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「子規・漱石・寅彦・東洋城」俳句管見(その十三) [子規・漱石・寅彦・東洋城]

その十三「明治三十四年(一九〇一)・「野分」など」

(子規・三十五歳。)
https://shiki-museum.com/masaokashiki/haiku?post_type=haiku&post_type=haiku&haiku_id=&p_age=34&season=&classification=&kigo=%E9%87%8E%E5%88%86&s=&select=

鶏頭ノマダイトケナキ野分カナ  ID24393 制作年34 季節秋 分類天文 季語野分
野分近ク夕顔ノ實ノ太リ哉    ID24394 制作年34 季節秋 分類天文 季語野分
夕顔ヤ野分恐ルヽ實ノ太リ    ID24395 制作年34 季節秋 分類天文 季語野分

(漱石・三十五歳。)

112 この夕野分に向て分れけり(明治二十八年。「子規へ送りたる句稿一」)
206 鎌倉堂野分の中に傾けり(同上。「子規へ送りたる句稿四」)
219 四里あまり野分に吹かれ参りたり(同上)
240 荒滝や野分を斫て捲き落す(同上)
257 野分吹く瀑砕け散る脚下より(同上)
258 滝遠近谷も尾上も野分哉(同上。「子規へ送りたる句稿五」)
505 野分して朝鳥早く立ちけらし(同上。「承露盤」より)
954 野分して一人障子を張る男(明治二十九年。「子規へ送りたる句稿二十」)
1246 砂山に薄許りの野分哉(明治三十年。「七月四日~九月七日まで上京。子規句会」)
1296 野分して蟷螂を窓に吹き入るゝ(明治三十年。「子規へ送りたる句稿二十六」)
1425 病癒えず蹲る夜の野分かな(明治三十一年。「子規へ送りたる句稿三十一」)
1808 礎に砂吹きあつる野分かな(明治三十四年。「ロンドン在留邦人句会での作」)
1809 角巾を吹き落し行く野分かな(同上)
1899 釣鐘のうなる許りに野分かな(明治三十九年。「東洋城宛書簡」)


(寅彦、二十四歳。高知から夏子をよび本郷西片町に住む。夏子喀血。夏子療養のため帰郷、種崎に住む。長女貞子誕生。肺尖カタルのため一年休学須崎にて療養。)

弦月の下吹き通す野分かな(明治三十一年作)
一夜荒れて晴てしまひし野分哉(同上)
悉く稲倒れ伏す野分哉(同上)
牛小屋の屋根を野分にさらはれつ(明治三十一~二年作)
旅僧の袖もさけよと野分かな(同上)
ばらばらに芭蕉さけたる野分哉(同上)
引越して野分淋しや野分の夜(明治三十二年作)
散々に卒塔婆倒れし野分哉(同上)
本堂の瓦はがれし野分哉(同上)
汽笛高く野分の汽車の通りけり(同上)
野分止んで夕日の富士を望みけり(同上)
雪隠の窓や野分の森を見る(明治三十三年作)
野分やんで波を己に出る浜辺哉(同上)


(東洋城、二十四歳。「東洋城全句集上・中巻」)

一泊の旅の松戸の野分か (明治三十四年作)
この町の尽くる我が家に野分かな(同上)


(参考) 「子規・碧悟桐・虚子」(碧悟桐「子規の回想」)周辺

https://plaza.rakuten.co.jp/akiradoinaka/diary/202105190000/

虚子と碧悟桐.jpg

http://www.s-kawano.net/s-kawano/%E6%AD%A3%E5%B2%A1%E5%AD%90%E8%A6%8F.pdf

≪ 二高を辞めた碧梧桐と虚子は、子規を頼って上京し、初めは小石川にあった新海非風の家に逗留しています。この頃、日清戦争の取材で、従軍記者として中国に渡った子規は、帰りの船で吐血し、生死の際を彷徨います。碧梧桐と虚子は、子規のいる神戸の病院へ向かい、力の限りの看病をしました。
 このころの二人の生活は、学問を疎にして遊び歩く放蕩の時間を過ごしています。
 子規は、二人を案じました。虚子の『子規居士と余』には「お前一人の時はその程でもないが、秉公(=碧梧桐)と一緒になると忽ち駄目になってしまうように思う。どちらが悪いということもあるまいが、要するに二人一緒になるということがいけないのである」と言われたことを記しています。
 明治28年12月9日、子規は虚子を道灌山へ呼び出し、後継者として身を律し、ふさわしい学問を身につけるように迫ります。しかし、虚子は後継者への道を拒絶します。
 
 子規が早くから俳句の才能を認めていたのは碧梧桐でした。
 明治24年の句会で詠んだ碧梧桐の「面白うきけば蜩夕日かな」に、子規は「諸君取りたまわず。余独りこれを賞す。けだし蕉翁の余韻あればなり」と激賞しています。また、翌年1月21日の碧梧桐宛手の手紙では「我庵はの御句近頃斬新の御手並驚入申候。余は古白の胸中より出しものかと思候もおかし」と書き、6月7日の碧梧桐宛手紙にも「先便の炭売の句蚊柱の句を拝見してその妙なるに驚きしが今度の句はことごとく極上極上、吉のしろ物のみにて貴兄今までの御什中かくの如きのものは一句も見当り不申候。小生一両月前貴兄すでに理想の極点に達し給いし故、日ならずして上達し給わんとは予言せしかともかくまで早からんとは存し不申き」と、碧梧桐の進歩を認めています。
 しかし、碧梧桐は放蕩を好みました。俳句への関心もそれほど深いものではない碧梧桐に対して、子規は幻滅するようになりました。子規は、道灌山での様子を俳友五百木瓢亭に知らせる手紙で「碧梧虚子の中にても碧梧才能ありと覚えしは真のはじめのことにて小生は以前よりすでに碧梧を捨て申し候」と記しています。子規は放埓な生活ぶりのために碧梧桐を後継者として認めることはできなかったのでした。
 
 明治29年12月10日、雑誌「日本人」に連載した時評『文学』で、子規は碧梧桐の変化を記しています。
 
 河東碧梧桐が俳句なるものを認めたるは明治二十三年の頃なるべし。二十四年より作り始めたるにその敏才ははやく奇想を捻出し、句法の奇なるものを作りてもって吾人を驚かしぬ。
……
 二十七年春以後彼は毫も進歩をなさざりき。曩時の麒麟児も一個の豚犬と化し去りぬ。由来彼は秩序的の能力と推理的の常識とを欠く者、少事にありて敏才の人を驚かしたるは彼の不規則なる発達がたまたま文学の方面に向かいしがためなるべし。薄弱なる彼の脳漿は平和なる時沈静しおる時に当りて初めて用をなすべし。一たび外部の刺激に逢えば脳漿忽ちに混乱すべく、混乱して後は殆ど狂の如く愚の如し。彼は修学のため一たび東京に来り。二たび故郷に帰り、三たぴ京都に行き、四たび仙台に遷る。(これ学校制度変更の結果なり)さらでも規則的の修学に適せざる頭脳はこの大混乱に逢うていかでか堪え得ん、この年の暮退学して東京に来れり。明治二十八年は最早学課無く束縛無く詩人として如何様にも発逹すべき機会に遭遇せり。しかれどもその混乱せられたる頭脳は未だ沈静せざるがため彼は平平凡凡なる一年を送りたり。あるいは人をして邪路に陥るにはあらずやと疑はしむるに至りぬ。
……
 明治二十九年とはなりぬ。吾は咋年末昏昏として睡眠に余念なき俳友を起さんとしてしきりに務めたり。しかして第一に起き来りしは碧梧桐なり。最早脳漿沈静したりとおぼし。彼はたしかに一点の霊光を拝したるに相違あらじ。その俳句は一種の趣味を具えてしかも古人の言わざる処をのみ言えり。しかしてその句法一として勁抜ならざるはなし。
……
 これらの句は実に碧梧桐の特色にして去年の碧梧桐は未だこれを知らざりしなり。吾人も始めてこの種の句を見たるなり。俳句自身もまた始めてこの種の句を見たるならん。しかしてこの句を読む者皆その印象の明瞭なるを認むなるべし。印象の明瞭ということは多く余韻ということと相反す。鳴雪の余韻を好むに反して碧梧桐は明瞭なる印象を好む。印象をして明瞭ならしめんとせば空間を狭くせざるべからず。空間狭ければ些事徽物または大事物の断片を容るるに過ぎず。故に碧梧桐の句には小事小物を詠ずる者自ら多し。
……
 碧梧桐既に印象の明瞭なる者を好む、従って客観の事物といえども壮大に過ぎて茫漠たる者を排す。況して主観的の句に至りてはほとんど全くこれを排し去りて毫も取る所なし。これその性質の然らしむるもの。碧梧桐は始終このままにて押し行くべし。故にその作句また主観的なる極めて稀なり。(文学 明治29年12月10日)
 
 11月20日の「「日本人」」『文学』には碧梧桐と虚子を比べ、「詩人の頭脳に両面の活動あり。一面は冷淡に社会を観察し、他の一面は熱情をもってある事物に同感を表す。両面斉しく発達するものもなきにあらねど、多くは両者執れかに僻す。前者に僻するを写実派といい、後者に僻するを理想派という。碧梧桐は冷かなること水の如く、虚子は熱きこと火の如し。碧梧桐の人間を見るはなお無心の草木を見るがごとく、虚子の草木を見るはなお有情の人間を見るがごとし。随ってその作る所の俳句も一は写実に傾き、一は理想に傾く。一は空間を現し、一は時間を現す」と書いています。
 
 碧梧桐は『子規の回想』で、当時を振り返っていますが、こうした放蕩生活で、明治28年から勤めていた「日本」を辞めなければならなくなります。ただ、こうした放蕩な生活は、次第に影を潜めていきます。碧梧桐は『子規の回想』で、当時を振り返っていますが、こうした放蕩生活で、明治28年から勤めていた「日本」を辞めなければならなくなります。ただ、こうした放蕩な生活は、次第に影を潜めていきます。
 
 子規との道潅山のいきさつなど全然知らなかった私は、虚子に会う毎に別れている不便と寂寞を訴えていたのみならず、子規との喧嘩別れに、少々ヤケも手伝ってか、もう大ぴらに私と同宿する気にもなったのだろう。
 実は初めて白状するが、と言って、須磨保養院以来の話をして、それをお前に打ち明けて言えなかったアシの心の苦痛を察しておくれ、実際お前の顔を見る度にすまんすまんと思っていたのだ、もうアシもな、升さんに捨てられたのだから、今後はお互いに思う存分勝手なことをやろうじゃないか、などとその頃よく行った連雀町の「ぼたん」という安鳥屋で、酔った虚子が管を巻いたものだった。
 この高田屋へは、子規も一、二度来たこともあるが、瓢亭、肋骨など主人夫婦と仲良しになって、オイ阿爺と門口から大きな声で呼びかけたりしていた。ことに牛伴君は八々のいい相手というので、我々のいるいないにに関らず、遊びに来たものだった。
 われわれの中学同窓の青木森々も、二十九年中には同宿の仲間になっていた。三人してかなり放埒な日々をおくったものだ。それに私は何月であったか表面は、従軍していた先輩達が皆帰って来たし、社の人物過剰という意味で、「日本」新聞社をやめさせられた。が、実は無学無能、新聞人にはなれないという折紙をつけられたのだ。ここに再び、前年のように、先輩誰もが匙を投げるような、碧虚二人の荒んだ遊蕩生活が繰返されるいいコンディションを醸成していた。何かしら不平であり、不安であり、身は自由不拘束なんだ。もし軍資金でも十分であったとしたら、それこそ本当に、子規から見放されていたかも知れなかった。
 が、二年前の本郷下宿時代、二高をやめて東上した自分とは、もう環境がすっかり違っていた。俳句の世が、我々内輪のものでなくて、世間に公認された公のものになっていた。我々のようなデカダンなあばずれ書生でもが、いわゆる日本派中堅どころの声誉を嬴得ていた。ポッポツ文学雑誌などの選などを頼まれて、小遣い位出来るようになっていた。(河東碧梧桐 子規の回想 当事の新調)
 
 また、明治30年1月の「ホトトギス」掲載の『明治二十九年の俳諧』でも、碧梧桐の句を「極めて印象の明瞭なる句」とし、虚子と碧梧桐が日本派のエースとして俳壇の前面に強く押し出していきます。
 
 碧梧桐と虚子は、明治29年4月から旧前橋藩士族・大畠豊水経営する神田淡路町の高田屋という下宿屋で、碧梧桐と再び同居を始めました。そこで22歳の虚子は、大畠家の次女いとを見初め、翌年6月に結婚することになります。たまたま、その年の1月に碧梧桐は天然痘に罹り、一か月ほど入院しなくてはならなくなりました。碧梧桐の方がいとと親しかったのですが、空白の時間のために虚子といとの親密度が増した結果でした。
 5月になると傷心の碧梧桐は、北陸の旅を思いつきます。まず京都へ行き、三高で学んでいた寒川鼠骨や新聞記者の中川四明に会い、米原から敦賀に出て金沢に着きました。金沢では同郷の竹村秋竹の家に身を寄せました。虚子の結婚式のある6月には能登へ向かっていると子規の容態が重くなったという知らせが届きます。しかし、虚子から焼香を得たとの連絡があり、碧梧桐は旅を続けました。この紀行は「日本」に連載され、碧梧桐が東京に戻ったのは7月でした。
 
 子規は、帰ってきた碧梧桐に句を贈っています。
   団扇出して先づ問ふ加賀は能登は如何      ≫
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