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夏目漱石の「俳句と書画」(その七) [「子規と漱石」の世界]

その七 漱石の「第五高等学校」時代(その二(明治三十年)周辺)

熊本・第五高等学校.jpg

「熊本・第五高等学校」(「夏目漱石デジタルコレクション」)
https://www.kanabun.or.jp/souseki/list.html

熊本・第五高等学校二.gif

(「同上」解説文)

(追記) 夏目漱石俳句集(その四)<制作年順> 明治30年(1039~1326)

1039 生れ得てわれ御目出度顔の春(「子規へ送りたる句稿(二十二)二十二句。一月)
1040 五斗米を餅にして喰ふ春来たり
1041 臣老いぬ白髪を染めて君が春
1042 元日や蹣跚として吾思ひ

子規へ送りたる句稿二十二.jpg

(「子規へ送りたる句稿二十二」)(「夏目漱石デジタルコレクション」)
https://www.kanabun.or.jp/souseki/list.html

子規へ送りたる句稿二十二の二.gif

(「子規へ送りたる句稿二十二(読み下し文)」)(「夏目漱石デジタルコレクション」)
https://www.kanabun.or.jp/souseki/list.html

1043 馬に乗つて元朝の人勲二等
1044 詩を書かん君墨を磨れ今朝の春
1045 元日や吾新たなる願あり
1046 春寒し印陀羅といふ画工あり
1047 聾なる僕藁を打つ冬籠
1048 親子してことりともせず冬籠
1049 医はやらず歌など撰し冬籠
1050 力なや油なくなる冬籠
1051 仏焚て僧冬籠して居るよ
1052 燭つきつ墨絵の達磨寒気なる
1053 燭きつて暁ちかし大晦日
1054 餅を切る庖丁鈍し古暦
1055 冬籠弟は無口にて候
1056 桃の花民天子の姓を知らず
1057 松立てゝ空ほのぼのと明る門
1058 ふくれしよ今年の腹の粟餅に
1059 貧といへど酒飲みやすし君が春
1060 塔五重五階を残し霞けり    (1039~「同上」)

1061 酒苦く蒲団薄くて寐られぬ夜(「子規へ送りたる句稿(二十三)四十句。二月)
1062 ひたひたと藻草刈るなり春の水
1063 岩を廻る水に浅きを恨む春
1064 散るを急ぎ桜に着んと縫ふ小袖
1065 出代の夫婦別れて来りけり

1066 人に死し鶴に生れて冴返る
≪季=冴返る。(中略) この句はのちに雑誌「ほとゝぎす」(明治32・1に掲載された。≫(『漱石全集第十七巻・坪内稔典注解』)

1067 隻手此比良目生捕る汐干よな
1068 恐らくば東風に風ひくべき薄着
1069 寒山か拾得か蜂に螫されしは
1070 ふるひ寄せて白魚崩れん許りなり
1071 落ちさまに虻を伏せたる椿哉
1072 貪りて鶯続け様に鳴く
1073 のら猫の山寺に来て恋をしつ
1074 ぶつぶつと大な田螺の不平哉
1075 菜の花や城代二万五千石
1076 明天子上にある野の長閑なる
1077 大纛や霞の中を行く車
1078 烈士剣を磨して陽炎むらむらと立つ
1079 柳あり江あり南画に似たる吾
1080 或夜夢に雛娶りけり白い酒
1081 霞みけり物見の松に熊坂が
1082 酢熟して三聖顰す桃の花
1083 川を隔て散点す牛霞みけり
1084 薫ずるは大内といふ香や春
1085 姉様に参らす桃の押絵かな
1086 よき敵ぞ梅の指物するは誰
1087 朧夜や顔に似合ぬ恋もあらん
1088 住吉の絵巻を写し了る春
1089 春は物の句になり易し古短冊
1090 山の上に敵の赤旗霞みけり

1091 木瓜咲くや漱石拙を守るべく
≪季=木瓜の花(春)。※『草枕』「十二」に「世間には拙を守るという人がある。この人が来世に生れ変るときっと木瓜になる。余も木瓜になりたい」とある。「守拙」の語は陶淵明の詩「園田の居に帰る」の「拙を守って園田に帰る」に由来。(後略 )≫(『漱石全集第十七巻・坪内稔典注解』)

1092 滝に乙鳥突き当らんとしては返る
1093 なある程是は大きな涅槃像
1094 春の夜を兼好緇衣に恨みあり
1095 暖に乗じ一挙虱をみなごろしにす
1096 達磨傲然として風に嘯く鳳巾
1097 疝は御大事余寒烈しく候へば

1098 菫程な小さき人に生れたし
≪季=菫(春)。※小品『文鳥』に「菫程な小さな人が、黄金の槌で瑪瑙の碁盤でもつづけ様に敲いて居るような気がする」とある。(中略) ≫(『漱石全集第十七巻・坪内稔典注解』)

1099 前垂の赤きに包む土筆かな
1100  水に映る藤紫に鯉緋なり     (1061~「同上」)

1101 生き返り御覧ぜよ梅の咲く忌日(「黒木翁三周忌」)
1102 古瓦を得つ水仙のもとに硯彫む(新聞「日本」)
1103 狸化けぬ柳枯れぬと心得て(新聞「日本」)
1104 梓彫る春雨多し湖泊堂(「子規宛書簡」、「湖白堂」=「藤野古白」の別号)

1105 古往今来切つて血の出ぬ海鼠かな(「子規へ送りたる句稿(二十四)五十一句。四月)
1106 西函嶺を踰えて海鼠に眼鼻なし
1107 土筆物言はずすんすんとのびたり
1108 春寒し墓に懸けたる季子の剣
1109 抜くは長井兵助の太刀春の風
1110 剣寒し闥を排して樊かいが
1111 太刀佩て恋する雛ぞむつかしき
1112 浪人の刀錆びたり時鳥
1113 顔黒く鉢巻赤し泳ぐ人
1114 深うして渡れず余は泳がれず
1115 裸体なる先生胡坐す水泳所
1116 泳ぎ上がり河童驚く暑かな
1117 泥川に小児つどいて泳ぎけり
1118 亀なるが泳いできては背を曝す
1119 いの字よりはの字むつかし梅の花
1120 夏書する黄檗の僧名は即非
1121 客に賦あり墨磨り流す月の前
1122 巨燵にて一筆しめし参らせう
1123 金泥もて法華経写す日永哉
1124 春の夜を小謡はやる家中哉
1125 隣より謡ふて来たり夏の月
1126 肌寒み禄を離れし謡ひ声
1127 謡師の子は鼓うつ時雨かな
1128 謡ふものは誰ぞ桜に灯ともして
1129 八時の広き畑打つ一人かな
1130 角落ちて首傾けて奈良の鹿
1131 菜の花の中へ大きな入日かな
1132 木瓜咲くや筮竹の音算木の音
1133 若鮎の焦つてこそは上るらめ
1134 夥し窓春の風門春の水
1135 据風呂に傘さしかけて春の雨
1136 泥海の猶しづかなり春の暮
1137 石磴や曇る肥前の春の山
1138 松をもて囲ひし谷の桜かな
1139 雨に雲に桜濡れたり山の陰
1140 菜の花の遥かに黄なり筑後川
1141 花に濡るゝ傘なき人の雨を寒み
1142 人に逢はず雨ふる山の花盛
1143 筑後路や丸い山吹く春の風
1144 山高し動ともすれば春曇る
1145 濃かに弥生の雲の流れけり
1146 拝殿に花吹き込むや鈴の音
1147 金襴の軸懸け替て春の風
1148 留針や故郷の蝶余所の蝶
1149 しめ縄や春の水湧く水前寺
1150 上画津や青き水菜に白き蝶
1151 菜種咲く小島を抱いて浅き川
1152 棹さして舟押し出すや春の川
1153 柳ありて白き家鴨に枝垂たり
1154 就中高き桜をくるりくるり
1155 魚は皆上らんとして春の川  (1105~「同上」)

1156 青葉勝に見ゆる小村の幟かな(雑誌「めさまし草」)

1157 行く春を剃り落したる眉青し(「子規へ送りたる句稿(二十五)六十一句。五月) 
1158 行く春を沈香亭の牡丹哉
1159 春の夜や局をさがる衣の音
1160 春雨の夜すがら物を思はする
1161 埒もなく禅師肥たり更衣
1162 よき人のわざとがましや更衣
1163 更衣て弟の脛何ぞ太き
1164 埋もれて若葉の中や水の音
1165 影多き梧桐に据る床几かな
1166 郭公茶の間へまかる通夜の人
1167 蹴付たる讐の枕や子規
1168 辻君に袖牽れけり子規
1169 扛げ兼て妹が手細し鮓の石
1170 小賢しき犬吠付や更衣
1171 七筋を心利きたる鵜匠哉
1172 漢方や柑子花さく門構
1173 若葉して半簾の雨に臥したる
1174 妾宅や牡丹に会す琴の弟子
1175 世はいづれ棕櫚の花さへ穂に出でつ
1176 立て懸て蛍這ひけり草箒
1177 若葉して縁切榎切られたる
1178 でゞ虫の角ふり立てゝ井戸の端
1179 溜池に蛙闘ふ卯月かな
1180 虚無僧に犬吠えかゝる桐の花
1181 筍や思ひがけなき垣根より
1182 若竹や名も知らぬ人の墓の傍
1183 若竹の夕に入て動きけり
1184 鞭鳴す馬車の埃や麦の秋
1185 渡らんとして谷に橋なし閑古鳥
1186 折り添て文にも書かず杜若
1187 八重にして芥子の赤きぞ恨みなる
1188 傘さして後向なり杜若
1189 蘭湯に浴すと書て詩人なり
1190 すゝめたる鮓を皆迄参りたり
1191 鮓桶の乾かで臭し蝸牛
1192 生臭き鮓を食ふや佐野の人
1193 粽食ふ夜汽車や膳所の小商人
1194 蝙蝠や賊の酒呑む古館
1195 不出来なる粽と申しおこすなる
1196 五月雨や小袖をほどく酒のしみ
1197 五月雨の壁落しけり枕元
1198 五月雨や四つ手繕ふ旧士族
1199 目を病んで灯ともさぬ夜や五月雨
1200 馬の蠅牛の蠅来る宿屋かな
1201 逃がすまじき蚤の行衛や子規
1202 蚤を逸し赤き毛布に恨みあり
1203 蚊にあけて口許りなり蟇の面
1204 鳴きもせでぐさと刺す蚊や田原坂
1205 夏来ぬとまた長鋏を弾ずらく
1206 藪近し椽の下より筍が
1207 寐苦しき門を夜すがら水鶏かな
1208 若葉して手のひらほどの山の寺
1209 菜種打つ向ひ合せや夫婦同志
1210 菊地路や麦を刈るなる旧四月
1211 麦を刈るあとを頻りに燕かな
1212 文与可や筍を食ひ竹を画く
1213 五月雨の弓張らんとすればくるひたる
1214 立て見たり寐て見たり又酒を煮たり
1215 水攻の城落ちんとす五月雨
1216 大手より源氏寄せたり青嵐
1217 水涸れて城将降る雲の峰    (1157~「同上」)

1218 槽底に魚あり沈む心太 (七月四日~九月七日まで上京。子規句会。1250迄)
1219 蛭ありて黄なり水経註に曰く
1220 魚を網し蛭吸ふ足を忘れけり
1221 水打て床几を両つ并べける
1222 蚤をすてゝ虱を得たる木賃哉
1223 撫子に病閑あつて水くれぬ
1224 土用にして灸を据うべき頭痛あり
1225 楽に更けて短き夜なり公使館
1226 夕立や犇めく市の十万家
1227 音もせで水流れけり木下闇
1228 夕涼し起ち得ぬ和子を喞つらく
1229 落ちて来て露になるげな天の川
1230 来て見れば長谷は秋風ばかり也
1231 浜に住んで朝貌小さきうらみ哉
1232 冷かな鐘をつきけり円覚寺
1233 虫売の秋をさまざまに鳴かせけり
1234 案の如くこちら向いたる踊かな
1235 半月や松の間より光妙寺
1236 薬掘昔不老の願あり
1237 黄ばみたる杉葉に白き燈籠哉
1238 行燈や短かゝりし夜の影ならず
1239 徘徊す蓮あるをもて朝な夕な
1240 仏性は白き桔梗にこそあらめ
1241 山寺に湯ざめを悔る今朝の秋
1242 其許は案山子に似たる和尚かな
1243 漕ぎ入れん初汐寄する龍が窟
1244 初秋をふるひかへせしおこり哉
1245 北に向いて書院椽あり秋海棠
1246 砂山に薄許りの野分哉
1247 捨てもあへぬ団扇参れと残暑哉
1248 鳴き立てゝつくつく法師死ぬる日ぞ
1249 唐黍や兵を伏せたる気合あり
1250 夜をもれと小萩のもとに埋めけり   
1251 群雀粟の穂による乱れ哉
1252 刈り残す粟にさしたり三日の月
1253 山里や一斗の粟に貧ならず
1254 粟刈らうなれど案山子の淋しかろ
1255 船出ると罵る声す深き霧
1256 鉄砲に朝霧晴るゝ台場哉
1257 朝懸や霧の中より越後勢
1258 川霧に呼はんとして舟見えざる(1218~「同上」)

1259 南九州に入つて柿既に熟す   (九月十日熊本着。一句)
1260 今日ぞ知る秋をしきりに降りしきる(「子規宛書簡」)
1261 影二つうつる夜あらん星の井戸(新聞「日本」)

1262 樽柿の渋き昔しを忘るゝな(「子規へ送りたる句稿(二十六)三十九句。十月)
1263 渋柿やあかの他人であるからは
1264 萩に伏し薄にみだれ故里は
1265 粟折つて穂ながら呉るゝ籠の鳥
1266 蟷螂の何を以てか立腹す
1267 こおろぎのふと鳴き出しぬ鳴きやみぬ
1268 うつらうつら聞き初めしより秋の風
1269 秋風や棚に上げたる古かばん
1270 明月や無筆なれども酒は呑む
1271 明月や御楽に御座る殿御達
1272 明月に今年も旅で逢ひ申す
1273 真夜中は淋しからうに御月様
1274 明月や拙者も無事で此通り
1275 こおろぎよ秋ぢゃ鳴かうが鳴くまいが
1276 秋の暮一人旅とて嫌はるゝ
1277 梁上の君子と語る夜寒かな
1278 これ見よと云はぬ許りに月が出る
1279 朝寒の冷水浴を難んずる
1280 月に行く漱石妻を忘れたり
1281 朝寒の膳に向へば焦げし飯
1282 長き夜を平気な人と合宿す
1283 うそ寒み大めしを食ふ旅客あり
1284 吏と農と夜寒の汽車に語るらく
1285 月さして風呂場へ出たり平家蟹
1286 恐る恐る芭蕉に乗つて雨蛙
1287 某は案山子にて候雀どの
1288 鶏頭の陽気に秋を観ずらん
1289 明月に夜逃せうとて延ばしたる
1290 鳴子引くは只退窟で困る故
1291 芭蕉ならん思ひがけなく戸を打つば
1292 刺さずんば已まずと誓ふ秋の蚊や
1293 秋の蚊と夢油断ばしし給ふな
1294 嫁し去つてなれぬ砧に急がしき
1295 長き夜を煎餅につく鼠かな
1296 野分して蟷螂を窓に吹き入るゝ
1297 豆柿の小くとも数で勝つ気よな
1298 北側を稲妻焼くや黒き雲
1299 余念なくぶらさがるなり烏瓜
1300 蛛落ちて畳に音す秋の灯細し   (1262~「同上」)

1301 朝寒み夜寒みひとり行く旅ぞ(新聞「日本」)

1302 淋しくば鳴子をならし聞かせうか(「子規へ送りたる句稿(二十七)二十句。十二月)
1303 ある時は新酒に酔て悔多き
1304 菊の頃なれば帰りの急がれて
1305 傘を菊にさしたり新屋敷
1306 去りしとてはむしりもならず赤き菊
1307 一東の韻に時雨るゝ愚庵かな
1308 凩や鐘をつくなら踏む張つて
1309 二三片山茶花散りぬ床の上
1310 早鐘の恐ろしかりし木の葉哉
1311 片折戸菊押し倒し開きけり
1312 粟の後に刈り残されて菊孤也
1313 初時雨吾に持病の疝気あり
1314 柿落ちてうたゝ短かき日となりぬ
1315 提灯の根岸に帰る時雨かな
1316 暁の水仙に対し川手水
1317 蒲団着て踏張る夢の暖き
1318 塞を出てあられしたゝか降る事よ
1319 熊笹に兎飛び込む霰哉
1320 病あり二日を籠る置炬燵
1321 水仙の花鼻かぜの枕元   (1302~「同上」)

1322 寂として椽に鋏と牡丹哉    (「承露盤」より四句)
1323 白蓮にいやしからざる朱欄哉   (同上)
1324 来る秋のことわりもなく蚊帳の中 (同上)
1325 晴明の頭の上や星の恋      (同上)
1326 竿になれ鉤になれ此処へおろせ雁 (「子規」句会、上京中の句)


(参考) 「1098 菫程な小さき人に生れたし」周辺

≪ 「漱石の俳句(6)菫程な小さき人に生れたし」

http://chikata.net/?p=2883

 二〇一四年、漱石から子規へ送った手紙があらたに発見されたというニュースがありました。手紙の日付は明治三〇年八月二三日。その中に未発表の俳句が二句ありました。

禅寺や只秋立つと聞くからに
京に二日また鎌倉の秋を憶ふ

二句目は鎌倉で療養中だった妻への思いを詠んだ句です。この年の六月、漱石は実父が亡くなったため、鏡子と東京に戻ります。その長旅のせいで鏡子は流産します。鏡子はそのため鎌倉で療養しました。「また」というのは、漱石自身がその三年前である明治二七年、神経衰弱に苦しむ自身の療養のため鎌倉円覚寺に参禅しているからです。

明治二七年というと、五月に北村透谷が自殺、八月に子規も従軍した日清戦争が起った年です。西暦にすると一八九四年。この世紀末から新世紀に変わる数年間、漱石の人生はたいへんなスピードで動きます。句の背後を知る意味でも、子規との関係と一緒に少し年譜をたどってみます。

明治27年(1894年)
12月、鎌倉円覚寺に参禅。

明治28年(1895年)
 1月、根津の子規庵で句会に参加。
 4月、東京を去り、松山へ赴任。
 同月、子規の従弟で、漱石の教え子でもある藤野古白が自殺。
 同月、子規が近衛連隊の従軍記者として遼東半島を回る。
 5月、子規が帰国の船上で喀血し倒れる。神戸で入院。
 8月、子規が療養のため松山にもどり、漱石の下宿先(愚陀仏庵)に移り住む。
 10月、子規が東京に戻る。
 同月、子規へ句稿を送る(5句)
 同月、子規へ句稿を送る(46句)
 同月、子規へ句稿を送る(42句)
 11月、子規へ句稿を送る(50句)
 同月、子規へ句稿を送る(18句)
 同月、子規へ句稿を送る(47句)
 同月、子規へ句稿を送る(69句)
 12月、東京に戻り鏡子と見合い、婚約。
 同月、子規へ句稿を送る(41句)
 同月、子規へ句稿を送る(61句)

明治29年(1896年)
1月、子規へ句稿を送る(40句)
同月、子規へ句稿を送る(20句)
3月、子規へ句稿を送る(101句)
同月?、子規へ句稿を送る(27句)
同月、子規へ句稿を送る(40句)
4月、熊本に赴任。
6月、鏡子と結婚、式を挙げる。
7月、子規へ句稿を送る(40句)
8月、子規へ句稿を送る(30句)
9月、子規へ句稿を送る(40句)
10月、子規へ句稿を送る(16句)
同月、子規へ句稿を送る(15句)
11月、子規へ句稿を送る(28句)
12月、子規へ句稿を送る(62句)

明治30年(1897年)
1月、柳原極堂が松山で「ほとヽぎす」を創刊。
同月、子規へ句稿を送る(22句)
2月、子規へ句稿を送る(40句)
4月、子規へ句稿を送る(51句)
同月、子規『俳人蕪村』を発表。
5月、子規『古白遺稿』を刊行。
同月、子規へ句稿を送る(61句)
6月、実父(直克)逝去。鏡子流産。
8月、鏡子が療養する鎌倉別荘へ行く。
10月、子規へ句稿を送る(39句)
12月、子規へ句稿を送る(20句)
同月、正月まで小天温泉へ旅する。『草枕』の題材となる。

明治31年(1898年)
1月、子規へ句稿を送る(30句)
2月、子規『歌よみに与ふる書』を発表。
5月、子規へ句稿を送る(20句)
9月、子規へ句稿を送る(20句)
10月、子規へ句稿を送る(20句)
同月、熊本で漱石を主宰とした俳句結社「紫溟吟社」が興る。

明治32年(1899年)
1月、子規へ句稿を送る(75句)
1月、子規『俳諧大要』を発表。
2月、子規へ句稿を送る(105句)
5月、長女(筆子)誕生。
9月、子規へ句稿を送る(51句)
同月、阿蘇登山。
10月、子規へ句稿を送る(29句)

明治33年(1900年)
1月、子規「叙事文」にて、写生文を提唱。
7月、英国留学の準備のため帰京。
8月、子規を訪問する。
9月、子規「山会」を開催。
同月、英国へ出発。

愚陀仏庵を子規が去ってから、漱石はまるで俳句によって病を癒すかのような勢いで大量の句を作っては、子規へ送り続けています。むしろ、俳句という「病」にかかったかのようでもあります。ところが、明治三二年、長女・筆子の誕生以降、句作の量が激減し、子規への句稿もその年末でストップします。翌年は年間一九句しか遺していません。子どもの誕生が漱石の病を軽減したのか、まるで俳句を作りながら新しい命を求めていたかのようにすら思えます。

ところで明治三〇年の二月、子規へ送った句稿の中に不思議な句があります。

菫程な小さき人に生れたし

菫のような可愛さにあこがれる女性の句と思う人もいるようですが、まぎれもなく、夏目漱石の句です。

この句は有名なので、今更付け足すまでもなく、すでに解釈がなされています。やはり、熊本時代の句であるだけに、熊本を舞台にした小説『草枕』(明治三九年)の世界とつなげて、面倒な人の世を離れて、ひっそりと菫のように生きたいという気持ちと解されることが多いと思います。

また「菫程な小さき人」という表現は、明治四一年の作品『文鳥』に再び現れます。『文鳥』は小説とも随筆とも日記とも言えないような小品(写生文)です。漱石は、教え子の鈴木三重吉のすすめで、文鳥を飼います。その文鳥について、次のように書かれています。

《文鳥はつと嘴を餌壺の真中に落した。そうして二三度左右に振った。奇麗に平して入れてあった粟がはらはらと籠の底に零れた。文鳥は嘴を上げた。咽喉の所で微な音がする。また嘴を粟の真中に落す。また微な音がする。その音が面白い。静かに聴いていると、丸くて細やかで、しかも非常に速やかである。菫ほどな小さい人が、黄金の槌で瑪瑙の碁石でもつづけ様に敲いているような気がする。》(明治四一年『文鳥』)

この一節をもとに菫の句が解釈されることもあります。例えば、詩人の清水哲男はこう評しています。《人として生まれ、しかし人々の作る仕組みには入らず、ただ自分の好きな美的な行為に熱中していればよい。そんな風な人が、漱石の理想とした「菫程な小さき人」であったのだろう》。たしかに「累々と徳孤ならずの蜜柑かな」(明治二九年)の蜜柑しかり、「木瓜咲くや漱石拙を守るべく」(明治三〇年)の木瓜の花しかり、この句は菫に自己の理想を詠んでいることは、疑いようがありません。

いずれにしても、先ほどの『草枕』の隠遁詩人の世界からつながる解釈です。ただ、先ほどの年譜を見ると、この句を詠んだとき、漱石は結婚したばかりであることがわかります。このときの漱石の心を思うと、下五の「生れたし」は自分自身のことでもあると同時に、これから生まれてくるであろう誰か、つまり、未来の子どもに向かって自身の理想を投げかけているようにも聞こえてきます。

なぜなら「生れたし」と言って、生まれたいと思っているのは作者ですが、作者は既に生まれてしまっているわけです。もし、生まれるのが自分ではない他者である場合、この「生れたし」は「生まれてほしい」という意味にもなります。もちろん、もし生まれ変われるなら、という隠れた気持ちを読みとれば作者自身のことになるわけですが。五七五だけなら、どちらの読みも可能です。

もし明治三〇年に妻・鏡子が流産せずに子どもが生まれていたら、この菫の句は子どもに向かって詠んだ句として解釈されていたかもしれません。(関根千方) ≫

≪ 菫程な小さき人に生れたし(夏目漱石)

https://www.longtail.co.jp/~fmmitaka/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=20060218,20060217,20060216&tit=20060218&today=20060218&tit2=2006%94N2%8C%8E18%93%FA%82%CC

季語は「菫(すみれ)」で春。大の男にしては、なんとまあ可憐な願望であることよ。そう読んでおいても一向に構わないのだけれど、私はもう少し深読みしておきたい。というのも、この句と前後して書かれていた小説が『草枕』だったからである。例の有名な書き出しを持つ作品だ。「山路を登りながら、こう考えた。/智に働けば角が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈(きゅうくつ)だ。とかくに人の世は住みにくい」。この後につづく何行かを私なりに理解すれば、作者は人間というものは素晴らしいが、その人間が作る「世」、すなわち人間社会はわずらわしく鬱陶しいと言っている。だから、人間は止めたくないのだが、社会のしがらみには関わりたくない。そんな夢のような条件を満たすためには、掲句のような「小さき人」に生まれることくらいしかないだろうというわけだ。では、夢がかなって「菫程な」人に生まれたとすると、その人は何をするのだろうか。その答えが、小品『文鳥』にちらっと出てくる。鈴木三重吉に言われるままに文鳥を飼う話で、餌をついばむ場面にこうある。「咽喉の所で微(かすか)な音がする。また嘴を粟の真中に落す。また微な音がする。その音が面白い。静かに聴いていると、丸くて細やかで、しかも非常に速(すみや)かである。菫ほどな小さい人が、黄金の槌(つち)で瑪瑙(めのう)の碁石でもつづけ様に敲(たた)いているような気がする」。すなわち、人として生まれ、しかし人々の作る仕組みには入らず、ただ自分の好きな美的な行為に熱中していればよい。そんなふうな人が、漱石の理想とした「菫程な小さき人」であったのだろう。すると「菫」から連想される可憐さは容姿にではなくて、むしろこの人の行為に関わるとイメージすべきなのかもしれない。『漱石俳句集』(岩波文庫)所収。(清水哲男)≫
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