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「東洋城・寅彦、そして、豊隆」(漱石没後~寅彦没まで)俳句・連句管見(その四) [東洋城・寅日子(寅彦)・蓬里雨(豊隆)]

その四「大正九年(一九二〇)」

[東洋城・四十三歳。桐生及び岩手で俳諧道場を催す。赤城山に登る。(秋櫻子参加。)
寅彦、豊隆「渋柿」に毎号執筆するようになる。]

わが恋の久しきありぬ常陸帯(※「わが恋ひさしくありぬ」とは、「白蓮」関連の句とも。)
かくし妻清らに住みぬ福寿草(※「かくし妻」も東洋城の境涯性を感じさせられる。)
闇中に近江の湖や年惜しむ(※前書に「洛の初春 三十句」の冒頭の句。)
冬山や大河の海へ注ぐところ(※前書に「伊予長浜 二句」。)
河口に町と村ある時雨かな(※同上)
ふるさとへ入る海からや山眠る(※前書に「宇和島 二句」。)
山眠り海湛(たゝ)へけり故郷(ふるさと)は(※同上)
図書殿は寒紅梅に咲かれけり(※前書に「昨冬祖父故三楽松根図書功により正五位を贈らる。墓前報告記念」。「伊予長浜」・「宇和島」の句も、この時の句なのであろう。)
どこの田の蛙が化けし遊女かな(※前書に「三浦半島 二十八句」の冒頭の句。)
栃木野のこゝに始まる若葉かな(※「出流詣」より四十五句のうちの一句。)
障子しめて雪に籠るかと涼みけり(※「聴雪庵十景」の末尾の句。前書に「篭居」。川越の「聴雪庵」の句であろう。)
峰宿の秋の灯守(も)りや十四人(※「赤城山へ 四十二句」の一句。これは「渋柿」の「赤城山吟行」での一句であろう。この「赤城山吟行」に、「水原秋櫻子」も参加していた。)

(付記) 「秋櫻子の足あと」谷岡健彦稿(「銀漢」同人)

https://sectpoclit.com/ashiato-6/

[医学生時代の秋櫻子が、「ホトトギス」への投句を始める前に、しばらく松根東洋城が主宰する「渋柿」で俳句の手ほどきを受けていたことは、彼の句業を検討する際に留意しておいた方がよい事実だろう。虚子の目指すところとは異なる秋櫻子の詠みぶりは、すでに初学の時点で種を蒔かれていたものかもしれないのである。
 1920年、秋櫻子は「渋柿」の赤城山吟行に参加している。『水原秋櫻子全集』(講談社)の作家論の巻に収められた文章によれば、秋櫻子は、このとき初めて大場白水郎という俳人の名を耳にしたそうである。ある吟行参加者が、「渋柿」の柏舟という若手と、三田俳句会出身の白水郎との比較を始めたところ、東洋城は即座に「それは白水郎の方がうまい」と断じたらしい。秋櫻子は、このように他結社の主宰からも一目置かれている白水郎に畏敬の念を覚えたという。
 この吟行からほどなくして、秋櫻子は「渋柿」から「ホトトギス」に移るのだが、人の縁というものは面白い。20年ほどの歳月を経た後、秋櫻子は柏舟や白水郎と定期的に句座を囲むことになる。久保田万太郎を宗匠として渋谷のいとう旅館で開かれていた、いとう句会に3人は顔をそろえたのだった。ちなみに、柏舟とは映画監督の五所平之助が学生時代に用いていた俳号であり、秋櫻子は平之助の第一句集『五所亭句集』(1966年、牧羊社)の帯に文を寄せている。]

[寅彦=寅日子・四十三歳。大学を辞職しようとするが、理学部長の説得により保留する。三月、高等官二等に叙せられる。俳誌「渋柿」に「病院の夜明の物音」を発表し、やがて随筆を書く機会が増える。六月、正六位に叙せられる。胃痛、不眠、神経衰弱に悩まされる。十一月、随筆「小さな出来事」を吉村冬彦の筆名で「中央公論」に発表、以後、随筆にはこの筆名を使用するようになる。学術研究会議委員となる。十二月、物理学第三講座担当を免じられ、高層気象学の研究に従事するよう辞令を受ける。この年、油絵を始める。]

※寺田寅彦は、その随筆の筆名は「吉村冬彦」を用いている。この「吉村冬彦」の筆名は、「僕の家の先祖は吉村という姓だったので、それで僕が冬年生れた男だから、吉村冬彦としたわけさ。だから此の名はペンネームというより、むしろ僕は一つの本名と思っているのだ」(『寺田寅彦の追想(中谷宇吉郎稿)』)ということが、『寺田寅彦覚書(山田一郎著)』に記されているが、この「吉村」は、寅彦の高知出身の「父・利正」と深い関わりのもので、そして、この「冬彦」も、寅彦(二十歳)の時の、その高知で「父・利正」の友人の娘「夏子(十五歳)」との結婚、そして、その夏子の死(明治三十五年、寅彦=二十五歳、夏子=二十歳)と深く関わるものなのであろう。
 この「吉村冬彦」という筆名は、大正九年(一九二〇)、寅彦(四十三歳)の時の、上記の「年譜」にあるとおり、「十一月、随筆「小さな出来事」を吉村冬彦の筆名で「中央公論」に発表、以後、随筆にはこの筆名を使用するようになる」の、それ以後の筆名ということになる。
 その以前に、寅彦は、「藪柑子」という、筆名を用いている。これらのことに関して、『寺田寅彦覚書(山田一郎著)』では、「藪柑子の名が使われたのは、『寺田寅彦は小説を書いている』という非難が大学内部で起こったからである」と指摘している。
 この「寅彦から藪柑子」への筆名の変遷は、『寺田寅彦覚書(山田一郎著)』のものに、次のアドレスのものですると、次のとおりとなる。

https://kyuurisha.com/torahiko-to-yabukohji/

[明治38年4月→「団栗」=筆名:寅彦(1月は本多光太郎博士と実験三昧)
明治38年6月→「龍舌蘭」=筆名:寅彦(8月に寛子と結婚、11月「熱海間欠泉の変動」)
明治39年10月→「嵐」=筆名:寅彦(4月「尺八に就て」)
明治40年1月→「森の絵」=筆名:寅彦(1月に長男の東一誕生)
明治40年2月→「枯菊の影」=筆名:寅彦(4月「潮汐の副振動」、7~8月に三原山調査)
明治40年10月→「やもり物語」=筆名:寅彦
明治41年1月→「障子の落書」=筆名:藪柑子
明治41年4月→「伊太利人」=筆名:藪柑子
明治41年10月→「花物語」= 筆名:藪柑子(同月に博士論文「尺八の音響学的研究」)
明治42年1月→「まじょりか皿」=筆名:藪柑子(3月から欧州留学) ]


[豊隆=蓬里雨・三十七歳。 海軍大学校嘱託教授となる。]

※『寺田寅彦覚書(山田一郎著)』では、これらの「藪柑子から冬彦へ」の筆名の変遷などに関連して、「漱石・寅彦・豊隆」の三者関係について、概略、次のとおり記述している。

[小宮豊隆は夏目漱石を敬慕することが極めて厚かったが、彼がまた寺田寅彦にも兄事して深く敬愛していた。寅彦に『藪柑子集』の佳品を書かせたのは漱石であるが、『冬彦集』には豊隆の『啓示と奨励(寅彦)があった。(中略)
 小宮豊隆は「『藪柑子集』は『冬彦集』作家の昔の「顔」である」と書く。そして明治文学史における寺田寅彦の作品を次のように位置づける。すなわち「団栗」によって鈴木三重吉の「千鳥」が生まれ、「千鳥」によって夏目漱石の「草枕」が胚胎されたと見るのである。]

「ホトトギス(明治四十一年十月号).jpg

「花物語(藪柑子)」掲載「ホトトギス(明治四十一年十月号・表紙と目次)(「熊本県立大学図書館オンライン展示」)
https://soseki-kumamoto-anniversary.com/#mv

※ 上記の「ホトトギス(明治四十一年十月号・表紙と目次)の、その「目次」(下段)に、「文鳥(夏目漱石)」に続いて「花物語(藪柑子)」が掲載されている。その「目次」(上段)に、「地方俳句界(東洋城選)」・「消息(虚子記)」・「雑詠(虚子選)」・「表紙図案(中村不折)」の名が掲載されている。
 この当時の「ホトトギス」は、「虚子と東洋城」とが、「ホトトギス」の「俳句の部」(「雑詠(虚子選)」と「地方俳句界(東洋城選)」など)を、そして、「漱石と藪柑子=寅彦」とが「小説の部」(「文鳥(夏目漱石)」と「花物語(藪柑子=寅彦)」など)を、タッグを組んでコンビになっていたことが覗える。
 そして、この当時は、「漱石・寅彦(藪柑子)」とは、「俳句」とは疎遠になっていて「小説」の方に軸足を移していたということになる。そして、小宮豊隆は、当然のことながら、「漱石・寅彦(藪柑子)」の「小説」の『解説(評論)』に主力を投入していて、「俳句・俳諧(連句)」とは無縁であったといっても過言ではなかろう。
 これが、大正九年(一九二〇)当時になると、虚子と東洋城とが、大正五年(一九一六)の漱石が亡くなった年(十二月)の四月に、「国民新聞」の「国民俳壇」の選者交替(虚子→東洋城→虚子)を契機としての「虚子と東洋城との絶縁」状態で、この年に、東洋城が全力を傾注していた「渋柿」の主要同人(水原秋櫻子など)が、カムバックした虚子の「ホトトギス」へ移行するなど、大きく様変わりをしていた。
 これらのことと併せて、大正六年(一九一七)の、東洋城の「渋柿」の、「漱石先生追悼号」・「漱石忌記念号」、そして、『漱石俳句集(東洋城編・岩波刊)』の刊行などが、漱石最側近の「寅彦・東洋城・豊隆」とが、東洋城の「渋柿」上に、東洋城の年譜に、「寅彦、豊隆、『渋柿』に毎号執筆する」とあるとおり、その名を並べることになる。
 この時には、寅彦は、「藪柑子」時代の「小説」の世界とは絶縁していて、「小説家・藪柑子」ではなく「随筆家・冬彦」の、その「年譜」にあるとおり、「北村冬彦」という筆名が用いられることになる。
 この漱石の時代の「小説家・藪柑子」から、漱石没後の「随筆家・北村冬彦」への転換は、その寅彦の弟分にあたる「小宮豊隆」が大きく関与していたことが、次の『藪柑子集(小宮豊隆後記・岩波刊)』と『冬彦集(小宮豊隆後記・岩波刊)』との二著から覗える。

『藪柑子集(小宮豊隆後記・岩波刊)』(「国立国会図書館デジタルコレクション」)

https://dl.ndl.go.jp/pid/978015/1/1

[標題
目次
自序
團栗/1
龍舌蘭/16
嵐/31
森の繪/45
枯菊の影/52
やもり物語/73
障子の落書/88
伊太利人/99
まじよりか皿/112
花物語/126
旅日記/160
先生への通信/242
自畫挿畫二葉
『藪柑子集』の後に 小宮豐隆/281 ]

『冬彦集(小宮豊隆後記・岩波刊)』(「国立国会図書館デジタルコレクション」)

https://dl.ndl.go.jp/pid/969389/1/1

[標題
目次
自序
病院の夜明の物音/1
病室の花/7
電車と風呂/20
丸善と三越/30
自畫像/59
小さな出來事/93
鸚鵡のイズム/124
芝刈/130
球根/150
春寒/165
厄年とetc./173
淺草紙/193
春六題/201
蜂が團子を拵へる話/214
田園雜感/222
アインシュタイン/236
或日の經驗/262
鼠と猫/273
寫生紀行/305
笑/337
案内者/354
斷水の日/372
簔蟲と蜘蛛/385
夢/394
マルコポロから/400
蓄音機/407
亮の追憶/431
一つの思考實驗/453
文學中の科學的要素/479
漫畫と科學/490
『冬彦集』後話 小宮豐隆/499  ]

(補記その一)  『漱石俳句集(東洋城編・岩波刊)』周辺

漱石俳句集(東洋城編・岩波刊).jpg

『漱石俳句集(東洋城編・岩波刊)』(「熊本県立大学図書館オンライン展示」)
https://soseki-kumamoto-anniversary.com/#mv

(補記その二) 「俳句から小説へ ― 小説家漱石の弟子としての寅彦」周辺」(「熊本県立大学図書館オンライン展示」)

https://soseki-kumamoto-anniversary.com/#mv

[寅彦は、漱石に俳句の指導を受けていた明治31年から第五高等学校を卒業し東京帝国大学に入学することになって子規に会った明治32年までの2年間で、合計822句を作っていたが、留学のために7月に漱石が熊本を離れて9月に横浜からプロイセン号で出発した明治33年(1900年)になると、俳句の数は159句に減った。また妻夏子が病気療養のために高知に帰り、自分も肺尖カタル療養のために1年間休学した明治34年にはさらに減って、110句になり、子規が亡くなり、夏子も亡くなった明治35年(1902年)には、7句に激減している。また漱石が留学から帰って東京に住むようになった明治36年の作句も11句でしかなかった。
 漱石から直接指導を受けていた熊本時代が、寅彦がもっとも俳句に打ち込んでいた時期だった。その後、留学中に子規が亡くなったこともあってか、帰朝後漱石は以前ほど熱心に俳句を作らなくなり、明治37年には、新体詩や俳体詩、連句を作るようになっていた。寅彦もまた師の漱石と歩調を合わせるかのように俳句から遠ざかって行った。
 寅彦は、明治38年頃から『ホトヽギス』に小説を載せるようになった。きっかけは、寅彦が『藪柑子集』(大正12年2月/岩波書店)の自序で次のように書いているように、師の漱石が小説を発表しはじめたことであった。
 明治三十八年の正月に、先生の「我輩は猫である」が現はれて、「ホトヽギス」が新しい活気を帯びて来ると同時に、先生の周囲も急に賑やかになつた。時々先生の家で写生文や短篇小説の持寄り会が催されたりした。さういふ空気に刺戟されて、自分も何かしら書いて見たくなつたのであつた。「団栗」の出たのは、先生の「猫」の第三回と、「幻影の盾」の現はれた、第百号の増刊であつた。「花物語」の出たのも、矢張何時かの増大号で、先生の「文鳥」を始めとして、碧梧桐、鼠骨、彌生子、左千夫の創作が並んで居た。
 寅彦は、目次に「(小説)」とある「団栗」を明治38年4月号に「寺田寅彦」の本名で載せたのを初めとして、「竜舌蘭(小説)」(明治38年6月号)、「森の絵(小説)」(明治40年1月号/漱石「野分」掲載)、「枯菊の影(小説)」(明治40年2月号)や、「藪柑子」の筆名で載せた「伊太利人(小説)」(明治41年4月号巻頭/漱石「創作家の態度」(論文)掲載)などの小説を『ホトヽギス』に発表して行った。なお、明治41年10月号に「藪柑子」の筆名で漱石の「文鳥」の次に載った「花物語」は、「(小説)」という注記はないが、その少し前、同年7月~8月『東京朝日新聞』『大阪朝日新聞』に連載された漱石の「夢十夜」の影響を考える説もあるように幻想的な世界を持つ作品である。寅彦は小説でも漱石の弟子であった。                              
 ただ、寅彦は一方的に漱石の影響を受けていただけではない。小宮豊隆が「『藪柑子集』の後に」(『藪柑子集』)で「『春秋』の筆法を用ふれば、集中に収められた『団栗』や『竜舌蘭』は、三重吉の『千鳥』の父であり、漱石先生の『草枕』の祖父である。」と書いているように、『ホトヽギス』掲載の寅彦の小説が『新小説』明治39年9月号掲載の漱石の『草枕』などにも影響をあたえた可能性が考えられないわけではない。小説の創作では寅彦と漱石は互いに影響をあたえあっていたのかもしれない。]

(補記その三) 「夏目漱石『吾輩は猫である』挿絵(中村不折画)」(「台東区ヴァーチャル美術館」)周辺

吾輩ハ猫デアル.jpg

「吾輩ハ猫デアル」挿絵(中村不折(1866~1943)画/明治38年(1905))
https://archive.is/20151003155928/https://www.city.taito.lg.jp/bunkasinko/virtualmuseum/shodo_03/003/index.html#selection-111.0-111.28

[「吾輩ハ猫デアル」は、明治を代表する文豪の一人・夏目漱石(なつめそうせき)(1867~1916)の代表作。雑誌「ホトトギス」紙上に明治38年1月号から翌39年8月号まで、合計10回にわたって連載された。
 これは、明治38年10月に出版された同作の単行本上巻冒頭の挿絵であり、中村不折の画である。著者の漱石からは、「発売の日からわずか20日で初版が売り切れ、それは不折の軽妙な挿絵のおかげであり、大いに売り上げの景気を助けてくれたことを感謝する」という内容の手紙が不折あてに送られている。 ]
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