SSブログ

「子規・漱石・寅彦・東洋城」俳句管見(その十二) [子規・漱石・寅彦・東洋城]

その十二「明治三十三年(一九〇〇)・「五月雨」など」

(子規・三十四歳。八月、喀血。同、二十六日渡欧前の離別に漱石が訪問。)
https://shiki-museum.com/masaokashiki/haiku?post_type=haiku&post_type=haiku&haiku_id=&p_age=34&season=&classification=&kigo=%E4%BA%94%E6%9C%88%E9%9B%A8&s=&select=

五月雨や上野の山も見あきたり  ID24271 制作年34 季節夏 分類天文 季語五月雨
五月雨や背戸に落ちあふ傘と傘  ID24272 制作年34 季節夏 分類天文 季語五月雨
五月雨や畳に上る青蛙      ID24273 制作年34 季節夏 分類天文 季語五月雨
五月雨や棚へとりつくものゝ蔓  ID24274 制作年34 季節夏 分類天文 季語五月雨
根だ搖く川辺の宿や五月雨    ID24275 制作年34 季節夏 分類天文 季語五月雨
病人に鯛の見舞や五月雨     ID24276 制作年34 季節夏 分類天文 季語五月雨
病人の枕ならべて五月雨     ID24277 制作年34 季節夏 分類天文 季語五月雨

(漱石・三十四歳。英国留学。)

11  さみだれに持ちあつかふや蛇目傘(明治二十四年)
185  五月雨ぞ何処まで行ても時鳥(明治二十八年。「子規へ送りたる句稿三」)
499  馬子歌や小夜の中山さみだるゝ(同上。「子規へ送りたる句稿九」)
798  海嘯去つて後すさまじや五月雨(明治二十九年。「子規へ送りたる句稿十五」)
935  橋落ちて恋中絶えぬ五月雨(同上。「子規へ送りたる句稿十九」)
938 五月雨や鏡曇りて恨めしき(同上)
1196 五月雨や小袖をほどく酒のしみ(同上。「子規へ送りたる句稿(二十五))
1197 五月雨の壁落しけり枕元(同上)
1198 五月雨や四つ手繕ふ旧士族(同上)
1199 目を病んで灯ともさぬ夜や五月雨(同上)
1213 五月雨の弓張らんとすればくるひたる(明治三十年。「子規へ送りたる句稿二十五」)
1215 水攻の城落ちんとす五月雨(同上)
2082 五月雨や主と云はれし御月並(明治四十一年)
2091 一つ家を中に夜すがら五月雨るゝ(同上)
2098 五月雨やももだち高く来る人(明治四十二年)

(寅彦、二十三歳。「夏子(初妻))を高知から呼び寄せ、本郷区西片町(現、文京区に住む。田丸卓郎が東京帝国大学助教授となり、再び教えを受けるようになる。九月、イギリスに留学する漱石を横浜埠頭(ふとう)を見送る。十二月、夏子が喀血する。)

五月雨や窓を背にして物思ふ(明治三十一年作)
五月雨や堂朽ち盡し屋根の草(明治三十四年作)
五月雨の町掘りかへす工事かな(同上)
五月雨や土佐は石原小石原(同上)
五月雨や根を洗はるゝ屋根の草(同上)

(東洋城、二十三歳。「東洋城全句集上・中巻」)
「七月第一高等学校卒業。東京帝国大学へ入学す。東洋城と号す。その後、緑山、松琴書屋主人、秋谷立石山人の別号をもった。九月、漱石がイギリスへ留学の途に上った。」

五月雨(さみだれ)や茶を挽くにねむうなり(明治三十三年作。二十三歳。) 
五月雨(さつきあめ)試験の心くだちけり(同上)


(参考) 「子規・碧悟桐・虚子」(碧悟桐「子規を語る」)周辺

https://plaza.rakuten.co.jp/akiradoinaka/diary/202105170000/

正岡子規(自画像).jpg

正岡子規(自画像)
https://www.mcvb.jp/photo/detail.php?i=203

≪ 碧梧桐は、帰郷した子規に野球を教わったことがきっかけとして、同級生の高浜虚子を誘って子規より俳句を学びます。
 明治26(1893)年には、第三高等学校(現京都大学)入学しますが、第三高等学校解散のあおりを受けて、第二高等学校(現東北大学)に編入します。ただ、碧梧桐は勉強に興味がなくなり、中退しようと認め、子規に注意を受けています。一方、虚子も碧梧桐とともに中退していたのですが、子規にそのことを隠しており、虚子の人生にかいま見える狡さがこのころからも現れています。
『子規を語る』の「二高退学」をご覧ください。
 
 明治二十七年は私一個人にとって、いろんな事件の起伏した、落着かない騒がしい年だった。二月には子規からほとんど突然に「小日本」の見本を数百部も郵送されて、それをどう処分しようかに戸惑いしたりした。やむなく学校の生徒控席の掲示版に貼り出して、誰でも取るに任せたりした。子規が「小日本」を創刊するについて、どれほど日夜気苦労していたか、それをさえ想見する予備知識を私は持たなかった。ただ多年の宿題になっていた「月の都」がその第一号から発表されたことが、私の胸を躍らせた位だった。「小日本」は気の利いた、挿画の多い、調子の高い賑やかな新聞だった、と古い記憶を持っている人は、今でも口をそろえてそういう。アアいう調子の新聞がこの頃創刊されたのであったら、必ず成功したであろうともいう。私はそういう批判を明らかに下すほど、新聞に対する感興も持っていなかった。私は新聞「日本」を購読しながら政治論などには一度も目を通さなかった。予規の随筆と俳句欄を見るのみで満足していたのだ。
 四月の末には急病で父を失なった。そのため帰郷して、やっと学期試験に入洛した。学期試験中の試験勉強に草臥れて、ぐっすり寝込んでいた蚊帳の中に、意外にもこの一月から上京中であった虚子を迎える唐突な出来事があった。
「お前、どうしたんぞな」
「もうやめて来たのよ」
「やめて?」
「思うような学問するところは東京にもないな」
「ヘエー」
 私は彼の突然な転身を、ただ驚きの眼で迎えたきりだった。虚子は上京中殆んど何もしなかった。少々遊蕩気分を味った位だった。それで復校して、また窮窟な重詰学課をやると言った。
 学期試験が終るのと同時に、第三高等中学は解散されて、生徒は各地に四散せねばならぬ運命になった。復校を許された虚子は、私と同期生で、文科の本科一年生になったのであるが、私達は仙台の二高移転を志願して許可された。熊本に行くか、金沢に行くか、もしくは鹿児島に行くかが順当なのであったが、私達はただ東京を通過するという点だけで仙台を志願したのだった。
 仙台の二高は、選りに選って私達の意思に反する校風のギゴチなさで一杯だった。三高時代の生徒の自由が極度に束縛されていた。
 文科の本科生も、小学校生徒同様に取扱われていた。裏切られた私達は、毎日気まずい、重苦しい日を送った。毎晩蒸栗を買って来ては、それを二人で剥ぎながら、文学論、人間論、小説家論、現代の小説家評論などで僅かに鬱を散じていた。広瀬川を下に臨む公園を夜半に散歩しては、虚子の燈火観などをしみじみ聞き味うのだった。かくて二年もこの校風に縛られねばならない月日を無限に永いもののように思いなして、今度は私の方が退校論を高調した。復校して問もない虚子は、理性では幾分鈍っていたが、感情ではすっかり私に共鳴した。それで二高在学僅かに二ヶ月で、断然学校と縁を絶った。
 十一月末日のうら寒い日に、私は一人で松島見物などをして上京した。
 それまで子規は新聞事業で多忙であったし、私はいろんな身辺の事実に追われて、手紙の往復もほとんど絶えていた。ただ二高入学当時、東京で親しく子規の謦咳に接したのみだったが、この退学事件については子規も黙止し難かったと見え、左の一書を久しぶりにくれた。子規が仙台の下宿ーー大町通五丁目新町七、鈴木芳吉方ーー宛によこした手紙で、遺っている唯一のものである。
 碧梧桐詞兄 几下        子規拝
 御手紙拝見仕候、益々御清勝奉賀候、御申越之趣にていよいよ学校御退学と御決定被成候由誠にめでたく存候、それ位之御決心なくては小説家にはとてもなれ申まじく天ッ張れ見上げたる御事かなと祝い申候、虚子君の復校せられてよりまだ半年も立たぬ内に、またまた貴兄の退校とはよくよく入組んだ仕掛にて天公の戯謔もまたおもしろく候(以上世界観)
 然れども小生一個より見ればやはり退校之事は御とめ申候、殷鑑遠からず虚子兄にありと存候、学校をやめることがなぜ小説家になれるか一向分らぬ様に思われ候、学校をやめて何となさる御積りか定めて独学とか何とかいわるるならん、なれども独学の難きは虚子兄之熟知せらるる所に候えば同兄より御聞取り成さるべく候、況んや家郷と縁を断ちても遣りとげんとの御決定の由、万一貴兄独立して渡世せねばならぬようになりし暁には何となされ候ぞ「ただ一人の糊口なればそれにてよろしき事と思い居候」との御詞は已に世の中を御存知なき証拠なり、ただ一人の糊口を何とし遂げ給うぞ、よし糊口の道あるにせよそれは非常の困難と労力とを要する仕事にて、つまり小説書くひまなんどは無く、矢ッ張り中学にぶらぶらしておって、相間相間にむだ書していた方が余程ましだったというようなことにはならぬかと存候、つまり貴兄の退校は先日の虚子兄と同じく学校がいやという一点より湧き出した考にて、学校を出て後始めて学校の極楽場たるを知るの愚を学び給わぬかと推察致候。
 それよりもここにもっともおかしきは御書中「これ実に小子の身において最大激変なり」などと書き立て給いしことなり、貴兄自身において最大激変と思い給う程ならば、先ず学校はやめぬ方がよきかと存候、人間世界で最大激変ということは総て善からぬことに候、自分之事いうでなけれど小生の退学せし時などは、小生自身に取りては毫も変動なかりしことにて、一週間に一度くらい登校せしものがその義務を免れし位之者にて候いき、鷺は立てども後を濁さずとか、退学するにしても先ずこの学期だけは試験をすまし、冬期休業には一旦御上京なさるべく御面会致候上縷々可申上候(以上個人観)
 十月二十九日夜獺祭書屋燈下に認む
 
 この手紙では退学を相談してやった返事のようであるが、この時は既に万事を決行していた後だった。虚子も同時に退学したのだったが、子規の手前を気がねして、ただ私一人の問題のように繕っていたのだった。
 虚子は退学攻撃の鉾先きを避けるためであったであろう、なおしばらく仙台に留まっていた。「のぽさん、おこっといでるな」と二人で話し合った心の中は息のつまるような暗さだった。
「よく退学おしたな」と誉められようとも予期してはいなかったのであるが、こう冷静に真向うからドヤしつけられようとも考えていなかったのだった。
 それでも同じクラスの人達が二人の送別会を開いてくれた時には、今日から社会の自由大学で奮闘して、必ず素志を達して見せる、と言ったような気烙を吐いて、私は何か留別の句を席上で読み上げたりした。 ≫
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。