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「漱石・東洋城・寅彦」(子規没後~漱石没まで)俳句管見(その一) [漱石・東洋城・寅彦]

その一「明治三十六年(一九〇三)」

[漱石・三十七歳]
[明治36(1903)1月 帰国 4月 第一高等学校講師 東京帝国大学英文科講師 10月 三女・英子誕生]」

1832 愚かなれば独りすゞしくおはします(熊本の俳人・「井上微笑」宛書簡)
1841 能もなき教師とならんあら涼し(同上)

[その書簡中に「近頃俳句杯やりたる事なく候間頗るマズキねのばかりに候」とある。子規没後は、俳句の実作から遠ざかっている雰囲気が伝わってくる。この「能もなき教師とならんあら涼し」の句は、大正五(一九一六)年に、漱石門下の松根東洋城が、俳誌「渋柿」を創刊するが、その時の大正天皇から俳句について聞かれた際の「渋柿のごときものにては候へど」の句と共に、その東洋城の句に先行する「能もなき渋柿共や門の内」(明治三十一年作)などに由来があるとされている。]

(付記) 漱石の「渋柿」の句など(その周辺)

https://plaza.rakuten.co.jp/akiradoinaka/diary/202106100000/

[  渋柿の下に稲こく夫婦かな  漱石(明28)
   渋柿や寺の後の芋畠     漱石(明治28)
   渋柿やあかの他人であるからは 漱石(明治30)
   能もなき渋柿共や門の内   漱石(明治31)
   渋柿や長者と見えて岡の家  漱石(明治32)
   渋柿やにくき庄屋の門構   漱石(明治34)
   渋柿も熟れて王維の詩集哉  漱石(明治43)

 東洋城は、本名を松根豊次郎といい、父は宇和島藩家老・松根図書(まつね・ずしょ)の息子でした。母は、宇和島藩主・伊達宗城(だて・むねなり)の娘。伯母の義弟が大正天皇の生母で、柳原白蓮は義理の従兄弟にあたります。当時、東洋城は宮内庁にいて、漱石から俳句を教わり、のちに「ホトトギス」に加わりますが、「自分の俳句の師は漱石である」と宣言し、虚子と袂をわかちました。大正5(1916)年に俳誌「渋柿」を創刊しますが、これは大正天皇から俳句について聞かれた際に「渋柿のごときものにては候へど」と答えたことに由来します。(中略)
 渋柿は『我輩は猫である』『趣味の遺伝』『野分』『三四郎』に登場します。
『我輩は猫である』『趣味の遺伝』では、インスピレーションを得るための手段として、また『我輩は猫である』では甘くなるという変化の象徴として、『野分』や『三四郎』では、話の本筋ではなくつまらぬもののイメージとして登場しています。(中略)

 十月二十二日〔日〕
 半晴。十一時過。三時半小便をする。
   〇嬉しく思ふ蹴鞠の如き菊の影
〇咋夜九時半頃胃癌の加藤さんが死んだよし。道理で眼を覚ますと人声が聞えた。余〔は〕看病のため徹夜するのかと思っていた。一等室に残るは胃潰瘍の二人である。その一人は二三日有つか有たぬかという所なり。
   〇肩に来て人恨かしや赤蛸蛉
   〇澁柿も熟れて王維の詩集哉(漱石日記)
 
 ある人はインスピレーションを得るために毎日渋柿を十二個ずつ食った。これは渋柿を食えば便秘する、便秘すれば逆上は必ず起るという理論から来たものだ。(吾輩は猫である 8) (後略) ]

[東洋城・二十六歳]
[一月、夏目漱石帰朝、東大及び一高の講師となったが。それより漱石庵入りびたりの状態で、漱石によって人間と文学の修養をつむ。一高俳句会を指導。腸チフスを病み東大を休学、宇和島の郷宅で躰を養う。]

菊を見つ熱重き瞼ふたぎけり(明治三十六年作。前書「病臥(腸チフス)抄」)
行秋のチフスが長い病にて(同上)
ぬくめ鳥暁の霜に放ちけり(同上。前書「七十余日後看護婦解雇」)
[この三句目の前書「七十余日後看護婦解雇」が、後の、東洋城の「柳原白蓮(義理のいとこ)」とのロマンスやスキャンダルなどの風聞に関連して、意味深長な雰囲気を有している。]

(付記その一)[松根東洋城と謎の「生クビ」]周辺

https://www.sankei.com/article/20200305-HWGTTXIYMVKVXOAZYLIACP76UY/

[漱石の門人はあまたあれど、なかでも名門の出身というと、松根東洋城(とうようじょう)(1878~1964年)が随一ということになるでしょう。彼の父方の祖父は宇和島藩の城代家老、松根図書(ずしょ)。母は「幕末の四賢侯」の一人として名高い伊達宗城(むねなり)の娘。つまり彼は、殿様の孫なのです。

伊達宗城.jpg

 東洋城は若い頃からイケメンとして名高く、女性関係も華やかだったようです。あの柳原白蓮(義理のいとこ)ともロマンスがあった。彼の肖像を写真で確かめてみると、顔の骨格が祖父の宗城にたいへんよく似ています。面長で、鼻が高く、額が広く、理知的なのですね。そういえば一度だけお目にかかったことのある信州松代の真田家のご当主(慶応義塾大学の教授でいらっしゃる。工学博士)も、タイプの同じ上品な方でした。宗城の実子が真田家に養子に行き、最後の藩主を務めた(維新後は伯爵)。 
 真田の殿様が血筋からすると伊達政宗の子孫というわけで、数奇なめぐりあわせです。
さて東洋城は生まれは東京ですが、愛媛県松山市の尋常中学に通いました。このとき同校に英語教師として赴任していたのが夏目金之助すなわち漱石で、彼から英語や俳句を学んで交流は卒業後も続き、生涯の師と仰ぐこととなったのです。東洋城を正岡子規に引き合わせたのも、漱石でした。彼は小説ではなく俳句の道に進むことになりますが、自分の師は子規ではなく、漱石である、と述べています。
 旧制の一高、東京帝国大学から京都帝国大学の仏法科へ。卒業後は宮内省に入り、さまざまな任に就いた後、大正8(1919)年に退官。明治43(1910)年には、自身が公務で逗留(とうりゅう)していた伊豆修善寺温泉への療養を、漱石に勧めました。胃潰瘍で苦しんでいた漱石はこれに応じたのですが、療養中に大吐血を起こしました。「修善寺の大患」です。
 育ちが良すぎたせいか、東洋城は敵が多かった。私たち一般人とは異なる感覚の持ち主だったのかもしれません。児童文学の草分け、鈴木三重吉との不仲は有名ですが、森田草平や芥川龍之介ら漱石の門人たちは、どうも東洋城より三重吉の肩を持っていたようです。高浜虚子とも『国民新聞』俳壇の選者の座をめぐって確執があり、大正5年に『ホトトギス』から離脱して以降は一切つきあわなかったそうです。(中略)
■「幕末の四賢侯」伊達宗城
1818~92年。旗本・山口家の子として江戸で生まれた。ただし彼の祖父・山口直清は宇和島伊達家の出身であり、跡継ぎのなかった伊達宗紀(むねただ)の養子として宇和島藩主の座につき、殖産興業を中心とした藩政改革を進めた。長州の大村益次郎を招いて軍制の近代化に取り組み、蒸気船を建造。公武合体論者で、幕末の激動期に大きな足跡を残した。]
(「産経新聞・本郷和人の日本史ナナメ読み」/本郷和人稿(東大史料編纂所教授)」) 

(付記その二) 「伊達の生首」

http://www.cyan-color.sakura.ne.jp/w-kuhyo2.html

[ わが祖先(おや)は奥の最上や天の川     東洋城   

とあるように先祖が出羽の国・最上藩にいたころに「生首」の伝説は始まる。
剛勇で知られた先祖の松根新八郎が、幽霊から頼まれて仇討ちの助力をした。
 ある夜、新八郎が城下を歩いていると鬼火がチラチラして幽霊が現れ、「ここは私の仇の家だが、お札が貼ってあって入れない。札を剥がしてもらえないか」と頼まれて剥がしてやったところ
幽霊は侍の姿になり、喜んで家の中へ飛び込んで行き、やがて血の滴る生首を下げて出て来た。侍の幽 
 霊は「何もお礼をするものがないから、これを」と、その生首を新八郎に渡したというのである。
松根家ではこれを邸内の竹薮に懇ろに葬った。
 以来、生首の絵を家の旗印(畳1畳半の大きさ)とし、兜の前立ての飾りにもした。
現在この「首」は宇和島市金剛山大隆寺に移され「松根首塚」として供養が続けられている。
最上から仙台、宇和島と「生首」は髑髏となってからも松根家とともに遠い旅をしたようだ。
松根家の墓所も大隆寺にあり、東京・築地で生まれた東洋城もここに眠っている。山門の横に「黛を濃うせよ草は芳しき」の美麗な石の句碑がある。
 東洋城という俳号は本名の豊次郎をもじったと聞くと、なんだか親近感が湧いて墓所の前を通る時は頭を下げる。
 ちなみに、伊達政宗公のご生母は出羽最上藩のお姫様であり、宇和島藩初代藩主・伊達秀宗公は政宗公の長子である。](「松本よし乃(平成24年4月21日愛媛県現代俳句協会総会の選評から)」)


[寺田寅彦(寅日子・牛頓)・二十六歳]
[気管支炎や肺炎カタルに悩まされる。一月に帰国した漱石との交流が再開。漱石は四月より東京帝国大学文科大学講師となる。七月、東京帝国大学理科大学大学院に進学。実験物理学を研究する。文部省震災予防調査会より海水振動の調査を委嘱される。]

五月雨や根を洗はるゝ屋根の草(明治三十六年作。「日本」六月四日)
道端や草の花とも実とも知れず(同上。「日本」十月二十九日)
竹隠の君子を訪ふや五月雨(同上。前書「午後夏目先生を訪ふ」)

(付記)[『科学と科学者のはなし 寺田寅彦エッセイ集』]周辺
https://www.milive-plus2.net/biburio2016/40014/#:~:text=%E5%AF%BA%E7%94%B0%E5%AF%85%E5%BD%A6%E3%81%AF%E7%89%A9%E7%90%86%E5%AD%A6%E8%80%85,%E3%82%82%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%8D%E3%81%9F%E4%BA%BA%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82

寅彦エッセイ集.jpg

[寺田寅彦は物理学者としてはとても有名で、東京大学の教授をしていたことがあります。また、日本学士院の恩賜賞という、学者に送られる日本で一番権威ある賞を受賞したこともあります。一方で作家としても、大学時代に夏目漱石に出会って弟子入りし、一番弟子としてずっと文学的な活動もしてきた人です。
 その寺田寅彦のエッセイ集。世の中にはたくさんのエッセイがありますが、寺田寅彦のエッセイが他とどう違うか。まず目の付け所が違います。物理学者なので、世の中のいろんな現象に目を向け、「さて、どうなっているのか」ということをずっと見ているのです。
 例えば満員電車について書いているエッセイ。満員電車はできれば避けたいところですが、寺田寅彦も同じで、満員電車をどうやったら避けられるかをずっと考えました。そして、ついに導き出した結論が「ひたすら空いている電車を待つ」。
 例えば御堂筋線などがとても混んでいたとしても、10分くらい待てばそれなりに空いている電車が来るんです。それがなぜかということを、具体的なデータやわかりやすい言葉で説明しています。
 また、文学的な情緒は夏目漱石の弟子ならでは。僕が一番好きなところで、線香花火について述べている文章があります。
 「実に適当な歩調と配置で、しかも充分な変化をもって火花の音楽が進行する。この音楽のテンポはだんだんに速くなり、密度は増加し、同時に一つ一つの火花は短くなり、火の箭(や)の先端は力弱く垂れ曲る。もはや爆裂するだけの勢力のない火弾が、空気の抵抗のためにその速度を失って、重力のために放物線をえがいて垂れ落ちるのである」
 科学的な情緒、そして文学的にわかりやすく伝えようという寺田寅彦の文章の面白さがよく詰まっているところだと思います。
 寺田寅彦は線香花火が大好きらしく、このあとで「線香花火の一本の燃え方には『序破急』があり『起承転結』があり、詩があり音楽がある」と書いています。これもすごく面白いと思います。
 寺田寅彦のいろいろなエッセイの中に、ひとつだけ科学的な考察がほとんどないエッセイがあります。その題名がなんと『夏目漱石先生の追憶』。亡くなった夏目漱石を寺田寅彦が思い出して書いたものです。文学的に淡々と書いているのですが、先生を失って悲しい、寂しいという寺田寅彦の気持ちが伝わってくるいい文章です。夏目漱石がどういう人だったかを知りたい人が読めば、夏目漱石の別の顔がよくわかることでしょう。](「金澤晴樹稿(奈良県・東大寺学園高校2年)」)
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