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「東洋城・寅彦、そして、豊隆」(漱石没後~寅彦没まで)俳句・連句管見(その一) [東洋城・寅日子(寅彦)・蓬里雨(豊隆)]

その一「大正六年(一九一七)」

[東洋城・四十歳。「渋柿」=『漱石先生追悼号』・『漱石忌記念号』刊。駿遠地方に遊び、北白川宮と天龍川を下った。『漱石俳句集(東洋城編・岩波版)』刊。]

冴え返るよきお句などを偲び合ひぬ(前書「漱石先生追悼三句)
いまそかりし師の座かしこき火桶かな(前書「漱石庵」)
小説で比叡に登るや春の風(前書「虞美人草」)

[寅彦=寅日子・四十歳。『漱石全集(岩波版)』の編集委員となる。二月、俳句雑誌「渋柿」の夏目漱石追悼号に短歌を発表する。三月、航空学調査委員となる。七月、「ラウエ映画の実験方法及其説明に関する研究」により帝国学士院から恩賜賞を受ける。九月、高等官三等に叙せられる。十月、妻の寛子が死亡。寅彦、従五位に叙せられる。]

触れて見れど唯つめたさの小袖哉(十一月二十八日、「渋柿(七年二月)」)

[蓬里雨=豊隆・三十四歳。大正5年=1916、 東京医学専門学校講師となる。12月9日夏目漱石死去。大正6年= 1917、「漱石全集」の編集にとりかかる。]

(追記一)夏目漱石葬儀前後の「東洋城・寅彦・豊隆」周辺

 大正五(一九一六)十二月九日、夏目漱石は、その五十年の生涯を閉じた。その翌日に、東大で解剖に付せられ、十一日に、通夜、十二日に、青山斎場で葬儀、落合火葬場で荼毘に付された。
 葬儀委員長は「中村是公」(漱石と「一高」同期、大蔵官僚、満鉄総裁、東京市長を歴任)、弔辞は「村山龍平」(朝日新聞社社長・社主、貴族院議員を歴任)、友人総代は「狩野亨吉」(漱石と東京帝国時代に親炙、第五高校と共に教鞭、後に、一高校長、京都大学初代文科大学長を歴任)、導師は「釈宗演」(円覚寺派管長)、門下生有志総代は「小宮豊隆」、当日の進行・司会は「松根東洋城」が務めた。
 門下生有志総代は、「寺田寅彦」が務めるべきであったが、漱石と同じ病の胃潰瘍で、絶対安静の病臥中で、「小宮豊隆」が門下生有志総代を務めることになった。豊隆は、その弔辞を寅彦に認めていただくことを寅彦に依頼したが、それも叶わなかった。

 寅彦が、最期の漱石の病気見舞い行ったのは、十二月二日で、寅彦の、その時のことが、日記に記されている。

「午後、夏目先生を見舞いに行く。重態なり。午後四時半、再度の出血ありたるごとく容態悪くなり、真鍋、宮本、南三博士と井上、安倍両学士詰め切る。夜十一時、安静となりたれば一旦辞し帰る。」

 続く、十二月三日に、

「胃潰瘍の疑いあれば安静を要する由なり。午後、夏目へ見舞に行く。経過良好なり。」

 寅彦も、「いよいよ胃の出血らしいので絶対安静を要する」との状態で、寅彦の再婚の夫人「寛子」も、この時に、「慢性結核リンパ腺炎・頸部リンパ腺炎」との診断がなされている。
十二月九日の漱石の亡くなる前に、寛子夫人が寅彦にかわり夏目家に見舞いに行き、その翌日の弔問、そして、十二日の葬儀にも、寛子夫人が列席した。(『寺田寅彦 妻たちの歳月(山田一郎著)』)

 これらの夏目漱石の一連の最期・通夜・葬儀関連の段取りは、「漱石門下生(木曜会・九日会)」のメンバーの中で、好むと好まざるとにかかわらず、結果的に、「漱石門下生」の最古参の、「夏目家」との信頼抜群の、そして、宮内省「式部官(「北白川家御用掛」兼職)」の「松根東洋城」が担うことになった。

松根東洋城(式部官).jpg

「兄東洋城と私(松根新八郎稿)」所収の「松根東洋城」(「式部職の大礼服」着衣)(「国立国会図書館デジタルコレクション」所収)
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071686/1/42

[ 葬式の当日、東洋城は金筋の入った宮内省の礼服姿でシルクハットを小脇に抱え、祭壇より一段低い土間の上に参列者の方を向いて立ち、それなりに威厳に満ちた姿であったのだが、弟子たちにはいかにも場内を見下すかのように傲然として見え、「あの俗臭芬々とした姿は、漱石先生の葬儀にはまったくふさわしからぬものに見えたね」と散々な評価であった。また、東洋城は、告別が終わった人の群れを、右手を平らにして、それで臼でも挽く時のように動かしていたのだが、それが弟子たちにはなんとも妙な手つきに見え、芥川龍之介が「あれは、礼をしたら順々に棺の後ろを回って、出ていってくれという合図だろう」と言った。すると、やきもち焼きでうるさい鈴木三重吉は、「松根のやつが、頼まれもしないのに余計なところへ出しゃべって」と、まずそれからしてはなはだ面白くないところへ、例の「臼でも挽く」ような手つきがますます気に入らないと言い、その後、酒に酔うと必ず、「なんだあいつ、こんな手つきをしやがって、どうぞこちらへ、どうぞこちらへと言っていやがる」と毎度同じ手真似を繰り返し、並居る人を笑わせた。
 三重吉はほかにも、「自分たちは斎場へ電車で行ったのに、小宮だけは遺族と一緒に馬車で行った」と、その厚かましさに憤慨したが、それは小宮豊隆が勝手に遺族の馬車へ乗り込んだわけではなく、夫人の鏡子が小さい子どもたちの付き添いをしてくれとわざわざ頼んだためだった。三重吉は、漱石の死と数日来の疲労から日頃に増していらいらし、怒りぽっくなっていた。(中略)
 「九日会」は毎回幹事が変わり、安倍能成や鈴木三重吉などがその役を果たして、弟子同士で旧交を温めていたのだが、東洋城はその会に一度も出なかった。理由は、漱石が危篤に陥った頃からの東洋城の独断と他の弟子たちとの軋轢だと思われたが、それだけというわけではなかった。東洋城は、俳誌「渋柿」の編集に追われ、特に漱石追悼の特集が続いて多忙だったのである。
 また、東洋城は弟子たちのすべてと交際を絶っていたわけではなく、そのうちの何人かとは個別に会っており、特に仲の良い寺田寅彦や小宮豊隆らの数人とはかなり頻繁に会っていた。」(『渋柿の木の下で(中村英利子著)』)


(追記二)当時の「寺田寅彦」周辺
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ningendock1986/7/2/7_7/_pdf

[ 夏子さん はその年(明治三十五年=1902) の11月15日 に亡 くな りま した。
寅彦は不幸な運命を背負うわけですが、日露戦争の終わった年ですから明治38年、28歳の時、再婚をします。種崎の隣の仁井田という所 の出身で、山内家の家扶をしていた漢詩人の浜口真徴の三女寛子さんを迎えます。菊池寛の寛と書 いてユタコと読むんですが、この人との間に男2人と女2人の子宝に恵まれましたが、夏目漱石が亡くなった大正5年の翌年、6月の10日に一 夜のうちに肺を侵され寛子さんは亡 くなります。 恩師漱石の葬儀にも寅彦自身も胃潰瘍 になって参列できなか ったのです。そういうふうにいろいろ不幸せに見舞われますが、明るい話題もあります。31歳で理学博士になり、翌年5月、欧米へ留学します。そして大正6年の7月、「ラウエ映画 の実験方法 とその説明に関する研究」で学士院恩賜賞をもらいます。
40歳の若さでした。そして寛子夫人が亡 くな ったのは3カ 月後の10月 のことでした。西川正治という後 に文化勲章をもらった大変偉 い物理学者がいますが、この先生が書いて るのを読みますと、ラウエ ・スポ ッ トの研究 は大 変画期的な発 見であ って、もし寺田先生が 日本でな くてイギ リスなりフラ ンスなりで生まれていたらばノーベ ル賞を寺田先生がもらったに違いないというんですね。この研究に寅彦はレントゲンを使 ったのですが、 それは大学の医学部で廃品 にな った レン トゲ ンをもらって来て改造 したもので した。
寛子夫人を亡 くし、4人 の子ど も抱えて苦 しむ心境 は寅彦 の「蓄音機 」と いう随筆に書いてあります。 こど もた ちを慰 め るため に蓄音機 を買う。童謡 をかけてやる。下 の女の子 は3歳 上 の女の子が5歳 です。]


(追記三)  当時の「小宮豊隆」周辺

画像3.jpg

「漱石忌(12/9)と九日会」(「漱石の肉筆を後世へ!漱石文庫デジタルアーカイブプロジェクト」東北大学附属図書館)
https://readyfor.jp/projects/soseki-library/announcements/118615
[写真は大正6年(1917)1月9日の第一回の九日会です(神奈川近代文学館蔵)。
左から安倍能成、野上豊一郎、鏡子夫人、内田百閒、津田青楓、久米正雄、赤木桁平、芥川龍之介、森田草平、和辻哲郎。右から滝田樗蔭、速水滉、阿部次郎、岩波茂雄、小宮豊隆という顔ぶれです。奥の部屋が漱石山房の書斎部分で、手前が客間部分でした。]

 上記の写真は、漱石没後(大正5年12月9日)の、その翌年の「大正6年(1917)1月9日第一回の九日会」の写真である。この写真に出てくるメンバーは「左から安倍能成、野上豊一郎、鏡子夫人、内田百閒、津田青楓、久米正雄、赤木桁平、芥川龍之介、森田草平、和辻哲郎。右から滝田樗蔭、速水滉、阿部次郎、岩波茂雄、小宮豊隆」という顔ぶれである。
 この時に、『漱石全集』の刊行の発議をしたのは、小宮豊隆のようである(『漱石山脈(長尾剛著)』)。この写真の「小宮豊隆・岩波茂雄・阿部次郎」が、火鉢に手をかざしているが、この三人は『岩波全集』の刊行の中心的な人物で、あたかも「漱石没後の最初の『岩波全集』刊行について何やら会話している」ような風情である。

「漱石が亡くなってすぐ、豊隆は『漱石山脈』の面々に向かって『漱石全集』の刊行を発議し、自らが『漱石伝』を執筆すると宣言した。漱石の危篤状態の時からずっと考えていたことだったに違いない。
 この頃すでに岩波茂雄が古書店として立ち上げた岩波書店は出版社として確立していた。そこで、漱石作品を長く刊行していた春陽堂と大倉書店に岩波書店が加わって、三社で全集を刊行することになり、編集作業は岩波書店のプロジェクトとなった。
 豊隆の『漱石全集』編集に対する執念は、すさまじいものだった。膨大な資料を搔き集め続け、全集を刊行し直すたびに少しずつ改訂増補を加えていった。
 昭和十年、漱石没後二十年を記念として岩波書店から刊行された決定版『漱石全集』では、なんと全巻の解説文まで引き受けた。
 それぞれの巻の解説を別々の弟子が受け持ってもよさそうなものである。が、安倍能成が「小宮にすべてを託したい」と提案し、豊隆が大乗り気で引き受けたのだ。豊隆には「漱石について語る第一人者は俺なのだ」といった自負があったし、周りもそれを認めていたらしい。取りも直さず「漱石と豊隆の深い親密さ」を、誰もが認めていたということだろう。」(『漱石山脈(長尾剛著)』)。

 岩波茂雄については、『漱石山脈(長尾剛著)』では、「岩波茂雄『漱石全集』を作った男」(「曰く付きの岩波書店の看板/漱石から借金しまくった岩波茂雄/『こゝろ』は漱石の自費出版」)と、岩波茂雄の一端を披露しているが、[『思想』(1921年)『科学』(1931年)『文化』(1934年)などの雑誌や、1927年(昭和2年)には「岩波文庫」を創刊。日中戦争について「日本はしなくてもいい戦争をしている」と日本軍に対して批判的な立場から活動を展開していた。これによって軍部の圧力をかけられるようになる。](「ウィキペディア」)と、「1945年3月に貴族院多額納税者議員に互選、同年4月4日に任命されるが、それから6ヶ月後に脳出血で倒れる。翌年には雑誌『世界』が創刊され、文化勲章も受ける」(「ウィキペディア」)と、茂雄自身が、「漱石山脈」に連なる一人として、「高浜虚子」(漱石の木曜会に連なる「ホトトギス」派の総帥且つ「日本俳壇大御所」)の、「1954年(昭和29年)、文化勲章受章」と、「漱石山脈」の中での一巨峰というへき位置を占めるべき一人なのであろう。

 阿部次郎については、次の「ウィキペディア」の紹介記事のとおり、「岩波茂雄と『一高』同期で、そして、後に、『東北帝国大学教授・小宮豊隆』を招聘する」、まさに、上記の「大正6年(1917)1月9日第一回の九日会」の写真の「小宮豊隆・岩波茂雄・阿部次郎」の、この三人が、同じ火鉢で手をかざしている画像は、誠に、漱石没後の『漱石全集』の誕生の、その切っ掛けを暗示しているような象徴的な一スナップとして評価されるぺきものであろう。

「1901年(明治34年)、第一高等学校入学。同級生に鳩山秀夫、岩波茂雄、荻原井泉水、一級下に斎藤茂吉がいた。1907年(明治40年)、東京帝国大学に入学し、ラファエル・フォン・ケーベル博士を師と仰ぐ。卒業論文「スピノーザの本体論」で哲学科を卒業。夏目漱石の門に出入りして、森田草平、小宮豊隆、安倍能成とともに「朝日文芸欄」の主要な執筆者となり、「自ら知らざる自然主義者」(明治43年)等の評論で、漱石門下の論客として注目された[3]。1911年(明治44年)、森田・小宮・安倍との合著による評論集『影と聲』を上梓する。
 1914年(大正3年)に発表した『三太郎の日記』は大正昭和期の青春のバイブルとして有名で、学生必読の書であった[4](大正教養主義を主導)。1917年(大正6年)に一高の同級生であった岩波茂雄が雑誌『思潮』(現在の『思想』)を創刊。その主幹となる。
 慶應義塾、日本女子大学校の講師を経て1922年(大正11年)、文部省在外研究員としてのヨーロッパ留学。
 同年に『人格主義』を発表。真・善・美を豊かに自由に追究する人、自己の尊厳を自覚する自由の人、そうした人格の結合による社会こそ真の理想的社会であると説く(人格主義を主張)。
 同年刊行された『地獄の征服』はゲーテ・ニーチェ・ダンテに関する論文をまとめたもので、従来の研究水準を大きく超えており、ダンテの愛読者だった正宗白鳥も「私はこれによってはじめて、ダンテに対する日本人の独創の見解に接した(中略)翻訳して欧米のダンテ学者に示すに足るもの」と称賛している。」(「ウィキペディア」)

漱石山房の門下生.jpg
「漱石山房の門下生(前列左から「松根東洋城・三重吉・森田草平・小宮豊隆」)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-10-05

 この前列の「東洋城・三重吉・草平・豊隆」の、この背後の人物は、「阿部次郎」と解したい。

阿部次郎像.jpg

[阿部 次郎(あべ じろう、1883年〈明治16年〉8月27日 - 1959年〈昭和34年〉10月20日)は、日本の哲学者・美学者・作家。東北帝国大学法文学部教授、同学部長、帝国学士院会員。仙台市名誉市民。『三太郎の日記』著者。](「ウィキペディア」)
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