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「漱石・東洋城・寅彦」(子規没後~漱石没まで)俳句管見(その二) [漱石・東洋城・寅彦]

その二「明治三十七年(一九〇四)」

[漱石・三十八歳]
[明治37(1904) 4月 明治大学講師 12月「吾輩は猫である」を「山会」で朗読]

    子羊物語に題す十句(『沙翁物語集(小松武治訳)』の「序」の十句)
1855 雨ともならず唯凩の吹き募る(『リア王』に対応。)
1856 見るからに涼しき島に住むからに(『テンペスト』に対応。)
1857 骸骨を叩いて見たる菫かな(『ハムレット』に対応)
1858 罪もうれし二人にかゝる朧月(ロメオとジュリエット)に対応。)
1859 小夜時雨眠るなかれと鐘を撞く(『マクベス』に対応。)
1860 伏す萩の風情にそれと覚りてよ(『十二夜』に対応。)
1861 白菊にしばし逡巡らふ鋏かな(『オセロー』に対応。)
1862 女郎花を男郎花とや思ひけん『ヴェニスの商人』に対応。
1863 人形の独りと動く日永かな(『冬物語』に対応。)
1864 世を忍ぶ男姿や花吹雪(『お気に召すまま』に対応。)

(付記) 「シェイクスピアと漱石と俳句」周辺

https://fragie.exblog.jp/23124174/

[ (前略)
幸運にも夏目漱石は「俳句と外国文学」という文章を遺しているので多少なりとも彼の考え方や姿勢といったものを窺い知ることができる。上記の引用によれば夏目漱石はわれわれ日本人が外国文学を研究・批評する際に立脚する立場の標準として俳句が大いに参考になり役に立つというのだ。ここでは他民族やその文化を自己の文化を基準に判断する傾向すなわち夏目漱石におけるethnocentrism を認めることができるであろう。恐らくこうした考えを夏目漱石は現実の外国文学研究のよりどころとして考えていたのではあるまいか。従って俳句は夏目漱石の外国文学研究の上で大きな位置を占めていたものと思われる。
漱石の文学において俳句がいかに重要なものであったか、改めて知るところとなる。さらに興味ふかいのは、シェイクスピアの言葉に俳句を寄せているということだ。
 夏目漱石は小松武治訳の『沙翁物語集』序として以上十句の俳句を提示している。しかしながら一句一句の前にシェークスピアの章句を置いて意表を突いた意匠となっている。

十句がすべてシェイクスピアの作品の章句とともに引用されているのだが、ここでは数句の紹介にとどめたい。

I have full cause of weeping, but this heart
Shall break into a hundred thousand flaws
Or ere Iʼll weep, O fool! I shall go mad.
                  King Lear Act.Ⅱ .Sc.Ⅳ . 
雨ともならず唯凩の吹き募る

That skull had a tongue in it, and could sing once;
                  Hamlet Act.Ⅴ .Sc.Ⅰ .
骸骨を叩いて見たる菫かな
 
Lady, by yonder blessed moon I swear,
That tips with silver all these fruit-tree tops.
                  Romeo and Juliet Act.Ⅱ .Sc.Ⅱ .
罪もうれし二人にかかる朧月

邦訳がないのが残念であるが、「リア王」「ハムレット」「ロミオとジュリエット」にどういう俳句を漱石がつけたかがわかる。ほかに「テンペスト」「マクベス」「十二夜」「オセロー」「ヴェニスの商人」「冬物語」「お気に召すまま」などへの俳句がある。
以下に俳句のみ記しますので、興味のある方はどの俳句がどの作品につけられたものか当ててみてくださいませ。(中略)

 小夜時雨眠るなかれと鐘を撞く → 『マクベス』に対応。
 世を忍ぶ男姿や花吹雪     → 『お気に召すまま』に対応。
 白菊にしばし逡巡らふ鋏かな  → 『オセロー』に対応。
 見るからに涼しき島に住むからに→ 『テンペスト』に対応。
 女郎花を男郎花とや思ひけん  → 『ヴェニスの商人』に対応。
 伏す萩の風情にそれと覺りてよ → 『十二夜』に対応。
 人形の獨りと動く日永かな   → 『冬物語』に対応。       ]

[東洋城・二十七歳]
[新設の京都帝大に転ず。「俳諧十夜」を興す。虚子と「四夜の月」を行ふ。]

俳諧の十夜を修す柚味噌かな(前書「『俳諧十夜』より三十一句)
瓶のものに水仙剪るや四方の春(前書「床に掛軸鏡餅は据ゑたれど瓶に花忘られたり、けさとなりて母上庭に下り立ち水仙を剪り給ふ」)
※いとこなる女(おみな)と春を惜しみけり(明治三十八年作。二十八歳。)

[年譜の「俳諧十夜」と一句目の句は、京都での比叡山延暦寺の「十夜講」にならい「句三昧に入る十夜の勤行(ごんぎょう)の俳句鍛錬会」を実施したことと、その時の一句ということになる。また、「虚子と『四夜の月』を行ふ」は、大学の冬季休暇で帰京した際、「名月(十五夜月)・待宵月(十四夜月)・十六夜(十六夜月)・立待月(十七夜)」などを、景勝地などで吟行したことのようである(『渋柿の木ま下で(中村英利子)著)』)。
 二句目の前書「床に掛軸鏡餅は据ゑたれど瓶に花忘られたり、けさとなりて母上庭に下り立ち水仙を剪り給ふ」の「母上」が、宇和島藩八代藩主・伊達宗城の三女・敏子で、その二女が、柳原前光伯爵夫人・初子で、その二女(前光の芸者の子)・柳澤白蓮(燁子=あきこ)ということになる。すなわち、白蓮と東洋城とは、血縁関係のない従兄弟同士ということになる。そして、東洋城が、二十七・二十八・二十九歳の頃、この離婚して実家に身を寄せていた「柳原前光・初子」家に、寄寓していたということである。
 上記の「※いとこなる女(おみな)と春を惜しみけり」(明治三十八年作。二十八歳) の、その「いとこなる女(おみな)」とは、当時の「白蓮」その人であろう。

東洋城と白蓮.jpg

2014.9.24愛媛H新聞より
https://toonbusclub.jimdofree.com/%E6%83%A3%E6%B2%B3%E5%86%85%E7%A5%9E%E7%A4%BE-%E4%B8%80%E7%95%B3%E5%BA%B5/

[寅彦・二十七歳]
[四月、数理物理学会において最初の研究発表「ジェットによりて生ずる毛管波に就て」を発表。九月、東京帝国大学理科大学講師となる。]

朧夜や垣根に白き牡蠣の殻(「日本」四月十一日)
そゞろ寒鶏の骨打つ台所(「日本」十一月二十日) 

寅彦と夏子.jpg

「寺田寅彦・妻夏子」(「朝日新聞トラベル」)
http://www.asahi.com/travel/traveler/TKY200801110159.html

寅彦と家庭図.jpg

「寺田寅彦・妻夏子・寛子・紳」(「朝日新聞トラベル」)
http://www.asahi.com/travel/traveler/TKY200801110159.html

(付記) 「『団栗』寺田寅彦・妻夏子」(「朝日新聞トラベル」)(抜粋)
http://www.asahi.com/travel/traveler/TKY200801110159.html

[ 夏子が突然、血を吐いたのは1900年暮れ、東京・本郷西片町の家だった。熊本の第五高等学校の学生だった寅彦が14歳の夏子と結婚したのはその3年前。結婚後も夫熊本、妻高知と離ればなれだったふたりが、ようやく東京で同居して1年もたっていなかった。17歳の幼な妻には、新しい生命が宿っていた。

 翌年2月の暖かい日、寅彦は小康を得た夏子を伴って、家からほど近い小石川の植物園に行く。久しぶりの外出に喜んだ夏子は、園内の小道でドングリをハンカチいっぱい拾った。寅彦の「団栗(どんぐり)」はその思い出だ。夏子は半月後、高知に戻された。肺結核の伝染を恐れた寅彦の父・利正の判断だった。

 夏子は高知市内から小舟で2時間以上かかる種崎で療養した。空気のいい浜辺でという配慮だろうが、「隔離」でもあった。5月、女児誕生。東京で吉報を知った寅彦は「幸ありて桃の若葉と照り栄へよ」という俳句を日記に記した。父から貞子と名づけた、と知らせがきた。(中略)

 ふたりは仲むつまじい若夫婦だった。寅彦は、療養中の一日を記した夏子の日記を添削して、正岡子規が主宰する雑誌「ホトトギス」に投稿した。奈津女という名でその文は載り、夏子をいっとき、幸福にさせた。
 
 夏子は1883(明治16)年、熊本で生まれた。寅彦の父利正と同郷で陸軍仲間の阪井重季(しげすえ)の長女だった。兄2人と妹がいるが、夏子だけ高知で祖母に育てられた。

 阪井家は夏子にどこか冷ややかだった。東京で夏子が肺病で倒れ、若い夫婦が途方に暮れたときも、当時東京に住んでいた夏子の母がとんできて看病した気配はない。前後の年の日記は残っているのに、結婚年だけないのは、結婚に関して秘すべき事情が記してあったため、後に寅彦が廃棄した可能性が大きい。(中略)

「団栗(どんぐり)」の結末で、寅彦はドングリを拾う無邪気な遺児を見て、「始めと終わりの悲惨であった母の運命だけは、この子に繰り返させたくないものだ」と述懐する。「終わり」は理解できるが、「始めの悲惨」については不明とされていた。山田さんの推測通りなら、その意味が了解される。

 寅彦は夏子を忘れられなかった。

 「団栗」はじめ、いくつかの随筆にさりげなく登場させている。随筆を書くときは「吉村冬彦」というペンネームを使った。吉村は寺田家の先祖の名字であり、冬彦は「夏子」のイメージから、といわれる。

 夏子の忘れ形見、貞子は母と1歳半で死別し、母の記憶はなかった。

 寅彦は夏子の死後に再婚し、4人の子をもうけた。その妻も30代で急死、さらに再々婚した。3番目の妻を迎え、複雑な家庭ドラマが生じるが、それはそれでまた、別の物語である。 ]
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