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夏目漱石の「俳句と書画」(その十三) [「子規と漱石」の世界]

その十三 漱石の「子規没後の俳句(その三)」(「明治四十五年/大正元年~」周辺)

 「子規→虚子」の流れは、俳句結社(雑誌)の「ホトトギス」として、未だに、「俳句」界の、「定型俳句」(「自由律俳句」に対する「定型俳句)の牙城として君臨し続けている。
 これに比して、「子規→碧悟桐」の流れ(「新傾向俳句」)を汲む、「自由律俳句」の「層雲」(荻原井泉水ら)や「海紅」(中塚一碧楼ら)は、多数派の「ホトトギス」に対して少数派ということになる。
 もう一つ、「子規・漱石→東洋城」の、「俳諧=連句」と親近感を有する「定型俳句」(「俳諧の発句」的「伝統俳句」)を標榜する俳誌「渋柿」も、漱石門下の「小宮豊隆、寺田寅彦、安倍能成、鈴木三重吉」等々が参画して、さながら、「ホトトギス」の「虚子俳句」に対する、「渋柿」の「漱石俳句」という感すら抱かせるものがある。

漱石山房と其弟子達A.jpg

「漱石山房と其弟子達」(津田清楓画)→A図
https://blog.goo.ne.jp/torahiko-natsume/e/6ad1c4767dddc3568e6b34e7d727b501
≪「上段の左から」→則天居士(夏目漱石)・寅彦(寺田寅彦)・能成(阿部能成)・式部官(松根東洋城)・野上(野上豊一郎)・三重吉(鈴木三重吉)・岩波(岩波茂雄)・桁平(赤木桁平)・百閒(内田百閒)
「下段の左から」→豊隆(小宮豊隆)・阿部次郎・森田草平/花瓶の傍の黒猫(『吾輩は猫である』の吾輩が、「苦沙弥」先生と「其門下生」を観察している。)
「則天居士」=「則天去私」の捩り=「〘連語〙 天にのっとって私心を捨てること。我執を捨てて自然に身をゆだねること。晩年の夏目漱石が理想とした心境で、「大正六年文章日記」の一月の扉に掲げてあることば。」(「精選版 日本国語大辞典」)
「天地人間」(屏風に書かれた文字)=「天地人」=「① 天と地と人。宇宙間の万物。三才。② 三つあるものの順位を表わすのに用いる語。天を最上とし、地・人がこれに次ぐ。
※落語・果報の遊客(1893)〈三代目三遊亭円遊〉「発句を〈略〉天地人を付ける様な訳で」(「精選版 日本国語大辞典」)→「2096 空に消ゆる鐸のひびきや春の塔(漱石・「前書」=「空間を研究せる天然居士の肖像に題す」)→「空間に生れ、空間を究(きわ)め、空間に死す。空たり間たり天然居士(てんねんこじ)噫(ああ)」(『吾輩は猫である』第三話)

https://www.konekono-heya.com/books/wagahai3.html    ≫

 この「漱石山房と其弟子達」(津田清楓画)は、その姉妹画(『漱山と十大弟子(津田清楓著)』の挿絵)』関連のものがあって、それは下図のようなものがある。

漱石山房と其弟子達B.jpg

津田青楓≪漱石と十弟子≫昭和51(1976)年/紙本著色/A4判用(縦30.9cm×横22.0cm×厚さ0.04cm)→B図
https://takadanobaba.keizai.biz/photoflash/2115/
https://soseki-museum.jp/user-guide/museum-shop/
≪ A図とB図とを比較すると、まず、A図(「則天居士」=漱石)B図(「漱石大明神」となり、A図(百閒)がB図(「筆者亀吉)」=「青楓」)となり、「弟子」(寅彦・能成・東洋城・豊一郎・三重吉・茂雄・桁平・豊隆・次郎・草平)も、そのネーミングを異にしている。
そして、屏風の文字も、A図「天地/人間」に比して、B図「地/非在天/人間」と様変わりをしている。≫

(追記) 夏目漱石俳句集(その九)<制作年順> 明45/大正元年(1912年)~大正5年(1916年)・年月不詳(2284~2527 )

明治45年/大正元年(1912年)

2284 雪の夜や佐野にて食ひし粟の飯
2285 壁隣り秋稍更けしよしみの灯
2286 懸物の軸だけ落ちて壁の秋
2287 行く春や壁にかたみの水彩画
2288 壁に達磨それも墨画の芒哉
2289 如意払子懸けてぞ冬を庵の壁
2290 錦画や壁に寂びたる江戸の春
2291 鼠もや出ると夜寒に壁の穴
2292 壁に脊を涼しからんの裸哉
2293 壁に映る芭蕉夢かや戦ぐ音
2294 壁一重隣に聴いて砧かな
2295 水盤に雲呼ぶ石の影すゞし
2296 湯壺から首丈出せば野菊哉
2297 五六本なれど靡けばすゝき哉
2298 蚊帳越しに見る山青し杉木立
2299 御かくれになつたあとから鶏頭かな
2300 厳かに松明振り行くや星月夜
2301 かりそめの病なれども朝寒み
2302 秋風や屠られに行く牛の尻
2303 橋なくて遂に渡れぬ枯野哉
2304 杉木立寺を蔵して時雨けり
2305 豆腐焼く串にはらはら時雨哉
2306 琴作る桐の香や春の雨

大正2年(1913年)

2307 人形も馬もうごかぬ長閑さよ
2308 菊一本画いて君の佳節哉
2309 四五本の竹をあつめて月夜哉
2310 萩の粥月待つ庵となりにけり
2311 葉鶏頭高さ五尺に育てけり

大正3年(1914年)

2312 播州へ短冊やるや今朝の春
2313 松立てゝ門鎖したる隠者哉
2314 春の発句よき短冊に書いてやりぬ
2315 冠を挂けて柳の緑哉
2316 鶯は隣へ逃げて藪つゞき
2317 つれづれを琴にわびしや春の雨
2318 欄干に倚れば下から乙鳥哉
2319 我一人行く野の末や秋の空
2320 内陣に仏の光る寒哉
2321 春水や草をひたして一二寸
2322 縄暖簾くゞりて出れば柳哉
2323 橋杭に小さき渦や春の川
2324 同じ橋三たび渡りぬ春の宵
2325 蘭の香や亜字欄渡る春の風
2326 老僧に香一しゅの日永哉
2327 竹藪の青きに梅の主人哉
2328 茶の木二三本閑庭にちよと春日哉
2329 日は永し一人居に静かなる思ひ
2330 世に遠き心ひまある日永哉
2331 線香のこぼれて白き日永哉
2332 留守居して目出度思ひ庫裏長閑
2333 我一人松下に寐たる日永哉
2334 引かゝる護謨風船や柳の木
2335 門前を彼岸参りや雪駄ばき
2336 そゞろ歩きもはなだの裾や春の宵
2337 春風に吹かれ心地や温泉の戻り
2338 仕立もの持て行く家や雛の宵
2339 長閑さや垣の外行く薬売
2340 竹の垣結んで春の庵哉
2341 玉碗に茗甘なうや梅の宿
2342 草双紙探す土蔵や春の雨
2343 桶の尻干したる垣に春日哉
2344 誰袖や待合らしき春の雨
2345 錦絵に此春雨や八代目
2346 京楽の水注買ふや春の町
2347 万歳も乗りたる春の渡し哉
2348 春の夜や妻に教はる荻江節
2349 木蓮に夢の様なる小雨哉
2350 降るとしも見えぬに花の雫哉
2351 春雨や京菜の尻の濡るゝほど
2352 落椿重なり合ひて涅槃哉
2353 木蓮と覚しき花に月朧
2354 永き日や頼まれて留守居してゐれば
2355 木瓜の実や寺は黄檗僧は唐
2356 春寒し未だ狐の裘
2357 寺町や垣の隙より桃の花
2358 見連に揃の簪土間の春
2359 染物も柳も吹かれ春の風
2360 連翹の奥や碁を打つ石の音
2361 春の顔真白に歌舞伎役者哉
2362 小座敷の一中は誰梅に月
2363 花曇り御八つに食ふは団子哉
2364 炉塞いで窓に一鳥の影を印す
2365 寺町や椿の花に春の雪
2366 売茶翁花に隠るゝ身なりけり
2367 高き花見上げて過ぎぬ角屋敷
2368 塗笠に遠き河内路霞みけり
2369 窓に入るは目白の八つか花曇
2370 静かなるは春の雨にて釜の音
2371 驢に騎して客来る門の柳哉
2372 見上ぐれば坂の上なる柳哉
2373 経政の琵琶に御室の朧かな
2374 楼門に上れば帽に春の風
2375 千社札貼る楼門の桜哉
2376 家形船着く桟橋の柳哉
2377 芝草や陽炎ふひまを犬の夢
2378 早蕨の拳伸び行く日永哉
2379 陽炎や百歩の園に我立てり
2380 ちらちらと陽炎立ちぬ猫の塚
2381 紙雛つるして枝垂桜哉
2382 行く春や披露待たるゝ歌の選
2383 眠る山眠たき窓の向ふ哉
2384 魚の影底にしばしば春の水
2385 四つ目垣茶室も見えて辛夷哉
2386 祥瑞を持てこさせ縁に辛夷哉
2387 如意の銘彫る僧に木瓜の盛哉
2388 馬を船に乗せて柳の渡哉
2389 田楽や花散る里に招かれて
2390 行春や僧都のかきし絵巻物
2391 行春や書は道風の綾地切
2392 藁打てば藁に落ちくる椿哉
2393 静坐聴くは虚堂に春の雨の音
2394 良寛にまりをつかせん日永哉
2395 一張の琴鳴らし見る落花哉
2396 春の夜や金の無心に小提灯
2397 局に閑あり静かに下す春の石
2398 春深き里にて隣り梭の音
2399 銀屏に墨もて梅の春寒し
2400 三味線に冴えたる撥の春浅し
2401 海見ゆる高どのにして春浅し
2402 白き皿に絵の具を溶けば春浅し
2403 筍は鑵詰ならん浅き春
2404 行く春のはたごに画師の夫婦哉
2405 行く春や経納めにと厳島
2406 行く春や知らざるひまに頬の髭
2407 鶯や髪剃あてゝ貰ひ居る
2408 活けて見る光琳の画の椿哉
2409 飯食へばまぶた重たき椿哉
2410 行春や里へ去なする妻の駕籠
2411 酒の燗此頃春の寒き哉
2412 晧き歯に酢貝の味や春寒し
2413 嫁の傘傾く土手や春の風
2414 春惜む日ありて尼の木魚哉
2415 業終へぬ写経の事や尽くる春
2416 春惜む茶に正客の和尚哉
2417 冠に花散り来る羯鼓哉
2418 門鎖ざす王維の庵や尽くる春
2419 春惜む句をめいめいに作りけり
2420 枳殻の芽を吹く垣や春惜む
2421 鎌倉へ下る日春の惜しき哉
2422 新坊主やそゞろ心に暮るゝ春
2423 桃の花隠れ家なるに吠ゆる犬
2424 草庵や蘆屋の釜に暮るゝ春
2425 牽船の縄のたるみや乙鳥
2426 三河屋へひらりと這入る乙鳥哉
2427 呑口に乙鳥の糞も酒屋哉
2428 鍋提げて若葉の谷へ下りけり
2429 料理屋の塀から垂れて柳かな
2430 酒少し徳利の底に夜寒哉
2431 酒少し参りて寐たる夜寒哉
2432 眠らざる夜半の灯や秋の雨
2433 電燈を二燭に易へる夜寒哉
2434 秋風の聞えぬ土に埋めてやりぬ

大正4年(1915年)

2435 春を待つ支那水仙や浅き鉢
2436 真向に坐りて見れど猫の恋
2437 柳芽を吹いて四条のはたごかな
2438 筋違に四条の橋や春の川
2439 紅梅や舞の地を弾く金之助
2440 春の川を隔てゝ男女かな
2441 萱草の一輪咲きぬ草の中
2442 牡丹剪つて一草亭を待つ日哉
2443 椿とも見えぬ花かな夕曇
2444 宝寺の隣に住んで桜哉
2445 白牡丹李白が顔に崩れけり
2446 木屋丁や三筋になつて春の川
2447 竹一本葉四五枚に冬近し
2448 女の子十になりけり梅の花
2449 水仙や早稲田の師走三十日
2450 水仙花蕉堅稿を照しけり
2451 菊の花硝子戸越に見ゆる哉

大正5年(1916年)

2452 春風や故人に贈る九花蘭
2453 白梅にしぶきかゝるや水車
2454 孟宗の根を行く春の筧哉
2455 梅早く咲いて温泉の出る小村哉
2456 いち早き梅を見付けぬ竹の間
2457 梅咲くや日の旗立つる草の戸に
2458 裏山に蜜柑みのるや長者振
2459 温泉に信濃の客や春を待つ
2460 橙も黄色になりぬ温泉の流
2461 鶯に聞き入る茶屋の床几哉
2462 鶯や草鞋を易ふる峠茶屋
2463 鶯や竹の根方に鍬の尻
2464 鶯や藪くゞり行く蓑一つ
2465 鶯を聴いてゐるなり縫箔屋
2466 鶯に餌をやる寮の妾かな
2467 温泉の里橙山の麓かな
2468 桃の花家に唐画を蔵しけり
2469 桃咲くやいまだに流行る漢方医
2470 輿に乗るは帰化の僧らし桃の花
2471 町儒者の玄関構や桃の花
2472 かりにする寺小屋なれど梅の花
2473 文も候稚子に持たせて桃の花
2474 琵琶法師召されて春の夜なりけり
2475 春雨や身をすり寄せて一つ傘
2476 鶯を飼ひて床屋の主人哉
2477 耳の穴掘つてもらひぬ春の風
2478 嫁の里向ふに見えて春の川
2479 岡持の傘にあまりて春の雨
2480 一燈の青幾更ぞ瓶の梅
2481 病める人枕に倚れば瓶の梅
2482 梅活けて聊かなれど手習す
2483 桃に琴弾くは心越禅師哉
2484 秋立つや一巻の書の読み残し
2485 蝸牛や五月をわたるふきの茎
2486 朝貌にまつはられてよ芒の穂
2487 萩と歯朶に賛書く月の団居哉
2488 棕櫚竹や月に背いて影二本
2489 秋立つ日猫の蚤取眼かな
2490 秋となれば竹もかくなり俳諧師
2491 風呂吹きや頭の丸き影二つ
2492 煮て食ふかはた焼いてくふか春の魚
2493 いたづらに書きたるものを梅とこそ
2494 まきを割るかはた祖を割るか秋の空
2495 饅頭に礼拝すれば晴れて秋
2496 饅頭は食つたと雁に言伝よ
2497 吾心点じ了りぬ正に秋
2498 僧のくれし此饅頭の丸きかな
2499 瓢箪は鳴るか鳴らぬか秋の風

年月不詳

2500 忠度を謡ふ隣や春の宵
2501 帰り路は鞭も鳴さぬ日永かな
2502 馬市の秣飛び散る春の風
2503 春雨や四国遍路の木賃宿
2504 野を焼た煙りの果は霞かな
2505 春の水馬の端綱をひたしけり
2506 鶯や障子あくれば東山
2507 鳴く蛙なかぬ蛙とならびけり
2508 大方はおなじ顔なる蛙かな
2509 遠雷や香の煙のゆらぐ程
2510 夏草の下を流るゝ清水かな
2511 蚊ばしらや断食堂の夕暮に
2512 蓮毎に来るべし新たなる夏
2513 そり橋の下より見ゆる蓮哉
2514 ひとむらの芒動いて立つ秋か
2515 びんに櫛そよと動きぬ今朝の秋
2516 うそ寒や綿入きたる小大名
2517 明けたかと思ふ夜長の月あかり
2518 吾猫も虎にやならん秋の風
2519 すゞなりの鈴ふきならす野分哉
2520 酔過ぎて新酒の色や虚子の顔
2521 長からぬ命をなくや秋の蝉
2522 いくさやんで菊さく里に帰りけり
2523 元禄の頃の白菊黄菊かな
2524 ふつゝかに生れて芋の親子かな
2525 行く年を隣の娘遂に嫁せず
2526 発句にもまとまらぬよな海鼠かな
2527 水仙や朝ぶろを出る妹が肌


(参考その一) 「夏目先生の俳句と漢詩(寺田寅彦)」周辺

https://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/43569_24585.html

 夏目先生が未だ創作家としての先生自身を自覚しない前に、その先生の中の創作家は何処(どこ)かの隙間を求めてその創作に対する情熱の発露を求めていたもののように思われる。その発露の恰好(かっこう)な一つの創作形式として選ばれたのが漢詩と俳句であった。云わば遠からず爆発しようとする火山の活動のエネルギーがわずかに小噴気口の噴煙や微弱な局部地震となって現われていたようなものであった。それにしてもそのために俳句や漢詩の形式が選ばれたという事は勿論偶然ではなかったに相違ない。先生の自然観人世観が始めから多分に俳句漢詩のそれと共通なものを含んでいた事は明らかであるが、しかしまた先生が俳句漢詩をやった事が先生の自然観人世観にかなりの反作用を及ぼしたであろうという事も当然な事であろう。ともかくも先生の晩年の作品を見る場合にこの初期の俳句や詩を背景に置いて見なければ本当の事は分らないではないかと思う事がいろいろある。少なくも晩年の作品の中に現われている色々のものの胚子(はいし)がこの短い詩形の中に多分に含まれている事だけは確実である。
 俳句とは如何なるものかという問に対して先生の云った言葉のうちに、俳句はレトリックのエッセンスであるという意味の事を云われた事がある。そういう意味での俳句で鍛え上げた先生の文章が元来力強く美しい上に更に力強く美しくなったのも当然であろう。また逆にあのような文章を作った人の俳句や詩が立派であるのは当然だとも云われよう。実際先生のような句を作り得る人でなければ先生のような作品は出来そうもないし、あれだけの作品を作り得る人でなければあのような句は作れそうもない。後に『草枕』のモニューメントを築き上げた巨匠の鑿(のみ)のすさびに彫(きざ)んだ小品をこの集に見る事が出来る。
 先生の俳句を年代順に見て行くと、先生の心持といったようなものの推移して行った迹(あと)が最もよく追跡されるような気がする。人に読ませるための創作意識の最も稀薄な俳句において比較的自然な心持が反映しているのであろう。例えば修善寺における大患以前の句と以後の句との間に存する大きな距離が特別に目立つ、それだけでも覗(うかが)ってみる事は先生の読者にとってかなり重要な事であろうかと思われる。
 色々の理由から私は先生の愛読者が必ず少なくもこの俳句集を十分に味わってみる事を望むものである。先生の俳句を味わう事なしに先生の作物の包有する世界の諸相を眺める事は不可能なように思われる。また先生の作品を分析的に研究しようと企てる人があらばその人はやはり充分綿密に先生の俳句を研究してかかる事が必要であろうと思う。
(昭和三年五月『漱石全集』第十三巻、月報第三号)


(参考その二)  「漱石の親友 天然居士・米山保三郎」周辺

https://rendezvou.exblog.jp/7067220/

 学生時代の夏目金之助に作家になることを勧め漱石が彼の言葉に強く動かされた人物・米山保三郎のことはよく知られています。ただ、これまで研究者の中で誤解があり、漱石の語句の解釈に問題があるまま流布されてきたのが現状です。

「天然居士は空間を研究し、論語を読み、焼芋を食い、鼻汁を垂らす人である」

 焼き芋と鼻汁を垂らす、これは禅の歴史に実在した中国の禅僧・懶さん(王ヘンに賛)和尚の故事から来る引用なのでした。漱石は畏敬する親友の米山保三郎へ深い愛情と禅に生きる彼を讃える意味で書いたものでしょう。しかし、世間一般ではなかなか通用しない事も充分知っていました。そうであるからこそ、『猫』のなかで次のように書いているのです。

「天然居士は空間を研究し、論語を読み、焼芋を食い、鼻汁を垂らす人である」

 苦沙弥先生、一気呵成にこう書き流し、声を出してこれを読み、「ハハハ面白い」と笑うが、「うん。鼻汁を垂らすはさすがに酷だ、焼き芋も蛇足だ」と線を引き。結局「天然居士は空間を研究し論語を読む人である」だけにしたころで、これではあまりに簡単すぎると全部ボツにして、原稿用紙の裏に「空間に生れ、空間を究め、空間に死す。空たり間たり天然居士、噫」

 実際、漱石はこの米山の兄、熊次郎から実弟の写真へ揮毫を懇望されて、漱石は俳句を書いています。その俳句とは、

空に消ゆる鐸のひびきや春の塔 という追悼の一句です。親友の死を悼む漱石の心情があふるるばかり、見事な名句と思います。写真は400X300mm、単身像の右側にこの句があり、左にこう記されています。

空間を研究する天然居士の肖像に題す 己酉 四月 漱石

 己酉,となれば、1909年、明治四十二年です。漱石が朝日新聞社に入社して2年目の四月に詠んだものと明確に判るのが嬉しいところです。また、米山が鼻水を垂らすの表現がとかく世俗的に解釈され、漱石がいかにしてこの語句を入れたかということは研究者の間でないがしろにされて来ました。しかし、漱石がただ、ユーモラスにこんな語句を入れるはずはないのです。洟を垂らそうが自分は三昧になっているのだという仏道の修行による逸話なのです。

 出典もありますから、その引用もしておきましょう。『碧巖録』第三十四則より。

「懶瓚和尚。隱居衡山石室中。唐德宗聞其名。遣使召之。使者至其室宣言。天子有詔。尊者當起謝恩。瓚方撥牛糞火。尋煨芋而食。寒涕垂頤未甞答。使者笑曰。且勸尊者拭涕。瓚曰。我豈有工夫為俗人拭涕耶。竟不起。使回奏。德宗甚欽嘆之。」

(懶瓚和尚、衡山石室の中に隱居す。唐の德、宗其の名を聞いて、使を遣して之を召す。使者、其の室に至つて宣言す。天子詔有り、尊者まさに起つて恩を謝すべし。瓚、まさに牛糞の火を撥つて、煨芋を尋ねて食す。寒涕、頤に垂れて未だ甞て答えず。使者笑つて曰く、且らく勸む、尊者、涕を拭え。瓚曰く、我れ豈に工夫の俗人の為に涕を拭くこと有らん耶といつて、竟に起たず。使、回つて奏す。德宗、甚だ之を欽嘆す。)

 私は嘗て東慶寺の井上禅定和尚様から分かりやすいお話を聞いておりました。

昔、中国の偉い坊さんがあって皇帝が先生になってくれって勅使を迎えに遣るんだ。当時の中国では牛の糞の乾いたのを焚き付けにしてその牛糞の火の中へ芋をいれて焼いている処へ勅使が来た。らいさん和尚は牛糞の中から芋を掘り出して勅使に食えって云うんだ。勅使が見るとこの和尚、鼻水を垂らして下顎まで延びている。それを勅使は「まあ、洟を拭きなさいと云ったんだ。

なんだ、お前はそんな事で来たのか、勅使としておれを迎えに来たのではねえのか。おれが洟を垂らしていようがそんな事どうでもいい事だ、おれは三昧になっているんだ。っていう面白い問答があるんだよ。それを元にして漱石は「焼き芋を食らい、鼻汁を垂らす」てな、昔の懶瓚和尚がやったという事を思い出して書いているんだけれど、猫に笑われるから消しちゃうんだ。」(鎌倉漱石の会会報所載)

 やはり禅定様の仰ることは納得のゆくものですね。

念のために付記しますと、漱石の友人で円覚寺・釈宗演の師である今北洪川について参禅をし、居士号を与えられた逸材が二人いました。無為という居士号は菅虎雄、天然の居士号は米山保三郎でした。米山は不運にも若くして病死したのでしたが、彼の伝記を漱石が書くという計画もあったと狩野亨吉は書いています。漱石がもう少し生きていたらなば実現したかも知れないのですが…。
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