SSブログ

川原慶賀の世界(その二十二) [川原慶賀の世界]

(その二十二)「川原慶賀の花鳥図」周辺

花鳥図.jpg

●作品名:花鳥図 ●Title:Flowers and Birds
●分類/classification:花鳥画/Still Lifes
●形状・形態/form:紙本彩色、軸/painting on paper,hanging scroll
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

石榴と果物図.jpg

●作品名:石榴と果物図 ●Title:Pomegranate and fruit
●分類/classification:花鳥画/Still lifes
●形状・形態/form:絹本彩色、軸/painting on silk,hanging scroll
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

 これらの、川原慶賀の「花鳥画」は、いわゆる、「南蘋派」そして「洋風画にも通じた唐絵目利・石崎融思と長崎派」の系統に属する世界のものであろう。
 なかでも、石崎融思と慶賀と関係というのは、そのスタートの時点(文化八年(1811年)頃)、当時の長崎で絵師の第一人者として活躍していた石崎融思に師事し、爾来、弘化三年(一八四六)、融思(七十九歳、慶賀より十八歳年長)の、融思が亡くなる年の、その遺作ともいうべき、「観音寺天井画」(野母崎町観音寺)の、石崎一族の総力を挙げてのプロジェクト(一五〇枚の花卉図、うち四枚が慶賀画)にも、慶賀の名を遺している。

花鳥動物図.jpg

「花鳥動物図」沈南蘋筆/清時代・乾隆15年(1750)/北三井家旧蔵
https://www.mitsuipr.com/history/columns/046/

【 南蘋派の開祖・熊斐と南蘋派の画人 

https://yuagariart.com/uag/nagasaki10/

 南蘋派は、清から渡来した沈南蘋によって伝えられた画風で、緻密な写生と鮮やかな彩色が特徴である。沈南蘋は、享保16年に渡来して18年まで長崎に滞在しており、この間に、中国語の通訳である唐通事をしていた熊代熊斐(1712-1772)に画法が伝授された。南蘋に直接師事した日本人は熊斐ただひとりであり、熊斐の元には多くの門人が集まり、その中からは鶴亭、森蘭斎、宋紫石らが出て、南蘋の画法は全国に広まっていった。熊斐の作画活動については、唐絵目利などの本業ではなかったこともあり不明な点が多い。

熊代熊斐(1712-1772)(くましろ・ゆうひ)
 正徳2年生まれ。神代甚左衛門。長崎の人。唐通事。はじめ神代で、のちに熊代に改姓した。名は斐、字は淇瞻、通称は彦之進、のちに甚左衛門。号は繍江。はじめ唐絵目利の渡辺家に画を学び、享保17年に官許を得て清の画家・沈南蘋に師事した。享保18年の南蘋帰国後は、享保20年に来日した高乾に3年間師事したという。南蘋に師事したのは9ケ月のみだったが、南蘋に直接師事したのは熊斐だけであり、熊斐を通じて南蘋の画風は全国にひろまっていった。官職としては、元文4年に養父の神代久右衛門(白石窓雲)の跡を継ぎ内通事小頭となり、明和3年に稽古通事となった。安永元年、61歳で死去した。 

沈南蘋(1682-不明)(しん・なんぴん)
 清の浙江省呉興の人。名は銓、字は衡斎。師の胡湄は明の呂紀風の花鳥画をよくしたという。享保16年に高乾、高鈞らの門弟とともに長崎に渡来した。将軍徳川吉宗が唐絵の持込みを命じたことによるという。長崎に享保18年まで留まり、熊斐に画法を授けた。熊斐を通じて伝わった南蘋の画風はその後の日本絵画に大きな影響を与えた。帰国後は浙江・江蘇省地方を中心に活動したが、求めに応じて日本へ作品を送っていたという。

高乾(不明-不明)・鄭培(不明-不明)・高鈞(不明-不明)→ (略)

宋紫石(1715-1786)(そう・しせき)
 正徳5年生まれ。江戸の人。本名は楠本幸八郎。字は君赫、霞亭。別号に雪溪、雪湖、霞亭、宋岳などがある。長崎に遊学して熊斐に学び、また清の宋紫岩にも師事した。宋紫岩に学んだことから宋紫石と名乗った。江戸で南蘋風をひろめた。平賀源内とも交友があり、司馬江漢にも画法を伝えた。南蘋派で最も洋風画に接近した画風で、余白を多くとり軽く明るい画面を生み出した。天明6年、75歳で死去した。

鶴亭(1722-1785)(かくてい)
 享保2年生まれ。長崎の人。黄檗僧海眼浄光。名ははじめ浄博、のちに浄光、字ははじめ恵達、のちに海眼。別号に如是、五字庵、南窓翁、墨翁、壽米翁、白羊山人などがある。長崎の聖福寺で嗣法するが、延享3、4年頃還俗して上方に移住した。長崎で熊斐に学び、上方に南蘋風を伝えた。木村蒹葭堂、柳沢淇園らと交友した。明和3年頃に再び僧に戻り、黄檗僧になってからは主に水墨画を描いた。天明5年、江戸において64歳で死去した。

黒川亀玉(初代)(1732-1756)・真村蘆江(1755-1795)・大友月湖(不明-不明)・熊斐明(1752-1815)・諸葛監(1717-1790)・松林山人(不明-1792)→ 略

宋紫山(1733-1805)(そう・しざん)
 享保18年生まれ。宋紫石の子。尾張藩御用絵師。名は白奎、字は君錫、苔溪とも称した。父の画法に忠実に従った。文化2年、73歳で死去した。

藤田錦江(不明-1773)・森蘭斎(1740-1801)・董九如(1745-1802)・勝野范古(不明-1758)・宋紫崗(1781-1850)・洞楊谷(1760-1801)・福田錦江(1794-1874)・鏑木梅溪(1750-1803)→ 略  】

「花鳥図」石崎融思.jpg

「花鳥図」石崎融思筆/ 絹本着色(「ウィキペディア」)

【 洋風画にも通じた唐絵目利・石崎融思と長崎の洋風画家

https://yuagariart.com/uag/nagasaki12/

 長崎に入ってきた絵画の制作年代や真贋などを判定、さらにその画法を修得することを主な職務とした唐絵目利は、渡辺家、石崎家、広渡家の3家が世襲制でその職務についていた。享保19年には荒木家が加わり4家となったが、その頃には、長崎でも洋風画に対する関心が高まっており、荒木家は唐絵のほかに洋風画にも関係したようで、荒木家から洋風画の先駆的役割を果たした荒木如元と、西洋画のほか南画や浮世絵にも通じて長崎画壇の大御所的存在となる石崎融思が出た。融思の門人は300余人といわれ、のちに幕末の長崎三筆と称された鉄翁祖門、木下逸雲、三浦梧門も融思のもとで学んでいる。ほかの洋風画家としては、原南嶺斎、西苦楽、城義隣、梅香堂可敬、玉木鶴亭、川原香山、川原慶賀らがいる。

石崎融思(1768-1846)
 明和5年生まれ。唐絵目利。幼名は慶太郎、通称は融思、字は士斉。凰嶺と号し、のちに放齢と改めた。居号に鶴鳴堂・薛蘿館・梅竹園などがある。西洋絵画輸入に関係して増員 されたと思われる唐絵目利荒木家の二代目荒木元融の子であるが、唐絵の師・石崎元徳の跡を継いで石崎を名乗った。父元融から西洋画も学んでおり、南蘋画、文人画、浮世絵にも通じ長崎画壇の大御所的存在だった。その門人300余人と伝えている。川原慶賀やその父香山とも親しかったが、荒木家を継いだ如元との関係はあまりよくなかったようである。弘化3年、79歳で死去した。

原南嶺斎(1771-1836)
 明和8年生まれ。諱は治堅。別号に南嶺、南嶺堂などがある。河村若芝系の画人で河村姓を名乗ったこともある。唐絵の師は山本若麟あたりだと思われる。自ら蛮画師と称していたほど油彩画も得意とした。天保7年、66歳で死去した。

西苦楽(不明-不明)
 経歴は不詳。原南嶺斎らと同時代の人と思われる。作品「紅毛覗操眼鏡図」が残っており、西肥崎陽東古河町住西苦楽という落款が入っている。

城義隣(1784-不明)
 天明4年生まれ。経歴は不詳。君路と刻んだ印が残っており字と思われる。絵事を好み、唐絵、油絵、泥絵などを手掛けた。他地方で泥絵が発見されたため、泥絵作家として知られているが、泥絵の作品は必ずしも多くはない。大徳寺に天井画が残っている。

梅香堂可敬(不明-不明)
 絵事をよくし、唐人、紅毛人、丸山遊女、異国人、異国女などを描いている。肉筆も版画も残っており、長崎版画の中にも可敬の描いた画がある。『長崎系洋画』には「本名は中村利雄、陸舟とも号したと言ふ」とあるが真意は定かではない。

玉木鶴亭(1807-1879)
 文化4年生まれ。通称は官平、字は又新。別号に一源、九皐、錦江などがある。明治に入って、鶴亭を通称とした。幼いころから画を好み、北宗画にも、南宗画にも通じ、洋画も得意とした。代々西築町に住み、唐船掛宿筆者の役をつとめた。明治12年、73歳で死去した。  】
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。