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日本画と西洋画との邂逅(その十五) [日本画と西洋画]

(その十五)「南蛮(ポルトガル・スペイン)画」から「蘭(オランダ・阿蘭陀・紅毛)画」(「洋風画)、そして「長崎洋風画(若杉五十八・荒木如元・川原慶賀)」周辺など

リスボン・南蛮屏風.jpg

上図: 「狩野内膳筆(落款):南蛮屏風」(リスボン古美術館蔵)
下図: 「狩野道味筆(伝):南蛮屏風」(リスボン古美術館蔵)
紙、金箔、多色テンペラガ、シルク、ラッカー、銅金 178x 366.4 x 2 cm(1st)
出典:リスボン国立古美術館ホームページ
http://museudearteantiga.pt/collections/art-of-the-portuguese-discoveries/namban-folding-screens

https://museudearteantiga-pt.translate.goog/collections/art-of-the-portuguese-discoveries/namban-folding-screens?_x_tr_sch=http&_x_tr_sl=en&_x_tr_tl=ja&_x_tr_hl=ja&_x_tr_pto=sc

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-04-04

【 ポルトガルと日本の関係に関する重要な歴史的・芸術的文書は、長崎港にポルトガルの船が到着したことについて述べています。 スペースを別々のコンパートメントに分割するように設計されたスクリーンは、一般的に、紙で覆われ、薄いラッカーフレームに囲まれた可変数のヒンジ付き葉からなるペアで作られました。
 1543年に日本にポルトガル人が到着したことで、長崎港に南蛮人と呼ばれる南方の黒い船(南からの野蛮人)の到着によって生み出された好奇心とお祝いの雰囲気という2組のスクリーンに記録された商業文化交流が生まれました。
 現場の様々な参加者が描かれている偉大な詳細、船とその貴重な貨物の説明、そしてこの文脈で非常に重要なイエズス会の宣教師の存在は、これらの作品をポルトガルと日本の関係についてのユニークな歴史的、視覚的な文書にします。 】

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-04-15

洋人奏楽図屏風(右隻).jpg
洋人奏楽図屏風(左隻).jpg

上図:「洋人奏楽図屏風・右隻」(六曲一双・重要文化財・永青文庫蔵)各120・5×308・3
→ A-1図
下図:「洋人奏楽図屏風・左隻」(六曲一双・重要文化財・永青文庫蔵 各120・5×308・3
→ A-2図
https://www.eiseibunko.com/end_exhibition/2014.html

【 優美な西洋の貴族たちの語らいにこめられた教訓
 広く視界が開けた水辺の自然景のなかに美しい衣装をまとった西洋の貴族たちを描く。牧歌的な光景は金色の雲がつくりだす装飾的な効果とあいまって楽園のような雰囲気をかもし出す。右隻右側には、1588年に刊行されたマルタン・デ・フォス原画の銅版画集『孤独な生活の勝利』「隠者パテルヌス」から図像を借りた「愛の神殿」が見える。これや合奏する女性・休息する騎士たちを世俗の歓楽のシンボルとすると、デ・フォス原画の『キリストの血』から図像を借用した同左端の葡萄搾りの場面は「聖」を象徴すると読み取れ、聖俗の対比を通して教訓的なメッセージを示す手法がとられていると理解される。イエズス会セミナリヨで制作された洋風画の代表作の一つ。(鷲頭桂稿) 】
(『大航海時代の日本美術 Japanese art in the age of discoveries(九州国立博物館編)』)

洋人奏楽図屏風(MOA美術館蔵).jpg

上図:「洋人奏楽図屏風・右隻」(六曲一双・重要文化財・MOA美術館蔵)各93・1×302・4 → B-1図
下図:「洋人奏楽図屏風・左隻」(六曲一双・重要文化財・MOA美術館蔵 各93・1×302・4 → B-2図
https://www.moaart.or.jp/collections/039/

【 桃山時代、キリスト教の伝来とともに、当時宣教師たちによって運営されたコレジオやセミナリオなどの学校では、信徒子弟への体系的な教育が行われ、セミナリオでは絵画教育も行われていた。ヨーロッパ絵画の主題や技術が、主に聖画や銅版画を中心に教授されたらしく、この屏風も、キリスト教の布教効果をあげるべく、洋画教育を施された日本人によって描かれたものであろう。港の見える丘陵で音楽を楽しみ、読書や雑談をする洋人の光景を描いたもので、羊のいる樹木、愛の神殿、城郭などは、いずれも西洋中世銅版画に描かれた題材である。しかし、日本の顔料を胡桃(くるみ)油か荏油(じんゆ)に溶いて油絵の効果を出し、以前の日本画には見られない陰影のある立体表現など、外来技法習得の跡が見られ、日本絵画史上特異な画風として注目される。 】

泰西風俗図屏風(全福岡市美術館蔵).jpg

上図:「泰西風俗図屏風・右隻」(六曲一双・重要文化財・福岡市美術館蔵)各97×255
→ C-1図
下図:「泰西風俗図屏風・左隻」(六曲一双・重要文化財・福岡市美術館蔵 各97×255
→ C-2図
https://artsandculture.google.com/asset/genre-scenes-of-westerners-important-cultural-property-unknown/aQGHULD8orlPBQ?hl=ja

【 伝統的な日本の絵画に西洋的な陰影法や遠近法を導入した「近世初期洋風画」と呼ばれる絵画は、桃山時代にイエズス会がキリスト教の普及を目的として制作させたことに始まります。本図は、一見、西洋の風俗画のようでありながら、背後にはキリスト教的主題が隠されています。同時に、日本の伝統的な四季図屏風の形式を踏襲してもいます。向かって右隻には、楽器を演奏する婦人たちや水辺で憩う人物や釣り人を表わした、春から夏にかけての場面が描かれています。左隻では、聖母子を想わせる母と子の姿や収穫する人々、雪山を背に巡礼する人々を描いた、秋から冬の場面へと展開します。右隻には、享楽的に生きる人々を、左隻には、キリストの教えに則った敬虔な生き方をする人々を対比的に描いて、キリスト教の教えを説いた近世初期洋風画の代表的作例です。 】

泰西風俗図屏風(水車のある風俗図.jpg

「泰西風俗図屏風」(六曲一隻・個人蔵) 縦101.7 横262.2  → D図
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/566872

【 田園風景のなかに西洋風の人物を描く初期洋風画。技法的には、絵具の濃淡で立体感を表わし、樹木・人物には影を付け、全体的に輪郭線に頼らず、色面とハイライトでモチーフを描写するなど、17世紀のイエズス会による西洋絵画教育の影響をうかがわせる。本作品は、10件ほどしか現存しない大画面構成の初期洋風画屏風の一例で、そのなかでも特に優れた描写と良好な保存状態をもつ優品である。なかでも本図の画風は、黒田家旧蔵本(現・福岡市美術館本、重要文化財)に描写が酷似している。近世初期に来日したヨーロッパ人との交流を通して、日本で隆盛した「南蛮美術」の大作である。下村観山旧蔵品。 】

婦女弾琴図・jpg.jpg

「婦女弾琴図」(伝信方筆・一幅・大和文華館蔵)縦55.5 横37.3 → E図
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/43/fbb20be2bd40a863ef34d4dbf1532281.jpg

【 謎の画家「信方(のぶかた)」による初期洋風画の佳品
 手元に視線を落としながらヴィエラ・ダ・マノを弾く女性を描く。色の明暗とハイライトによって巧みに表現された緋色の衣のドレープも美しい。その姿は、小さくふっくらした唇や筋の通った鼻梁など顔貌的な特徴もふくめて「洋人奏楽図屏風」(A-1・2図)の女性像と似通う。そればかりか制昨年、制作地も隔たった「キリスト教説話図屏風」(下記・F図)にも、類型から派生したと思われる人物像が見出せる点は興味深い。本図左下にはヨーロッパの紋章に似た印章が押されている。それは信方と呼ばれる画家が用いたねので、初期洋風画の作品のなかで筆者を知る手がかりのある作品として極めて希少である。信方は「日蓮上人像」(兵庫・青蓮寺)などの仏教的主題も描いており、セミナリヨで学びながら後に棄教した人物とする説もある。(鷲頭桂稿) 】(『大航海時代の日本美術 Japanese art in the age of discoveries(九州国立博物館編)』)

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-05-31

西洋婦人図(伝平賀源内筆).jpg

「西洋婦人図(伝平賀源内筆)」一面 布地油彩 41.4×30.5 款記「源内(?)」 神戸市立博物館蔵
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/440276

【 平賀源内(1728~1779)は讃岐の志度に生れ、藩主松平頼恭に御薬坊主として仕えました。宝暦3年(1753)に遊学中の長崎から江戸に上り、田村元雄のもとで本草学を学ぶ。江戸でたびたび物産会や薬品会を開き、その成果を『物類品隲(ぶつるいひんしつ)』に著しました。石綿、火浣布(かかんぷ)、エレキテルなどをつくり、戯作(げさく)も表すなど、多方面に才能を発揮しました。本図は、安永2年(1773)に阿仁銅山検分のため秋田に赴き、小田野直武や佐竹曙山に洋風画法を伝え、洋風画の理論的指導者と評される源内唯一の油彩画として知られていますが、他に基準作がない源内の真筆とするには慎重な検討が必要です。
来歴:鹿田静七→池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館  】(「文化遺産オンライン」)

異国風景人物図(司馬江漢筆.jpg

「異国風景人物図(司馬江漢筆)」絹本油彩 各114.9×55.5 双幅 女性図 款記「江漢司馬峻写/Sibasun.」 男性図 款記「江漢司馬峻写/Eerste zonders/in Japan Ko:」 
https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/448780

【 司馬江漢(1747-1818)は自らの油彩画について「蝋画(ろうが)」と呼んでいました。その絵具の材料・製法は未詳ですが、油紙や笠などに使われる荏胡麻油を媒剤としたとも言われています。このような絵具は遅くとも十八世紀の前半には知られていて、宝暦7年(1757)年には長崎の絵師が大坂天満宮に油彩画を奉納しています。
 日本の油彩画に関しては、司馬江漢はパイオニアというわけではありませんでしたが、注目すべきは、ヨーロッパの人々が様々な労働にいそしむ姿を主題として扱ったことです。そのモチーフの手本となったのは1694年にアムステルダムで初版が出された『人間の職業』という挿絵本でした。挿図で示された百の職業を譬喩とする訓戒的な詩文集で、その扉絵と、船員の仕事を描いた挿図をもとにして、江漢はこの対幅の男女図を描きました。ヨーロッパ諸国が日本や中国より長い歴史を有し、様々な学問や技術、社会制度を充実させてきたと、江漢は自らの著書などで礼賛してきました。その先進文明を支えているのが、勤勉で有能な国民で、彼らを良き方向に導いてきたのが、『人間の職業』のような訓戒本だと主張しました。男性図に朱字で記された"Eerste Zonders in Japan Ko:"というオランダ語風の記述については「日本における最初のユニークな人物」と解釈されています。
来歴:松田敦朝(二代玄々堂)→吾妻健三郎→堤清六→1932池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館   】(「文化遺産データベース」)

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-06-17

「浅間山図」(亜欧堂田善筆 ).jpg

「浅間山図」(亜欧堂田善筆 ) 6曲1隻 紙本着色 150.0×338.6 江戸時代・19世紀
東京国立博物館蔵
https://emuseum.nich.go.jp/detail?langId=&content_base_id=101299&content_part_id=000&content_pict_id=000
【 亜欧堂田善(1748~1822)は江戸時代後期洋風画を代表する画家。遠近法や陰影表現を駆使した銅版画や、肉筆画を制作したことで知られる。
青い空を背景にして噴煙を上げる淡い褐色の浅間山。裾野には白い雲海が広がっている。画面右のなだらかな山には松が一本ぽつんと描かれ、左の斜面には木材が転がる。その奥からは、噴煙と対応するように煙があがり人の気配を感じさせるが、人物は見当たらず、静寂が画面を包む。油彩による独特の色彩や筆触によって、荒涼な浅間山の光景が描かれている。
本作品の構図は谷文晁『名山図譜』中の浅間山の図をもとに制作されたことで知られるが、さらに稿本が発見されたことにより、その制作過程も明らかとなっている。油彩によって大画面を創りあげる上での田善の創意工夫が見えるという点においても、本作品は非常に大きな意味を持つ。田善肉筆画の代表作というのみならず、江戸時代洋風画史上においても
重要な作品である。 】

谷文晁『名山図譜』・浅間山.gif

「日本名山図会. 天,地,人 / 谷文晁 画」中の「日本名山図会・人」p10「浅間山」≪早稲田大学図書館 (Waseda University Library)≫
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko30/bunko30_e0235/bunko30_e0235_0001/bunko30_e0235_0001.html

花籠と蝶図・花鳥の阿蘭陀風景図.jpg

「花篭と蝶図・花鳥の阿蘭陀風景図」≪若杉五十八筆 (1759-1805)≫ 江戸時代/18世紀初期〜19世紀初期 紙本著色 各134.6×57.5 2面 款記:「Wakasoegi/Jsovatie Je」「Wakasoegi Jsovatie」(花籠)「WAKASOEGIE./JSOVATIE.QUA.」(花鳥)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/377127
【 18世紀末以降、長崎では江戸の洋風画家たちに少し遅れて、西洋風の表現を手がかける人たちが出てきました。海外情報が蓄積されてオランダ趣味が流行しますが、肝心のオランダ船がナポレオン席巻のあおりで日本に来航できなくなり、日蘭交易が不調に陥っていた時期でした。出島のオランダ人、あるいは長崎奉行や蘭癖大名(オランダ趣味を好んだ大名)などからの西洋絵画の注文を、かわりに長崎の画家たちが応える状況が生まれていました。
若杉五十八(わかすぎいそはち、1759~1805)は、長崎奉行のもとで地役人を勤める家系に生れ、貿易の事務にあたる会所請払役を務めました。職業画家としての経歴は不詳ですが、優れた油彩画を遺したことで知られています。画面に無数の横シワが見られるように、元は軸装でしたが、20世紀に額装に変えられました。サインの字体は初々しく、落款の一部が「je(絵)」「QUA(画)」と日本語の音を欧字で表記するにとどまっていることなどから、初期の作品と推定されます。青色は輸入顔料のプルシアンブルー、緑もプルシアンブルーと黄色顔料で着色されています。五十八が、透明感のある明度の高い青い空を表現できたのは、まだ輸入量が少なく高価であった外国製の絵具を使用できる立場にあったためでしょう。
来歴:池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
参考文献:
・神戸市立博物館『まじわる文化 つなぐ歴史 むすぶ美―神戸市立博物館名品撰―』図録 2019
・神戸市立博物館特別展『コレクションの精華』図録 2008
・神戸市立博物館特別展『西洋の青』図録 2007
・勝盛典子「若杉五十八研究」(『神戸市立博物館研究紀要』第21号) 2005
・朽津信明「若杉五十八の昨比に用いられている顔料の特徴について-特に青色顔料の同定から―」(『神戸市立博物館研究紀要』第21号) 2005  】(「文化遺産オンライン」)

瀕海都城図.jpg

「瀕海都城図(ひんかいとじょうず)」≪荒木如元 (1765-1824)≫ 江戸時代/19世紀前半 布地油彩 8.8×58.8 1面 
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/443953
【 荒木如元(あらきじょげん)(1765~1824)はもと一瀬氏、通称は善十郎のちに善四郎といいました。唐絵目利・荒木元融(げんゆう)の跡を相続して荒木と改め、のち復帰して一瀬善四郎と称しました。役目で輸入鳥獣のスケッチも描いた時期があり、阿蘭陀通詞・吉雄耕牛(よしおこうぎゅう)の肖像や『蘭エン摘芳(らんえんてきほう、エンは「田」に「宛」)』の挿絵「阿郎烏烏当(オランウウタン)写真図」など、真に迫る的確な描写が同時代の長崎の画家の中では群を抜いています。『瓊浦画工伝』に「融思の硝子画法を偸み学び、専ら蛮画を巧にす」とあり、若杉五十八に少し遅れて本格的な洋風画やガラス絵を描きました。本図は、輸入のキャンバスと絵具を使用したと思われ、油彩画の技術も舶載の西洋画を思わせる完成度を示しています。落款はありませんが、基準作の「蘭人鷹狩図」(長崎歴史文化博物館)や「オランダ海港図」(大和文華館)と同質の筆致が見られ、如元の作品と認められます。
来歴:大阪青木大乗画伯→池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
参考文献:
・神戸市立博物館『まじわる文化 つなぐ歴史 むすぶ美―神戸市立博物館名品撰―』図録 2019
・神戸市立博物館特別展『コレクションの精華』図録 2008
・勝盛典子「若杉五十八研究」(『神戸市立博物館研究紀要』第21号) 2005 】(「文化遺産オンライン」)

https://yuagariart.com/uag/nagasaki11/

【 長崎洋風画の先駆者・若杉五十八と荒木如元
 キリスト教の禁止令とともに、西洋画もその弾圧の対象とされ、さまざまな制約が加えられるようになった。唯一の開港地だった長崎では、西洋や中国の文化が流入する得意な環境のもと、オランダ人やオランダ船などの西洋の風俗が描かれていたが、それは従来の日本画の手法によるものだった。これに対し、蘭学の流行とともに西洋の絵画を理論的に研究し制作しようとする気運が高まり、江戸では司馬江漢や亜欧堂田善らによって洋風画が描かれるようになった。
 長崎で洋風画が本格的になるのは、江戸より遅れて、寛政年間の若杉五十八(1759-1805)が初めであり、ついで文化年間の荒木如元(1765-1824)がそれを完成させた。五十八と如元の作品は、その多くがカンヴァス地に油彩で描いた本格的なもので、ときには輸入の油絵具を使うこともあった。彼らは、同時代の秋田や江戸の洋風画家たちがなしえなかった本場の洋画技法を用いていたが、西洋原画の模写と構成に終始し、題材や手法も洋画に酷似していることから、独自性に欠けていたともいえる。

若杉五十八(1759-1805)
 宝暦9年長崎生まれ。父は左斎といい鍼療を営む盲人だった。母は久留米藩用達の井上政右衛門の妹。師承関係は判明していないが、直接オランダ人に画法を学んだともいわれ、麻布油彩の本格的な西洋風俗画を描いた。唐絵目利の画家たちと違い、在野の画家だったため、画業を明らかにする資料は、遺作以外ほとんど残っていない。明和8年、その前年に従兄の若杉敬十郎が没したため、その後を受けて長崎会所請払役並となり、安永9年には、敬十郎の実子登兵衛が成人したのでこれに職を譲り、さらに会所請払役の久米豊三郎の養子となって再び会所請払役見習となり、のち寛政6年養父豊三郎の隠退とともに請払役に昇進した。文化2年、47歳で死去した。

荒木如元(1765-1824)

 明和2年生まれ。通称は善十郎、のちに善四郎、字は直忠。もと一瀬氏。唐絵目利の荒木元融に絵を学び、養子となって元融の跡を継いだが、短期間で辞職し再び一瀬氏に戻った。洋風画は、その表現から長崎系洋風画の先駆者・若杉五十八に洋画法を学んだと思われる。長崎系の中でも最も西洋画に近い作品を残した。文政7年、60歳で死去した。】(「UAG美術家研究所」)

「長崎湾の出島の風景」(川原慶賀).jpg
https://nordot.app/830971286696869888?c=174761113988793844

【 オランダのライデン国立民族学博物館(ウェイン・モデスト館長)は、江戸後期の長崎の絵師・川原慶賀の大作びょうぶ絵「長崎湾の出島の風景」について、2年以上に及ぶ修復作業が完了したと発表した。
 同作は八曲一隻で、縦約1.7メートル、横約4メートル。慶賀が1836年ごろ制作したとされ、長崎港を俯瞰(ふかん)して出島や新地、大浦などの風景が緻密に描かれている。現存する慶賀のびょうぶ絵としては同作が唯一という。
 オランダ国内で長年個人所有されていたものを、同館が2018年に購入。特に絵の周囲を縁取る部分などの損傷が激しく、京都の宇佐見修徳堂など日本の専門家も協力して修復を続けていた。
 修復過程では、絵の下地に貼られた古紙の調査なども実施。同館東アジアコレクションのダン・コック学芸員によると、中国船主の依頼書が目立ち、当時の船主の名前や印と共に、長崎の崇福寺へ団体で参拝に行く予定が書かれていた
 慶賀とその工房の独特な「裏彩色」の技法が同作でも確認されたという。絵の本紙の裏に色を塗る技法で、「こんなに大きな面積でも裏彩色を塗ったことは驚きだった」としている。
 修復したびょうぶ絵は9月末から同館で公開している。日本での公開の予定はまだないが、同館はウェブで同作を鑑賞できるサービス「出島エクスペリエンス」を開発。日本からもスマホやパソコンなどで無料で見られる。コック学芸員は「これからも研究を進めながら、新しい発見があれば出島エクスペリエンスに追加したりして、世界中にいる興味をお持ちの方に広くシェアしたい」と述べている。

 出島エクスペリエンスのアドレスは、https://deshima.volkenkunde.nl/     】

https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000001.000089675.html

「海外で注目される江戸時代の天才絵師・川原慶賀の唯一現存する屏風が2年の修復作業を終え、オランダ・ライデン国立民族学博物館で公開」

川原慶賀「洋人絵画鑑賞図」.jpg

川原慶賀「洋人絵画鑑賞図」
https://yuagariart.com/uag/nagasaki13/

【 「シーボルトのお抱え絵師・川原慶賀」
文政6年、オランダ東インド政庁の商館付医師として長崎出島に赴任したフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796-1866)は、日本の門人に西洋医学などを教授するとともに、日本に関する総合的な調査研究を行なった。当時「出島出入絵師」の権利を得て出島に出入していた町絵師・川原慶賀は、シーボルトにその画才を見出され、シーボルトが日本に滞在していた約6年間、お抱え絵師として日本の風俗や動植物の写生画を描いた。この間、シーボルトがジャワから呼び寄せたオランダ人画家フィレネーフェに洋画法を学んでいる。また、シーボルトの江戸参府にも随行し、日本の風景、風俗、諸職、生活用具、動植物などの写生図を描くなど、シーボルトの日本調査に協力した。多量の写生図はシーボルトにより持ち帰られ、オランダのライデン国立民族学博物館に伝わっている。

  川原慶賀(1786-不明)

 天明6年長崎今下町生まれ。通称は登与助、字は種美。別号に聴月楼主人がある。のちに田口に改姓した。父の川原香山に画の手ほどきを受け、のちに石崎融思に学んだとされる。 
 25歳頃には出島に自由に出入りできる権利を長崎奉行所から得て「出島出入絵師」として活動していたと思われる。文政6年に長崎にオランダ商館の医師として来日たシーボルトに画才を見出され、多くの写生画を描いた。文政11年のシーボルト事件の時にも連座していた。
また、天保13年にその作品が国禁にふれ、長崎から追放された。その後再び同地に戻り、75歳まで生存していたことはわかっている。画法は大和絵に遠近法あるいは明暗法といった洋画法を巧みに取り知れたもので、父香山とともに眼鏡絵的な写実画法を持っていた。来日画家デ・フィレニューフェの影響も受けたとみられる。

  川原慮谷(不明-1872)

 川原慶賀の子。通称は登七郎、字は張六。のちに姓を田中に改め、通称を富作とした。写生を得意とし、西洋画風を巧みに用いた。弘化の頃、今下町で長崎版画や銅版画を作って販売していたとみられる。明治5年死去した。

  田口慮慶(不明-不明)

 絵事をよくし、特に肖像画を得意とした。慶賀、慮谷の一族とみられる。  】(「UAG美術家研究所」)

長崎版画.jpg
長崎版画
https://yuagariart.com/uag/nagasaki17/

【  長崎版画と版下絵師
 長崎版画とは、江戸時代に長崎で制作された異国情緒あふれる版画のことで、主に旅人相手に土産物として売られた。長崎絵、長崎浮世絵などとも呼ばれている。同じころ江戸で盛んだった浮世絵が、役者、遊女、名所などを題材にしていたのに対し、当時外国への唯一の窓口だった長崎では、その特殊な土地柄を生かし、オランダ人、中国人、オランダ船、唐船など、異国情緒あふれる風物を主題とした。広義には、長崎や九州の地図も長崎版画に含まれる。
 現存する初期の長崎版画は、輪郭の部分を版木で黒摺りしてから筆で彩色したもので、その後、合羽摺といわれる型紙を用いた色彩法が用いられるようになった。長崎市内には、針屋、竹寿軒、豊嶋屋(のちに富嶋屋)、文錦堂、大和屋(文彩堂)、梅香堂など複数の版元があり、制作から販売までを一貫して手掛けていた。版画作品の多くに署名はなく、作者は定かではないものが多いが、洋風画の先駆者である荒木如元、出島を自由に出入りしていた町絵師・川原慶賀や、唐絵目利らが関わっていたと推測される。
 天保の初めころ、江戸の浮世絵師だった磯野文斎(不明-1857)が版元・大和屋に婿入りすると、長崎版画の世界は一変した。文斎は、当時の合羽摺を主とした長崎版画に、江戸錦絵風の多色摺の技術と洗練された画風をもたらし、長崎でも錦絵風の技術的にすぐれた版画が刊行されるようになった。大和屋は繁栄をみせるが、大和屋一家と文斎が連れてきた摺師の石上松五郎が幕末に相次いで死去し、大和屋は廃業に追い込まれた。
 江戸風の多色摺が流行するなか、文錦堂はそれ以降も主に合羽摺を用いて、最も多くの長崎版画を刊行した。文錦堂初代の松尾齢右衛門(不明-1809)は、ロシアのレザノフ来航の事件を題材に「ロシア船」を制作し、これは初めての報道性の高い版画と称されている。二代目の松尾俊平(1789-1859)が20歳前で文錦堂を継ぎ、父と同じ谷鵬、紫溟、紫雲、虎渓と号して自ら版下絵を手掛け、文錦堂の全盛期をつくった。三代目松尾林平(1821-1871)も早くから俊平を手伝ったが、時代の波に逆らえず、幕末に廃業したとみられる。
 幕末になって、文錦堂、大和屋が相次いで廃業に追い込まれるなか、唯一盛んに活動したのが梅香堂である。梅香堂の版元と版下絵師を兼任していた中村可敬(不明-不明)は、わずか10年ほどの活動期に約60点刊行したとされる。中村可敬は、同時代の南画家・中村陸舟(1820-1873)と同一人物ではないかという説もあるが、特定はされていない。

磯野文斎(不明-1857)〔版元・大和屋(文彩堂)〕
 江戸後期の浮世絵師。渓斎英泉の門人。江戸・長崎出身の両説がある。名は信春、通称は由平。文彩、文斎、文彩堂と号した。享和元年頃に創業した版元・大和屋の娘貞の婿養子となり、文政10年頃から安政4年まで大和屋の版下絵師兼版元としてつとめた。当時の合羽摺を主とした長崎版画の世界に、江戸錦絵風の多色摺りの技術と、洗練された画風をもたらした。また、江戸の浮世絵の画題である名所八景の長崎版である「長崎八景」を刊行した。過剰な異国情緒をおさえ、長崎の名所を情感豊かに表現し、判型も江戸の浮世絵を意識したものだった。安政4年死去した。

松尾齢右衛門(不明-1809)〔版元・文錦堂〕
 文錦堂初代版元。先祖は結城氏で、のちに松尾氏となった。寛政12年頃に文錦堂を創業し、北虎、谷鵬と号して自ら版下絵を描いた。唐蘭露船図や文化元年レザノフ使節渡来の際物絵、珍獣絵、長崎絵地図などユニークな合羽摺約130種を刊行した。文化6年、50歳くらいで死去した。

中村可敬(不明-不明)〔版元・梅香堂〕
 梅香堂の版元と版下絵師を兼務した。本名は利雄。陸舟とも号したという。梅香堂は、幕末に文錦堂、大和屋が相次いで廃業するなか、唯一盛んに活動し、わずか10年ほどの活動期に約60点刊行したとされる。中村可敬の詳細は明らかではないが、同時代の南画家・中村陸舟(1820-1873)は、諱が利雄であり、梅香の別号があることから、同一人物とする説もあるが、特定はされていない。 】(「UAG美術家研究所」)


(追記) 「『「出島絵師」川原慶賀による《人の一生》の制作 - 野藤妙・宮崎克則(西南学院大学国際文化学部)』(九州大学総合研究博物館研究報告 Bull. Kyushu Univ. Museum
No. 12, 1-20, 2014)

【  はじめに
本稿は、川原慶賀(1786?-1860?)が描いたとされる《人の一生》に注目し、絵の制作過程について検討したものである。
川原慶賀、通称登与助は江戸時代後期の長崎の絵師である。正確な生没年は不明であるが、遺された作品から1786年生まれとされている。「出島出入絵師」または「出島絵師」として出島に出入りし、来日したオランダ商館員の求めに応じて日本の動植物や風俗、風景を描いた。出島に出入りし始めた時期や経緯については判明していないが、少なくとも文化年間には出島に出入りしていたと考えられる。慶賀の絵を収集したオランダ商館員としては、商館長ブロムホフ(Jan Cock Blomhoff: 1779-1853 来日1809-1813, 1817-1823)、商館員フィッセル(Johan Frederik van Overmeer Fisscher: 1800-1848 来日1820-1829)、商館医シーボルト(PhilippFranz von Siebold:1796-1866 来日1823-1830)が知られている。慶賀の絵とされている絵の多くは、オランダ商館員によって持ち帰られたため、海外に現存する点数は数百点にものぼり、主にオランダやドイツ、ロシアに所蔵されている。慶賀作とされている絵の中には慶賀一人で制作したとは考えがたい絵も含まれており、先行研究においても山梨絵美子氏、原田博二氏、永松実氏3によって慶賀の手によるものと他の絵師のものがあることが言及されている。特に、本稿で検討課題とした《人の一生》については、原田博二氏によってライデン国立民族学博物館と長崎歴史文化博物館所蔵、さらに個人蔵のものについて詳細な検討がなされており、複数人の分業により制作した、とされている。また、山梨絵美子氏はサンクトペテルブルクにあるクンストカーメラに所蔵されている《人の一生》について検討しており、慶賀の弟子のものではないか、と述べている。しかし、これまでの研究では、具体的にどのような方法で他の絵師と絵を制作していたのか、ということについてわかっていない。そこでフィッセルやシーボルトらによって収集された5セットの《人の一生》の作品群に注目し、慶賀がその他の絵師とどのようにして作品を制作していたのかについて検討を行う。

1. 背景          (略)
2. 5セットの《人の一生》 (略) 
3. 《人の一生》の手本   (略)
4. 《人の一生》の制作   (略)

おわりに
 本稿における《人の一生》5セットの考察により、フィッセル・コレクションで慶賀の落款を持つセット(《人の一生》①)のみが慶賀の作品であり、それ以外のセット(《人の一生》②~⑤)は慶賀以外の絵師によって描かれたことが判明した。慶賀以外の絵師の存在に関
しては、フィッセルが著書の中で「この芸術家がいかに器用で経験にとんでいるとしても、この仕事を単独でなしとげることは不可能である。そこでその目的のために、その家僕や弟子が使用される」と述べており、先行研究においてもすでに言及されている。しかし、具体的にどのようにして他の絵師と作品を制作していたのか、ということに関しては具体的に明らかではなかった。《人の一生》5セットを比較検討することで、今まで不明瞭であった慶賀とその他の絵師による制作が、雛形をトレースすることによって行われていたことが明らかとなった。さらに、それぞれのセットを別の絵師が担当していることから、少なくとも4人以上の絵師とともにこれらの作品を制作していたと言えよう。現在確認している慶賀の作品のうち、フィッセル・コレクションの作品の大半には慶賀の落款が押されている。
 一方、シーボルト・コレクションでは慶賀の落款が押されている作品のほとんどは、比較的大きい作品であり十数点程度である。またそれ以外ではコマロフ植物研究所にある植物図譜があげられる。慶賀による植物、動物図はシーボルトが出版した図鑑で活用されており、慶賀には精密に描くことが求められたと考えられる。一方、今回とりあげた《人の一生》のような風俗などを描いた作品を見ると、フィッセルのコレクションとの重複が目立ち、慶賀以外の絵師の作品と思われる作品が多い。
 シーボルトは日本の風俗を描いた作品に関して、フィッセルのコレクションを参考に慶賀に注文を行った。シーボルトより様々な作品の注文を受けた慶賀は、自分にしか描くことのできない植物や動物の絵は自分で描き、それ以外の、これまでの注文と重複する画題の絵は他の絵師に描かせたのであろう。そのようにして慶賀は、オランダ商館員の絵画需要を満たしていたのである。

(1)誕生.jpg
(1)誕生
(2)洗礼・命名(略) (3)洗礼・命名(略)
(4)子どもの衣装替え(略) 
(5)男性の宿命(略)
(6)交際(略)

(9)花嫁の贈り物.jpg
(9)花嫁の贈り物
(7)結婚の準備(略) (8)両親の同意(略)

(10)結婚の行列.jpg
(10)結婚の行列
(11)祝宴の準備(略)(12)結婚式(略) (13)両親への敬意 (14)病気と老齢

(15)死去.jpg
(15)死去
(16)湯灌(略)(17)葬式の注文(略)(18)墓掘(略)(19)忌中の家の浄化(略)

(20)葬式.jpg
(20)葬式
(21)聖職者による埋葬と祈り(略)(22)寺院での葬式(略)(23)墓参り(略) 】
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