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「津田青楓」管見(その一) [東洋城・豊隆・青楓]

(その一)「漱石の死に顔のスケッチ(津田青楓画)」周辺

漱石の死に顔のスケッチ(津田青楓画).jpg

「漱石の死に顔のスケッチ(津田青楓画)」(『漱石写真帖/著者・松岡譲 編/出版者・第一書房/出版年月日・昭和4』)(「国立国会図書館デジタルコレクション」)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1688827/1/135

[漱石の十三回忌を記念し、漱石の長女筆子と結婚した松岡譲によって編まれた写真帖。漱石の生涯をたどることができるよう父祖から遺族の写真まで数多くの写真によって構成されている。ここに青楓による漱石の死に顔のスケッチが掲載されている。一九一六年(大正五)十二月十日葬送の折、棺蓋を開いて最後の別れをした際に写生したものである。スケッチそのものは門下の俳人東洋城が所蔵していたが、一九二三年(大正十二)の関東大震災の折に消失した。(K=喜多孝臣)](『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜夛孝臣 編・解説)』所収「資料32解説」)

[ 津田君の画には技巧がないと共に、人の意を迎へたり、世に媚びたりする態度がどこにも見えません。一直線に自分の芸術的良心に命令された通り動いて行くだけです。だから傍から見ると、自棄(やけ)に急いでゐるやうに見えます。又何うなつたつて構ふものかといふ投げ遣りの心持も出て来るのです。悪く云へば知恵の足りない芸術の忠僕のやうなものです。命令が下るか下らないうちに、もう手を出して相手を遣つ付けてしまつてゐるのです。従つてまともこのでもあります。(中略) 利害の念だの毀誉褒貶の苦痛だのといふ。一切の塵労俗累が混入してゐないのです。さうして其好所を津田君は自覚してゐるのです。―――夏目漱石「津田青楓氏」(「美術新報」一四巻一二号、一九一五年一〇月) ](『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓著/芸艸堂刊』)

[ 津田君は嘗て桃山に閑居して居た事がある。其処で久しく人間から遠(ざ)かつて朝暮唯鳥声に親しんで居た頃、音楽といふ者は此の鳥の声のやうな者から出発すへき物ではないかと考へた事があるさうである。津田君が今日其作品に附する態度は矢張これと同じやうなものであるらしい。―――寺田寅彦「津田青楓君の画と南画の芸術的価値」(「中央公論」三十三巻八号、一九一八年八月) ](『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓著/芸艸堂刊』)


(再掲) 「[漱石・十二月九日、漱石没(五十歳)。5月~12月、「明暗」。]

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-10-18

2452 春風や故人に贈る九花蘭(「九花蘭」は五月頃に芳香のある黄緑色の花を開く。)
2453 白梅にしぶきかゝるや水車(2483までの三十一句は「手帳に記された句」。)
2454 孟宗の根を行く春の筧(かけひ)哉(同上)
2455 梅早く咲いて温泉(ゆ)の出る小村哉(同上)
2456 いち早き梅を見付けぬ竹の間(同上)
2457 梅咲くや日の旗立つる草の戸に(同上)
2458 裏山に蜜柑みのるや長者振(同上)
2459 温泉に信濃の客や春を待つ(同上)
2460 橙も黄色になりぬ温泉(ゆ)の流(同上)
2461 鶯に聞き入る茶屋の床几哉(同上)
2462 鶯や草鞋(わらじ)を易(か)ふる峠茶屋(同上)
2463 鶯や竹の根方に鍬の尻(同上)
2464 鶯や藪くゞり行く蓑一つ(同上)
2465 鶯を聴いてゐるなり縫箔屋(ぬいはくや)(同上。「縫箔屋」=衣服模様を業とする)
2466 鶯に餌をやる寮の妾かな(同上)
2467 温泉の里橙山の麓かな(同上)
2468 桃の花家に唐画を蔵しけり(同上)
2469 桃咲くやいまだに流行(はや)る漢方医(同上)
2470 輿(こし)に乗るは帰化の僧らし桃の花(同上)
2471 町儒者の玄関構や桃の花(同上)
2472 かりにする寺小屋なれど梅の花(同上)
2473 文も候(そろ)稚子(ちご)に持たせて桃の花(同上)
2474 琵琶法師召されて春の夜なりけり(同上)
2475 春雨や身をすり寄せて一つ傘(同上)
2476 鶯を飼ひて床屋の主人哉(同上)
2477 耳の穴掘つてもらひぬ春の風(同上)
2478 嫁の里向ふに見えて春の川(同上)
2479 岡持の傘にあまりて春の雨(同上)
2480 一燈の青幾更ぞ瓶の梅(同上)
2481 病める人枕に倚れば瓶の梅(同上)
2482 梅活けて聊(いささ)かなれど手習す(同上)
2483 桃に琴弾くは心越禅師哉(同上)
2484 秋立つや一巻の書の読み残し(「芥川龍之介宛書簡」九月二日)
2485 蝸牛や五月をわたるふきの茎(「画賛九月八日」)
2486 朝貌にまつはられてよ芒の穂(同上)
2487 萩と歯朶に賛書く月の団居哉(「夏目漱石遺墨集・第三巻」の画賛の句)
2488 棕櫚竹や月に背いて影二本(「自画賛九月八日」)
2489 秋立つ日猫の蚤取眼かな(「画賛九月」)
2490 秋となれば竹もかくなり俳諧師(同上)
2491 風呂吹きや頭の丸き影二つ(前書「禅僧二人宿して」、「十月」)
2492 煮て食ふかはた焼いてくふか春の魚(「画賛十月」)
2493 いたづらに書きたるものを梅とこそ(「自画賛十一月」)
2494 まきを割るかはた祖を割るか秋の空(「鬼村元成宛書簡」、「十一月十日」)
2495 饅頭に礼拝すれば晴れて秋(「富沢敬道宛書簡」、「十一月十五日」)
2496 饅頭は食つたと雁に言伝よ(同上)
2497 吾心点じ了りぬ正に秋(同上。前書「徳山の故事を思ひだして 一句」)
2498 僧のくれし此饅頭の丸きかな(同上。「無季」の句)
2499 瓢箪は鳴るか鳴らぬか秋の風(同上。前書「瓢箪はどうしました」)


(東洋城・三十九歳。虚子は大正二年、俳句に復活したが、四月、東洋城に無断で「国民俳壇」を手に入れた。爾後、虚子及び「ホトトギス」と絶縁し、「渋柿」によつて芭蕉を宗とし俳諧を道として立った。)

※怒る事知つてあれども水温む(前書「有感(大正五年四月十七日国民俳壇選者更迭発表の日)」)

[※「大正五年、虚子が俳句に復活し、四月十七日、東洋城はついに国民俳壇の選者を下りた。それというのも、国民新聞の社長・徳富蘇峰が、選者を下りてほしい旨、手紙を送ってきたためであった。東洋城はかねてより、社長からなにか言ってくるまで辞めないつもりだったが、読むと、かなり困って書いてきたものだとわかった。「仕方がない、社長は大将だ。ここまで書いてくるのは、よほどのことなのであろう」と、ついに下りることを承諾した。そして、
  有感(感有リ)
 いかること知つてあれども水温(ぬる)む
という句をつくり、以後虚子とは義絶した。九月には母の上京を促すため、帰郷した。末弟の宗一(そういち)が東京高商に入学するため上京し、以後、宇和島で独り住まいになっていた母の面倒を見るのは長男(※嫡男)の務めだと思い、同居の説得に行ったのだった。この年、東洋城にとって肉親の死にも等しい哀しいできごとがあった。十二月九日、漱石が死亡したのである。」(『渋柿の木の下で(中村英利子著)』)  ]

用ふべき薬も絶えし火桶かな(前書「黒き枠の中より(「漱石先生の死))六句」)
木枯に深山木折るゝ音を聞け(同上)
埋火は灰の深きに消えにけり(同上)
祖父も父も繕ひし土塀冬日さす(同上)
ともし火に枯荷の月を観じけり(同上)
元日や人の心の一大事(同上)

[「東洋城はかって、父が亡くなるときにもこうして末期の水を捧げたが、師の漱石にも同じことをしていると思いながら、あと筆を進めず漱石の顔を見た。この時の東洋城の心には、師とか文豪などというものはなく、父を失ったときと同じ悲しみがあった。「先生、先生」、呼んだ後、漱石はふ―っと息を吐いたが、その後はもう続かない。真鍋が夫人に「お目を」と言い、夫人は手で静かに漱石の目をつむらせたが、初めから開いていないのをそうしたのは、永遠に安らかに瞑目させようとしたものだった。阿部学士検脈。真鍋学士検脈。退いて「すでに」と言う。部屋の中は、しのび泣きや声を上げて泣く声で満ちた。時に午後六時五十分。曇った日はすでに暮れ、闇の中に寒風がさみしく吹いた。
( 東洋城はこのあと、一連の葬儀に関して仕切り役ともいうべき重要な働きをした。しかし、それにもかかわらず、弟子たちのあいだに軋轢が生じた。」(『渋柿の木の下で(中村英利子著)』)  ]

漱石臨終図.jpg

「夏目漱石の娘 愛子さん(「父漱石の霊に捧ぐ」より)」
http://enmi19.seesaa.net/article/463137651.html


(寅彦・三十九歳。十一月、東京帝国大学理科大学教授となる。十二月、胃潰瘍のため医者より絶対安静を命じられる。十二月九日、夏目漱石死亡。) →[『寺田寅彦全集/文学篇/七巻』には収載句は無い。

(以下略)     ]

「津田青楓像」(寺田寅彦画).jpg

「津田青楓像」(寺田寅彦画)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-12-17
[「寺田寅彦の描いたスケッチ」(上=松根東洋城、下右=小宮豊隆、下左=津田青楓、昭和2年9月2日、塩原塩の湯明賀屋にて) (『寺田寅彦全集第十二巻』・月報12・1997年11月)のうち]

津田青楓・自撰年譜.jpg

「津田青楓・自撰年譜(大正二年~大正五年)」(『書道と芸術(津田青楓著)』所収)

『書道と芸術(津田青楓著)』所収「自撰年譜」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2459907/1/75

※大正二年(一九一三) 三十四歳 
六月 父西川源兵衛没
八月 長男安丸生まれる。漱石が名付け親となる。
十月 文展に落選し、漱石よりなぐさめの言葉が書かれた手紙を受け取る。

※大正三年(一九一四) 三十五歳
六月 文展に抗し、有島生馬、石井柏亭らと二科会を結成。

※大正四年(一九一五) 三十六歳
七月 京都桃山から東京小石川区老松町に移住する。
九月 次女「ふよう」生まれる。
十一月 師・谷口香嶠逝去

※大正五年(一九一六) 三十七歳
七月 長男安丸疫痢にて死す。
十二月九日 夏目漱石逝去。死床にて慟哭す。(※『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓著/芸艸堂刊』所収「津田青楓年譜」抜粋)

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