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川原慶賀の世界(その七) [川原慶賀の世界]

(その七)「人の一生」(プロムホフ・フイッセル・シーボルト:コレクション)周辺

プロムホフ・シーボルトコレクション《人の一生》「誕生」.png
左図:プロムホフ・コレクション≪人の一生≫「誕生」(「人の一生画巻」・川原慶賀筆)
右図:シーボルト・コレクション≪人の一生≫「誕生」(シーボルトコレクションの《人の一生》は唯一23場面が全て揃っている。そのトップの場面。但し、「慶賀」の落款無。「川原慶賀筆?」)

フイッセル・シーボルトコレクション《人の一生》「寺院での葬式」.png
左図:フイッセル・コレクション≪人の一生≫「寺院での葬式」(「慶賀」の落款有。「川原慶賀筆」。23場面のうち「誕生」が欠落している。)
右図:シーボルト・コレクション≪人の一生≫「葬列の迎え」(シーボルトコレクションの《人の一生》23場面の22番目の場面。「慶賀」の落款無。「川原慶賀筆?」)

 上記の「左図」(プロムホフ・コレクション≪人の一生≫「誕生」)と「右図」(シーボルト・コレクション≪人の一生≫「誕生」)とを比較して鑑賞すると、「左図」は「着帯」の場面で、「右図」は「産湯と着帯」との場面で、これは、左の家では「産湯」、そして、隣の右の家では「着帯」の場面と、そのアレンジの妙が伝わってくる。
 次の「左図」(フイッセル・コレクション≪人の一生≫「寺院での葬式」)に対して、「右図」(シーボルト・コレクション≪人の一生≫「葬列の迎え」)の場面で、同じ、寺院のスナップなのだが、この「右図」の、中央の「位牌」の「戒名」が「酔酒玄吐……居士」などと書いてあり、「慶賀(慶賀工房)」の「洒落・遊びの精神」が随所に見受けられる(『川原慶賀展―幕末の『日本』を伝えるシーボルトの絵師(「主要作品解説」)』・西武美術館刊)とか、この種の≪人の一生≫ものでは、下記の「④シーボルト・コレクション《人の一生》(以下、《人の一生》④)→「慶賀」の落款無」が、一番妙味があるような趣である。

 ここで、「川原慶賀・川原慶賀工房」作とされている「人の一生」と題するシリーズものは、「プロムホフ・フイッセル・シーボルト」の各コレクションが、ライデン国立民族学博物館所蔵となっている。
 そして、『「出島絵師」川原慶賀による《人の一生》の制作―野藤妙・宮崎克則(西南学院大学国際文化学部)』(九州大学総合研究博物館研究報告 Bull. Kyushu Univ. MuseumNo. 12, 1-20, 2014)では、さらに、「フイッセル・コレクション」は全部で三種類、蒐集者不明のもの一種類で、合計して六種類(プロムホフ・コレクションは「画巻」、その他「めくり」)のものを取り上げ(プロムホフ・コレクションの「画巻」は補足)、下記の「①フィッセル・コレクション《人の一生》(以下、《人の一生》①)→「慶賀」の落款有」のみ、「川原慶賀筆」としている。そして、補足的に「プロムホフ・コレクションの『画巻』」を取り上げ、これも「川原慶賀筆」としている。
 その上で、唯一23場面が全て揃っている「④シーボルト・コレクション《人の一生》(以下、《人の一生》④)→「慶賀」の落款無」と「①フィッセル・コレクション《人の一生》(以下、《人の一生》①)→「慶賀」の落款有」とを基準として、「人の一生」シリーズの全場面について、詳細な論及をしている。

①フィッセル・コレクション《人の一生》(以下、《人の一生》①)→「慶賀」の落款有
②フィッセル・コレクション《人の一生》(以下、《人の一生》②)→「慶賀」の落款無
③フィッセル・コレクション《人の一生》(以下、《人の一生》③)→「慶賀」の落款無
④シーボルト・コレクション《人の一生》(以下、《人の一生》④)→「慶賀」の落款無
⑤収集者不明《人の一生》(以下、《人の一生》⑤)→「慶賀」の落款無

(参考)『「出島絵師」川原慶賀による《人の一生》の制作―野藤妙・宮崎克則(西南学院大学国際文化学部)』(九州大学総合研究博物館研究報告 Bull. Kyushu Univ. MuseumNo. 12, 1-20, 2014)所収「巻末図《人の一生》①(フィッセル・コレクション、その(1)のみシーボルト・コレクション、ライデン国立民族学博物館所蔵)」周辺

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-06-22

(上記のアドレスの記述を一部改変している。)

(1)誕生.jpg
(1)誕生 ④シーボルト・コレクション《人の一生》(以下、《人の一生》④)→「慶賀」の落款無)→ 「慶賀」筆(?)

洗礼・命名.jpg
(2)洗礼・命名(略) 以下、「(3)洗礼・命名)~(23)墓参り」は、①フィッセル・コレクション《人の一生》(以下、《人の一生》)→「慶賀」の落款有。「慶賀」筆。

(3)洗礼・命名(略) 
(4)子どもの衣装替え(略) 
(5)男性の宿命(略) 
(6)交際(略)

(9)花嫁の贈り物.jpg
(9)花嫁の贈り物 
(7)結婚の準備(略)
(8)両親の同意(略)

(10)結婚の行列.jpg
(10)結婚の行列
(11)祝宴の準備(略)
(12)結婚式(略) 
(13)両親への敬意 
(14)病気と老齢

(15)死去.jpg
(15)死去
(16)湯灌(略)
(17)葬式の注文(略)
(18)墓掘(略)
(19)忌中の家の浄化(略)

(20)葬式.jpg
(20)葬式
(21)聖職者による埋葬と祈り(略)
(22)寺院での葬式(略)
(23)墓参り(略)

 上記の全図などは、『「出島絵師」川原慶賀による《人の一生》の制作―野藤妙・宮崎克則(西南学院大学国際文化学部)』(九州大学総合研究博物館研究報告 Bull. Kyushu Univ. MuseumNo. 12, 1-20, 2014)所収「巻末図《人の一生》①(フィッセル・コレクション、(1)のみシーボルト・コレクション、ライデン国立民族学博物館所蔵)」→ 下記論稿の「2. 5セットの《人の一生》(一部抜粋)」に詳述されている。
↑ 
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-06-22

≪『「出島絵師」川原慶賀による《人の一生》の制作―野藤妙・宮崎克則(西南学院大学国際文化学部)』(九州大学総合研究博物館研究報告 Bull. Kyushu Univ. MuseumNo. 12, 1-20, 2014)

はじめに(抜粋)

 本稿は、川原慶賀(1786?-1860?)が描いたとされる《人の一生》に注目し、絵の制作過程について検討したものである。
 川原慶賀、通称登与助は江戸時代後期の長崎の絵師である。正確な生没年は不明であるが、遺された作品から1786年生まれとされている。「出島出入絵師」または「出島絵師」として出島に出入りし、来日したオランダ商館員の求めに応じて日本のひと動植物や風俗、風景を描いた。
 出島に出入りし始めた時期や経緯については判明していないが、少なくとも文化年間には出島に出入りしていたと考えられる。慶賀の絵を収集したオランダ商館員としては、商館長ブロムホフ(Jan Cock Blomhoff: 1779-1853 来日1809-1813, 1817-1823)、商館員フィッセル(Johan Frederik van Overmeer Fisscher: 1800-1848 来日1820-1829)、商館医シーボルト(PhilippFranz von Siebold:1796-1866 来日1823-1830)が知られている。
 慶賀の絵とされている絵の多くは、オランダ商館員によって持ち帰られたため、海外に現存する点数は数百点にものぼり、主にオランダやドイツ、ロシアに所蔵されている。慶賀作とされている絵の中には慶賀一人で制作したとは考えがたい絵も含まれており、先行研究においても山梨絵美子氏、原田博二氏、永松実氏によって慶賀の手によるものと他の絵師のものがあることが言及されている。特に、本稿で検討課題とした《人の一生》については、原田博二氏によってライデン国立民族学博物館と長崎歴史文化博物館所蔵、さらに個人蔵のものについて詳細な検討がなされており、複数人の分業により制作した、とされている。
 また、山梨絵美子氏はサンクトペテルブルクにあるクンストカーメラに所蔵されている《人の一生》について検討しており、慶賀の弟子のものではないか、と述べている。しかし、これまでの研究では、具体的にどのような方法で他の絵師と絵を制作していたのか、ということについてわかっていない。
そこでフィッセルやシーボルトらによって収集された5セットの《人の一生》の作品群に注目し、慶賀がその他の絵師とどのようにして作品を制作していたのかについて検討を行う。

1. 背景           (略)
2. 5セットの《人の一生》  (一部抜粋) 

①フィッセル・コレクション《人の一生》(以下、《人の一生》①とする)→「慶賀」の落款有

所蔵先・収集者
 フィッセルによって収集された《人の一生》は3セットあると言われている。そのうちの1セットはその他のフィッセルのコレクションとともに1832年、オランダ国王ウィレム1世によって購入され、現在はライデン国立民族学博物館に所蔵されている。

サイズ・材質
 めくりで、サイズは1点1点異なるが、たとえば「死去」の場面のタテ×ヨコは30.4cm×44.5cmであり、その他の21点もほぼ同一サイズである。フィッセルコレクションの《人の一生》は全て絹に描かれている。

制作年
 フィッセルの日本滞在時期から1820年から1829年の間に描かれたと考えられる。ただし、前述の日本収集品目録の序文には、「1822年に行われた皇帝の都への参府(※筆者注:江戸参府)と、とくに大変重要な地位にいて、しかも教養のある数人の日本人との非常に親しい関係は、私にいろいろな品物の宝を集めるきっかけを与えてくれた。」11と述べていることから、収集された時期は1822から1829年の間である可能性が高い。

特色
 このフィッセル・コレクション《人の一生》①の最大の特徴は、唯一「慶賀」の落款が押されている点である。フィッセル・コレクションの《人の一生》のうち、ライデン国立民族学博物館にあることから、前述のフィッセル手書きの日本収集品目録に記述されている《人の一生》は、このセットを指すと考えられる。この《人の一生》には22場面が遺されているが、フィッセルの手書き目録には23場面の説明があることから、現在はない「誕生」の場面も、描かれた当時には存在していたことがわかる。さらに、黒枠が貼られていて確認できないものもあるが、このセットには漢数字で番号が記されており、その番号はフィッセルの目録における《人の一生》の1から23の番号と一致する。

②フィッセル・コレクション《人の一生》(以下、《人の一生》②)(略)→「慶賀」の落款無
③フィッセル・コレクション《人の一生》(以下、《人の一生》③)(略)→「慶賀」の落款無

④シーボルト・コレクション《人の一生》(以下、《人の一生》④)→「慶賀」の落款無

所蔵先・収集者
 ライデン国立民族学博物館には他にシーボルトによって収集された《人の一生》が所蔵されている。
 
形態・サイズ・材質
 めくりであり、「死去」の場面はタテ×ヨコ31.5cm×44.3cmの大きさで、この《人の一生》④のセットの他の作品もほぼ同じサイズで描かれている。絹本着色である。

制作年
 シーボルトの来日期間から、1823年から1829年の間に描かれたと考えられる。シーボルトは「私の日本滞在の最初の二、三年は自然科学関係のコレクションを収集することと、日本の文学を研究することだけに集中したが、その後、1826年の江戸参府のときに民族学的なものにも興味が移り、この分野の総合的なコレクションを開始した」と述べているため1826年以降に収した可能性もある。
 
特色
 シーボルトコレクションの《人の一生》は唯一23場面が全て揃っている。

⑤収集者不明《人の一生》(以下、《人の一生》⑤)(略)→「慶賀」の落款無

3. 《人の一生》の手本    (略)
4. 《人の一生》の制作    (一部抜粋)

ブロムホフ・コレクション《人の一生》「誕生」.jpg

ブロムホフ・コレクション《人の一生》「誕生」(ライデン国立民族学博物館所蔵)

 最後に補足として、もう一つの《人の一生》について言及しておきたい。フィッセルやシーボルトが《人の一生》を収集するよりも前にブロムホフは《人の一生》を収集している。ブロムホフが収集した《人の一生》の詳細については以下の通りである。

所蔵先・収集者
 ブロムホフによって収集された《人の一生》はライデン国立民族学博物館に所蔵されている。ブロムホフは第1回目の出島滞在時、慶賀の作品を1816年に創設された王立骨董陳列室に送っている。また、オランダ国王ウィレム1世はブロムホフ・コレクションを、1824年に購入している。そのいずれかの際にこの《人の一生》は王立骨董陳列室へ所蔵されることになったと考えられる。
 
形態・サイズ・材質
 現在は折本形式のアルバムに仕立て直されているが、元の形を復元すると、本来は絵巻であったことがわかる。アルバムの表紙のサイズはタテ×ヨコ29.5cm×41.0cmである。和紙に描かれており、洋紙で裏打ちされている。裏打ちの紙にはすかしがあり、オランダのHonig en Zoon社18の紙であることがわかる。この洋紙は出島のオランダ商館で使用されていた紙であるため、日本で仕立て直されたのではないか、との指摘がある19。アルバムの裏表紙内側にオランダ王室御用達の製本所のマークがあり、日本で裏打ちされたものをオランダで製本したと考えられる。
 
制作年
 ブロムホフの日本滞在時期から、1809年から1812年、1816年から1823年の間に制作されたと考えられる。
 
特色
 ブロムホフ・コレクションの《人の一生》には、各場面の説明が書かれたオランダ語のメモが貼り付けられている。ブロムホフ・コレクションには、その他にも大工の道具を描いたものや、オランダ商館員の行列、狩りの行列、寺社を描いたものがある。そのうち、職人の道具を描いた作品とオランダ商館員を描いた作品は、墨でオランダ語が書かれていることからも、ブロムホフの依頼によってオランダ通詞が作品にメモを書いていたのであろうと考えられる。また、それらの作品はいずれももともと絵巻であったものを折本へ仕立て直している。ヨーロッパの人びとにとっては、絵巻は見づらかったのであろう。

おわりに(抜粋)
 本稿における《人の一生》5セットの考察により、フィッセル・コレクションで慶賀の落款を持つセット(《人の一生》①)のみが慶賀の作品であり、それ以外のセット(《人の一生》②~⑤)は慶賀以外の絵師によって描かれたことが判明した。
 慶賀以外の絵師の存在に関しては、フィッセルが著書の中で「この芸術家がいかに器用で経験にとんでいるとしても、この仕事を単独でなしとげることは不可能である。そこでその目的のために、その家僕や弟子が使用される」と述べており、先行研究においてもすでに言及されている。しかし、具体的にどのようにして他の絵師と作品を制作していたのか、ということに関しては具体的に明らかではなかった。
 《人の一生》5セットを比較検討することで、今まで不明瞭であった慶賀とその他の絵師による制作が、雛形をトレースすることによって行われていたことが明らかとなった。さらに、それぞれのセットを別の絵師が担当していることから、少なくとも4人以上の絵師とともにこれらの作品を制作していたと言えよう。現在確認している慶賀の作品のうち、フィッセル・コレクションの作品の大半には慶賀の落款が押されている。
 一方、シーボルト・コレクションでは慶賀の落款が押されている作品のほとんどは、比較的大きい作品であり十数点程度である。またそれ以外ではコマロフ植物研究所にある植物図譜があげられる。慶賀による植物、動物図はシーボルトが出版した図鑑で活用されており、慶賀には精密に描くことが求められたと考えられる。一方、今回とりあげた《人の一生》のような風俗などを描いた作品を見ると、フィッセルのコレクションとの重複が目立ち、慶賀以外の絵師の作品と思われる作品が多い。
 シーボルトは日本の風俗を描いた作品に関して、フィッセルのコレクションを参考に慶賀に注文を行った。シーボルトより様々な作品の注文を受けた慶賀は、自分にしか描くことのできない植物や動物の絵は自分で描き、それ以外の、これまでの注文と重複する画題の絵は他の絵師に描かせたのであろう。そのようにして慶賀は、オランダ商館員の絵画需要を満たしていたのである。≫
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