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「東洋城・寅彦、そして、豊隆」(漱石没後~寅彦没まで)俳句・連句管見(その三) [東洋城・寅日子(寅彦)・蓬里雨(豊隆)]

その三「大正八年(一九一九)」

[東洋城・四十二歳。木曽、吉野及び伊予に遊ぶ。宇和島で俳諧道場を催す。十二月宮内省退官。野人となる。東京朝日新聞の「朝日俳壇」の選を担当す。]

弾初や絃の外なる恋の事
しぐるゝや艶書(ふみ)の中なる仮名遣ひ
化粧して来て侍す人の蒲団かな
つと遠く千鳥飛びけり戻りけり
落葉せよ我も隠れん隠れ里
逢はずなりし女と語る火桶かな
遠火事を芝居の中の噂かな

※ 東洋城は、こま年の暮れに、明治三十九年(一九〇六)から十三年間務めた宮内省を、四十二歳の若さで退官する。東洋城としては、明治四十五年(一九一二)の、明治天皇の「大喪の儀」、そして、大正四年(一九一五)の、京都御所で挙行された正天皇の「即位の大礼」を式部官として成し遂げたという、そういう感慨もあったことであろう。
 それに加えて、この大正天皇の「即位の大礼」が挙行された年の二月に、東洋城は、主宰誌「渋柿」を刊行し、さらに、虚子より引き継いだ「国民俳壇」を軌道に乗せることなど多忙を極めていた。そして、その翌年の大正五年四月十五日に、「国民俳壇」の「国民新聞」(徳富蘇峰創刊・社長)に、突如として次のとおりの「社告」が掲載されたのである。

「本紙俳句欄は従来松根東洋城氏担当せられしが、今回都合に依り高浜虚子氏を担当する事と相成。来る十七日紙上より同氏の選句を掲載し、猶ほ同氏の文章をも時々掲載すべく、此段投句並に愛読各位に謹告す。」(『俳句講座八 現代作家論』所収「松根東洋城(野村喜舟)」)

 この時の、東洋城の「大正五年・年譜」(『東洋城全句集(中巻))は、次のとおりのものであった。
[東洋城・三十九歳。虚子は大正二年、俳句に復活したが、四月、東洋城に無断で「国民俳壇」を手に入れた。爾後、虚子及び「ホトトギス」と絶縁し、「渋柿」によつて芭蕉を宗とし俳諧を道として立った。]

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-10-18

※怒る事知つてあれども水温む(前書「有感(大正五年四月十七日国民俳壇選者更迭発表の日)」)
[※「大正五年、虚子が俳句に復活し、四月十七日、東洋城はついに国民俳壇の選者を下りた。それというのも、国民新聞の社長・徳富蘇峰が、選者を下りてほしい旨、手紙を送ってきたためであった。東洋城はかねてより、社長からなにか言ってくるまで辞めないつもりだったが、読むと、かなり困って書いてきたものだとわかった。「仕方がない、社長は大将だ。ここまで書いてくるのは、よほどのことなのであろう」と、ついに下りることを承諾した。そして、
  有感(感有リ)
 いかること知つてあれども水温(ぬる)む
という句をつくり、以後虚子とは義絶した。九月には母の上京を促すため、帰郷した。末弟の宗一(そういち)が東京高商に入学するため上京し、以後、宇和島で独り住まいになっていた母の面倒を見るのは長男(※嫡男)の務めだと思い、同居の説得に行ったのだった。この年、東洋城にとって肉親の死にも等しい哀しいできごとがあった。十二月九日、漱石が死亡したのである。」(『渋柿の木の下で(中村英利子著)』)  ]

※ 東洋城の、大正八年(一九一九)の、宮内省退官には、この、それまで、「子規」門の俳人の中で、最も信頼を置いて、そして、相互に切磋琢磨し、年長者の俳人として兄事していた虚子の「国民俳壇」選者再帰ということと大きく関わっているように思われる。
これらのことは、この東洋城の退官時の、その年譜の「十二月宮内省退官。野人となる。東京朝日新聞の「朝日俳壇」の選を担当す」の、この「野人」と「『朝日俳壇』」の選を担当す」に、端的に表れているように思われる。
 即ち、「虚子の『ホトトギス』対する東洋城の『渋柿』」・「虚子の『国民俳壇』対する東洋城の『朝日俳壇』」と、虚子へのライバル化しての挑戦が見え隠れしているように解したい。
 上記の年譜の「野人となる」ことに関連しての句が、『東洋城全句集(上巻)・大正八年』に掲載されているが、これらの句は、退官の少し前の、「会計審査官として木曽の御料林
深くわけ入った時の紀行文『木曽』」での作のようであ(『俳句講座八 現代作家論』所収「松根東洋城(野村喜舟)」)る

  野人となる
 木の実落ちてしかと打ちたる大地かな(紀行文「木曽」)
  有感
 きのふとも昔とも思ふ夜長かな(同上)

※ しかし、この東洋城の退官は、「東洋城が、『妻持たぬ』の句を詠んだ五年後の明治四十四年(一九一一)、福岡の炭鉱王だった伊藤伝右衛門と結婚させられた、柳原燁子(白蓮)の、大正六年(一九一七)の歌集『几帳の陰』、同八年の『幻の花』に所収されている、『激しい恋の歌』」の、その相手方は、「東洋城」その人という流聞など(それに関連しての、同じ式部官の某男爵夫人とのスキャンダル=『俳人風狂列伝』)による、当時の東洋城の上司の勧告に由る」ものとされている(『渋柿の木の下で(中村英利子著)』)。

 これらの、東洋城の「女性スキャンダル」を背景にしている思われる句などを、『東洋城全句集(上巻)・大正八年』の句から抜粋すると、冒頭に掲出した、俳諧(連句)上の「恋の座(恋の句)」ということになる。
 因みに、『東洋城全句集(上巻)・大正八年』の末尾の三句は、次のものである。

 木枯や巷の群に白昼鬼(※「巷の群に白昼鬼」が意味深長である。)
 逢はずなりし女と語る火桶かな(※「逢はずなりし」の「し」は過去形の措辞である。)
 遠火事を芝居の中の噂かな(※「遠火事」「芝居」「噂」も「境涯」性を感じさせる。)


[寅彦=寅日子・四十二歳。発熱、発疹および胃痛に悩まされる。四月、大学内で倒れ、診察を受ける。十二月、胃潰瘍のため大学研究室で吐血、帝大付属病院に入学する。]

※ 『寺田寅彦 文学篇 第七巻(岩波書店)』には「大正八年」(一九一九)の収載句は無い。

[豊隆=蓬里雨の「小宮豊隆氏(年譜)」(「みやこ町歴史民俗博物館/小宮豊隆資料」)には、「大正八年」(一九一九)の記載は無い。]
https://adeac.jp/miyako-hf-mus/top/

(再掲) 「東洋城と白蓮」

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-10-04
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-10-03

東洋城と白蓮二.jpg

東洋城と白蓮.jpg

白蓮の短歌.jpg

2014.9.24愛媛H新聞より
https://toonbusclub.jimdofree.com/%E6%83%A3%E6%B2%B3%E5%86%85%E7%A5%9E%E7%A4%BE-%E4%B8%80%E7%95%B3%E5%BA%B5/

※ 「初夏や白百合の/香に/抱かれて/ぬると/思ひき/若草の床」(柳原白蓮が松根東洋城に宛てた短歌の直筆色紙)

 この「直筆色紙」を保管していた「川崎在住親族・松根敦子」さんは、「東洋城妹弟(妹・房子、弟・新八郎、弟・卓四郎、弟・宗一)」の、「三弟・卓四郎」家に嫁いだ方で、この「三弟・卓四郎」が、東洋城が「渋柿」を創刊したときの、名目上の「社主」のような、その事務所(「三畳庵」など)を提供していた方で、東洋城の遺品というのは、この「直筆色紙」の保管などからすると、「三弟・卓四郎」家が引き継いでいるように思われる。

(再掲) 「「東洋城兄弟(四人の男兄弟)」

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-10-06

東洋城兄弟(四人の男兄弟).jpg

「兄東洋城と私(松根新八郎稿)」所収の「「東洋城兄弟(四人の男兄弟)」(「国立国会図書館デジタルコレクション」所収)
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071686/1/50
[前列左から「宗一(六十四歳)・卓四郎(七十三歳)・東洋城(豊次郎)(八十六歳)・新八郎(八十一歳)」と思われる。後列の二人は東洋城の甥。中央に「松根家家宝の旗印(三畳敷の麻に朱墨の生首図=「「伊達の生首」)」が掲げられている。「伊達の生首」については、次のアドレスで紹介している。
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-10-02  ]
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