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「漱石・東洋城・寅彦」(子規没後~漱石没まで)俳句管見(その五) [漱石・東洋城・寅彦]

その五「明治四十年(一九〇七)」

[漱石・四十一歳]
[明治40(1907) 1月、「野分」(『ホトトギス』)、3月末~4月初、京都・大阪に旅行、5月 『文学論』(大倉書店)、5月、入社の辞(『東京朝日新聞』)、6月、長男・純一誕生、6月~10月、「虞美人草」、6月、西園寺公望からの文士招聘会を断る、9月、牛込区早稲田南町7番地へ転居。]

1971 春の水岩ヲ抱イテ流レケリ
[前書「問うふて曰く男女相惚の時什麼(しゅうも)漱石子筆ヲ机頭ニコロガシテ曰ク天竺ニ向ツテ去レ」。什麼(しゅうも)は「そも」とも読み、「何」「如何(いかん)」など疑問をあらわす禅語。ハガキでは「天竺」を「天笠」とする。1975までの五句は、当時恋愛問題で悩み窮地におちいっていた松根豊次郎(東洋城)に宛てたはげましとなぐさめの一連のハガキのうち二通に記された句。※漱石が封書でなく、ハガキにこれらの句を認めたとことについて、東洋城の恋愛の相手が、血縁関係のない従妹の「柳原白蓮(燁子)」で、その父母の「柳澤前光(伯爵)・初子(東洋城の伯母)」の目に入ることを承知してのものとされている。]

1972 花落チテ砕ケシ影ト流レケリ
[問ふテ曰ク相思の女、男ヲ捨テタル時什麼(しゅうも)漱石子筆ヲ机頭ニ堅立シテ良久曰く日々是公日]。「良久」は「やや久しくして」の意。]

1973 朝貌や惚れた女も二三日
[前書「心中するも三十棒」。「三十棒」は「修業者を警策で激しく打つこと」。]

1974 垣間見る芙蓉に露の傾きぬ
[前書「心中せざるも三十棒」。]

1975 秋風や走狗を屠る市の中
[前書「道(い)へ道へすみやかに道へ」。「走狗は猟などで使われた犬。転じて他人の手先になって使われる人を軽蔑して言うが、ここでは東洋城の恋の悩み(煩悩)」。]


[東洋城・三十歳。写生一本の世論に対抗し、俳句の行き方が写生以外にあることを力説。かくて「子規から芭蕉へ」の還元を躬行(きゅうこう)した。]

恋すてし肚裏の寒さこらへけり
[※「肚裏(とり)」とは「 腹の中。心中。」のこと。漱石の句の前書にある「心中するも三十棒」「心中せざるも三十棒」に対応する句のように思われる。]

桜散るや木蓮もありて見ゆる堂
木蓮は亭より上に映りけり
君水打てば妾事弾かん夕涼し
[※これらの句が、東洋城と白蓮(柳原燁子)との「叶わぬ恋愛」関係の背景を物語るものかどうかは定かではないが、三十歳になっても独身(白蓮は東洋城よりも九歳前後年下)で、その前年(明治三十九年)に、「妻もたぬ我と定めぬ秋の暮れ」の句を遺している、当時の東洋城の心境の一端を物語るものと解することも、許容範囲内のことのように思われる。「明治四十三年、東洋城は三十二歳のとき北白川成久王殿下の御用掛兼職となったが、あるとき殿下から、「松根の俳句に、妻もたぬ我と定めぬ秋の暮れ、というのがあると聞くが、妻持たぬというのは本当なのか」と聞かれた。それに対して、東洋城は、「俳句は小説に近いものです」と答えた。」(『渋柿の木の下で(中村英利子著)』)と言う。この「俳句は小説に近いものです」というのは、「事実は小説よりも奇なり」の、俳人・東洋城の洒落たる言い回しであろう。]

柳原前光(伯爵)家系図.jpg

「絶縁状と白蓮事件」所収「柳原二十二代当主・柳原前光(伯爵)家系図」
http://www.kyushu-sanpo.jp/kanko/fukuoka/byakuren-c/byakuren-c.html

 これは、「柳原前光(伯爵)家系図」であるが、この「柳原前光」の正妻「初子」は、東洋城の母(敏子・敏)の実姉である。大正天皇の生母(愛子)は、「柳原前光」の妹にあたる。この「柳原前光(伯爵)家系図」のような「松根東洋城家系図」のようなものは定かではない。
 東洋城は、本名が「豊次郎」で次男であるが、長男が夭逝し、「松根図書→権六」家の嫡男である。実弟の「松根宗一」は、その末弟のようである。その他に、「松根卓四郎・松根新八郎」の実弟の名も、東洋城が主宰した俳誌「渋柿」に出てくるのだが、それらの実弟については、これまた、定かではない。

(付記その一)「松根宗一」周辺(「ウィキペディア」)
[松根宗一(まつねそういち、1897年4月3日 - 1987年8月7日)は、日本の昭和時代に活動した実業家。後楽園スタヂアムおよび新理研工業会長、電気事業連合会副会長を歴任し「電力界のフィクサー」「ミスター・エネルギーマン」の異名で呼ばれた。祖父は宇和島藩家老の松根図書、次兄は俳人の松根東洋城。](「ウィキペディア」)

(付記その二)「兄東洋城と私(松根新八郎稿)」(「渋柿」昭和40年1月・「東洋城先生追悼号」所収)=「国立国会図書館デジタルコレクション」

松根東洋城(式部官).jpg

「兄東洋城と私(松根新八郎稿)」所収の「松根東洋城」(「式部職の大礼服」着衣)(「国立国会図書館デジタルコレクション」所収)
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071686/1/42
[東洋城が心血を注いだ、その俳誌「渋柿」は、昭和十五年(一九四〇)以降のものは、「国立国会図書館デジタルコレクション」で閲覧することが出来る。
 その昭和四十年(一九六五)の一月号(「松根東洋城追悼号」)の目次は、次のようなものである。
(目次)
松根東洋城君のこと / 安倍能成/p2~3
巻頭句 / 野村喜舟/p4~23
句境表現の境 / 松根東洋城/p24~27
庭の別れ / 野村喜舟/p27~29
弔辞 / 愛知揆一/p30~30
弔辞 / 高橋誠一郎/p30~30
弔辞 / 水原秋桜子/p31~31
Sの話 / 秋元不死男/p32~34
東洋城を憶ふ / 新野良隆/p34~35
朴落葉 / 楠本憲吉/p36~37
追憶 / 黒川清之/p29~29
松中時代 / 松根東洋城/p38~39
東洋城百詠 / 三輪青舟/p124~126
東洋城先生の連句について / 小笠原樹々/p44~48
青春時代を語る / 東洋城 ; 洋一/p54~73
兄東洋城と私 / 松根新八郎/p74~90
老兄弟会合 / 松根東洋城/p91~91
東洋城先生とその俳句 / 尺山子 ; 山冬子 ; 博/p92~102
しみじみとした先生 / 沢田はぎ女/p103~105
歌仙(あぢきなやの巻) / 松根東洋城/p106~107
東洋城先生の人と芸術 / 渡部杜羊子/p116~120
東洋城先生を語る(座談会) / 伊予同人/p146~164
偉跡 / 西岡十四王/p40~44
東洋城年譜 / 徳永山冬子/p165~169
特別作品/p176~179
選後片言 / 野村喜舟/p188~189
懐炉 / 野村喜舟/p192~192
人生は短く芸術は長し / 島田雅山/p48~51
三畳庵の頃 / 石川笠浦/p52~53
師をめぐる人々 / 高畠明皎々/p108~110
想ひ出 / 池松禾川/p110~112
先生の遺言 / 不破博/p112~116
春雪の半日 / 野口里井/p120~121
先生病床記 / 松岡六花女/p121~122
梅旅行 / 金田無患子/p123~123
永のえにし / 堀端蔦花/p127~128
追想記 / 三原沙土/p128~129
表札と句碑 / 城野としを/p129~131
先生と私 / 井下猴々/p131~132
城先生の思ひ出 / 榊原薗人/p132~133
下駄 / 石井花紅/p133~134
二人の女弟子 / 牧野寥々/p170~174
終焉記 / 松岡凡草/p135~136
先生は生きてゐる / 田中拾夢/p136~138
葬送記 / 野口里井/p139~139
追悼会/p139~141
西山追悼渋柿大会/p142~145
新珠集 / 松永鬼子坊/p174~175
各地例会/p184~186
提案箱 / 阿片瓢郎/p187~187
誌上年賀欠礼挨拶 / 諸家/p193~197
会員名簿 / 渋柿後援会/p191~19    ]

 その記事中の「老兄弟会合 / 松根東洋城/p91~91」に、「東洋城兄弟(四人の男兄弟)」の写真が掲載されている。

東洋城兄弟(四人の男兄弟).jpg

「兄東洋城と私(松根新八郎稿)」所収の「「東洋城兄弟(四人の男兄弟)」(「国立国会図書館デジタルコレクション」所収)
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071686/1/50
[前列左から「宗一(六十四歳)・卓四郎(七十三歳)・東洋城(豊次郎)(八十六歳)・新八郎(八十一歳)」と思われる。後列の二人は東洋城の甥。中央に「松根家家宝の旗印(三畳敷の麻に朱墨の生首図=「「伊達の生首」)」が掲げられている。「伊達の生首」については、次のアドレスで紹介している。
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-10-02  ]

[寅彦・三十歳。一月、長男の東一誕生。農商務省農事試験場における種芸試験を委嘱される。東京物理学校の講師となるが翌年に辞任。神経衰弱に悩まされる。]

御降や月白塞ぎ朝詣(一月「ホトトギス」二句。)
御降に尻ぞ濡れ行く草履取(同上)
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