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「南蛮屏風幻想」(リスボン・ファンタジー)その十四 [南蛮美術]

(その十四)「長崎奉行所キリシタン関係資料などの南蛮美術(キリシタン美術工芸品)」(その一)」周辺

親指のマリア・悲しみのマリア.jpg

「聖母像(親指のマリア)=左」(重要文化財・東京国立博物館蔵)と「悲しみの聖母=右」(国立西洋美術館蔵)
https://nordot.app/561745268610516065

https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100428&content_part_id=037&langId=ja&webView=

【 重要文化財「聖母像(親指のマリア)」
(指定名称)長崎奉行所キリシタン関係資料 (長崎奉行所キリシタン関係資料 のうち) 1面
銅板油絵 額縁共長26.7×幅21.5 17世紀後期 東京国立博物館 C-698
キリシタン禁圧のさなか、宝永5年(1708)に鹿児島の屋久島に着いた、イタリア人神父ジョヴァンニ・シドッチ(1667~1714)は、漂着の翌日に捕らえられて江戸に護送され、新井白石の取調べを受けた後、江戸キリシタン屋敷で没した。この聖母像は彼が携行していたものといわれる。図はイタリア・フィレンツェで活躍し、感傷的な画風で人気のあったカルロ・ドルチ(1616~1686)の作品に酷似している。聖母は天上の愛の象徴である藍色の上衣と、悲しみの象徴である紫の下衣をまとっており、頬にわずかな慈悲の涙をうかべている。また、衣の縁から親指のみをあらわすことから「親指のマリア」と呼ばれ、親しまれている。 】

親指のマリア・拡大図.jpg

「聖母像(親指のマリア)=左(部分拡大図)」 → 「頬にわずかな慈悲の涙をうかべている。」

【 「親指のマリア」=鎖国下での白石との出会い

 1708年シドッチが携えてきた「親指の聖母」 カルロ・ドルチ作、 東京国立博物館蔵。
この絵は、カルロ・ドルチが描いた神々しいほどの悲しみが表現された美しい聖母像「親指の聖母」です。
 その画像を携えて、イタリア人教区司祭だったジョバンニ・シドッチは、 1708 年鎖国下禁教百年近くになる日本に潜入し、上陸した鹿児島で捕らわれ、江戸切支丹屋敷(山屋敷)に護送されます。
この知らせをきいて幕府の重臣新井白石はシドッチの取り調べに当たりました。この逸材二人の出会いは、立場、信条の相違をふまえながらも、互いの尊敬と信頼に満ちたものでありました。】(「日本の歴史の中の『 聖母像 』- 2(蕨由美稿)」)

白石とシドッチ.jpg

「親指のマリア」=鎖国下での白石との出会い(「日本の歴史の中の『 聖母像 』- 1(蕨由美稿)」)

https://collection.nmwa.go.jp/P.1998-0002.html

【「悲しみの聖母」=右 カルロ・ドルチ[フィレンツェ, 1616年 - フィレンツェ, 1687年]

制作年      1655年頃
材質・技法・形状 油彩、カンヴァス
寸法(cm)  82.5 x 67
署名・年記 カンヴァス裏面に書込み: REGINA MARTIRUM ORA PRO NOBIS
作品解説
 この作品は1655年頃、カルロ・ドルチ39歳の作です。暗い背景に淡い光背に包まれて、深みのあるラピスラズリの青のマントを身にまとった聖母マリアの美しくも悲痛な表情は観者の心に深く訴えかけるものがあります。カルロ・ドルチの詳細な伝記を最初に残したフィリッポ・バルディヌッチ(1625-1695)によれば、彼は子供の頃から敬虔な信仰の持ち主で、生涯聖ベネディクトゥス信者会に属していたといいます。両手を合わせた聖母の構図はティツィアーノの聖母像に起源をもちますが、むしろティツアーノを原型として16-17世紀にスペインで人気を博した聖母像の形式をふまえたものと考えられます。長いこと聖母のモデルは1654年に結婚した妻テレーザ・ブケレッリと考えられてきましたが、テレーザを描いた自筆デッサンとの比較により、疑問も提示されています。(出典: 展示室作品解説パネル)   】(「国立西洋美術館」解説)

カルロ・ドルチの作品.jpg

「カルロ・ドルチの作品」(「日本の歴史の中の『 聖母像 』- 1(蕨由美稿)」)

悲しみのマリア.jpg

「悲しみのマリア画像」(南蛮文化館蔵) 麻布油彩 額 52.5×40
(『THE NANBAN ART OF JAPAN《西洋との出会い・キリシタン絵画と南蛮屏風》(国立国際美術館・1986)』所収「作品解説5」)

【 大正時代の中頃に、越前北ノ庄(福井)の代々医者であった旧家の土蔵に塗りこめられた竹筒の中から発見された。わずかに顔を傾けてキリストの受難の悲しみに耐えるマリアの容貌と心情が、丁寧な肉付けと陰影によって的確に表現されている。十六世紀中頃の南欧の作品といわれるが、当時舶載された作品の中ではもっとも優れたものの一つである。 】
(『THE NANBAN ART OF JAPAN《西洋との出会い・キリシタン絵画と南蛮屏風》(国立国際美術館・1986)』所収「作品解説5」)

https://ameblo.jp/ukon-takayama/entry-12274893596.html

【●この「 悲しみのマリア 」画像は、越前・ 福井の医師の家に代々、伝来されたもので、
100年ほど前の大正時代に、奥田家の土壁から、竹筒に入った状態で発見され、→林若吉 →池長孟(はじめ)→北村芳郎(南蛮文化館)の所蔵となったのでした。
 江戸時代の初めに、福井の町に、「 奥田無清(むせい)」という 医者がいました。隠れキリシタンで、1643年に捕まって江戸に送られ、福井藩の江戸屋敷で刑死したか、拷問で亡くなりました。殉教されました。
●奥田家から見つかった物は、この悲しみのマリア」 画像だけではありません。以下の、多くの貴重な キリシタン遺物も見つかっていますが、( 仏壇の裏に 隠されていました。)
 
 それらは、池長孟コレクション→神戸市立博物館 に寄贈され、所蔵されています。

・「教会祝日暦 」フランドル( 現ベルギー)製銅版画12枚の小型銅版カレンダーを貼り合わせた、貴重な逸品。
・ 鞭打ちのキリスト図 聖牌
・ 十字架を担うキリスト図 聖牌
・ 磔刑のキリスト図 聖牌
・ 聖フランチェスコ像 聖牌
・ 蒔絵螺鈿 松字朝顔文小箱
・ 手帖
・ 金属製 箱
・ メダル 及び 聖牌 17種   】

https://emuseum.nich.go.jp/detail?langId=ja&webView=&content_base_id=100428&content_part_id=0&content_pict_id=0

【(指定名称)長崎奉行所キリシタン関係資料 東京国立博物館 C-589ほか

東京国立博物館が所蔵するキリシタン関係資料は、絵画、彫像、メダイ、十字架、ロザリオ、踏絵などであり、その中心をなすのは、長崎奉行所による信徒からの没収品で、由緒がはっきりしている点が特徴である。
これらの資料については、明治7年(1874)、維新後に資料を引き継いだ長崎県が、踏絵を購入したいという外国人の要望に対し、その処置に困り、一括して当時の教部省に引き取ってもらったことが知られている。その後、内務省社寺局の所轄になり、同省博物局所属博物館(東京国立博物館の前身)が引き継いだものである。
 絵画のうち、「三聖人像」は、大型の布製の油絵である。キリスト教の宣教師たちはこうした絵画を携えて来日したが、長旅と保存上の理由から、大型のものは少なく、大半は小型の銅板に描かれた油彩画であったと思われる。そのなかで、「親指のマリア」は、宝永5年(1708)に屋久島に潜入して捕らえられたイタリア人宣教師ジョワンニ・シドッチ(1667~1714)が所持していた聖母像と伝え、衣服から親指が少し見えているところからこの名称がある。
 彫像には、鉛製のキリスト像や、鮑貝製の浮き彫りキリスト像などがみられるが、「白磁観音菩薩像」(マリア観音)は、中国・福建省の徳化窯(とっかかま)でつくられた白磁製の観音像で、キリシタン取締りのさなか、信徒は観音像を聖母マリアに見たてて密かに崇敬していた。ほとんどが安政3年(1855)の浦上三番崩れで、長崎奉行所によって没収されたもので、もとの所蔵者の判明するものが少なくない。
 慶応元年(1865)、開国後の長崎に来たパリ外国宣教会のプチジャン神父は、布教のために十字架・メダイ・ロザリオを携行し、浦上の信徒に与えたが、慶応3年の浦上四番崩れで、その多くが没収されている。また、京都府下の福知山で発見されたメダイやロザリオ残欠なども遺品に含まれている。
 踏絵は、信徒判別のために寛永の初め頃ら実施されたといわれており、はじめは聖画を使用したが、損耗が激しく、数も不足したので、信徒から没収した「銅牌」を厚板にはめこんで踏絵に用いたのが「板踏絵」である。長崎奉行所が寛文2年(1669)に鋳物師(いもじ)の荻原(はぎわら)祐佐らに命じて制作したという真鍮製の踏絵は19枚が現存する。 】

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