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「南蛮屏風幻想」(リスボン・ファンタジー)その十五 [南蛮美術]

(その十五)「長崎奉行所キリシタン関係資料などの南蛮美術(キリシタン美術工芸品)」(その二)」周辺

聖母子1・長崎奉行所.jpg

重要文化財「聖母子像」(※雪のサンタマリア)(東京国立博物館蔵)
(指定名称)長崎奉行所キリシタン関係資料 (長崎奉行所キリシタン関係資料 のうち) 1面
銅板油絵 額縁共長17.3×幅13.9 江戸時代・16世紀後期~17世紀初期 東京国立博物館 C-695
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100428&content_part_id=034&langId=ja&webView=
※「雪のサンタマリア」は、『THE NANBAN ART OF JAPAN《西洋との出会い・キリシタン絵画と南蛮屏風》(国立国際美術館・1986)』所収「作品解説5」に因る。

聖母子・長崎奉行所.jpg

重要文化財「聖母子像」(東京国立博物館蔵)
指定名称)長崎奉行所キリシタン関係資料 (長崎奉行所キリシタン関係資料 のうち) 1面
銅板油絵 額縁共長24.2×幅19.4 16世紀後期~17初期 東京国立博物館 C-699
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100428&content_part_id=038&langId=ja&webView=

聖母子像三体.jpg

「プロローグ1 渡りきた聖母像」(「日本の歴史の中の『 聖母像 』- 1(蕨由美稿)」)
左 → 重要文化財「聖母子像」(※雪のサンタマリア)(東京国立博物館蔵)
中央→ 重要文化財「聖母子像」(東京国立博物館蔵)
左 → 「ロレートの聖母」茨木市中谷家蔵

「ロレートの聖母子」(中谷仙之介家発見遺物)
亜鉛板打出油彩 聖家族が戦火を避けるため、ナザレからイタリアのロレートまで天使によって空中を運ばれたという。
http://bittercup.blog.fc2.com/blog-entry-5074.html?sp

【 (作品解説8)
亜鉛版押出し油彩 龕(がん) 12.1×9.1
The Virgin and Child of Loretto oil on embossed zinc plate
大阪府三島郡清渓村(現在の茨木市)大字千堤寺で発見されたもの。うすい亜鉛版の裏側から型で押し出した図様に油彩を施したもの。図中の左側上方に、「LORETA」(ロレート)の文字がみえる。ロレートは、イタリア半島アドリア海沿岸のマルケ地方の巡礼地である。伝説によれば、イスラエルのナザレトにあった聖母子の家がサラセン軍占領下にはいったので、天使たちが、それを地中海を越えて運んだ場所がロレートであったという。本図には、天使たちが聖堂と聖母子を運ぶ情景が描かれている。 】(『THE NANBAN ART OF JAPAN《西洋との出会い・キリシタン絵画と南蛮屏風》(国立国際美術館・1986)』)

日本人の筆による聖母像.jpg

プロローグ2 日本人の筆による聖母像(「日本の歴史の中の『 聖母像 』- 1(蕨由美稿)」)
左 →「ご聖体の連祷と黙想の図」(澤田美喜記念館蔵)
中央→「マリア十五玄義図」(原田本)
左 →「雪のサンタマリア」(日本二十六聖人記念館所蔵)
雪のサンタマリア一.jpg

「雪のサンタマリア1」=ローマからシチリアへ、そして日本へ伝来した「雪の聖母」伝説
(「日本の歴史の中の『 聖母像 』- 1(蕨由美稿)」

雪のサンタマリア一2.jpg

「雪のサンタマリア2」(「日本の歴史の中の『 聖母像 』- 1(蕨由美稿)」

雪のサンタマリア一3.jpg

「雪のサンタマリア3」(「日本の歴史の中の『 聖母像 』- 1(蕨由美稿)」
左 → 重要文化財「聖母子像」(※雪のサンタマリア)(東京国立博物館蔵)
中央→「聖母子像」(真っ黒で図像が定かに見えない)(東京国立博物館蔵)
右→「ローマのサンタマリア・マジョーレ聖堂の『サルス・ポプリ・ロマーニ。聖ルカに
よって描かれたという伝承から「ルカの聖母」 と、また大聖堂創設の由来伝説から 「雪の聖母」 とも称されたイコン。

(追記一)「雪の聖母」(「ウィキペディア」)

雪の聖母.jpg

【 雪の聖母 (ゆきのせいぼ:イタリア語Madonna della Neve)とは ローマ教皇リベリウスの時代の伝説に基づいたもので、この伝説によると、8月5日の夜、聖母マリアのお告げによって、現在のイタリア、ローマのエスクイリヌス丘の頂上に雪が降り、この雪で覆われていた部分を中心にして、聖母マリアに捧げる聖堂が建設されたとされる。
 この聖堂は現在ではサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂と呼ばれ、ローマではその祝日を数世紀にも渡って8月5日に祝わっている。しかしながら、この奇蹟に関する記録が歴史記録として数百年に渡り存在しない。さらにこの聖堂を献納した教皇シクストゥス3世ですら、この伝説は歴史的な基盤を持たないかも知れないとしている。これらのことにもかかわらず、14世紀にこの祝日はローマ中の教会に広まり、そして最終的にこの日は教皇ピウス5世によって世界的祝日に定められてしまった。 】

(追記二)「聖母を描く聖ルカ」(「ウィキペディア」)

聖母を描く聖ルカ.jpg

『聖母を描く聖ルカ』(「ウィキペディア」)
作者 ロヒール・ファン・デル・ウェイデン
製作年 1435年 - 1440年
種類 オーク板に油彩、テンペラ
寸法 137.5 cm × 110.8 cm (54.1 in × 43.6 in)
所蔵 ボストン美術館、ボストン
【 『聖母を描く聖ルカ』(せいぼをえがくせいルカ(英: Saint Luke Drawing the Virgin))は、初期フランドル派の画家ロヒール・ファン・デル・ウェイデンが描いた絵画。芸術家の守護聖人ルカが幼児キリストを抱く聖母マリアを描いている場面が描かれており、ブリュッセルの芸術家ギルド聖ルカ組合のために1435年から1440年にかけて制作した作品である。  
 オーク板に油彩とテンペラで描かれた板絵で、絵画の師であるロベルト・カンピンのもとでの修行を終えた後に、ブリュッセルの公式画家に任命された当初の作品の一つと考えられている。この作品を所蔵するボストン美術館は、「アメリカ合衆国に存在する北ヨーロッパ絵画でもっとも重要な作品である」と位置づけている。
 ファン・デル・ウェイデンは、この作品に多くの宗教的寓意を内包させている。聖母マリアの座る椅子の肘掛には、アダムとイヴの堕罪 (en:Fall of Man) の彫刻が表現されているが、これはマリアとキリストが贖罪で果たす役割の象徴である。マリアはダマスク織の天蓋の下に座っているが、実際に座っている場所は玉座ではなく足を置くステップで、これはマリアの謙虚さを表している。画面最右部の小部屋には、ルカを象徴する膝を折った雄牛と、ルカが書いたとされる福音書がページを開いた状態で描かれている。背景のロッジアの「閉ざされた庭 (en:hortus conclusus)」は、聖母の純潔を意味している。また、ファン・デル・ウェイデンは聖母子を極度に理想化せずに実在の人間らしく描写している。さらに、聖人の頭上に通常描かれる光の輪である円光がない、くつろいだ雰囲気の空間として描かれているなど、当時の写実主義の影響を受けていることが見て取れる。
 『聖母を描く聖ルカ』は、同じく初期フランドル派の画家ヤン・ファン・エイクが1435年ごろに描いた絵画『宰相ロランの聖母』をもとにしている。ファン・デル・ウェイデンのアプローチは正統的なものとなっており、ルカが聖母を銀筆で描いている様子など、ファン・デル・ウェイデンが専門的技量を有していたことをうかがわせる。銀筆は高度な技術が必要な道具で、ファン・デル・ウェイデン自身の技量と自信とを物語っているのである。ルネサンス美術において「聖母(子)を描く聖ルカ」というモチーフは、この作品とよく似ているロベルト・カンピンの祭壇画とともにこの『聖母を描く聖ルカ』が嚆矢となっている。
 この作品に描かれているルカはファン・デル・ウェイデンの自画像ではないかと考えられている[5]。これは芸術家がときおり用いる手法で、自身の作品の登場人物の顔として自画像を描くことによって、画業が自身の天職であることを宣言し、さらに芸術の守護聖人との一体感を示すという意味があった。
 ヤン・ファン・エイクの『宰相ロランの聖母』と同様に、『聖母を描く聖ルカ』にも橋にもたれかかる二人の人物が遠景に描かれている。この二人の人物が特定の誰かを描いているのかについては諸説あるが[6]、マリアの父母である聖ヨアキムと聖アンナとする説がある[7]。どちらの人物もモチーフに描かれている聖母子と聖ルカには背を向けており、このことは二人の人物が聖ルカとこの作品を観る者よりも超然とした立場にいることを示唆している。
 『聖母を描く聖ルカ』が絵画界に与えた影響は広範囲に及ぶものだった。一部の学者が唱えているようにこの作品がブリュッセルの聖ルカ組合の礼拝堂にあったのだとすれば、多くの芸術家たちが目にすることができ、模写をすることが可能だったと考えられる。『聖母を描く聖ルカ』には複数の複製画が存在し、長きにわたってどの作品がファン・デル・ウェイデンの真作であるのかが明確にはなっていなかった。ミュンヘンのアルテ・ピナコテーク(1483年ごろ)、サンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館(1475年 - 1500年ごろ)、ブルッヘのグルーニング美術館(制作年不明)に『聖母を描く聖ルカ』を模写した複製画が所蔵されている。また、裁断された断片、あるいは一部を模写した複製画が、ブリュッセル、カッセル、バリャドリッド、バルセロナに残っている。
 20世紀初頭には複数の美術史家が、ファン・デル・ウェイデンが描いたオリジナルの『聖母を描く聖ルカ』はおそらく既に失われており、現存するものはすべて複製画であるとする学説を唱えていた。しかしながら、赤外線リフレクトグラムによる調査で、ボストン美術館所蔵の『聖母を描く聖ルカ』には他の作品に見られない固有の下絵が発見され、ボストン美術館の作品こそがファン・デル・ウェイデンの真作であると認定された。これら赤外線による調査で、『聖母を描く聖ルカ』にも当初はヤン・ファン・エイクの『宰相ロランの聖母』と同じく聖母に戴冠する天使の姿が描かれていたが、完成した作品からは除去されていることが明らかになっている。当初、この作品の制作年度は1450年ごろではないかと推測されていたが、現代の美術史家たちの意見はファン・デル・ウェイデンの画家としてのキャリア初期の1435年から1440年ごろだろうという見解に落ち着きつつある。
 『聖母を描く聖ルカ』は著名な作品で、多くの複製画が残っているにも関わらず、19世紀までの来歴はほとんど残っていない[11]。スペイン王カルロス3世の甥の子息にあたる、ポルトガル王子・スペイン王子セバスティアン・ガブリエルのコレクションに含まれているという1835年の記録がある。セバスティアン・ガブリエルは自身も芸術に精通した人物で、ドイツ人芸術家ルーカス・ファン・レイデン (en:Lucas van Leyden) の作品目録を制作したほか、最初期の美術品修復家ともみなされている。
 『聖母を描く聖ルカ』に大規模な洗浄修復が実施されたのは1932年のことで、これまで少なくとも4回にわたって修復作業が行われている[7]。もともとの保存状態は非常に悪く、縁部分も画肌部分もかなりの損傷を受けていた。
 『聖母を描く聖ルカ』は1889年にニューヨークで開かれたオークションで、ボストン交響楽団の創設者として知られるヘンリー・リー・ヒギンスン (en:Henry Lee Higginson) が落札し、その後1893年にボストン美術館に寄贈された。ボストン美術館は1989年に「芸術の背景 - ロヒール・ファン・デル・ウェイデン『聖母を描く聖ルカ』」という特別展覧会を開催している。 】
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