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「漱石・東洋城・寅彦」(子規没後~漱石没まで)俳句管見(その四) [漱石・東洋城・寅彦]

その四「明治三十九年(一九〇六)」

[漱石・四十歳[明治39(1906)、4月、「坊っちやん」(『ホトトギス』)、9月・「草枕」(『新小説』)、10月、「二百十日」、10月11日 、第1回「木曜会」。]

1882 春風や惟然が耳に馬の鈴(前書「『草枕』より十七句」。「惟然」は蕉門の俳人。)
1883 馬子唄や白髪も染めで暮るゝ春(同上。『草枕(二)』)
1884 花の頃を越えてかしこし馬に嫁(同上。『草枕(二)』。虚子宛書簡=「几董」調の句。)
1885 海棠の露をふるふや物狂ひ(同上。『草枕(三)』)
1886 花の影、女の影の朧かな(同上)
1887 正一位、女に化けて朧月(同上。『草枕(三)』。正一位=稲荷明神。)
1888 春の星を落して夜半のかざしかな(同上)
1889 春の夜の雲に濡らすや洗ひ髪(同上)
1890 春や今宵歌つかまつる御姿(同上)
1891 海棠の精が出てくる月夜かな(同上)
1892 うた折々月下の春ををちこちす(同上)
1893 思ひ切つて更け行く春の独りかな(同上)
1894 海棠の露をふるふや朝烏(同上。『草枕(四)』)
1895 花の影女の影を重ねけり(同上)
1896 御曹司女に化けて朧月(同上)
1897 木蓮の花許りなる空を瞻(み)る(同上。『草枕(十一)』)
1898 春風にそら解け襦子の銘は何(同上。『草枕(十三)』)

漱石「草枕」.jpg

[これならわかる!夏目漱石の「草枕」](熊本市)
https://www.city.kumamoto.jp/nishi/hpKiji/pub/detail.aspx?c_id=5&id=8055&class_set_id=3&class_id=692

[東洋城・二十九歳。宮内省に入り、それより式部官、宮内書記官、帝室会計審査官を歴任。十月、漱石の面会日が木曜日と定められ、寺田寅彦、森田草平、鈴木三重吉、野上白川(豊一郎)、小宮豊隆、安倍能成等と知った。子規母語の俳壇は、定型と非定型とに二分された。その非定型の碧悟桐の「俳三昧」に対抗して、虚子と「俳諧散心」を興した。 ]

※いとこなる女(おみな)と春を惜しみけり(明治三十八年作。二十八歳。)
黛を濃うせよ草は芳しき  (明治三十九年作。二十九歳。)
妻もたぬ我と定めぬ秋の暮 (明治三十九年作。二十九歳。)

(付記) 「 白蓮、東洋城への恋の歌」周辺

http://whiteplum.blog61.fc2.com/blog-entry-3291.html

[俳人、東洋城の親族が、白蓮の直筆短歌の色紙を遺品として保管していました。専門家によれば、書かれているのは、「白蓮が東洋城に宛てた恋の歌」。白蓮の短歌にしては乙女チックで、束の間の幸福感を感じます。

 初夏や白百合の香に抱かれてぬるとおもひき若草の床  白蓮

見つかった短歌は、歌集『幻の華』(大正8(1919)年)に載っています。筆跡も、白蓮にまちがいないとのこと。色紙を保管していたのは、東洋城の義理の姪にあたる女性。

 黛を濃うせよ草は芳しき  東洋城

白蓮の短歌は、東洋城のこの俳句(明治39(1906)年)への相聞歌ではないか?
現在の「渋柿」代表、同人の渡辺孤鷲さんは、そう考えています。

 東洋城は、第8代の宇和島藩主であった伊達宗城(むねなり)の孫で、愛媛県尋常中学校(旧制松山中学)時代の夏目漱石の教え子でもありました。当時、校内一の美少年として知られていたのだそうです。

 いとこなる女(おみな)と春を惜しみけり  東洋城

 明治38(1905)年、27歳の東洋城の句から、白蓮への恋心が窺い知られます。東洋城の母、敏子は、白蓮の父である柳原前光の妻、初子の妹。つまり、白蓮と東洋城は、血縁関係のない、いとこ。明治39(1906)年、東洋城は、宮内省入省を機に柳原家に仮住まいをしており、そのころ、白蓮は、最初の夫と離婚して実家に戻っていました。まだ20歳の白蓮は、義母の隠居部屋に幽閉されて、姉の信子が差し入れてくれる、『枕草子』や『源氏物語』などを読みふけっていた。
明治41(1908)年に東洋英和女学校に編入するよりも、以前のこと。どちらから恋愛感情を打ち明けたのはわかりませんが、思い合っていたよう。しかし、結婚は許されず、東洋城は生涯、独身を貫きました。『渋柿俳句1000号史』(2001年)によれば、反対したのは東洋城の父(松根城臣)。「子どもを生んで離婚歴のある女を、由緒ある松根家の総領の妻に迎えることに反対した」。

 妻もたぬ我と定めぬ秋の暮れ  東洋城

 そのころ、東洋城が詠んだ句、嫡男だった東洋城の決意は固かったのでしょう。白蓮が伊藤伝右衛門と再婚するのは、それから数年後、明治44(1911)年。東洋城は、政略結婚でそのような男と結婚する白蓮を責めるような句を贈ったとか。

 吾を恨む人の言伝たのまれし四国めぐりの船のかなしも  白蓮

 最初の歌集『踏絵』(大正4(1915)年)に収録された、この短歌。井上洋子氏は、「恨む人とは東洋城ではないか」と推測しています。恨んでいたとして、その後の白蓮の出奔事件をどのように見ていたのか。それにしても、白蓮から贈られた色紙を大事に持っていたことになる。

 夏目漱石は、教え子の恋愛問題を案じていたといいます。東京の第一高等学校に進学してからも、漱石に俳句を送り、添削してもらっており、明治40(1907)年8月21日、漱石は、2人が心中するのではないかと心配して、東洋城に、はがきを2通、送っているそう。

 心中するも三十棒/朝顔や惚れた女も二三日  漱石

 封書ではなくて、はがきだったのは、柳原家の人に目にしてもらい、2人の様子に注意をはらってもらうためであった、とされます。修善寺での大患にも同行することになる東洋城は、漱石に相談していたのか。村岡花子が、愛のない再婚をする白蓮をあれほどに責め、絶交までしたのは白蓮には、思い合っていたのに断念した恋があったと知っていたからでもあった? (以下略)  ]

[寅彦・二十九歳。]

思ふ事の空にくだくる花火哉(明治三十九年作)

(付記) 「 備忘録(寺田寅彦)」周辺

https://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/2455_10268.html

[仰臥漫録 → 夏 → 涼味→ 線香花火 → 金米糖 → 風呂の流し → 調律師 → 芥川竜之介君 →  過去帳 → 猫の死 →  舞踊 ] 

(参考)「松根東洋城」の周辺

https://plaza.rakuten.co.jp/akiradoinaka/diary/201804190000/

漱石山房の門下生.jpg

「漱石山房の門下生(前列左から「松根東洋城・三重吉・森田草平・小宮豊隆」)

[(鈴木三重吉と東洋城)
 明治39年10月26日の三重吉宛ての手紙で「松根はあれで可愛らしい男ですよ。そうして貴族種だから上品な所がある。然し、アタマは余りよくない。そうして直むきになる。そこで四方太と逢わない。僕は何とも思わない。あれがハイカラなら、とくにエラクなっている。伯爵の伯父や叔母や、三井が親類で、そうして三十円の月給でキュキュしているから妙だ。そうしてあの男は鷹揚である。人のうちへ来て坐り込んで、飯時が来て飯を食うに、恰も正当の事であるかの如き顔をして食う。「今日も時刻をはずして御馳走になる」とか『どうも難有う御座います』とかいったことがない。自分のうちで飯をくった様にしているからいい」と書いています。おそらく、漱石は、こういった東洋城の不器用さを愛していたのでしょう。

(森田草平と東洋城)
 やはり漱石の門人の森田草平も三重吉と同様の気持ちを抱いたらしく、『続・夏目漱石』には「松根氏のことは、あるいは『いやに澄している』とか何とか、少々貶し気味のことをいったのではあるまいか。先生が氏のために大いに弁じていられるのを見ても、どうもそういう気がするし、私自身もその後三重吉が氏に対してそういう評語を下しているのを何度か耳にしたことがある。勿論、氏と三重吉はその後盛んに交通するようになった。が、三重吉は最後まで氏に対する『澄している』とか、『気取っている』とかいう評語だけは改めなかったように思う。しかし、そんなことは問題ではない。先生もいっていられるように、松根氏は上品で、落ち着いた、どこか貴族的風貌を備えた人であったーーいや、ある。氏はなお健在である。聞けば、氏の先祖は出羽山形五十七万石最上家親の一族で、元和八年最上氏改易の後は九州へ落ち、更に伊予松山の久松家へ迎えられて、その客分になっていたというから、貴族種には相違ない。伯爵の伯父というのは柳原前光伯だというようなことも、後から聞いた。が、そんなことよりも、私どもの注意を惹くのは、先生が氏の鷹揚な素質の一例として、『人のうちへ来て坐り込んで、飯時が来て飯を食うのに、恰もそれが正当のことであるような顔をして食う』一事を以てしていられる点である。こうなると、ずうずうしい奴が上品で鷹揚だというようなことにもなるが、先生がそういう積りでいっていられるのでないことは、敢て理るまでもあるまい。要するに物に拘泥しない所を上品としていられた」と書いています。
※明治39年10月21日に森田草平へ宛てた漱石の手紙には、「この東洋城というのは昔し僕が松山で教えた生徒で、僕のうちへくると先生の俳句はカラ駄目だ、時代後れだと攻撃をする俳諧師である。先達て来て玄関に赤い紙で面会日などを張り出すのは甚だ不快な感がある。『僕のために遊びにくる日を別にこしらえて下さい』と駄々っ子見たようなことをいうから、そんなことをいわないで木曜日に来て御覽といったから、とうとう我を折って来たのである。また松茸飯を食わせてやった」とあります。

(坂本四方太と東洋城)
 坂本四方太も東洋城を嫌っていました。おそらく東洋城の浮世離れしているところが嫌だったのでしょう。そこで心配した漱石は、三重吉に意見を送った日(明治39年10月26日)の東洋城宛ての手紙で、東洋城にアドバイスを送っています。「四方太が来たら、つらまえて『あなたはわたしの事を馬鹿だと、おっしゃいましたそうですね』と聞いて御覧。すると四方太が『へへ、どうして』とか何とかいうから、そうしたら『先生からききました』と云い玉え。すると四方太が『ハハハ、あれを見せたんですか』という。『見せた』と僕がいう。『馬鹿は少々ひどすぎる』と君が四方太に云う。すると四方太が『ーーー』何というか知らない。それで馬鹿というものもいわれたものも平気で帰るのだ。あの発句はまずいから駄目だ。送らない。四方太を閉口させようとするなら、礼を卑(いやし)うし、辞をあつうして馬鹿といわれたことなどは素知らぬ顔をして、西片町の寓居を訪うて先生の文章論をきいて、そうして敬服して帰ってくる。二週間ばかり立ってまた行く。また敬服した顔をする。帰りがけに少々自説を述べる。然し、そこの所は愛婿たっぷりにして帰る。三度目には、先の理窟には感心し、同時に自分の説にも未練がある様にする。四度目には大に自説を主張する。但し、帰りがけに四方太の説も採用する。それから五遍六遍と行くうちに、四方太は君の事を馬鹿という事をやめて、僕の所へ端書をよこす。『東洋城は近頃非常な熱心家になってたのもしい。あの位訳のわかったものは。沢山あるまい』。そこで君の勝利に帰する。四方太を降参させるのも、馬鹿を引きこませるのも、俳句一首では駄目だよ」   ]

阪本四方太.jpg

「阪本四方太(俳人 1873~1917)」(「島根県立図書館」)
https://www.library.pref.tottori.jp/information/cat4/cat18/post-17.html
[岩井郡大谷村(現在の岩美町大谷)に生まれる。本名四方太(よもた)。
 仙台にあった第二高等学校在学中より俳句を始める。東京帝国大学に進学後、俳誌『ホトトギス』の同人および選者として活躍。鳥取に近代俳句を導入した先駆者であり、俳句グループ「卯の花会」を指導した。
 東京帝大附属図書館司書として勤めながら正岡子規門下の俳人として新俳句と写生文の開拓普及に大きく貢献した。
 代表作『夢の如し』は写生文として夏目漱石に絶賛された。(以下略)  ]
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