SSブログ

夏目漱石の「俳句と書画」(その十四) [「子規と漱石」の世界]

その十四 漱石の「漢詩と書画」周辺

崖臨碧水図自画賛(漱石)・部分図.jpg

「崖臨碧水図自画賛(漱石)」(部分図)

崖臨碧水図自画賛(漱石)・全体図.jpg

「崖臨碧水図自画賛(漱石)」紙本着色/134.0×33.0㎝
https://nipponkanshi.hankeidou.jp/2016/08/2016080702-242dd1bf16a.html
≪厓臨碧水老松愚 (厓は碧水に臨んで 老松 愚なり)
 路過危橋仄徑迂 (路は危橋を過ぎて 仄径 迂なり)
 佇立筇頭雲起處 (佇立す 筇頭に雲起こる処)
 半空遙見古浮圖 (半空 遥かに見る 古浮図)    ≫
≪ 七言絶句は大正三年作。仄徑(そくけい)はかすかな小道。筇頭(きょうとう)は杖の頭。
古浮圖(こふと)は古い寺塔。印は白文方印で「漱石」とある。 ≫(『俳人の書画美術8 漱石』所収「作品解説38(福田清人稿)」)

漱石漢詩文年表一.jpg

「夏目漱石の漢詩(石川忠久稿))所収「漱石漢詩文年表(斎藤希文監修)」)その一
https://www.taishukan.co.jp/files_upload/upload/owned_media_magazine/journalkanbun203.pdf

漱石漢詩文年表二.jpg

「夏目漱石の漢詩(石川忠久稿)」所収「漱石漢詩文年表(斎藤希文監修)」その二
https://www.taishukan.co.jp/files_upload/upload/owned_media_magazine/journalkanbun203.pdf

 夏目漱石の「詩(漢詩)と画(南画)の世界」というのは、上記の「夏目漱石の漢詩(石川忠久稿)」所収「漱石漢詩文年表(斎藤希文監修)」の、その「第四期(1912年5月~1916(大正5年)春)・満四五~四九歳」の時代ということになる。
 その中で、≪〔題自画〕「山上有山路不通」七言絶句。自らの画に題した最初の詩≫の、
その「山上有山路不通」(七言絶句)は次のものである。

山上有山路自画賛(漱石).jpg

「山上有山路自画賛(漱石)」紙本着色/66.5×45.0㎝
https://nipponkanshi.hankeidou.jp/2016/08/2016080701-6b734ac079c4.html

≪山上有山路不通 (山上に山有りて 路 通ぜず)
柳陰多柳水西東 (柳陰に柳多くして 水 西東)
扁舟盡日孤村岸 (扁舟 尽日 孤村の岸)
幾度鵞群訪釣翁 (幾度か鵞群 釣翁を訪ふ)   ≫
≪大正元年十一月作。扁舟は小舟。盡日は終日。釣翁は年老いた釣り人。この頃からしきりに画を描き、自作の題詩を賛し、楽しんだ。対岸に白く塗り残しになっているいくつかりの斑点は、どうやら鵞の群らしいと松岡譲は述べている。なお、四句目の「幾度鵞群」の下にある「知波頭」が,『漱石詩集』になく、削られている。七言絶句であるから、賛の字数はおかしいわけである。なお、印は朱文円印「漱石」 ≫(『俳人の書画美術8 漱石』所収「作品解説41(福田清人稿)」)

夏目漱石の生涯というのを、鳥瞰的・概括的に考察するときに、上記の「夏目漱石の漢詩(石川忠久稿))所収「漱石漢詩文年表(斎藤希文監修)」は、多くの示唆を投げ掛けてくれる。
 以下(参考その一)に、その「抜粋」(第一期~第五期)に対応して、「俳句の時代」・「作家(小説家)の時代」・「漢詩(南画)の時代」などのネーミングを付すると、次のとおりとなる。
 そして、上記の「崖臨碧水図自画賛(漱石)」と「山上有山路自画賛(漱石)」とは、≪第四期1912 年 5 月〜 1916(大正5)年春 →「漢詩(南画)の時代」≫の代表作ということになる。

【(参考その一) 「夏目漱石の漢詩(石川忠久稿))所収「漱石漢詩文年表(斎藤希文監修)」(抜粋)

第一期〜 1894(明治27)年3 月  → 「修養期」 
《少年期から大学卒業まで》・〜満二七歳
おもに課題作文や友人との交流にともなう漢詩文が書かれていた。

第二期1895 年 5 月〜 1900(明治33)年  → 「俳句の時代」
《松山中学から第五高等学校を経て渡英まで》・満二八歳〜三三歳
第五高等学校在籍中は同僚の漢学者長尾雨山(ながおうざん)(一八六四〜一九四二)に詩の添削を受けていた。

空白期1900 〜 1910(明治 43)年 → 「作家(小説)の時代」 
《英国留学から小説家となるまで》・満三三〜四三歳
一九〇〇年から一九〇三年までの英国留学(滞在中の一九〇二年九月に子規没)、第一高等学校講師着任の後、一九〇五年一月に「吾輩は猫である」を「ホトトギス」誌上に発表。
以降、漱石は小説家の道を歩み、一九〇七年四月には朝日新聞社に入社して長編小説の執筆を仕事とする。

第三期1910(明治43)年 7 〜10 月 → 「病臥・転換期」
《修禅寺大患前後》・満四三歳
胃潰瘍による入院を機に再び詩を作り始める。とくに修禅寺大患後の作が多い。

第四期1912 年 5 月〜 1916(大正5)年春 →「漢詩(南画)の時代」
《詩と画の世界》・満四五〜四九歳
この時期の漱石は好んで南画を描くようになり、しばしば自ら詩を題した。また、人に求められて書いた作も少なくない。

第五期1916(大正 5)年 8 月〜 11 月20 日 「最晩年期」
《『明暗』執筆期》・満四九歳
七言律詩を作ることを日課とし、生涯で最も集中して詩が作られた時期。 】

【(参考その二)  「第七講 漱石の美術批評」(抜粋)

https://www.iwanami.co.jp/files/tachiyomi/pdfs/0291360.pdf

 晩年に描かれた南画山水を見ると、漱石がいかに描くという行為に没頭し、そこに自分の世界をかったかと思われてならない。それが、漱石の自己本位を基本とする作家のあるべき態度だったかいなかったはずである。私には、この場合の「人が見て」というのは「自分が見て」と同じではなだからといって、漱石はそのために何か具体的な努力をするとか技術的な工夫をしようとは思ってほぼ同様の文面が見られることからも、これが漱石の本心から出たものであることは疑いないが、りません」 ( 「津田青楓宛書簡」大正二年十二月八日付) という言葉がある。
同日、野上豊一郎宛にも気持のする奴をかいて死にたいと思ひます文展に出る日本画のやうなものはかけてもかきたくはあら人が見て難有い心持のする絵を描いて見たい山水でも動物でも花鳥でも構はない只崇高で難有い築き上げていったかが伝わってくる。しばしば引用される漱石の言葉に「私は生涯に一枚でいゝからである。そして、何よりも、漱石にとって絵を描くことは自己を映し出すことであり、自己を実以上を要すれば、漱石にとって美術とは、孤独を慰める話し相手、創作に刺激をもたらす良き友、自己を映し出し実現することのできる分身のような存在であったという言い方も可能であろう。 】
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。