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川原慶賀の世界(その二十三) [川原慶賀の世界]

(その二十三)「川原慶賀の唐蘭館絵巻(唐館図)」周辺

「唐蘭館絵巻(唐館図)・一 唐船入港図」.jpg
 
「唐蘭館絵巻(唐館図)・一 唐船入港図」(長崎歴史文化博物館蔵) 22.8×36.0㎝
『(全体:一~十) 紙本 着彩 27.5×569.5㎝ 一図ごとに黒線で枠取りした枠内に独立的に『一~十図』が描かれている。この『一 唐船入港図』は、そのトップで、唐船が停泊し、小舟が荷を運び出している図である。』(『シーボルトと町絵師慶賀(兼重護著)』p162-169)

「唐蘭館絵巻(唐館図)・二 荷揚水門図」.jpg

「唐蘭館絵巻(唐館図)・二 荷揚水門図」(長崎歴史文化博物館蔵) 22.8×36.0㎝
『荷揚げ水門に着いて、荷揚げをしている図。』

「唐蘭館絵巻(唐館図)・三 荷揚水門内部図」.jpg

「唐蘭館絵巻(唐館図)・三 荷揚水門内部図」(長崎歴史文化博物館蔵) 22.8×36.0㎝
『唐人館の水門の荷揚げを内部から見た図。』

「唐蘭館絵巻(唐館図)・四 唐人上陸道中画(一)」.jpg

「唐蘭館絵巻(唐館図)・四 唐人上陸道中画(一)」(長崎歴史文化博物館蔵) 
『荷揚げを運ぶ道中図で、この右側の二人連れが、唐人館の長とその従者である。』

「唐蘭館絵巻(唐館図)・四 唐人上陸道中画(二)」.jpg

「唐蘭館絵巻(唐館図)・四 唐人上陸道中画(二)」(長崎歴史文化博物館蔵)
『唐人上陸道中画(一と二)=27.0×88.0㎝(枠取りなし)』

「唐蘭館絵巻(唐館図)・五 唐館表門図」.jpg

「唐蘭館絵巻(唐館図)・五 唐館表門図」(長崎歴史文化博物館蔵)  22.8×35.5㎝
『唐館の表門の内側と外側(往来の様子)の図』

「唐蘭館絵巻(唐館図)・六 唐人部屋遊女遊興図」.jpg

「唐蘭館絵巻(唐館図)・六 唐人部屋遊女遊興図」(長崎歴史文化博物館蔵) 22.8×36.0㎝
『二階の続き部屋で、遊女たちと唐人が食卓を囲み、音楽を興じている。』

「唐蘭館絵巻(唐館図)・七 龍踊図」.jpg

「唐蘭館絵巻(唐館図)・七 龍踊図」(長崎歴史文化博物館蔵)  22.4×35.5㎝
『唐人屋敷内土神堂前広場の龍踊りの図』

「唐蘭館絵巻(唐館図)・八 観劇図」.jpg

「唐蘭館絵巻(唐館図)・八 観劇図」(長崎歴史文化博物館蔵)  22.3×35.8㎝
『唐人屋敷内の唐人踊りの様子。二階の部屋の観客席には招待された長崎奉行の役人など』

「唐蘭館絵巻(唐館図)・九 唐船出航図」.gif

「唐蘭館絵巻(唐館図)・九 唐船出航図」(長崎歴史文化博物館蔵)  21.9×35.8㎝
『唐船が引き舟によって港外に引かれてゆく図』

「唐蘭館絵巻(唐館図)・十 彩船流図」.gif

「唐蘭館絵巻(唐館図)・十 彩船流図」(長崎歴史文化博物館蔵)  22.1×35.4㎝
枠外左下隅に落款「種美」 白字半円印「慶賀」 朱字半円印「種美」
『長崎で客死した唐人の霊魂を祀る行事。長さ四間ほどの唐船を造り、唐館前の波止場から沖の白門に海上を運び焼く。その際、唐人踊りがあり、また、検使の役人が出役した。』

長崎版画「享和二年肥州長崎図」.png

長崎版画「享和二年肥州長崎図」(1802年)文錦堂版(長崎勝山町上ノ段)より
上図(黄色)→ 出島(阿蘭陀商会=蘭館)
下図(茶色)→ 唐人屋敷(唐館)

■唐人屋敷の歴史
 1635年(寛永12年)から中国貿易は長崎一港に制限されており、来航した唐人たちは長崎市中に散宿していましたが、貿易の制限に伴い密貿易の増加が問題となっていました。    
幕府はこの密貿易への対策として、 1688年(元禄元年)十善寺郷幕府御薬園の土地で唐人屋数の建設に着手し、翌16S9年(元禄2年)に完成しました。広さは約9.400坪、現在の館内町のほぼ全域に及びます。周囲を練塀で囲み、その外側に水堀あるいは空堀を、さらに外周には一定の空地を確保し、竹垣で囲いました。
 入口には門が二つあり、外側の大門の脇には番所が設けられ、無用の出入りを改めした。 二の門は役人であってもみだりに入ることは許されず、大門と二の門の間に乙名部屋、大小通事部屋などが置かれていました。内部には、長屋数十棟が建ち並んでいたといわれ、一度に2,000人前後の収容能力を持ち、それまで市中に雑居していた唐人たちはここに集め、居住させられました。
 長綺奉行所の支配下に置かれ、管理は町年寄以下の地役人によって行われていました。輸入貨物は日本側で預かり、唐人たちは厳重なチェックを受けた後、ほんの手回り品のみで入館させられ、帰港の日までここで生活していました。
 1784年(天明4年)の大火により関帝堂を残して全焼し、構造もかなり変わりましたが、この大火以後唐人自前の建築を許されるようになりました。重要文化財旧唐人屋敷門(現:興福寺境内所在)はこの大火の後に建てられた住宅門と思われます。
 鎖国期における唯―の海外貿易港であった長崎において、出島と共に海外交流の窓口と
して大きな役割を果たした唐人屋敷は、 1859年(安政6年)の開国後廃屋化じ、 1870年(明治3年)に焼失しました。。(「長崎奉行所の機能と出島(唐人屋敷)」)

■出島(阿蘭陀商館)の歴史
 出身は、ポルトガル人を管理する目的で、 1634年から21年の歳月をかけて、幕府が長崎の豪商(「出l島町人」と呼ばれる25人の町人)に命じて造らせたもので、ポルトガル人は、彼らに土地使用料として毎年80貫を支払うこととされていました。(オランダ人が借地するようになった後は55貫、現在の日本円で約二億円に引き下げられた。)
 1639年、幕府がキリスト教の布教と植民地化を避けるためにポルトガル人を固外追放したため、一時、出島は無人になりました。その後、出島築造の際に出資した人々の訴えにより、 l041年に平戸(ひらど、現在の平戸市)からオランダ東インド会社の商館が移され、武装と宗教活動を規制されたオランダ人が居住することになりました。 以後、約200年間、出島でオランダ人との交渉や監視がおこなわれました。(「長崎奉行所の機能と出島(唐人屋敷)」)

川原慶賀は、ともすると「シーボルトお抱え絵師」として、「出島(阿蘭陀商館)」関連の作品(主として「ライデン国立民族学博物館蔵」「アムステルダム市立公文書館蔵」「ファン・ストルク地図博物館蔵」「ロッテルダム海事博物館蔵」など )が強調されがちであるが、この「唐人屋敷(唐館)」関連の作品(「長崎歴史文化博物館蔵」など)は、それと並行して、「川原慶賀の世界」を知るための、重要なキィーワードの世界ということになる。
そして、この世界もまた、慶賀の師の「石崎融思」の世界とダブってくる。

「唐館蘭館図絵巻」.jpg

「唐館蘭館図絵巻」(Views of the Chinese and Dutch Factories in Nagasaki) 石崎融思筆
1801年(享和元年)
『 本絵巻は、明治時代に国外に流出したもので、唐館図の巻末にある落款「享和紀元歳融思画」から、その制作年が享和元年(1 8 0 1 )融思3 3歳のときと断定できる。その詳細な描写は、情報量の豊かさを示しており、注目に値する。全巻にわたって良質の絵の具でもって鮮やかに彩色し、少しの省略もなく細かい筆使いで丁寧に仕上げられている。なお本絵巻に描かれた出島は、寛政1 0 年(1 7 9 8 )3 月9 日大火後の間もない時期に描かれた絵図がこれまで見当たらなかっただけに、出島の変遷をたどる上で大変貴重といえる。』(「長崎歴史文化博物館」)
http://www.nmhc.jp/museumInet/prh/colArtAndHisGet.do?command=view&number=60332
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