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「東洋城・寅彦、そして、豊隆」(漱石没後~寅彦没まで)俳句・連句管見(その八) [東洋城・寅日子(寅彦)・蓬里雨(豊隆)]

その八「大正十三年(一九二四)」

[東洋城・四十七歳。那須、妙義山、金華山に遊ぶ。東洋城百詠短冊展覧会開催。漱石全集編纂。日本アルプス登山。歌仙を始む。]

仮の世の仮の棲家や年越ゆる(前書「三畳庵」)
寝るは死ぬるとばかり安き布団かな
蒲団敷くや今宵をなゐのともかくも
※故郷の故郷鄙に暑さかな(前書「前書「今の故郷は四国なれど十数代前の故郷は、最上、わが家の城趾やいづこと見渡さるゝ。昔の楽園上ノ山温泉もむさく暑くるしきのみ」)
夏海へ大河の口やあからさま(前書「北上川」)
荒潮に流れぬ島の茂かな(前書「金華山 二句」)
涼しさや頂にして海の中(同上)
静けさはひたと大地に蜻蛉かな(前書「あゝその九月一日」)
何よりも寒きに耐ふることを知れ(前書「甥 新生 誕生賀」)
白足袋や影あり行けるうしろつき(前書「断腸花追悼」)
石が吐く毒とはをかし枯るゝ山(「那須温泉 二十句」のうち「殺生石」)

(「東洋城」メモ)

※故郷の故郷鄙に暑さかな(前書「前書「今の故郷は四国なれど十数代前の故郷は、最上、わが家の城趾やいづこと見渡さるゝ。昔の楽園上ノ山温泉もむさく暑くるしきのみ」)

http://sp.mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=143960

[(松根備前守光広/まつねびぜんのかみあきひろ)~俳人・松根東洋城の先祖~

 義光の弟である義保の子。義保は長瀞城主。兄の片腕となって出羽南部の平定に尽力したが、天正19年(1591)に戦死。ときに光広は3歳の幼児だった。義光がこれを哀れんで、息子同然にいつくしみ育てたと、宇和島市に残る古記録は伝えている。
 光広は成人の後は山形市漆山に居住したこともあったが、西村山の名門白岩家の名跡を継いで「白岩備前守」を名乗る。
 慶長5年(1600年)の関が原合戦、長谷堂合戦のときは12、3歳だったから、まず戦陣の経験はなかっただろうと思われる。元和2年(1616)、庄内櫛引郷に居城松根城を築いて松根姓を名乗る。一1万2千石、一書に1万3千石とある。
 義光に育てられたことに対する報恩の気持ちからか、最上家を思う心が人一倍厚い人物だったようだ。
 熊野夫須美神社に、那智権現別当あて、年次無記8月20日付、光広の書状が一通ある。
 「最上出羽守義光が病につき、神馬一疋ならびに鳥目(銭)百疋を奉納いたします。御神前において御祈念くださるようお頼みします」という内容である。
 「白岩備前守光広」の署名からみて、松根移転以前であることは明らか。義光の病が重くなった慶長18年(1613)のものと推定される。出羽からははるかに遠い紀州那智に使者を遣わして、病気平癒の祈りをささげたのである。あるいは、光広はそのころ上京中だったかもしれない。
 義光が亡くなり、跡を継いだ駿河守家親も3年後の元和3年ににわかに亡くなり、その後を12歳の少年、源五郎家信が継ぐ。とかく問題行動を起こしがちな幼い主君に、家臣たちは動揺する。
 家を守りたてるべき重臣たちのなかには、義光の四男山野辺光茂こそ山形の主にふさわしいとして、鮭延越前、楯岡甲斐らの一派が公然と動きはじめる。
 かくてはならじ、お家のためになんとかせねばと、光広は「山野辺一派が策謀をめぐらし当主家親を亡きものにした」と幕府に直訴した。幕府でも一大事とばかり徹底的に究明したが、事実無根と判明。偽りの申し立てをした不届きの所業として、光広は九州柳川の立花家にあずけられてしまう。彼はここ柳川でおよそ五十年を過ごす。藩主立花宗茂との親交を保ちつつ、寛文12年(1672)84歳の生涯を終える。
 その子孫が四国宇和島の伊達家につかえ、家老職の家柄を伝えて維新を迎えた。
 高名な俳人松根東洋城(本名豊次郎1878~1964)は、この家の9代目にあたる。宮内省式部官などを勤めながら夏目漱石の門下として俳壇で活躍、のち芸術院会員となった。
 昭和4年6月、父祖の地である庄内の松根から白岩をおとずれた東洋城は、昔をしのんで次のような句を残した。
  故里の故里淋し閑古鳥
  青嵐三百年の無沙汰かな
 出羽の最上から九州柳川へ、そして更に四国の宇和島へ。先祖のたどった長い長い3百年の道程だった。宇和島市立伊達博物館の庭には、「我が祖先(おや)は奥の最上や天の川」の句碑がある。
 最上家の改易で会津・蒲生氏により接収破却された松根城の跡には、最上院がある。光広の妻が晩年に住んだという松根庵には、彼女の墓碑が寂しくたっている。(片桐繁雄稿)]
(「最上義光歴史館」)

松根洋城の句碑一.jpg

「松根洋城の句碑」(最上院の南側に光広の子孫で、伊予国宇和島藩家老職にあった松根家の子孫、松根洋城の句碑が建てられている。)
https://www.hb.pei.jp/shiro/dewa/matsune-jyo/

松根洋城の句碑一・解説板.jpg

「松根洋城の句碑」(解説板) (「鶴岡市松根字中松根 松根東洋城句碑公園」)
https://www.hb.pei.jp/shiro/dewa/matsune-jyo/thumb/

※ 上記の「松根洋城の句碑」(解説板)によると、「柳川の報恩寺と宇和島の伊達博物館」に同文の句碑がある」。

松根洋城の句碑二.jpg

報恩寺(福岡県柳川市)
http://urawa0328.babymilk.jp/fukuoka/22/houonji-3.jpg

松根洋城の句碑三.jpg

伊達博物館(愛媛県宇和島市)
http://urawa0328.babymilk.jp/ehime/22/datehaku-5.jpg

[寅彦(寅日子)・四十七歳。松根東洋城と連句を実作する。五月、地質学会において「大正十二年九月一日の地震に就て」を講演する。理化学研究所研究員となる。]

※ 上記の年譜の、「松根東洋城と連句を実作する」は、「大正十四年十月『渋柿』」に掲載された「歌仙 水団扇の巻」(東洋城・寅日子の両吟)などを指しているのであろう。

「歌仙 水団扇の巻」(東洋城・寅日子の両吟)

水団扇鵜飼の絵なる篝かな  東洋城
 旅の話の更けて涼しき      寅日子
縁柱すがるところに瘤ありて    城
 半分とけしあと解けぬ謎    子
(この歌仙は「大正十四年」の項で全句掲載する。)


[豊隆(蓬里雨)・四十一歳。帰国。東北大学教授となる。]

※ 大正十二年(一九二三)三月に渡欧していた豊隆は、その翌年(大正十五年)に帰国し、「東北大学教授」となり、仙台に居を移すことになる。その時と関係すると思われる「歌仙 みちのくの人の巻」(東洋城・寅日子・蓬里雨の三吟)が、昭和二年(一九二七)二月「渋柿」に掲載されている。

「歌仙 みちのく人の巻」(東洋城・寅日子・蓬里雨の三吟)


 送別
あすよりはみちのく人や春の雨   東洋城
まだ雪のこる西側の山        蓬里雨
沈丁花こぼるゝ里に移り来て     寅日子
(この歌仙は「昭和二年」の項で全句掲載する。)
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