであった。次に蜂須賀勢が著しい成果を挙げたのは、同月二十九日の未明に、薄田隼人の守っていた博労ケ淵の砦を攻撃し、砦を奪取した。また逆に、十二月十六日の深更に、蜂須賀勢の陣地は、大阪方の塙団右衛門らによって夜襲をかけられてもいる。》

《すなわち、大阪冬の陣における蜂須賀勢の攻防・活躍はとくに顕著であり、世間によく知られたことであった。他方、「大阪夏の陣」での蜂須賀軍はどうだったか。蜂須賀軍は、荒れた海と紀伊の一揆のために、夏の陣の決戦には間に合わず、夜通し進軍して、五月八日(大阪城の落城は五月七日)に住吉に着陣し、茶臼山と岡山の陣営に行って家康と秀忠に拝謁したのであった。》

《したがって、「かぶき者」の背中に描かれた「丸に卍紋」は、大阪冬の陣における蜂須賀勢を意味する。この場面は、大阪冬の陣における戦いを「かぶき者」たちの喧嘩に見立てたものだったのである。以上のように読むと、舟木本の右隻第二扇の喧嘩は、徳川美術館本の右隻第五・六扇上部に描かれた「かぶき者」の喧嘩の場面と繋がってくる。》 】
(「一 舟木本「洛中洛外図屏風」読解の「補遺」」の要点要約)

 この「徳川美術館蔵「豊国祭礼図か」の注文主(黒田日出男稿)」の論稿は、平成三十年(二〇一八)の徳川美術館での講演用のものを改稿したもので、この種の読解は現在進行形の形で、その後の知見も集積されていることであろう。
 それらの中には、おそらく、この「大阪冬の陣に見立てた『かぶき者』の喧嘩」が、「何故、『妙法院・照高院』の門前で描かれているのか」にも触れられているのかも知れない。
 これは、大阪冬の陣の勃発の発端となった「方広寺鐘名事件」の震源地の「方広寺」の総括責任者が、当時の方広寺を所管していた「照高院・興意法親王」で、この「方広寺鐘名事件」で、一時「照高院」は廃絶され、興意法親王は「聖護院宮」に遷宮となり、方広寺は「妙法院・常胤法親王」の所管となり、その「方広寺鐘名事件」関連の終戦処理は、その「妙法院・常胤法親王」が担うことになる。この「方広寺鐘名事件」に関連する、「興意法親王」の書状が今に遺されている。

興意法親王書状.jpg

御書状 「立札通」(聖護院宮 興意法親王書 ・海の見える杜美術館蔵)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/237671

《 慶長十年(一六〇五)徳川秀忠江戸下向の際、暇乞に信尹や常胤らと礼参(義演准后日記)するなど、時の為政者によく仕えていたが、慶長十九年(一六一四)の方広寺鐘銘事件では、大仏殿住職の職を解かれ、聖護院にて遷居となった。なお、常胤が大仏殿住職を継いだ。
 後陽成天皇の皇弟で、酒樽二つ贈られた礼状。宛名は「金□□」と見えるが、明らかにしない。「諸白」はよく精白した米を用いた麹によってつくられた酒である。江戸へ下向して将軍に会ったことを述べて、末尾にはお目に懸ってまた申しましょうとあるが、文末の決まり文句で「期面云々」「面上云々」などを結びとするのが通例である。(『名筆へのいざない―深遠なる書の世界―』海の見える杜美術館2012 解説より) 》      】

 さらに、冒頭の「B図」(「豊国祭礼図屏風(右隻第五・六扇上・中部」)の「方広寺前の喧嘩」)に戻って、これは、「大阪夏の陣」を象徴する一場面と理解することが出来よう。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-07-30#comments

【(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-05-26

豊国祭礼図・秀頼.jpg

「かぶき者けんか図」(岩佐又兵衛筆・「豊国祭礼図屏風・徳川美術館蔵」より)
http://jarsa.jp/wp/wp-content/uploads/2017/03/e7517-flyer.pdf

http://sengokudama.jugem.jp/?eid=4895

かぶき者の鞘の銘.jpg

「かぶき者けんか図」(岩佐又兵衛筆・「豊国祭礼図屏風・徳川美術館蔵」より)の「鞘の銘記文」

《「廿三」は秀頼の死没年齢》(『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』P263-264)

「《いきすぎたるや廿三 八まん ひけはとるまい》は、 近世史家杉森哲也氏の見事な着眼による、《豊臣秀頼の死没年齢なのである。》 これまでの多くの論者は「かぶき者」大島一兵衛にだけ惹きつけられていて、豊臣秀頼と大阪夏の陣のことに思いもおよばなかったのである。すなわち、画家岩佐又兵衛は、大阪夏の陣を「かぶき者」たちの喧嘩に「見立て」て、このもろ肌脱ぎの「かぶき者」を「豊臣秀頼」に「見立て」ているのである。この「八まん ひけはとるまい」とは「戦(いくさ)」のこと、大阪夏の陣で、決死の覚悟で「徳川方」に挑んでいる、その決死の銘文なのである。」(メモ=「八まん」は、「戦の神様の『八幡太郎義家(源義家)』の「比喩」的用例と解したい。)

豊国祭礼図屏風・秀頼・淀・高台院.jpg

「かぶき者けんか図」(岩佐又兵衛筆・「豊国祭礼図屏風・徳川美術館蔵」より)
二の一 重文「豊国祭礼図屏風(右隻)」(岩佐又兵衛(伝)徳川美術館蔵)の「右隻第六扇・拡大図(その一)」
https://artsandculture.google.com/asset/festival-of-h%C5%8Dkoku-shrine-right-screen-iwasa-matabei/2AFW7iv6tr1u3g?hl=ja

 この図(「右隻第六扇・拡大図(その一)」)の左の下方が「かぶき者」に見立てた「豊臣秀頼」で、それに対する、この図の右の下方の「かぶき者」は「徳川秀忠」の「見立て」だというのである。

《卍紋・梅鉢紋・鷹羽紋は語る》(『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』P264-265)

「左側の若者が秀頼であるならば、右側の武士たちは徳川側である。相手になろうとしているのは秀忠であろう(七十歳を超えていた大御所家康の姿ではない)。この秀忠の周りにいて喧嘩を止めようとしている男の衣服は卍紋と梅鉢紋である。卍紋は蜂須賀家であり、梅鉢紋は前田家である。秀忠の後で刀を抜こうとして男の衣服の紋は鷹羽紋で浅野家の紋である(こま図の右側に鷹羽紋の男が出てくる)。」
 
 この図の中央に、この秀頼と秀忠との喧嘩を止めようとしている僧侶がいるが、これは、大阪冬の事件の切っ掛けとなった「方広寺鐘銘事件」の、問題の「国家安康」(家康の身首両断を意図している呪文の文字)と「君臣豊楽」(豊臣家の繁栄を祈願している文字」とを撰した、東福寺の長老・文英清韓(ぶんえいせいかん)などの見立てなのであろう。

《倒れ掛かる乗物のなかの淀殿》(『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』P265-266)

豊国祭礼図・秀頼周辺.jpg

『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』カバー表紙図

「このもろ肌脱ぎの若者(秀頼)の上部に倒れかかった立派な乗物(駕籠)が描かれている。この乗物には、家紋が鏤められている。この乗物の紋尽くしの中心にあるのは、豊臣家の家紋で、この倒れかかった乗物から、にゅーと女性の手が出ている。この乗物には、大阪城で秀頼と運命をともにした淀殿が乗っていることを暗示している。」

《後家尼姿の高台院》(『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』P265-266)

「この倒れかかった乗物の上部に、破れ傘を持ってあわてて飛び退いている後家尼の老女が描かれている。この老後家尼こそ、秀吉の妻おね(北政所)つまりは高台院の姿なのである。」

これらは、『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』での著者の考察なのであるが、これらの考察は、次の論稿により、さらに、深化を深めて行く。


徳川美術館蔵「豊国祭礼図」の注文主
―桟敷に坐る武士の姿と蜂須賀家政の肖像画―(黒田日出男稿)

https://www.tokugawa-art-museum.jp/academic/publications/kinshachi/items/%E9%87%91%E9%AF%B1%E

「倒れ掛かった乗物(駕籠)から、女の手が突き出ている。この乗物に鏤められているさまざまな家紋の殆どは「目くらまし」であり、豊臣氏の「桐紋」がある。乗っているのは淀殿なのだ。そして、この乗物を担いでいる揃いの短衣を着た駕籠かき二人は、大野治長・治房兄弟であろう。
 乗物の向こう側、すぐ脇に後家尼の老女がいて、破れ傘をもったまま慌てて飛び退いている。後家尼の姿だから、これは高台院(秀吉の妻おね、北政所)である。背後の首に赤布を巻いている女は、高台院に仕えていた女性(孝蔵主?)などではあるまいか。
 さらに上の方には、侍女に傘をさしかけられた、被衣姿の貴女がいる。喧嘩の騒ぎを眺めているようだ。今のところ確かな論拠は示せないのだけれども、大阪城から脱出した千姫の姿が描かれているように思われる。
 こうして徳川美術館本の右隻の一角には、大阪夏の陣の豊臣秀頼と徳川秀忠の戦いが「かぶき者」たちの喧嘩に見立てて描かれていたのであった。それは、この屏風の注文主にとって必須(あるいは必要)な表現であり、しかも、徳川方の者が見ても気付かれにくい「見立て」の表現だったのである。」(「二 徳川美術館本の「かぶき者」の喧嘩と大阪夏の陣」の要点要約)

 ここまで来ると、上記の図・上部の「大阪城から脱出した千姫」と思われる貴女の、左後方の屋敷から、喧嘩の状況を見極めているような人物は、千姫を大阪城の落城の時に、家康の命により救出した「坂崎直盛(出羽守)」という「見立て」も可能であろう。
 さらに、この図の下部の「秀頼と秀忠との喧嘩を止めようとしている僧侶(三人?)
のうちの中央の身分の高い僧衣をまとった人物は、「方広寺鐘銘事件」が勃発した時の、方広寺門跡「興意法親王(誠仁親王の第五皇子・一五七六~一六二〇)」の「見立て」と解することも、これまた、許容されることであろう。
 そして、この後陽成天皇の弟にあたる興意法親王(照高院)の前の、家忠に懇願しているような僧が、「方広寺鐘銘事件」の、問題の「国家安康」(家康の身首両断を意図している呪文の文字)と「君臣豊楽」(豊臣家の繁栄を祈願している文字」とを撰した、禅僧の「文英清韓」という「見立て」になってくる。
 この「方広寺鐘銘事件」と「興意法親王(照高院)」との関連などについては、下記のアドレスで取り上げている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-05-26

 ここで、先の(参考一)に、興意法親王(照高院)も入れて置きたい。

(参考)「源氏物語画帖」と「猪熊事件」そして「豊国祭礼図」「洛中洛外図・舟木本」との主要人物一覧

※※豊臣秀吉(1537-1598) → 「豊臣政権樹立・天下統一」「豊国祭礼図屏風」
※※土佐光吉(1539-1613) → 「源氏物語画帖」
※※徳川家康(1543-1616) →「徳川政権樹立・パクス・トクガワーナ(徳川の平和)」
花山院定煕(一五五八~一六三九)  →「夕霧」「匂宮」「紅梅」
※※高台院 (1561? - 1598) →  「豊国祭礼図屏風」
近衛信尹(一五六五~一六一四)   →「澪標」「乙女」「玉鬘」「蓬生」
久我敦通(一五六五~?)      →「椎本」
※※淀殿(1569?-1615) →  「豊国祭礼図屏風」「大阪冬の陣」「大阪夏の陣 」
後陽成院周仁(一五七一~一六一七) →「桐壺」「帚木」「空蝉」
日野資勝(一五七七~一六三九)   →「真木柱」「梅枝」
※※興意法親王(照高院)(一五七六~一六二〇) → 「方広寺鐘銘事件」
※大炊御門頼国(1577-1613) →「猪熊事件」

※※岩佐又兵衛(1578-1650)→「豊国祭礼図屏風」「洛中洛外図・舟木本」

※※徳川秀忠(1579-1632) →「豊国祭礼図屏風」「大阪冬の陣」「大阪夏の陣」
※烏丸光広(一五七九~一六三八) →「猪熊事件」→「蛍」「常夏」 
八条宮智仁(一五七九~一六二九) →「葵」「賢木」「花散里」
四辻季継(一五八一~一六三九)  →「竹河」「橋姫」

※織田左門頼長(道八)(1582-1620) →「猪熊事件」「大阪冬の陣」「大阪夏の陣」
※猪熊教利(1583-1609)      →「猪熊事件」
※徳大寺実久(1583-1617)     →「猪熊事件」

飛鳥井雅胤(一五八六~一六五一)   →「夕顔」「明石」
中村通村(一五八七~一六五三)    →「若菜下」「柏木」 
※花山院忠長(1588-1662) →「猪熊事件」
久我通前(一五九一~一六三四     →「総角」    
冷泉為頼(一五九二~一六二七)     → 「幻」「早蕨」
※※豊臣秀頼(1593-1615)  → 「豊国祭礼図屏風」「大阪冬の陣」「大阪夏の陣」
菊亭季宣(一五九四~一六五二)    →「藤裏葉」「若菜上」
近衛信尋(一五九九~一六四九)    →「須磨」「蓬生」
烏丸光賢(一六〇〇~一六三八)   →「薄雲」「槿」
西園寺実晴(一六〇〇~一六七三)   →「横笛」「鈴虫」「御法」
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yahantei

 画像のアップ中、アップが出来なくなった。容量超えたので、「追加申請」のこと。保存しないうちに、「追加申請」をしたら、編集中のものが、消えてしまった。

いろいろと面倒である。

「A図の『洛中洛外図屏風・舟木本』」と「B図の『豊国祭礼図屏風』」との「方広寺前の喧嘩」関連については、「源氏物語画帖」をやっているうちに、「猪熊事件」の関連から、当時の「かぶき者の風潮」がクロ-ズアップしてきて、「源氏物語画帖」の続きと、並行して、「三藐院ファンタジー」として、「洛外洛中洛外図舟木本」関連を進めてきたので、今回は、それらを正面切って、これまで敬遠していた「岩佐又兵衛」にアプローチしょうとすると、これが、想像以上に「険しい」ということに気づいた。
 しかし、ここは、開き直るほか致し方ない。そして、これは、前回の「三藐院ファンタジー」の「ファンタジー」的な視点を中心する他は術はない。



by yahantei (2021-09-09 13:45) 

yahantei

「そして、この後陽成天皇の弟にあたる興意法親王(照高院)の前の、家忠に懇願しているような僧が、「方広寺鐘銘事件」の、問題の「国家安康」(家康の身首両断を意図している呪文の文字)と「君臣豊楽」(豊臣家の繁栄を祈願している文字」とを撰した、禅僧の「文英清韓」という「見立て」になってくる。」

上記の「家忠に懇願しているような僧が」の「家忠」は「(徳川)秀忠」の、何時もながらの「ミス」→ どうも「ミス」が多い。
by yahantei (2021-09-09 13:58) 

yahantei

中村通村(一五八七~一六五三) 

「中院通村(一五八八~一六五三)の「ミス」
by yahantei (2021-09-14 12:33) 

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