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夏目漱石の「俳句と書画」(その八) [「子規と漱石」の世界]

その八 漱石の「第五高等学校」時代(その三「明治三十一年」)周辺

http://chikata.net/?p=2883

(再掲)

明治31年(1898年)
1月、子規へ句稿を送る(30句)
2月、子規『歌よみに与ふる書』を発表。
5月、子規へ句稿を送る(20句)
9月、子規へ句稿を送る(20句)
10月、子規へ句稿を送る(20句)
同月、熊本で漱石を主宰とした俳句結社「紫溟吟社」が興る。

寺田寅彦.jpg

(昭和9年の寅彦/『昭和文学全集3寺田寅彦集』から)「(熊本県立大学図書館オンライン展示))
https://soseki-kumamoto-anniversary.com/info/%e7%ac%ac%e4%ba%94%e9%ab%98%e7%ad%89%e5%ad%a6%e6%a0%a1%e3%81%ab%e5%85%a5%e5%ad%a6%e3%81%97%e3%81%9f%e5%af%85%e5%bd%a6/
≪ 第五高等学校に入学した寅彦は、「夏目漱石先生の追憶」(改造社『俳句講座 第八巻 地方結社編』昭和7年12月/昭和8年12月岩波書店発行『蒸発皿』に再録)に「学校ではオピアムイーターや、サイラス・マーナーを教はつた」と書いているように漱石の英語の授業を受け、明治31年(1898年)――「第二学年の学年試験の終つた頃」、「同県学生のうちで試験をしくじつた」「二三人の為に」「点を貰ひに」、「白川の河畔」の漱石の家を「初めて尋ね」たとき、俳句について話を聞き、以後、漱石の家に出入りして俳句の添削を受け、漱石が子規に送ってくれた寅彦の句が『ほとゝぎす』『国民新聞』や新聞『日本』等に掲載されるようになり、また、明治32年(1899年)7月に第五高等学校を卒業して9月に東京帝国大学理科大学入学することになった寅彦は、漱石の紹介で子規を訪ね、『ほとゝぎす』との縁がさらに深まった。
 また、漱石が明治33年(1900年)9月に文部省の派遣でイギリス留学に出発したときには、在京の寅彦は、「先生が洋行するので横浜へ見送りに行つた。船はロイド社のプロイセン号であつた。(中略)「秋風の一人を吹くや海の上」といふ句を端書に書いて神戸からよこされた」(「夏目漱石先生の追憶」)と書いているように、横浜に見送りに行き、また漱石が2年間の留学を終えて明治36年(1903年)1月に帰朝したときにも、新橋停車場に出迎えに行っている。
 帰朝後漱石は第五高等学校を辞職して第一高等学校・東京帝国大学の講師となり、明治40年(1900年)には教職を辞して東京朝日新聞社に入社して〝お抱え作家〟となったが、寅彦は、「帰朝当座の先生は矢来町の奥さんの実家中根氏邸に仮寓して居た。(中略)千駄木に居を定められてからは、又昔のやうに三日にあげず遊びに行つた」と書いているように、イギリスから帰ったばかりの漱石の仮寓を訪ね、その後、同年3月に転居した千駄木町の住まいを、日記に「夜夏目先生を千駄木町の新寓に訪ふ」(3月16日)、「午後夏目先生を訪ふ書斎にて種々の書籍を見せてもらふ」(同22日)、「夜夏目先生を訪ふ。宗教論。乱れ髪の歌の話」(同24日)とあるように、早速頻繁に訪れ、明治39年12月に転居した西片町の住まい、明治40年9月に転居した早稲田南町の漱石山房に出入りし、また漱石を誘って音楽会等にも出かけている。そのような二人の交流は大正5年(1916年)12月9日に漱石が亡くなるまで続いた。≫

(追記) 夏目漱石俳句集(その五)<制作年順> 明治31年(1327~1629)

https://sosekihaikushu.seesaa.net/article/200911article_16.html

明治31年(1898年)

1327 行く年や猫うづくまる膝の上(「子規へ送りたる句稿(二十八)三十句。一月)
(「夏目漱石デジタルコレクション」草稿)
https://www.kanabun.or.jp/souseki/list.html

1328 焚かんとす枯葉にまじる霰哉
1329 切口の白き芭蕉に氷りつく
1330 家を出て師走の雨に合羽哉
1331 何をつゝき鴉あつまる冬の畠
1332 降りやんで蜜柑まだらに雪の舟
1333 此炭の喞つべき世をいぶるかな
1334 かんてらや師走の宿に寐つかれず
1335 温泉の門に師走の熟柿かな
1336 温泉の山や蜜柑の山の南側
1337 海近し寐鴨をうちし筒の音
1338 天草の後ろに寒き入日かな
1339 日に映ずほうけし薄枯ながら
1340 旅にして申訳なく暮るゝ年
1341 凩の沖へとあるゝ筑紫潟
1342 うき除夜を壁に向へば影法師
1343 床の上に菊枯れながら明の春
1344 元日の山を後ろに清き温泉
1345 酒を呼んで酔はず明けたり今朝の春
1346 稍遅し山を背にして初日影
1347 駆け上る松の小山や初日の出
1348 甘からぬ屠蘇や旅なる酔心地
1349 温泉や水滑かに去年の垢
1350 此春を御慶もいはで雪多し
1351 正月の男といはれ拙に処す
1352 色々の雲の中より初日出

1353 初鴉東の方を新枕 (前書「賀虚子新婚 一句」)
≪季=初鴉(新)。※虚子宛書簡には「承はれば近頃御妻帯のよし何よりの吉報に接し候心地千秋万歳の寿をなさんがため一句呈上致候」とある。虚子は前年の六月に結婚した。 (後略)≫(『漱石全集第十七巻・坪内稔典注解』)

1354 僧帰る竹の裡こそ寒からめ
1355 桐かれて洩れ来る月の影多し
1356 一尺の梅を座右に置く机   (1327~「同上」)

1357 梅ちつてそゞろなつかしむ新俳句(「虚子」宛書簡)
≪季=梅(春)。※虚子から「新俳句」(明治三一・三)を送ってもらった令状に記した句。礼状で漱石は「小生爾来俳境日々退歩昨今は現に一句も無之候此分にてはやがて鳴雪老人の跡釜を引き受ける事ならんと少々寒心の体に有此候」と述べた。(後略) ≫(『漱石全集第十七巻・坪内稔典注解』)

1358 春雨の隣の琴は六段か(「子規へ送りたる句稿(二十九)二十句。五月)
1359 瓢かけてからからと鳴る春の風
1360 鳥籠を柳にかけて狭き庭
1361 来よといふに来らずやみし桜かな
1362 三条の上で逢ひけり朧月
1363 片寄する琴に落ちけり朧月
1364 こぬ殿に月朧也高き楼
1365 行き行きて朧に笙を吹く別れ
1366 搦手やはね橋下す朧月
1367 有耶無耶の柳近頃緑也
1368 颯と打つ夜網の音や春の川
1369 永き日を太鼓打つ手のゆるむ也
1370 湧くからに流るゝからに春の水
1371 禰宜の子の烏帽子つけたり藤の花
1372 春の夜のしば笛を吹く書生哉
1373 海を見て十歩に足らぬ畑を打つ
1374 花一木穴賢しと見上たる
1375 仏かく宅磨が家や梅の花
1376 鶴を切る板は五尺の春の椽
1377 思ひ切つて五分に刈りたる袷かな (1358~「同上」)

1378 となりから月曇らする蚊やり哉 (「九州新聞」)
1379 松風の絶へ間を蝉のしぐれかな (「同上」)

1380 小き馬車に積み込まれけり稲の花(「子規へ送りたる句稿(三十)二十句。九月)
1381 夕暮の秋海棠に蝶うとし
1382 離れては寄りては菊の蝶一つ
1383 枚をふくむ三百人や秋の霜
1384 胡児驕つて驚きやすし雁の声
1385 砧うつ真夜中頃に句を得たり
1386 踊りけり拍子をとりて月ながら
1387 茶布巾の黄はさめ易き秋となる
1388 長かれと夜すがら語る二人かな
1389 子は雀身は蛤のうきわかれ
1390 相撲取の屈託顔や午の雨
1391 ものいはぬ案山子に鳥の近寄らず
1392 病む頃を雁来紅に雨多し
1393 寺借りて二十日になりぬ鶏頭花
1394 恩給に事を欠かでや種瓢
1395 早稲晩稲花なら見せう萩紫苑
1396 生垣の丈かり揃へ晴るゝ秋
1397 秋寒し此頃あるゝ海の色
1398 夜相撲やかんてらの灯をふきつける
1399 菅公に梅さかざれば蘭の花 (1380~「同上」)

1400 朝顏や手拭懸に這ひ上る  (「承露盤」)
1401 能もなき渋柿どもや門の内 (「承露盤」)

1402 立枯の唐黍鳴つて物憂かり(「子規へ送りたる句稿(三十一)二十句。十月)
1403 逢ふ恋の打たでやみけり小夜砧
1404 蝶来りしほらしき名の江戸菊に
1405 塩焼や鮎に渋びたる好みあり
1406 一株の芒動くや鉢の中
1407 乾鮭のからついてゐる柱かな
1408 病妻の閨に灯ともし暮るゝ秋
1409 かしこまりて憐れや秋の膝頭
1410 かしこみて易を読む儒の夜を長み
1411 長き夜や土瓶をしたむ台所
1412 張まぜの屏風になくや蟋蟀
1413 うそ寒み油ぎつたる枕紙
1414 病むからに行燈の華の夜を長み
1415 秋の暮野狐精来り見えて曰く
1416 白封に訃音と書いて漸寒し
1417 落ち合ひて新酒に名乗る医者易者
1418 憂あり新酒の酔に託すべく
1419 苫もりて夢こそ覚むれ荻の声
1420 秋の日のつれなく見えし別かな
1421 行く秋の関廟の香炉烟なし (1402~「同上」)

1422 朝寒の楊子使ふや流し元 (「反省雑誌」)
1423 駕舁の京へと急ぐ女郎花(「同上」)
1424 柳散り柳散りつゝ細る恋(「同上」
1425 病癒えず蹲る夜の野分かな(「同上」
1426 つるんだる蜻蛉飛ぶなり水の上(「同上」
1427 菊作る奴がわざの接木かな  (「承露盤」)
1428 ゆゝしくも合羽に包むつぎ木かな (「承露盤」)
1429 風呂に入れば裏の山より初嵐 (『寺田寅彦全集』中の句)

(参考)「子規庵句会図(河東碧悟桐賛・下山為山画、明治三十・三十一年頃)周辺

子規庵句会図.jpg

≪「子規庵句会写生図」画・下村為山 賛・河東碧梧桐 」(昭和10年(1935)、子規庵寄託資料、紙本淡彩、48.0×52.3㎝)

https://www.culture.city.taito.lg.jp/bunkatanbou/topics/famous_persons/shiki/japanese/page_04.html

 明治30、31年(1897-1898)頃の子規庵新年句会での盛会の様子を描いたこの図は、昭和10年に「中央美術協会」が、俳句革新記念として限定30部作成しました。掛軸として頒布されたその1幅が平成25年(2013)子規庵に寄贈されました。すべて肉筆のため、画も賛も少しずつ異なる箇所があります。子規を初めとして石井露月、佐藤肋骨、河東碧梧桐、坂本四方太、内藤鳴雪、佐藤紅緑、高浜虚子、大谷繞石、吉野左衛門、五百木飄亭、梅沢墨水、数藤五城、赤木格堂、諫早李坪、下村為山、折井愚哉、寒川鼠骨、福田把栗、山田三子、谷活東、岩田鳴球、松下紫人等(子規から左回り)が参加しています。≫

≪「碧悟桐賛」全文
明治三十年頃より子規居士/の傘下に集る同人一党日に/月に新人を迎へ例月根岸子規/庵の句会の意気常に沖天/の概を占めせり/
牛伴画伯(注・「為山」の俳号)の此写生図ハ恐らく/明治三十一・二年頃の新年/発会の光景なるべく鳴雪の/披講各自採点の状四十/年を隔てて当時を目賭せし/む画中の人既に故人となれる者/子規居士と共に十名曰く/
  内藤鳴雪 坂本四芳太 /  石井露月  墨水 / 数藤五城 大谷繞石 / 吉野左衛門 諫早李坪 / 新井愚哉/
 而して今日尚ほ健在なる者も/多く白頭霜鬢既に老境に入る/当時を追想して多少の感慨なめしとせんや / 碧悟桐識   ≫(『俳人の書画美術7 子規(集英社刊)』所収「図版解説125(和田茂樹)」)
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