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川原慶賀の世界(その二十一) [川原慶賀の世界]

(その二十一)「川原慶賀の肖像画」周辺

「永島キク刀自絵像」(川原慶賀筆).jpg

「永島キク刀自絵像」(川原慶賀筆)長崎歴史文化博物館蔵(A図)
https://www.pref.nagasaki.jp/bunkadb/index.php/view/38
≪ 江戸時代後期に活躍した長崎の絵師・川原慶賀の筆による長崎の人・永島キクの肖像画。熊本藩士で国学者・歌人である中島広足(なかしまひろたり)(1792~1864)の賛。落款から慶賀75歳の時の作とわかるが、広足賛文の年記が萬延元年(1860)であるので、そこから慶賀の生年が天明6年(1786)であることも知ることができる。
慶賀の生年を知る唯一の資料とも言える。本図は長崎で「お絵像」と称される肖像画であるが、そのなかでも優品のひとつに数えられる。慶賀の絵画的特色は写実性にあるが、本図においてもそれを十分にうかがうことができる。賛文に「八十ぢにさへあまりぬるに、さらにおひおひしきけはひもなきは……」とあるが、慶賀は画像においてそれを見事に表現した。細やかな顔面描写による老女の似姿の生き生きとした表現、衣装の帯や襟の群青と襟元、袖口の朱の対比による若々しい雰囲気の描出などに、それを見ることができる。絹本着色。掛幅装。縦97.5cm、横37.3cm。≫(「長崎県の文化財」)

「荻生徂徠像」(川原慶賀筆/富田東火賛).jpg

「荻生徂徠像」(川原慶賀筆/富田東火賛)(「東京国立博物館」蔵)(B図)
材質・構造・技法:絹本着色 サイズ:108.0×39.4㎝
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0091605
https://history-g.com/jpn/images/view/568

≪ 荻生徂徠の肖像画(川原慶賀 画)
 江戸時代中期の儒学者、思想家、学者。本姓は物部氏、名は双松(なべまつ)、字は茂卿(しげのり)、通称は総右衛門、一般に知られる「徂徠」は号である。5代将軍・徳川綱吉の侍医・荻生方庵(景明)の子として江戸で誕生。幼少より学問に秀で、儒者の林春斎や林鳳岡に学んだ。14歳の時、父が将軍・綱吉の怒りを買い蟄居、一家で江戸から上総国長柄郡に移住し、徂徠はこの地で独学により学問に励んだ。のち、父の赦免にともない江戸へ戻り、5代将軍・綱吉の側用人である柳沢吉保に仕えた。吉保失脚後は日本橋茅場町に居住し、私塾「蘐園塾(けんえんじゅく)」を開き、多くの人材を育てた。8代将軍・徳川吉宗の政治的助言者としても活躍し、政治改革論『政談』を提出するなどしている。墓所は東京の港区にある長松寺。5代将軍・綱吉の時代に起きた「元禄赤穂事件」の際、徂徠が浪士たちの切腹論を主張したことは有名。また、落語や講談の演目で知られる『徂徠豆腐』は、将軍の御用学者へ出世した徂徠が、貧困時代の恩人である豆腐屋に「元禄赤穂事件」をきっかけに再会するというストーリー。≫

 下記のアドレスで、A図の「永島キク刀自絵像」(川原慶賀筆)」周辺のことについて、「個性がない個性こそ慶賀の武器」として、長崎の『お絵像さま』(肖像画の一種)の系列に連なる作品とし、次のように記述している。

http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken0611/index2.html

【 長崎の『お絵像さま』は、肖像画の一種で、しかも極めて私的な俗人の肖像画。平日は蔵の中に収めてあり、正月の七五三(旧暦)、2月の節分、3月の雛節句、5月の男節句、7月の盆祭、9月の諏訪祭礼(現在は10月だが長崎くんちの3ヶ日)に『お絵像さま』の掛け物をかけ、家内一同礼拝するのが通例で、その際、例えば正月であれば、膳や椀にはどれも家紋が描かれた屠蘇・雑煮・黒豆・数ノ子など、必ず行事毎にそった料理をお供えしていたという。旧家では、紋付の羽織を着け、『お絵像さま』の前で祝酒や祝膳の前に座って家族が楽しい食事をする、というように、元禄時代から明治初年頃まで長崎ではこの『お絵像さま』を中心にした先祖崇拝の形ができあがっていたという。
 慶賀の肖像画的作品は、昭和のはじめまで相当数残されていたが、戦災焼失したり、戦後の混乱で行方不明になったり、またはその性質上、個人宅に秘蔵されていたりしているため、実際に見る機会は少ないのが現状だ。町絵師であった慶賀にとって、この“お絵像”の注文が最も安定した収入源であったと考えられている。慶賀が描いた“お絵像”で最も特徴的なのは“顔面描写”。
また、慶賀の“お絵像”を含む肖像画的作品は、シーボルトのための仕事をした時期をはさんだ作品で、特徴が異なることから前期、後期に分けられている。
その特徴はというと、前期は像主に似せて描くという写実ではなく、像主の特徴を誇張して描くという点。そして後期は描線がほとんどなく、陰影のみで立体的に描出している点だ。この描法は、黄檗画からもたらされた立体表現法だそうで、慶賀の場合はそれよりもさらに一歩進んだ合理的な陰影法による真の洋画的技法なのだという。
 シーボルトの仕事を重ねることによってさらに綿密な観察眼と洋画的描写力に磨きをかけ、また、いかに像主に似せるかということに力を降り注いでいたようだ。その技法は、一定の枠にとらわれず自分が目指す写実に適したものは、新旧問わず自由に取り入れようとした姿勢に基づくもの。その作画態度と、それを可能にしたのはやはり、慶賀が“長崎”という自由の雰囲気のある土地で活動した画家だったからといわれている。唐絵目利という拘束に縛られることない町絵師・慶賀は、自由に、そして貪欲に多くの画法を取入れながら注文に応じて多様な作風の仕事をした。そして膨大な数の作品を後世に残したのだ。 】

 『シーボルトと町絵師慶賀(兼重護著)』では、「第七章 肖像画家川原慶賀」(お絵像さま/日本の肖像画/初期のお絵像/最後のお絵像/正統なお絵像様式/慶賀の肖像画/後期のお絵像/慶賀お絵像の独自性/崋山と慶賀/前期のお絵像/誇張的表現/多様な画法の試み)で、詳細に論じている。
上記の「永島キク刀自絵像(川原慶賀筆)・長崎歴史文化博物館」(A図)は、「慶賀の後期のお絵像」の代表的な作品で、その落款には、「七十五歳 種美写」(「種美」は「字(あざな)」)とあり、慶賀の万延元年(一八六〇)頃の七十五歳時の作品で、その生年が、天明六年(一七八六)と推定できる唯一の資料として貴重な作品ということになる。
 次の「荻生徂徠像(川原慶賀筆/富田東火賛・「東京国立博物館」蔵)」(B図)は、『シーボルトと町絵師慶賀(兼重護著)』では、紹介されていない。そして、「失われた慶賀作品」(P209)の中に、「9 物徂徠絵像 長崎熊本吉祥(旧蔵者)/紙本着彩・三尺一寸×一尺三寸(材質・法量)/富田東火賛・印「田口之印」「慶賀」(落款・印章)」と記述されている。
 この「法量」の「三尺一寸×一尺三寸」は、「東京国立博物館」蔵の「サイズ」の「108.0×39.4㎝」とほぼ一致し、「富田東火賛・印『田口之印』『慶賀』」も同一と思われ、
『シーボルトと町絵師慶賀(兼重護著)』所「失われた慶賀作品」の「9 物徂徠絵像」は、同一作品と解したい。
 「荻生徂徠像(川原慶賀筆/富田東火賛・「東京国立博物館」蔵)」(B図)を拡大すると、次のとおりである。

「荻生徂徠像(川原慶賀筆/富田東火賛・「東京国立博物館」蔵)(拡大図)」.jpg

「荻生徂徠像(川原慶賀筆/富田東火賛・「東京国立博物館」蔵)(拡大図)」(B-1図)
右下端の印章=「田口之印」「慶賀」(?)

 この「富田東火賛」の「富田東火」は不明であるが、「富田日岳(にちがく)=富田大鳳(たいほう)」(江戸時代中期-後期の儒者,医師。肥後熊本藩に仕え、父に医学と荻生徂徠の学をまなぶ。)に連なる一人のように思われる。

【富田大鳳(とみた たいほう)
 1762-1803 江戸時代中期-後期の儒者,医師。宝暦12年生まれ。富田春山の長男。肥後熊本藩につかえる。父に医学と荻生徂徠(おぎゅう-そらい)の学をまなぶ。寛政3年藩医学校の再春館師役。「大東敵愾(てきがい)忠義編」などをあらわし,幕末の肥後勤王党の成立に影響をあたえた。享和3年2月25日死去。42歳。字(あざな)は伯図。通称は大淵。号は日岳。 】(「デジタル版 日本人名大辞典」)

【再春館(さいしゅんかん)
 肥後の領主細川重賢は宝暦6年(1756年)に藩校時習館を創立した。すでに私塾(復陽堂)を持ち、細川重賢を治療し、信頼がある村井見朴(けんぼく)に対して、重賢は宝暦6年12月、医学寮を作ることを命令し、現在の熊本市二本木に宝暦7年(1757年)1月19日、再春館が発足した。見朴は筆頭教授。当時の校舎の図面が残されているが、多くの寮をもち、また講堂、植物園を備えている。宝暦6年12月21日付細川家文書が残っている。 】(「ウィキペディア」)

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1028372?tocOpened=1

『富田大鳳 (「国立国会図書館デジタルコレクション」)
標題
・目次
・第一章 緒論/1
・第二章 先生の祖先/3
・第一節 先生の家系/3
・第二節 祖父龍門先生/10
・第三節 嚴父春山先生/17  → (メモ・「大鳳」の父の「春山」)
・第三章 幼少時代の先生/27
・第一節 菊鹿の山川/27
・第二節 先生の誕生と天下の形勢/34
・(一) 先生の誕生/34
・(二) 天下の形勢/36
・第三節 家庭及び幼時/41
・第四章 修養時代の先生/45
・第一節 熊本轉居時代の先生/45
・第二節 津袋再住時代の先生/54
・第三節 熊本再出時代の先生/56
・第五章 再春館時代の先生/69  →(メモ・「大鳳」と「再春館」)
・第一節 再春館/69
・第二節 再春館出仕時代の先生/76
・(一) 再春館句讀師時代/76
・(二) 再春館師役並醫業吟味役兼帶時代/82
・第三節 富田塾の學風/93
・(一) 塾舍/93
・(二) 學風/95
・第六章 先生の性格/99
・第一節 先生の尊皇心/99
・第二節 先生の孝心/101
・第三節 先生の逸話/112
・第七章 先生の交友/121
・第一節 大鳳先生と高山彦九郎/121 →(メモ・「大鳳と高山彦九郎」)
・第二節 熊本の知巳/139
・(一) 有馬白嶼/140
・(二) 葛西一詮/153
・(三) 齋藤芝山/155
・(四) 境野凌雲/163
・(五) 本田四明/166
・(附記)高本紫溟/168
・第三節 菊鹿の知己/178
・(一) 友人/178
・(1) 山崎文林/178
・(2) 田中清湲/182
・(3) 富田松齋/183
・(4) 西島某郷吏/184
・(5) 長野淳庵/185
・(6) 志賀親信/185
・(二) 門人/186
・(1) 池邊太璞/187
・(2) 石淵含章/189
・(3) 島克/191
・(4) 木庭君山/192
・(5) 長野仲英及大受/195
・(6) 岐部珀菴/198
・(7) 甲斐民淳/198
・(8) 其他の門人/199
・第八章 先生の山水癖/200
・第一節 旅行と詩賦/200
・第二節 東遊雜感/209
・第九章 終焉及び子孫/218 →(メモ・「大鳳の死と嫡男・文山」と「文山の継受者」
・第一節 先生の終焉/218
・第二節 先生の子孫/224
・第三節 御贈位の光榮/235
・第十章 先生の思想/237
・第一節 哲學思想/237
・第二節 勤王思想/244
・第三節 文學思想/250
・第四節 醫學思想/260
・第十一章 結論/266
・附録(1) 龍門先生詩抄/271
・附録(2) 春山先生詩抄/276
・附録(3) 日岳先生詩抄/284
・附録(4) 文山先生詩抄/299
・附録(5) 大東敵愾忠義編抄/301
・附録(6) 富田氏系圖/323
・附録(7) 大鳳先生關係年表/後表  』

 ここで、翻って、「荻生徂徠像(川原慶賀筆/富田東火賛・「東京国立博物館」蔵)」(「B図」「B-1図」)の制作時期は、「富田日岳(にちがく)=富田大鳳(たいほう)」が亡くなった「享和三年(一八〇三)」(慶賀=十七歳前後)の、いわゆる、「慶賀前期(初期)の肖像画(お絵像様)」ではなく、「永島キク刀自絵像(川原慶賀筆)・長崎歴史文化博物館」(A図)と、同時代の、「慶賀の後期のお絵像」の、その代表的な作品の「永島キク刀自絵像」に匹敵する作品と解したい。
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